愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑥

2023年12月23日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑥

六 空海と四国、そして伊予
 その空海が二四歳、延暦十六(七九七)年に『三教指帰』を著します。『三教指帰』の中に空海は自分がどこにいるのか明確に書いています。「仮名乞児」として登場しますが、そのモデルは空海です。仏教を支持する人として出てきます。

史料6『三教指帰』「仮名乞児論」
頃日の間、刹那、幻の如くに南閻浮提の陽谷、輪王所化の下、玉藻帰る所の島、櫲樟日を隠す浦に住し(中略)忽ちに三八の春秋を経たり

 仮名乞児は「頃日の間(ちかごろ)刹那(しばらく)幻の如くに、南閻浮提の陽谷(日本のことです)輪王所化の下(要するに天皇が治めるところ)玉藻帰る所の島(玉藻公園が高松市にありますが、要するに玉藻帰る所というのは讃岐国の枕詞です。自分は讃岐国で)櫲樟(くすのき)日を隠す浦に住し」とあります。善通寺に行かれたことがある方も多いと思いますが、善通寺には大きなクスノキがありますよね。まさに太陽の光を隠すぐらい大きなクスノキのある所に住み、そして「忽ちに三八の春秋を経たり」とあります。三八というのは先ほど五八が出てきましたが、四〇歳のことでした。三八は二四歳です。つまり、空海が『三教指帰』を書いたのが二四歳の時だったと証明できる史料がこれなのです。
 そして『三教指帰』は空海の出家宣言の書ともいわれます。先ほども言ったように、「三教」は三つの教えであり儒教、道教、仏教です。儒教、道教、仏教でどれが一番優れているかということを書き著したものがこの『三教指帰』なのですが、その序文に、空海は、自分が仏道修行に入ろうと思うとあります。ところが、序文にもこう書いています。「一多の親識」要するに、多くの親戚や知人たちが儒教で守るべき道をもって自分を束縛すると書いています。「五常の索」とありますが、五常は五つの常識です。五つの常識が儒教にはあって、それをなぜ守らないのかと周囲が空海を責めて自分を束縛するという。それを断ることは忠孝に背くことだとも言われてしまう。忠孝というのは忠義の忠、孝行の孝ですね。要するに国に対する忠義、家族・親に対する孝行に背くものだと、家族とか知人から言われるわけです。官僚エリートコースで朝廷の役人になろうかという、一般的に見れば順調な人生のコースを進んでいるところを、それを辞して、仏道修行に入ろうとしている。それに対して周囲は「何をしているんだ。こんなにすばらしいエリートコースを歩んでいるのに、この儒教の守るべき道を捨ててどうするんだ」と。そこで空海はこう書いています。儒教だけではなく「物の情一つならず」と。要するに儒教だけではなくて、仏教でも道教でもそれぞれ孔子、老子、そして釈迦がありがたい説、正説をとなえている。その三つの正説のうちの一つでも守っていれば、それは忠孝に背くことにはならないのではないかと。そして、空海やはり怒りと言いますか、感情を爆発させます。序文の最後に「唯憤懣の逸気を写せり」と書いてあるのです。要するに、自分はなぜ出家宣言の書を著すかというと、周りが反対をするけれども、自分の気持ちは抑えられない。儒教だけではこの世の中を治められない、そして救えない。これからは仏道修行も必要であるということで「逸気」、「憤懣」の心をもって書き上げた。それが『三教指帰』なのです。
 よく、空海(弘法大師)に関するエピソードは、スーパーマンといいますか、全知全能といいますか、余り感情を表に出すとうことは無いですよね。ところが若き空海、二四歳の書を見ると「憤懣の逸気を写せり」とある。これを見た親は多分泣いたと思いますね。両親だけではなく、平城京で勉学を教えてくれたおじの阿刀大足は多分ショックだったでしょう。このように「若き空海の悩み」のような書なのです。『三教指帰』は文庫本でも出ています。あまり長い文章ではありません。『性霊集』に比べると読みやすいと思います。一度ぜひ読んでみてください。
 もう一つ、空海と伊予国についてちょっと紹介をしておきたいと思います。二四歳の時に書いた『三教指帰』の中に四国で修行をしていた場所が出てきます。一つは「土佐室戸」(現在の高知県室戸市)、もう一つは「阿国大瀧嶽」です。今の徳島県阿南市に比定されています。あと二ヶ所出てきます。「金巌に登り雪に遇って坎壈たり」とか、「石峯に跨って、粮を絶って」食料を絶って「■(外字車へんに感)軻たり」とあり、修行で苦労したと書かれています。この「金巌」、「石峯」は『三教指帰』には稿本といいますか、下書きになるような『聾瞽指帰』という空海の自筆の書が高野山に残っています。下書きといってもほぼ同じ文章なのですが、そこに字注といいますか、読み方を脇に書いてあるのです。そこに書かれているのは、「石峯」は「伊志都知能太気(イシツチノタケ)」と書いてあります。つまり石鎚山です。もう一つ、「金巌」は「加禰能太気(カネノタケ)」と書かれています。これは江戸時代からよく言われているのが八幡浜市と大洲市のちょうど境目にある金山出石寺。現在、別格霊場になっています。それ以外に奈良県の金峯山とか大峰山であるとかいろんな説があります。ただし一九六五年に刊行されている岩波古典文学大系本の『三教指帰』には、カネノタケの字注で、「加禰能太気は大和金峯山か伊予の出石寺か」とあります。それに加えて「後者と思われる」と書いてあります。この注釈は渡辺照宏氏、宮坂宥勝氏という真言宗をはじめ仏教学、仏教史を代表する学者が書いた文章です。つまり一九六五年段階では「金巌」は伊予国金山出石寺説が強かったのですが、最近の刊行物を見ると金山出石寺説が出てこなくなりました。大和金峯山とか大峰山が出てくるようになってきています。これは一九七〇年代以降の高野山大学の先生方が書いているものがそうなっていて、一九八〇年代以降、それが引用されていくことで金山出石寺説が見えなくなってきたのです。
 ところが、江戸時代に『三教指帰簡注』など空海著『三教指帰』の解釈書、注釈書が出版されているのですが、これらの中に「石峯」、「金巌」は出てきて解釈されています。『三教指帰』の原文では「或いは金巌に登り」と、「石峯に跨り」と、金山出石寺には登るのですが、石鎚には跨るのです。山に跨ることができるのかという様に愛媛県外の方は思われるかもしれませんが、確かに石鎚山の頂上付近に行くと、跨ごうと思えば跨ぐことができそうな程、険しいですよね。だからその表現からすると、確かに「石峯」は石鎚山であろうと思います。注釈書の『三教指帰刪補鈔』には「石槌嶽は伊予国に在り、金巌も伊予国にあり」と書かれています。江戸時代の『三教指帰』の注釈書、要するに真言宗の僧侶の中で使われた本の中にはそう書かれている。もう一つ『三教指帰簡註』という『三教指帰』注釈書のベストセラーで一七一三年に刊行された史料の中にも「金巌、石槌嶽は並に在り」と書いてあって、どこにあるかというと「予州に在り」と記されている(写真6)。「金巌」は伊予国にあると江戸時代には一般的に解釈されていたわけです。
 なお、『三教指帰』の中身は一種の漢詩文なのです。四六駢儷体という四文字と六文字が並列する駢儷体です。駢儷というのは馬が二頭並んで走るという意味なのですが、要するに二つのものを並べて小気味よく文章を書いていくというのが四六駢儷体です。『三教指帰』はそれで書かれています。要するに「石峯」と「金巌」が二つ出てきますけれども、これらは二つで一セットとして出てくるのです。先ほども言った室戸と大瀧嶽もセットで出てきます。「石峯」、「金巌」については四国の石鎚山と奈良の大峰山という離れた所をセットで持ってくるよりは、空海としても『三教指帰』を著した際には、地理的にも近い所をセットで書いて、読む時の小気味よさを表現しようとしていたと解釈するのが妥当だと思います。つまり「石峯」は石鎚山であり、「金巌」は四国にある金山出石寺(出石山)ということです。最近ではあまり主張されなくなった説ですが、それは単に四国の研究者がここ三~四〇年間、主張してこなかったことも一つの原因であり、金山出石寺説が何らかの史料的根拠があって否定されたわけではないのです。空海は石鎚で修行し、そして大洲、八幡浜で修行したということになりますと、当然ここ四国中央市も通っているはずです。また、石鎚というのも現在の石鎚山の象徴である弥山、天狗岳だけではなくて、中世以前には瓶ヶ森や新居浜市の笹ヶ峰付近までの石鎚山系全体を石鎚山というように括っていた形跡があります。空海は東予地方の石鎚山系全体を修行の地としていたことは間違いないのです。それが二四歳までの空海の修行地ということです。
 もう一つ、伊予国の関係で言いますと、空海と交流のあった人物を紹介しておきます。現在の松山市出身の光定という天台宗の僧侶です。生まれが宝亀一〇(七七九)年。空海が宝亀五(七七四)年生まれですので、空海より五歳年下です。そして大同三(八〇八)年、空海がちょうど中国(唐)から帰国した直後、比叡山に上って空海のライバルである最澄の弟子となりました。弟子は弟子でも一番弟子だったのです。光定の出身地は伊予国風早郡です。松山市北部から旧北条市のあたりなのですが、そこから比叡山に入り最澄に学ぶ。そして最澄とともに高雄山寺に赴き、空海から密教を教えてもらうことになります。最澄は空海と同時に遣唐使に随行して唐に渡りますが、最澄が先に日本に帰ります。空海は恵果から真言密教の後継者として指名され、日本に伝える事になります。最澄は密教に触れながらも充分に体得しないまま帰国しています。最澄は空海が帰国すると弟子達とともに高雄山寺にて空海から密教を学び、灌頂を受けるのです。光定もそのときの弟子の一人です。そして灌頂を受けると最澄は比叡山に戻ったのですが、最澄の命令で光定はそのまま高雄山寺に留まって空海と一時期一緒に過ごし、交流を持ったのです。このような人物が愛媛、伊予国出身でいたのです。
 仏教史において、光定がどのような点で貢献したとていうと比叡山での大乗戒壇の設立が挙げられます。これは最澄にとって最大の願いであったことです。戒壇というのは受戒する場所、要するに正式な僧侶になる道場のことです。奈良時代から平安時代初期までは奈良の東大寺と下野国(栃木県)の薬師寺、そして九州筑紫の観世音寺の三ヶ所しかなかったのです。要するに、中央で正式に僧侶になって僧位、僧階を得て行くには奈良で修行しなければいけなかったのです。そこで光定は奈良の僧侶や朝廷の多くの官僚とも交渉を重ねて、比叡山に戒壇院を設けることに貢献しました。これには伝統的な奈良仏教の長年の抵抗もありましたが、新仏教の比叡山においてようやく実現できたものです。戒壇設立はちょうど最澄が亡くなった数日後に実現することになります。このように、天台宗の基礎を確立した人物が実は伊予国にいたのです。その光定の伝記に『延暦寺故内供奉和上行状』があります。

史料7『延暦寺故内供奉和上行状』
  和上法名光定。俗姓贄氏。予州風早県人也。其祖先武内宿祢祖先葛木襲津彦之後焉。母風早氏。

 和上というのは光定のことです。法名は光定であると。俗性は贄氏。贄氏といえば、贄首石前という人物が天平八(七三六)年の『正倉院文書』に中で旧北条市付近の少領として出てきますので、その一族だと思われます。この『延暦寺故内供奉和上行状』という光定の一代記だけではなく、光定が著した『伝述一心戒文』という史料もあります。ここには最澄の事績や天台宗の成立過程など平安時代初期の仏教史の基礎史料でもあります。光定は実際に延暦寺でいろんな修行を重ねますが、天台宗といえば中国に天台山があります。真言密教はよく真言八祖というように恵果から正式に空海に伝わることで、正統な後継者としてはインドから中国、中国から日本に伝わってきたのですが、天台宗の場合、中国に天台山がありますので、天台宗の教義に関して疑問があれば、天台山に質問をして回答を得ています。『唐決』という史料にその問答が記されており、最澄だけではなく光定も問答をして天台山の宗頴から回答を得ています。このように天台宗の初期、教義を決める上でも活躍をしているのです。先に挙げた『伝述一心戒文』も初期天台宗の歴史をひもとく非常に貴重な史料で、この史料がもし無かったら初期天台宗の状況は充分にわからなかった程です。
 そして現在でも光定は比叡山に祀られています。比叡山の根本中堂がありますが、その奥に浄土院という最澄が祀られている廟があります。そこから少し山へ入ったところに「別当大師廟」として祀られています。光定は「別当大師」とも称されています。最澄の浄土院の裏手になります。そして、その光定を中興の祖といいますか、光定が再興したと伝えられる寺院が愛媛県松山市の北部山間地に多くあります。例えば松山市東大栗の医座寺であるとか、松山市菅沢の佛性寺も天台宗で光定ゆかりの寺院です。つまり道後から五明を通って堀江や北条へ通じる山間地に光定の関係する寺院があるのです(写真7)。この佛生寺には本堂の横に大師堂があります。四国で大師堂というと弘法大師(空海)を祀っているのが一般的ですよね。ところがここの堂は、きちっと扁額で「大師堂」と書かれてあるのですが、祀ってあるのは光定つまり「別当大師」と最澄つまり「伝教大師」なのです。その二人を祀る大師堂なのです。弘法大師は祀られていません。空海は真言宗の開祖であり密教を国内に広めた人物ですが、その時代にその真言宗のライバルである天台宗、それに関してもいろんな歴史があって、そこに光定という伊予国(愛媛県)出身者がいる。ところが、この光定は愛媛県民の間ではほとんど知られていません。出身地の松山市の方でもほとんど知らないと思います。私が担当した今回の愛媛県歴史文化博物館「弘法大師空海展」にて、空海と同時代の人物として光定を大きく取り上げたつもりだったのですが、光定に関する市民への周知、啓蒙は充分達成できなかった。これは担当者としての大きな反省点です。光定については、空海、最澄と絡めながらもっと顕彰しなければいけないと思っているところです。

⑦につづく
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