愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー③

2023年12月20日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー③

三 幼少期、青年期の空海
 さて、空海がいつ生まれたかということに触れたいと思います。よく教科書に紹介されるのは「空海は平安時代初期に活躍をした僧侶で、同時代に最澄がいます」というような説明ですが、空海が生まれたのは平安時代ではありません。奈良時代後期です。誕生したのは七七四(宝亀五)年です。奈良時代後期七七四年というと、ちょうど天平期の東大寺の大仏建立とか各国に国分寺、国分尼寺が建立されたのが西暦七四〇年代ごろになりますが、それよりも後。聖武天皇の後に女帝の孝謙(称徳)天皇が即位しますけれども、孝謙(称徳)天皇のときに僧侶の道鏡が権力を持ちます。その道鏡がちょうど排除、排斥され、称徳天皇から代わって、それまで天武系だった天皇が天智系に代わる。その天智系の血脈である光仁天皇が即位しますが、その頃に空海は生まれています。要するに天平期がちょうど終わって、さあ奈良時代後期の新しい時期に入って、長岡京遷都、平安京遷都へ向けて時代が動き始める少し前。それが空海誕生の七七四年です。
そして空海の幼名は真魚(まお)です。真実の「真」に「魚」と書きます。今でしたら、幼い時「まおちゃん」と呼ばれていたでしょう。今年の冬季ソチオリンピックでフィギュアスケートの浅田真央さんが活躍しましたが、同時に本年は四国霊場開創一二〇〇年の記念の年ですから、記念に、もしくは縁起がいいということで、どなたか赤ちゃんが誕生した際の命名で、この「真」に「魚」の「まおちゃん」の名付けをしないかなと思うのですが、インターネットで検索してみましたが誰も出てきませんね。
 さて、この写真は七七四年に空海が生まれた場面です(写真2)。これは和紙人形で、実はここ地元川之江の手漉き和紙も使って作られています。和紙芸術家の内海清美(うちうみきよはる)先生の作品で、空海(真魚)がちょうど生まれたシーンです。父田公(タギミ)と母阿刀氏(アトシ)ですね。この時代は奈良時代後期です。その空海は十五歳になって平城京に行きます。この時もまだ奈良時代です。平城京で何をしたかというと、仏教を学びに行ったわけではないのです。奈良時代の真魚は、要するに学問に勤しむ。母方の阿刀氏は阿刀大足(アトノオオタリ)という人物を輩出しています。阿刀大足は空海のおじに当たるのですが、そのおじは桓武天皇の息子の伊予親王の侍講(家庭教師)をしていたのです。その阿刀大足から学問を学ぶのが、ちょうど奈良、平城京に出ていった真魚十五歳の時なのです。このように、最初から仏道修行のために中央に行くというよりは、学問を修める。いろんな学問がありますが、儒教、仏教、そして道教がありますけれども、その中でも特に儒教が中心です。当時は儒教を学ぶことで官僚、エリートコースの道を進むことができる。朝廷で役職に就こうとするならば仏教ではなくて、学ばなければいけない、身に着けなければいけないのは儒教だったのです。つまり儒教のさまざまな書籍を学んでいくのが、十代後半、特に十五歳から十八歳の空海になるわけです。空海は十八歳のときに大学に入ります。大学に入るといいますと、愛媛大学とか香川大学など現在の大学とは意味合いが違っていまして、どちらかというと朝廷の役人を輩出するための官僚養成機関なのです。そこに十八歳で空海は入学することができました(写真3)。普通ですと貴族の子息とかが入ります。空海は佐伯氏出身です。現在でいえば香川県善通寺市の生まれですから、善通寺あたりの佐伯氏は、いわゆる郡司クラス、今でいえば市長とか県議会議員クラスになるかと思います。その出身です。空海は大学に入りましたが、当時、大学ともう一つ国学という役人養成機関がありました。郡司クラスの子息だと国学に入ることが多いのですが、空海は母方の阿刀氏、つまり桓武天皇の息子の伊予親王の侍講(家庭教師)もしていた名門の学問氏族に関わっているということで大学に入っていく。ところが、空海は十八歳で大学に入ってあと、このままでいいのだろうかとどんどん悩んでいって、結局、大学をドロップアウトして山林修行に入っていくことになります。この青年期に仏道修行に目覚めていくのです。
 そして、四国などでも修行をして、高知県室戸に御厨人窟(ミクロド)がありますが、そこで輝く金星が口の中に入ってくるという奇瑞(珍しい現象)を感得して、修行のステージを上げるという形になります。これも平安京遷都前の若い時期です。延暦十六(七九七)年、空海は『三教指帰』を著します。『三教指帰』というのは「三つの教え」と書きますが、つまり儒教、道教、仏教の三つの教えのうち、どれが一番優れているのか。そして仏教が優れていることを結論として書いた史料です。空海が二四歳の時です。二四歳までは空海が何をしていたのかその事蹟はわかります。十五歳で奈良・平城京に行き、十八歳で大学に入り、それからドロップアウトして仏道修行、山林修行に入り、二四歳で『三教指帰』を著すというように、何をやっていたかおぼろげながら事蹟はわかるのですが、その後、二四歳から三一歳までの約七年間はどのような行動をしていたのか、史料には全く現れません。恐らく全国もしくは四国、西日本各地を修行していたであろうと思われますが、突如、三一歳のときに史料上に現れます。それが遣唐使に随行して唐に渡るときです。延暦二三(八〇四)年のことです。もう既に桓武天皇が即位し、平安京に遷都された時代になりましたが、八〇四年に空海が遣唐使に随行して、中国(唐)に渡って、長安(今の西安市)に行きます。その遣唐使船は全四隻で編成されていましたが、四隻のうち二隻は座礁、難船して結局中国には渡れませんでした。あとの二隻のうち第一艘目に遣唐大使藤原葛野麻呂と空海が乗っていたのです。もう一方の船には誰が乗っていたかと、天台宗の開祖である最澄が乗っていたのですね。だから、四分の二(五〇パーセント)の確立で中国に渡ることができたのが空海であり最澄なのです。これがもし逆で、空海と最澄の乗っていた船が難破して、ほかの二隻が中国に着いたとしたら、日本の宗教史は大きく変わっていたかもしれません。本当に偶然なのです。
 そして、八〇四年に中国(唐)に渡って、長安で活動します。唐長安に青龍寺(「セイリュウジ」とも「ショウリュウジ」とも言います)にて、真言宗の正統な後継者であった恵果和尚に出会い、空海の師匠にあたる人物となります。延暦二五(八〇五)年のことです(写真4)。このときに空海と恵果和尚が対面をして、そして恵果から真言密教を学んで、日本に持ち帰ってきます。そして日本に真言密教を広めていく。高野山を開創したり、京都の東寺を給賜されたり、そして嵯峨天皇、淳和天皇と関わりが深く、宮中にも真言密教を広めていったのが空海だったわけです。

④につづく
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