愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛県の地震史―昭和南海地震を中心に―

2018年12月21日 | 災害の歴史・伝承
※本稿は、以下の掲載原稿である。大本敬久「愛媛県の地震史―昭和南海地震を中心に―」(『伊予史談』383号、2016年10月)。南海地震、西日本大震災の防災が叫ばれる中、直近の南海地震について執筆しているものをアップしておきたい。

愛媛県は「災害が少ない」のか?
 一般に「愛媛県は気候が温暖で災害が少ない」という言説が聞かれるが、果たしてこれは事実なのであろうか。昭和三〇年刊行の岩波文庫『愛媛県―新風土記―』には愛媛県は「温暖な瀬戸内海の南側にあって、寒くもなく暑すぎもしない。四国山脈を背負っているので南予を除くと台風の被害も少ない。まず日本の多くの県のうちでも、住みよい県の一つであろう」とも紹介されるが(註1)、ほぼ同時期刊行の村上節太郎『愛媛県新誌』には「本県は地形的にも地質的にも変化に富み高山あり海あり渓谷あり、断層あり、盆地あり、平野ありで、その上美しく観光地として恵まれている。気候もまた内帯と外帯の双方のタイプを有し恵まれてはいるが、天災特に台風・洪水の被害も少なくない」と記し、愛媛は災害が少ない県だという認識は見られない(註2)。風水害、土砂災害については、平成一六年七月から一〇月にかけての一連の豪雨災害で二六名の犠牲者が出たことは記憶に新しいが、明治三二年八月二八日の水害では新居浜・別子を中心に県内で八二八名の犠牲が出ており(註3)、昭和一八年七月の水害では重信川や肱川が決壊、氾濫して松山市、松前町、大洲市で広範囲に浸水し、死者、行方不明者一三四名の被害が出ている。また昭和二〇年の枕崎台風でも死者、行方不明者は一八二名に及び(註4)、昭和二〇年代、三〇年代は数年ごとに台風による大きな被害が見られ、愛媛県は風水害、土砂災害の頻発する地域だといえる。とても「災害が少ない」と断言することはできない。
 地震に関しても、昭和元年から平成二八年(七月三一日現在)までの約九〇年間に、愛媛県内では震度四以上が三〇回、震度三以上は一七三回、観測されている。これは愛知県(震度四以上が三三回)京都府(同三三回)、大阪府(同二〇回)、広島県(同三二回)、徳島県(同二二回)、香川県(同二二回)、高知県(同二八回)、福岡県(同二六回)とほぼ同程度であり、西日本の近隣各県より地震回数が少ないわけではない(註5)。しかも近年(平成一三年、二〇〇一年以降)では、愛媛県内では平成一三年芸予地震などで震度五弱以上の揺れを五回観測し、特に南予北部では平成二六年から三年連続(二六年三月伊予灘地震、二七年七月大分県南部地震、二八年四月熊本・大分地震)で震度五弱以上を観測している。ところがその前の昭和四六年から平成一二年(一九七一~二〇〇〇年)までの三〇年間には震度五以上の地震は一度も観測されていない。二〇〇一年以降に地震活動が活発化していることがこの数字を見るだけでもわかるが、忘れてはならないのが「南海トラフ」を震源とする海溝型の巨大地震である。このタイプの地震は周期的に発生するとされ、前回は昭和二一(一九四六)年一二月二一日に発生し、愛媛県内で死者二六名の大きな被害が出ている。この地震から七〇年が経過したことで、人々の記憶が薄れてきていることや、地震発生時が第二次世界大戦の終戦直後で、いまだ混乱期の災害であったことから被害の内容が詳細に後世に伝えられていない状況にあり、この大きな地震災害も「忘却」されようとしている。
 「天災は忘れた頃にやってくる」とか「災害は忘れた頃にやってくる」という言葉があるが、これは高知県出身の物理学者で随筆家の寺田寅彦の言葉である。ただ寺田寅彦の書いた著作をいくら探しても「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉は出てこない。寺田寅彦と地震学で交流のあった今村明恒の著作『地震の国』の中に「天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している」とあり(註6)、それ以降に広く一般に定着した言葉といわれている。先に挙げた「愛媛県は災害が少ない」という言説は、真実、事実を表しているのではなく、過去の災害を「忘却」することで生まれてきた言説だといえる。「忘れた頃にやってくる」災害に対する防災意識の醸成、向上のためにも「災害が少ない」という「誤解」(いわば集合的記憶)は克服されるべきであろう。

「南海トラフ巨大地震」
 今後三〇年以内に七〇%程度の確率で発生すると予想される「南海トラフ巨大地震」。南海トラフの「トラフ」というのは、海底が溝状に細長くなっている場所のことである。水深七〇〇〇m以上のものを「海溝」と呼び、それよりも浅いものを「トラフ」と呼ぶ。このトラフ地形はプレートの沈み込みによってできたもので、地震の多発域となっている。南海トラフは静岡県の駿河湾から御前崎沖を通って、和歌山県の潮岬沖、四国の室戸岬沖を越えて九州沖にまで達する海の溝であり、フィリピン海プレートが日本列島側のプレートの下にもぐり込むことで徐々にひずみが蓄積され、限界に達したところで元に戻ろうとして巨大地震が発生する。これが南海トラフ地震の仕組みである。
 さて、「南海トラフ巨大地震」イコール「南海地震」ではない。「南海地震」は紀伊水道沖から四国南方沖を震源とする地震で、「南海トラフ巨大地震」のうちの一部である。駿河湾から遠州灘にかけて発生するのが「東海地震」、紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域で発生するのが「東南海地震」。これら三つを総称している名称が「南海トラフ巨大地震」である。なぜこれが総称されているかというと、過去の地震では、この三つの地震が連動して発生しているからである。東海地震、東南海地震、南海地震の震源域が数時間から数年の間にほぼ同時期に三つの大きな地震が連動している。
 この東海、東南海、南海地震の連動は様々な史料から明らかになっているが、一例として江戸時代末期の安政南海地震の連動の様子について、八幡浜市国木円照寺所蔵の庄屋菊池家の「八幡浜国木庄屋菊池家地震記録」が参考になるので紹介しておく(註7)。

嘉永七年甲寅十一月四日朝地震致ス。八幡浜、矢野町辺ハ一通りゆり候由。国木辺ニ而ハ相知兼候事。翌五日夕七ツ半頃大ゆり。皆々外江はしり出候事。およそたばこ拾ぷく位呑候間程大ゆり。矢野町、八幡浜つぶれ家出来。同夜七、八度ゆり候事。同七日朝四ツ前又々大ゆり。五日夕之ゆりより甚敷、其内みじかき事。夫より昼夜に二、三度程づつ日々ゆる。且、五日暮過津浪来ル。

 つまり嘉永七(一八五四、後に「安政」に改元)年一一月四日の朝地震が起きた。しかし現在の市街地の八幡浜、矢野町では少々被害があったが、市街地から離れた国木地区では被害は無かった。しかし国木地区に被害が無かったという記述の解釈は気をつけなければいけない。安政南海地震で被害が無かったのではなくて、この史料を見ると、一一月四日の朝に発生した地震であり、これは南海地震ではなく、遠方を震源とする東海、東南海地震(M八.四)による揺れであり(註8)、この時には被害が少なかったのである。ところが、翌五日に南海地震の本震(M八.四)が発生するが、この時は大きく揺れて多くの人が屋外に出たと記されている。そして市内中心部の矢野町、八幡浜では潰れる家があり、余震が七、八度と発生し、その日の夕方に津波が襲来と書かれている。そして二日後の一一月七日に発生した豊予海峡を震源とする誘発地震(M七.三~七.五)も大きく揺れたことがわかる。
 このように、まず一一月四日に東海、東南海地震が起こって関東から近畿まで大きな被害が出て、その三二時間後に南海地震がおこって西日本に大きな被害が発生した。そしてその後に内陸型の誘発地震も発生して、さらに被害が拡大している。
 この安政南海地震の次の「南海トラフ地震」の一つが昭和二一年に発生した昭和南海地震である。この地震の「連動」であるが、昭和南海地震の二年前の昭和一九年に東南海地震が発生しているものの、東海地震は起こっていない。昭和の南海トラフ地震は、南海地震、東南海地震は発生したが、過去連動して発生していることが多い東海地震の震源域では大きな地震が起らずに空白域となっていて、プレートの沈み込みによるひずみが解消されていないとされている。このことから東海地震が発生するのではないかと現在注目されている。

周期的におこる南海地震
 先にも紹介したように、直近では、和歌山県潮岬南南西沖を震源とする南海地震が昭和二一年一二月二一日に発生し、愛媛県内では二六名の死者が出ている。その二年前の昭和一九年一二月七日に紀伊半島南東沖を震源とする東南海地震が発生し、双方の連動地震で犠牲者は全国で計二五〇〇名以上とされている。
 その前の南海トラフ地震が、昭和の約九〇年前、嘉永七(一八五四)年一一月四日に東海、東南海地震が発生し、その三二時間後の一一月五日に南海地震が起きて関東から九州までの広い範囲で大きな被害が出ている。この地震の直後に改元され、元号は「安政」となったため「安政地震」と呼ばれている。地震の規模は昭和南海地震がM八.〇、安政南海地震はM八.四とされ、安政の方が大きい地震規模で、揺れ、津波被害も昭和より甚大であった。
 その安政よりも被害が甚大だったのが安政の約一五〇年前、宝永四(一七〇七)年一〇月四日の宝永地震である。東海、東南海、南海地震の三連動で発生し、地震規模はM八.六とされている。この時は伊予国(愛媛県内)でも津波による死者が南予地方を中心に二〇名近く出ている。『楽只堂年録』など幕府へ報告された死者数は五〇〇〇名余りで(註9)、実際にはさらに被害が大きかったと推定されている。
そして宝永地震の約一〇〇年前には、慶長九(一六〇五)年一二月一六日に慶長地震が発生している。この地震では津波被害が甚大で、房総半島から紀伊半島、四国にその記録が残っている。その前は慶長の約一〇〇年前、明応七(一四九八)年に発生し、さらに一三七年前の正平一六(一三六一)年六月二四日に正平南海地震が起っている。『太平記』によるとこの時は「雪湊」(徳島県由岐)で大津波によって一七〇〇軒の家々が被害を受けたとされている(註10)。
 その前となると、正平の二六三年前という長いブランクとなるが、承徳三(一〇九九)年正月二四日に発生している。この年は地震と疫病が頻発したので元号が「承徳」から「康和」に改元され、「康和地震」と称されている。土佐国(高知県)で千余町が海底なった、つまり地盤の沈降による海水流入が大規模に見られ、歴代南海地震でも同様の被害が発生している。その康和の二一二年前の仁和三(八八七)年七月三〇日に仁和地震が起こり、近畿地方を中心に大きな被害が出ている。その仁和の二〇三年前に発生した南海トラフ地震が、『日本書紀』に記された天武天皇一三(六八四)年一〇月一四日の白鳳地震である。このように、文献史料からひも解くだけでも、古代から現代まで南海トラフを震源とする大地震がおよそ一〇〇年から二〇〇年の周期で起こっていることがわかる。直近の昭和南海地震から本年(平成二八年)で七〇年を迎えるが、今後三〇年以内に次回の南海トラフ地震が発生する確率が七〇%程度と推計されるのも過去の地震記録を基礎としているからである。


愛媛新聞に見る昭和南海地震
 昭和南海地震については、これまで愛媛県内の被害状況を紹介した著作、論文は少ない。その中でも詳述している成果に高橋治郎「愛媛新聞にみる昭和の南海地震」がある(註11)。愛媛新聞の昭和南海地震の記事をもとに愛媛県内の地域別の被害を紹介しているが、頁数に限りがあったためか、記事を翻刻し内容をまとめ、結果、略した形で紹介されている。そのため、ここでは愛媛新聞の昭和南海地震の原文を掲載しながら、各地の被害状況を紹介したいと思う。
 昭和南海地震は、昭和二一年一二月二一日早朝に発生したが、翌二二日の紙面から愛媛県および西日本各県の被災記事が掲載されているので、以下紹介したい(註12)。まずは、昭和二一年一二月二二日付の見出しである。「大地震!高潮襲来 四国、紀州が中心 串本町は全滅 死傷、倒壊の報相次ぐ 震源地は熊野灘 日本で最大 東北地方まで有感」とあり、まず大地震が発生して「高潮」つまり津波が襲来し、和歌山県、四国を中心に死傷者や家屋の倒壊が多く、東北地方まで揺れを感じたことが紹介されている。
 そして地震発生から二時間四〇分後に中央気象台から発表があり、愛媛新聞にも「【中央気象台廿一日午前七時発表】二十一日午前四時二十分頃和歌山県から四国にわたり大地震があり津浪をともない被害は甚大の見込みである、震源は和歌山県の南方の沖合らしいが目下電信不通のため詳細は不明であるが判明次第更に追報する」と紹介されている。そして発生から六時間一〇分後の発表では「【大阪管区気象台午前十時半発表】初震時四時十九分六秒、初震微動、継続時間二十秒二、方向南南々東三十キロ、震度四、最大震幅五センチ、継続時間有感二分、無感一時間、主として水平動」とあり、発生時刻が一二月二一日午前四時一九分であったことや、揺れを感じた有感時間が二分間にも及んだことがわかる。そして、和歌山県発の情報として、「【和歌山発】二十一日午前四時十九分五十二秒、和歌山地方に強震あり和歌山測候所の観測によると震度五、最大震幅南北動六四ミリ、東西動四六ミリ、上下動五五ミリ、初期微動、継続時間不明、震源地は熊野灘、この震動とともに紀南地方に高潮襲来、人畜に相当の被害ある見込み」とあり、最大震度は震度五であり、紀伊半島南部には「高潮」(津波)が襲来し、未だ被害の状況はつかめないものの、かなりの被害が出ると予想している。また、和歌山県に隣接する奈良県の橿原測候所からは、「【橿原測候所発表】水平動の強震発震時間四時二十分十九秒、継続時間五十九秒、最大震幅三千二百ミクロン以上(計器一ぱいこれ以上の記録不明)」とあり、奈良県でも地震は約一分間続き、最大振幅は計器測定不能であったと発表されている。
 そして再度、東京の中央気象台から談話があり、「【中央気象台地震課談】地震発生時刻は二十一日午前四時十分で震源地は和歌山の南北一〇〇キロ、東経一三五度、北緯卅一度の地点で深度不明、近畿南部、四国の東半部、岐阜、滋賀の一部は震度大で有感地域は広く東北地方、九州まで及んでいる、この地震は一昨年の熊野灘に起つた南海大地震(筆者註:昭和一九年の東南海地震のこと)よりも、また関東大震災よりも大きく本州附近に起つた最大級のものである。震央は海中のため直接地震による被害は少いが津波を伴つていることが被害を大きくしている。各地の震度は強震、潮岬、和歌山、彦根、四国一帯、中震―足摺岬の清水、弱震―米子、大阪、京都、亀山、敦賀、名古屋、浜松、伊東、御前岬、静岡、軽震―宇都宮、東京、微震―福岡で火山系は数名で調査中」とあり、昭和南海地震による有感は東北地方から九州地方にまで及び、強震(現在の震度五程度)が和歌山県、滋賀県、四国、中震(現在の震度四程度)が足摺岬、弱震(現在の震度三程度)が静岡県、愛知県、京都府、大阪府、鳥取県などで、東京が軽震(現在の震度二程度)、福岡が微震(現在の震度一程度)の揺れであった。この地震は二年前に発生した東南海地震や関東大震災よりも大きいもので、本州付近で発生した地震としては最大級のものだと述べている。
そして高知県発の情報として「五百五十戸流出(高知) 浸水八千五百戸」、「午前八時現在の死者四十二名、負傷者八十一名、行方不明二名(中略)家屋全壊百四十二、同半壊百六十三(市内)内海岸地帯は高潮襲来して浸水、死者負傷者等甚大の見込(中略)◇十時半現在=高知署管内死者七九、負傷者九三、家屋全壊二六〇、半壊三八四、佐川署管内負傷一、家屋半壊一」と記事あり、津波が襲来して八五〇〇戸が浸水、五五〇戸が流出し、地震発生から約四時間後の午前八時という早い段階で、死者数は四二名と把握され、発生から六時間後の十時半は、高知署管内(現在の高知市)だけでも死者が七九名となっている。

愛媛県の被災状況
 昭和二一年一二月二二日付愛媛新聞には、愛媛県内の状況について次のように記載している。「道後温泉止まる 県下の震害大(詳報二面)」、「天下の霊泉で鳴る道後温泉は震害で地下異変を生じ突然第一より第四にいたる各源泉全部閉塞してしまつたので当分の間休業のやむなきに立至つた」、「死者二四 不明六名 倒壊二百五十戸 県発表 正午現在」、「二十一日午前四時二十分県下一帯にわたつて大幅にゆれはじめた地震は昭和二年春以来(筆者註:北丹後地震)の大地震、夜明けの夢破れた人々は戸外へ一斉に飛出し避難をするなどかつてない経験に朝のあいさつも『こわかつたなア』としみじみと驚きの表情をつづる、この日朝来県警察部に報告された震災状況は正午までに判明したもの死者二十四名、負傷者十六名、行方不明六名、計四十六名の犠牲者を出した、家屋の倒壊は二百五十戸(うち半壊百七十四戸)同床下浸水百二十戸、非住家百九十棟(半壊を含む)、道路の崩壊四十六ヶ所、橋梁の被害六ヶ所、海岸崩壊廿二ヶ所、このほか工場煙突の倒壊十四、同様倒壊鳥居一、通信関係は一時不通ヶ所が全県的に及んだが同日午後から逐次復旧、国鉄肱川鉄橋も一部被害を見たが十時二十分八幡浜駅発列車から復旧した」とあり、まず道後温泉の湧出が止まったことが大きく見出して出ている。この道後温泉は、歴代の南海地震が発生するたびに湧出が止まっており、昭和南海地震では約七〇日間止まって、再開は昭和二二年四月上旬のことであった。この地震は、愛媛県内では昭和二年の北丹後地震以来の大地震であり、地震発生から約八時間後、正午に愛媛県から死者二四名と発表されている。昭和南海地震では死者二六名とされ、そのほとんどが建物倒壊による圧死であった。津波襲来による人的被害は把握に時間がかかるが、建物倒壊による早急の救助活動により半日程度で、県内の死者の大半が把握できていたことになる。「床下浸水百二十戸」とあるのは津波による浸水被害であり、過去の宝永南海地震、安政南海地震では南予地方沿岸部(八幡浜市、西予市、宇和島市、愛南町)で大きな津波により犠牲者も出ているが、昭和南海地震は地震の規模が宝永、安政に比べて小さかったこともあり、愛媛県内では津波は南予で浸水した地区はあったものの、家屋が流されるといった甚大な被害や人的被害は出ていない。
そして、愛媛新聞記事では、県内被害状況が地域ごとに詳述され、「最たる被害地は伊予郡郡中、松前町で家屋倒壊は九十九戸、非住家三十七棟、死傷者八名を出しさんたんたる震災の光景を呈している」とあり、地震翌日の新聞では県内でも最も被害の大きかった地域が現在の伊予市郡中と松前町であり、死傷者八名、家屋倒壊九九戸であることが紹介されている。
 そして警察署管内ごとの死傷者、家屋倒壊等の被害が記載されている。

 報告された各署別の被害状況次の通り 松山署 死者 四、傷者五、住家倒壊六十二戸(半壊を含む、以下同じ)、道路崩壊二十ヶ所、△松山西署 死者四、傷者二、住家倒壊四、△今治署 住家倒壊一、同非住家一、△壬生川署 死者七、住家倒壊十八、非住家五、△西条署 死者一、傷者三、住家倒壊八、非住家二十八、道路崩壊十二、同橋梁一、△郡中署 死者六、傷者二、住家倒壊九十九、非住家卅七、△八幡浜署 死者一、住家倒壊十五、同非住家五十八、床下浸水百二十、△松丸署 道路崩壊四、橋梁四、△大洲署 住家倒壊三、同非住家一、△内子署 道路崩壊四、△卯ノ町署 非住家倒壊二、道路崩壊二、△新居浜署 死者一、傷者四、行方不明六、住家倒壊二十八、非住家五十二、橋梁一、△三島署 住家倒壊六、△御荘署 道路崩壊三、海岸崩壊二十二ヶ所 なお被害の少なかつたところは山間部の久万、内子、松丸、野村署管内であつた

 これを見ると、地震発生当日の正午現在、死者の地域別内訳は松山四名、松山西四名、壬生川七名、西条一名、郡中六名、八幡浜一名、新居浜一名の合計二四名となっており、地方別では東予地方九名、中予地方一四名、南予地方一名であった。家屋等倒壊数は、松山六二戸、松山西四戸、今治二戸、壬生川二三戸、西条三六戸、郡中一三六戸、八幡浜七三戸、大洲四戸、卯之町二戸、新居浜八〇戸、三島六戸であり地方別では東予地方一四七戸、中予地方二〇二戸、南予地方七九戸となっている。最も被害の大きかったのは中予地方であり、次いで東予地方、そして南予地方の被害が比較的小さかったことがわかる。
 次に地域別の具体的な被害記述を東予地方から紹介したい。
 まず四国中央市、新居浜市については、「工場に被害 新居浜地方」、「新居浜地方はたなの物が落ちる程度の強震で十時現在の被害状況は左の通り 一般の家はひさし、かべ、陳列窓のガラスが破損した程度のものが多数あり、煙突も倒れたが人畜に被害はなかつた(中略)新居浜郵便局屋上の見張台が墜落して天井を打ち抜いた、工場関係は日新化学のタンクが破損して硫酸六百トンを流出、硫安工場も多少の被害があつたが生産には支障がなく損害四百五十万円程度で軽傷者が三名あつた」、「多喜浜=伊予土居駅間セキ川トンネルが線路百ミリ沈下のため折返し運転中、このため西条中学、女学校は臨時休校」とあり、人的、民家の被害は大きくはなく、それよりも工場被害がまず紹介されている。日新化学のタンクから硫酸六〇〇トンの流出事故が発生している。国鉄伊予土居駅と多喜浜駅間では地震による地盤沈降で線路に被害が出て、不通となっているが、この地盤の沈降は瀬戸内海沿岸一帯で見られ、昭和二〇年代後半にまでわたって沈降による低地の田畑や井戸への海水浸入や、護岸の崩壊といった長期的被害を蒙ることになった。その点は後章で触れたい。
 そして西条市である。「半壊は無数 西条地方」、「西条地方の被害は△西条市=小ウインドの破損、カワラの落下程度、倉絹西条工場では倉庫が倒壊し、工場の床のケースが亀裂して海水が噴き出した、鹽出は被害が大きく操業不能、(中略)氷見禎瑞も被害は大きく、倒壊は十数戸、死者一名」、「周桑郡壬生川及び国安が被害もつとも激しく、倒壊家屋二十七戸、死者七名、堤防及び道路に亀裂多く、電信電話杜絶百ヶ所、その他調査中」とあり、沿岸部の倉絹西条工場では海水が噴き出す液状化現象が見られ、操業不能となっている。そして旧東予市の壬生川、国安の被害が大きく、死者七名を数えている。
次に今治市は「越智郡地方の二十一日正午現在、津倉村鹽組合木造平屋石炭倉庫一棟(九十坪)全壊、(中略)その他大山祇神社の大鳥居が倒壊」とあり、大三島の大山祇神社の鳥居が倒壊しているが、隣接する西条市や松山市に比べると人的被害は少なかった。以上が東予地方の被害の詳細である。
 中予地方では、まず松山市の被害としては「一家四人壓死 残つた三孤児 松山の悲劇」、「地震ゆえに孤児三姉妹が出た―松山市三穂町の〔男性名〕さん(三四)の一家は裏手にあつた〔店名〕店の土蔵が倒壊、家をおしつぶされた〔男性名〕さんと妻〔女性名〕さん(三一)、長男〔男性名〕(五つ)、〔男性名〕君(一つ)は逃げ出す暇もなく七寸余りある土塀の壁および家の壁等が三重にたをれたその下敷となつて死亡」とあり、三穂町(現在の三津一丁目から三丁目)で土蔵が倒壊して土塀と隣家を押しつぶし、隣家の一家四人が圧死した。両親と長男、次男の二人の子どもが亡くなったが、長女、三女は救出され、次女は母の郷里に行っていて難をまぬがれている。
 次に県内で最も被害が大きいとされた伊予市・松前町である。まず「戦災さながら 郡中、松前の惨状」、「県下で最も損害甚大な震災地郡中、松前に入れば土蔵、土塀、壁はすべて崩れ落ち畳家財道具を道路に運び出して戦災さながらの悲惨な姿をていしている、全壊二十九戸(内非住十戸)、半壊百二戸(内非住二十四戸)、特に無惨な郡中(港町、灘町)、松前、地蔵町には棟瓦が崩れ落ち屋根に大きな穴が空いて道路には軒瓦が散乱し、町民警防団員が屋根に上つて取りかたづけ修理に道路は通行困難な状態である」とあり、特に被害の大きいのは現伊予市の湊町、灘町と現松前町の松前、地蔵町(北黒田)であった。そして「死傷=家屋下敷=(六名)郡中町〔男性名〕(三八)、同(筆者註:別記事により郡中町ではなく地蔵町と思われる。)〔女性名〕(六五)、同〔女性名〕(六九)、松前町〔男性名〕(三つ)、北黒田〔女性名〕(二三)、同〔女性名〕(六五) 負傷、打撲軽傷(二名)郡中町〔女性名〕(七六)、同〔女性名〕(七二)、その他郡中町〔男性名〕氏所有馬一頭が井戸に墜死」、「倒壊死亡した地蔵町〔女性名〕(六五)の家を訪えばたつた一人生き残つた孫〔男性名〕君(一一)四年生が祖母の死骸の枕辺に坐つて駈けつけた遠縁の上吾川〔男性名〕さんに見守られていた(中略)また北黒田の庵寺の倒壊に〔女性名〕〔女性名〕さんの二人が同時に死亡しており発掘する人々の涙をそそつている」とあり、犠牲者の死因は家屋の下敷きによる圧死であった。これは東予地方の壬生川、国安、中予地方の松山(三津)でも同様であり、比較的海岸に近い市街地で多くの家屋が倒壊し、被害が出ているという共通点がある。そして「郡中署では発震と同時に非常召集を行い警戒と死者収容に任じたが二宮署長は『強震で歩行不能の時もあつた、国鉄南郡中以南(北山崎方面)は全然損害ないが海岸地帯がひどい、また津浪があるというデマも飛んだが海上は全く平穏で事故はなかつた、北伊予松山間が目下列車不通だが十二時四十分から開通する見込みだ(後略)』」とあり、郡中は海岸地帯は被害が大きいものの、南郡中駅(米湊にある現在の伊予市駅)より南方面は被害が無く、郡中から松前にかけての局所的な被害だったことがわかる。ただし、新聞記事には「百米の大亀裂」、「伊予郡岡田村出合橋のふもと郡中街道に約百米に亘る間、数条の亀裂が生じ、最大幅員約五センチに達しており、岡田国民学校横の墓地には、墓石が倒れ、神社の石灯籠が崩壊している」ともあり、当時の松前町だけではなく、重信川沿いの岡田村(現松前町岡田地区)では出合橋あたりで道路の亀裂が発生するなどの被害があった。
 続いて南予地方の被害である。まず大洲市では「全戸三分の一が壁落ち 煙突も二十本 大洲町」の被害記述があり、八幡浜市、西予市では「八幡浜の被害 八幡浜市では市内下道通り鮮魚商〔女性名〕(四二)さん方ほか三戸が全壊、これがため〔女性名〕は壓死した このほか電信電話の不通、電線の切断、市内全域に亘つて家屋の倒壊、壁の落ちたものがあり、シヨウウインドの破れたものの相当あり目抜通りの商店、開店休業のていである」とあり、八幡浜市内中心部で家屋倒壊におり女性が圧死している。また南予地方沿岸部は過去の南海地震で大きな津波被害が出ているが、昭和南海地震では次のような状況であった。「八幡浜湾内は僅かに高潮があつたのみで被害は軽微の見込み、西宇和郡川之石地方は朝五時ころ高潮があり相当心配されていたが大した被害はなかつた、三瓶町地方は海岸埋立地に亀裂があり倉庫一棟倒壊、酒六工場の煙突倒壊、岬半島方面は被害は軽微である」、「西宇和郡三島村は割合被害が多く、倒壊十八棟、半壊五十棟あつた、三瓶町は高潮のため浸水百二十戸、その他道路の崩壊多く、交通杜絶五ヶ所」。このように津波の心配もあったが、八幡浜や、川之石(現八幡浜市保内町)では軽微な被害で済んだが、西予市三瓶町では高潮により一二〇戸が浸水しているように、地域によって津波浸水の状況は異なっている。
 そして宇和島市では「(午前十時現在までに判つた被害)宇和島市=電話不通五十五ヶ所、市外不通十五ヶ所、配電線、引込線も故障しているが午前中に復旧の見込み、倒壊家屋なし、市役所のバルコニーと郵便局の天井落下、その他市内十数ヶ所に被害家屋あり、九島は高潮のため浸水家屋相当あり、明倫方面は約三丁二十間(筆者註:約三五〇m)にわたる道路に亀裂を生じた」とあり、九島での「高潮」(津波)による浸水や道路亀裂が見られたが、家屋の被害はあったものの倒壊やそれによる死傷者は出なかった。また、松野町では「松丸署管内 道路崩壊四ヶ所、煙突崩壊三ヶ所」とある。

地震から二日目以降
 地震発生から二日後の昭和二一年一二月二三日付愛媛新聞には、以下のような記事が掲載されている。
「死傷者五七名 倒壊四六八戸 道路五六 県下震害後報」、「県警察部で二十二日午前十一時現在の調査をみると死者二十六名、負傷者三十一名(行方不明なし)計五十七名の犠牲者、倒壊家屋は四百六十八戸(うち半壊三百二十一戸)、同非住家百九十七棟(半壊七十七)、道路の崩壊五十六ヶ所、同橋梁八、海岸の被害六十五ヶ所等々増加しているも島嶼部の通信復旧にともない被害はさらに拡大されるものと見られている」とあり、前日の死者が二四名から二名増えて、二六名となり、道路の崩壊や海岸被害も件数が増加し、次第に被害の全容が明らかになってきている。その中でも壬生川(現西条市)の被害が特に強調されている。「壬生川一七四戸 死傷十二、郡中以上の惨状」、「二十一日夜明けの震害はその後の判明で周桑郡壬生川町の惨状が伝えられる、同町のみの倒壊家屋百七十四戸(うち半壊百十二戸)、死者三名、傷者を九名出し、郡中、松前、松山以上である」とあり、前日に郡中、松前の被害が甚大であると強調されていたが、壬生川周辺がそれ以上の惨状であり、具体的には次のように掲載されている。「若妻抱いて 壬生川町本町〔男性名〕(二九)同妻〔女性名〕(二二)さんは去る一月結婚、同町〔男性名〕さん方二階に下宿していたが最初の強震で二階の梯子段が落ちたため下りることが出来ず、〔男性名〕さんは妊娠八ヶ月の若妻を抱いたまま即死した」、「四人一緒に 周桑郡国安村大字国安〔男性名〕さん方では最初の強震で倒壊、〔男性名〕さん妻〔女性名〕さん(三〇)長女〔女性名〕(一二)ちゃんと祖母病気見舞のため来ていた〔女性名〕さん(五二)の長女〔女性名〕(六つ)の四名が壓死した」、「孫とともに 松山市南江戸町から当日西条市氷見洋服仕立業〔男性名〕さん方へ来ていた〔女性名〕(六二)さんは孫を抱いたまゝ即死した」とあり、当時の壬生川町と国安村(現西条市)にて、家屋の倒壊や階段からの落下により亡くなっている。死者数は前日の二二日付記事でも発表されているとおり七名であり、二三日付ではその詳報が掲載されたのである。
 このように東予地方、中予地方では、壬生川、三津、松前、郡中といった沿岸部での死者数が多かったが、内陸部での犠牲がゼロだったわけではない。二三日付では、北吉井村、川上村(ともに現東温市)で死者三名が報じられている。「死者名 死者の氏名次の通り(既報、郡中署管六名を除く) (松山署)温泉郡北吉井村樋口〔男性名〕方〔男性名〕(二〇)、〔男性名〕(五つ)、同郡川上村南方〔男性名〕方〔女性名〕」とある。三名の死因は不明であるが、北吉井村、川上村ともに重信川沿いで、しかも松山平野に流れ込んで開けた扇状地にあたり、河川による土砂堆積地のため比較的地震に弱く、家屋が倒壊したものと思われる。
 さて、二三日付では宇和島市、西予市、愛南町の続報記事も見られる。「宇和島=内港道路にも百五十メートルに亘つて亀裂を生じた」、「北宇和郡=海岸部送電線の不通、下灘村は嵐道路と山林が決潰、近永町は橋の破損一、三間村務田駅附近の鉄路沈下、また畑地村役場附近に道路亀裂があり自動車交通不能」、「東宇和郡=卯之町倒壊家屋一、橋の落下一、玉津村は約五米の津波で浸水家屋相当あり」、「南宇和郡=東外海村深浦の全部落は軽い津波で道路上に浸水、網干場、護岸が決潰したが人畜に被害なし、内海村は山崩れのため交通杜絶、詳細不明」とあり、海岸部の道路の亀裂、崩壊、橋の落下などが各地で見られ、玉津(現宇和島市吉田町)では五mの津波で家屋の浸水があり、深浦(現愛南町)でも道路上が浸水する程度の津波が確認されている。前日二二日付にあったように三瓶町(現西予市)でも津波が観測されているが、八幡浜港や宇和島港では津波被害はなかった。三瓶町だけの突発被害ではなく、玉津や深浦でも津波が確認されていることで、南予地方沿岸部では地形等によって津波が襲来したり、しなかったりで、それが広範囲に及んでいたことがわかる。
 さて、地震から五日目の昭和二一年一二月二六日付愛媛新聞に内務省発表の昭和南海地震による全国の被害概要が掲載されている。「死傷者二千 八千戸倒壊流出 内相報告」、「大村内相は二十四日の貴族院本会議で特に発言を求め南海地震の被害状況につき報告、主な被害は死者一千六十一名、負傷者一千九十一名、行方不明者百六十四名、家屋全壊約三千三百戸、流出家屋約五千戸におよぶ旨次のようにその実情を明らかにした」とあり、昭和南海地震での被害は発生三日目の二四日時点で、死者一〇六一名、行方不明者一六四名、家屋全壊約三三〇〇戸、津波による流出家屋約五〇〇〇戸に及んでいた。そして内務省報告での愛媛県内の被害は、「(愛媛県)死者廿三名、負傷者三十一名、住家全壊百四十六戸、半壊三百十五戸、非住家全壊七十五戸、半壊百二十戸、橋梁破損八、堤防決壊六十七ヶ所、道路決潰五十六ヶ所、日新化学工場より硫酸六百三十トン流出、損害見込み四百五十万円」と報告された。死者数が二三日付記事に比べ、三名少なく二三名となっているが、これは県から中央への報告の遅れ等によるものであろう。
そして同日記事には、「四国の塩田 八割が崩壊」、「【高松発】高松地方専売局管下の四国地方の製塩は全国の六割を占めているが、さきの震災で塩田は甚大な損害をうけ、徳島県全滅、香川県八割、愛媛県五割で全四国の八割が崩壊し、塩の生産は全く出来なくなつた」とあり、瀬戸内海沿岸部の塩田の被害が甚大で、愛媛県内でも新居浜市の多喜浜塩田などが浸水被害を受けている。
 また、松山市の道後温泉については、地震当日に湧出が止まったが、地震発生三日後の一二月二四日には湯神社、伊佐爾波神社の神職が出湯祈願を行っている。道後温泉は宝永四(一七〇七)年の宝永南海地震では約五ヶ月間、嘉永七(一八五四)年の安政南海地震では約三ヶ月間、湯の湧出が止まっており(註13)、昭和を含め、過去三回の南海地震で連続して不出被害が出ている。そして古代の白鳳南海地震においても不出となっており、道後温泉の不出は将来の南海トラフ巨大地震でも想定される被害であることから、愛媛県内の被害(特に経済的被害)の大きな地域特性といえる。ただし、昭和南海地震でも発生から一ヶ月後から徐々に地下水位が回復しはじめ、昭和二二年三月には湧出が復活し、三月二一日には復活を祝う温泉祭が開催され、市民による盛大な仮装行列も行われた(註14)。このように道後温泉は南海地震で不出となりながらも、数ヶ月後には復活するという傾向が見られるのである。

地盤の沈降による被害
 昭和南海地震では地震直後には目立った被害として捉えられず、愛媛新聞等の記事でも紹介されることはなかったが、その後、人々の生活に大きな影響を与えた被害がある。それが地盤の沈降である。愛媛県内における沈降・隆起については、村上節太郎『私たちの郷土 愛媛縣』にて地図上で図示されている(註15)。沈降高は、三島五〇㎝、新居浜五五㎝、西条四五㎝、波止浜二三㎝、津倉二〇㎝、菊間二五㎝、郡中三〇㎝、宇和島二五㎝と、東予地方から南予地方にかけての愛媛県沿岸部全域に及ぶ。この沈降により低地の田畑や井戸に海水が浸入したり、河川、水路の海への排水が逆流して湛水したり、海岸の護岸の高さが低くなることで高潮被害が頻発するなど、生活の上で長期にわたる支障が出る状況となった。
この沈降による被害については、昭和二〇年代には国会でも頻繁に取り上げられるほど深刻なものであった。この点は「国会会議録」から議事内容を抽出することができる(註16)。早い時期のものとしては、昭和二三年一一月二六日衆議院農林委員会にて、井谷正吉他八名から「岩松町の耕地地盤沈下復旧に関する請願」が提出されており、同二九日には参議院本会議、翌三〇日には衆議院本会議でも同請願が提出されている。昭和南海地震から約二年後、岩松町(現宇和島市津島町)より耕作地等の地盤沈降からの復旧請願であり、南海地震の影響が二年経ってようやく国会に取り上げられたのである。岩松町は耕作地の沈降だけではなく、岩松川河口部の護岸の沈降により洪水発生の危険性が増したため、堤防の積み増しを行っている。津波や家屋の倒壊といった直後の被害だけではなく、地盤の沈降や隆起は長期的な被害であった。
 岩松町の請願等を受けて、昭和二三年一二月一三日、衆議院災害地対策特別委員会で地盤の沈降が取り上げられた。

 ○長野(長)委員 大阪以西の海岸地帯が、相当沈下をし始めました。本年四国、中国方面で願い出たもののみでも、約八億円に達しておりますが、しかし私どものきわめて疑問としますところは、南海地震で一応沈下部分の堤防の復興をやつた。しかしながらその復旧したものが、さらにまた今度の高潮のために危険である。(中略)これは国家として重大な問題ではないかと考えられます。

 そして、翌昭和二四年八月二五日の衆議院建設委員会にて、愛媛県の具合的な状況が取り上げられている。

 ○高倉委員 (中略)最初に四国の地盤変動について申し上げます。去る昭和二十一年十二月二十一日の南海大地震に基因しまして、四国一帯は地盤の変動を惹起し、高知県の室戸岬及び足摺岬は隆起し、その他の海岸線はすべて沈下の現象を示しており、その被害は予想外に激甚であります。(中略)愛媛県においては垣生村、新居浜港、西条市、壬生川町、今治市、北条町、堀江町、宇和島港等を調査いたしたのでありますが、一般に、潮位の上昇による海岸線一帯の浸蝕によりまして、道路、海岸、河川堤防、護岸の基部等は洗掘を受けて破損しております。また堤防、潮止堰、防波堤、物揚場等は、従來の高さにては効用をなさず、すべてかさ揚げ、あるいは水門の新設等を必要とするに至つております。また潮位の上昇と、堤防護岸等の被害により、農耕地に潮水が滲透あるいは浸入し、さらに高潮によつて、排水ひ門の開扉時間のはなはだしい短縮のため、排水系統は全面的に破損され、農耕地は塩水のため不作付地となつたもの相当の面積に達し、また塩田も相当の被害をこうむつております。(中略)これに要する道路、河川、海岸堤防の復旧費に約三十三億円に達し、本年三月までの復旧状況は、その約一〇%を完成しているのみであります。

 国会においてこの沈降被害を積極的に取り上げたのは当時参議院議員で直後の昭和二六年から愛媛県知事を務めた久松定武であった。昭和二五年二月二八日の参議院建設委員会にて、

 久松定武君 大臣にお伺いいたしますが、実は今日ここに請願で南海地震による、殊に愛媛県方面の地盤沈下によりまして昨年の夏以来段々に海水の浸透がひどくなりまして(中略)各地が全県下に亘つて井戸水が使用に堪えられなくなつて来ておるという状態でありますが、今までの南海地震による地盤沈下に建設省として予算の処置は二十四年度で終る。殊に今後は新たなる方法でやるより外にない。(中略)二十五年度以降は南海地震による地盤沈下は打切るという御節でありましたし、なお今後この問題につきましては、厚生省も非常に重大な関係を持つておりまするが、大臣といたしましてはこれを地盤沈下の新たなる現象として災害としてお認めになりまするか。又は南海地震の延長と見てこの対策を講じて頂けるものか。その二点を特にお伺いしたいのであります。

と質問している。また、西条について昭和二五年四月四日の衆議院災害地対策特別委員会にて、

 ○青野委員 重ねてお尋ねします。(中略)愛媛県の瀬 戸内海寄りに西条というところがある。(中略)南海地震のときに、非常に大きなゆれがありましたので三尺ほど沈下した。海面から見て三尺沈下したから、ほとんど何十年間ぶくぶく水がふいているので、田地田畑には水の不足はないが、潮の引いたときに水門を明けて海に流していた水が流れなくなつた。それで一昼夜するとその水があふれてしまつてどうにもならぬ。県の財政ではどうにもならぬし、地方の市町村ではこれまたどうにもならぬ。

とあり、西条の海岸部における田畑での湛水被害が取り上げられた。また、昭和二五年四月二一日の参議院厚生委員会で、

 ○委員外議員(久松定武君) 皆様のお許しを頂きまして発言させて頂きます。私が、此の間から南海地震の影響によりまして四国を中心にいたしましてところの地盤の変動によりまして、大部分は沈下したのでありますが、その地域において、只今非常に飲料水に困つておるということは厚生委員会も御承知の通りでありますが、(中略)実は昨年秋以来愛媛県を中心といたしまして地盤の沈下の影響から井戸水が塩水に変化してしまつた。愛媛県の沿岸一帯ほ非常に現在難儀をいたしておるのであります。(中略)数字的に申上げますると和歌山県が上水道によつて困つている市町村が五ヶ所、徳島県が四ヶ所、香川県が十二ヶ所、愛媛県が七十三ヶ所、高知県が十五ヶ所になつております。それから人口が合計二十四万六千人。下水道に困りております市町村が、和歌山県が一つ、徳島県が一つ、香川県が三つ、愛媛県が三十六ヶ所、それから高知県が一ヶ所、合計四十二ヶ所、こういうような状態になつているのであります

 このように、井戸水に海水が混ざる被害が指摘され、愛媛県内では上水道が七五ヶ所、下水道が三五ヶ所と、西日本各県と比べると突出した数字となっている。そして、久松定武による提案で、参議院で復旧対策の議案が決議される。参議院本会議四六号(昭和二五年四月二六日)によると、

 ○久松定武君 只今上程されました本決議案の発議者 を代表いたしまして、私は提案の理由を説明いたします。それに先立ちまして、この決議案の内容を朗読さして頂きます。
 南海地震に伴う地盤変動による被害復旧対策に関する決議
 昭和二十一年十二月二十一日の南海地震による直接の 災害に対しては、政府は適切な施策を行い相当の成果を挙げ来つた。然るに二十四年夏期より四国を中心として特に愛媛、香川両県において急激に飮料水及び排下水に大なる異状を来し、又徳島、愛媛、高知の各県を中心として農耕地の惨状を呈する事態となつた。即ち飮料水及び排下水の異状のため約三十万国民の日常生活並びに衛生状態に極めて危惧すべき事態を来しつつあり、又農耕地に対する広汎な塩害は関係各県の耕作放棄を招来し、食糧問題に重大な影響を及ぼしつつある。この原因は南海地震の影響による地盤変動に起因するものと思われる。
    右の事態に鑑み、政府は速かに対策をたて、これを直ちに実施することを強く要望する。
    右決議する。

 ところが、昭和南海地震に伴う地盤変動被害の復旧対策が議決された昭和二五年には、九月にキジア台風が九州を縦断、北上したが、近畿から九州地方で死者、行方不明者四九名が出る程の被害を各地にもたらした。特に地震で地盤沈降しているところに高潮が押し寄せ、心配されていた海岸部での沈降にともなう高潮被害が現実のものとなった。早速、翌月の昭和二五年一〇月一七日の衆議院災害地対策特別委員会にて、キジア台風の被害状況が取りあげられた。

 ○岡(延)委員 過般のキジア台風による被害状況並びに復旧状況の調査のため(中略)、高潮による被害、風による被害、降雨による被害、その他、これを二重にも三重にも受けた諸地域を視察して参つたのでありますが、現場は真にさんたんたるものでありまして、(中略)まず十月三日、愛媛県庁におもむき、県下全般にわたつての災害状況について(中略)海岸線一帯の高潮、降雨による被害、水害は河川沿岸、特に宇和島、大洲地方、風害は温泉、越智、周桑という、県下穀倉地帯の被害が顕著であつた事実であります。さて、県下の人的被害は死者五名、重軽傷者九十二名を出しております。住家の被害は全壊、半壊、流失、合計八百十四戸であり、家屋の浸水に至つては、床上八千百余戸、床下三万一千六百余戸でありまして、住家の被害は合計四万六千余戸に上つているのでありまして、いかに高潮、降雨、ともどもに激甚であつたかがうかがわれるのであります。(中略)まず主として高潮と河川氾濫による被害をこうむりました菊間町、波止浜町、今治市、西条市、和気、松前、郡中町、北山崎村、長浜町、櫛生村等々町、予讃線に沿う沿岸の各市町村に視察に参つたのでありますが、海岸堤防は所々決壊し、道路、橋梁の決壊による被害もまた甚大なるものが認められたのであります。このあたり一帯高潮、降雨のため農作物が、おもに水稲でありますが、すつかり枯死し、腐敗して、臭気鼻をつく惨状でございました。なお長浜町における高潮の現状でありますが、町の中心部の二百余メートルの海岸防波堤が決壊、破損しております。(中略)これと同様な所は長浜町の隣村、櫛生村沖浦にもありまして、人家数十戸が海沿いにあり、軒先まで沈が打寄せており(後略)

 そして、翌年にも七月のケイト台風や、一〇月にルース台風が九州から中国地方を通過し、キジア台風と同様、大きな高潮被害が出た。二年連続の高潮被害となったのである。昭和二六年一一月九日の参議院本会議では

 ○中川幸平君 ルース台風災害状況調査の命によりまし て(中略)四国地方の被害の特徴といたしましては、南海地震以来の地盤沈下による影響が大きく作用いたしておりますことは見逃せないところであると思います。(中略)愛媛県の被害が最も大きく、約六十四億円、徳島県が約二十四億円、高知県が約十億、香川県が約八億と見積られております。(中略)第一に、四国、中国地方はここ数年来毎年に亘る災害を受け、殊に本年はケイト台風に次ぐ二度目の被害であり、市町村及び県財政は極度に疲弊しており、殊にこのたびのごとく個人災害の非常に多い場合、その救助法とてもなく、地方税牧への影響は極めて大きいために、国庫補助又は平衡交付金の増額を強く要望している点であります。

 このように、昭和二〇年代半ばに台風による水害が多発したのは、台風という自然現象だけではなく、昭和南海地震による地盤沈降という後遺症が要因であったといえる。さらに沈降による地盤復旧事業は続き、昭和二九年一〇月一一日参議院建設委員会では、

 ○小笠原二三男君 そこで関係県市町村側の陳情を総 括的に申しますと、第一としましては、南海地震並びにその後の余震に起因する地盤変動が海岸地帯及び島嶼部においては特に顕著なものがあり、地盤沈下による堤防、護岸の決壊と、道路、耕地の冠水等の被害は甚大であり、今次災害の原因、事実に照して、地盤沈下、高潮対策を平行して実施しなければ無意味であるということが強く言われておりました。(中略)愛媛県におきましてまこの採択、査定されております個所は百三十一個所で、九億九千万円に達しておりまするが、本年度末進捗率がたつた一四%に過ぎない状態で、残工事個所が極度の危険に瀕し、又この未施行の部分が殆んど今度の高潮でやられておるという状況であります。

とあり、地震から八年経った昭和二九年段階でも地盤沈下、高潮対策が箇所が一三一ヶ所、事業費規模で約一〇億円にものぼっている。そして地盤沈降の復旧は昭和三〇年代に入っても継続された。昭和三一年一〇月二六日の衆議院農林水産委員会では、

 ○吉川(久)委員 次いで、私どもは現地調査に当ったのでありますが、まず松山市堀江町大西地区におもむきましたが、ここは二十一年の南海地震による地盤沈下の被害を受け、満潮の場合の排水が不良化して塩害または湛水による被害を受けているのでありまして、他の数地区を合せ、残事業量は約六億と称せられ、一日も早い復旧を望まれていたのであります。

このように松山市堀江町でも地震から一〇年経っても塩害や湛水の被害が継続していた。また、昭和三二年一〇月三〇日の参議院建設委員会にて、

 ○中野文門君 地盤沈下対策として、愛媛県北温海岸災害土木助成事業及び波止浜締め切り堤防工事について申しますと、本事業はいずれも南海地震による地盤沈下が一因となり、その後の台風による海潮のため洪水を受けた地区の復旧改良工事であります。北温海岸の事業は延長約十四キロに及ぶ護岸工事で、本年度末までに約九キロを完成する予定であります。波止浜の工事は締め切り堤防によって港の最狭部を締め切り、その中央部付近に通水総幅員三十メートルの水門を築造し、これにより背後に約十九町歩の遊水池を造成し、水門によって遊水池の洪水調節を行おうとするものであります。地盤沈下の現象は愛媛県全域に見られ、産業、経済、人心に及ぼす影響は大きいものであります(後略)

とあり、北温海岸(現松山市北条地区)や波止浜(現今治市)での大規模な堤防事業が行われ、これらだけではなく、沈降やそれに伴う護岸工事は県全域に見られた。地震後一一年が経過してもこのような復旧過程の状況であった。

文学作品「てんやわんや」に見る昭和南海地震
 昭和二一年一二月二一日に発生した昭和南海地震は、愛媛県内で死者二六名を出すなど大きな被害をもたらしたが、戦後間もない混乱期でもあり、その被害の様子を克明に記録した史料等は多くはない。その中でも獅子文六が執筆した小説『てんやわんや』は、昭和南海地震の様子を具体的に記述しており、将来の南海トラフ巨大地震が起こる際、参考になると思われる(註17)。
 獅子文六(明治二六年〜昭和四四年)は、太平洋戦争終戦の直後に妻の実家のある岩松町(現在の宇和島市津島町岩松)に疎開し、その時の様子を題材に『てんやわんや』を執筆し、昭和二三年から二四年にかけて毎日新聞で連載された。『てんやわんや』は闘牛、牛鬼、とっぽ話、方言など南予地方独特の文化が取り上げられており、これまでも南予の民俗を知る上では重要な作品として知られている。
 『てんやわんや』では主人公の犬丸順吉が東京で戦犯の容疑から逃れるため「相生町」(モデルは岩松)に疎開する。物語の終盤、犬丸は「相生町」から「檜扇」(モデルは御槇地区)に行っていた際、南海地震に遭遇する。「昭和二十一年十二月二十日・・・・・いや、もう二十一日の領分に入ったかも知れぬが(中略)闇黒のなかに、轟々と、天地も崩れる物音が、暴れ回っていた。同時に、私の体は、宙に持ち上げられ、また、畳に叩きつけられ、何か固いものが、額へゴツンと衝突し、土臭い埃の匂いが、急激に鼻を襲った」、 「村道の所々に、大きな亀裂ができたり、大石が転落していたりする」と地震の揺れの状況や地面の亀裂、岩の崩落が記されている。犬丸はすぐに「相生町」(岩松)に戻るが、その被害も大きく、「私は拙雲の寺のある裏山へ踏み込んでいた。(中略)驚いたことに、彼の古寺は、二本の蘇鉄が立ってるきりで、潰れた折詰のような形になっていた」と寺院が倒壊している様子や、「一歩を町に踏み入れると共に、予期以上の惨状に驚いた。本町通りは、ほとんど全滅と言ってよかった。ブック・エンドを不意に外した書籍のように、家々は倒れ、傾き、道路は、砕けた瓦と、壁土と、絡まった電線と、あらゆる塵芥で、埋められていた」と家屋倒壊など建物被害が大きかったことを紹介し、さらには津波被害についても記している。「しかも、その堆積物は無残に泥水で濡れ、下駄や、樋や、また漁村でなければ見られない、舟道具などが散乱していた。(中略)川は、黄色い濁流を、滔々と漲らせ、川上に向って、逆流していた。私は、相生町が地震のみならず、海嘯にも見舞われたことを、直覚した。(中略)海嘯は、今暁の地震の直後に起り、その時が最も烈しく、その後、数回寄せてくるが、河岸通りだけの浸水に止まっている、とのことであった。私は、幾度か、堆積物に躓きながら、やっと、玉松本家の前へ出た」とあり、岩松に津波が押し寄せて、河川に面した通りは浸水して物が流され、泥などが堆積した様子がうかがえる。
 これらの記述は文学作品なので「事実」とは異なる「創作」の側面も考慮しなければいけないが、実際、岩松は昭和南海地震で建物被害、津波の浸水、地盤の沈降での防波堤の被害や田畑への海水流入などの被害が見られ、先にも挙げたように、昭和二三年には地元岩松から国会に復旧工事の陳情がされるほどであった。この『てんやわんや』は愛媛県、特に南予地方沿岸部での南海地震被害を想定する上で参考となる作品だといえるだろう。

おわりに
 昭和南海地震については、歴史学や民俗学等では、これまで愛媛県内の被害状況を具体的に集積したり、市民に向けて情報発信をしたりするということが充分ではなかった。本稿では愛媛新聞の記事や国会会議録を中心に当時の被害を見てきたが、地震直後の家屋倒壊などの被害だけではなく、地盤の沈降による瀬戸内海、宇和海沿岸地域での被害は大きく、それが復旧するまでに長い年月を費やしていたことがわかる。このような災害の傾向(地域特性)は過去の災害の歴史に学ぶ事が必要であるが、これは新聞記事などの文字記録だけに頼るものではなく、当時の体験の聞き取りも重要であろう。昭和南海地震は発生から平成二八年で七〇年であり、現状ではまだまだ体験者への聞き書きが可能な環境にある。将来への防災対策の一助として歴史学、民俗学等による調査により、史料や伝承の収集、分析が喫緊の課題だといえるだろう(註18)。


註記
(1)『愛媛県―新風土記―』岩波写真文庫、一九五五年、一頁
(2)村上節太郎『郷土新書三八 愛媛県新誌』日本書院、一九五三年、一九六頁
(3)拙稿「愛媛県における災害の歴史と伝承―地震・津波・水害を中心に―」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第二一号、二〇一六年)
(4)愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』愛媛県、一九八三年
(5)地震の発生回数については、気象庁ホームページ「震度データベース検索」http://www.data.jma.go.jp/svd/eqdb/data/shindo/index.phpを用いて検索した結果である。
(6)今村明恒『地震の国』文藝春秋新社、一九四九年
(7)八幡浜市誌編纂会編『八幡浜市誌』八幡浜市、一九八七年、一七二頁および『八幡浜市・旧西宇和郡五町 地震・津波記録』泰申会出版、二〇〇七年、一六頁
(8)本稿で挙げた地震の規模(マグニチュードの数値)は国立天文台編『理科年表 平成二八年』丸善出版、二〇一五年)による。
(9)東京大学地震研究所編・発行『新収日本地震史料 第三巻別巻』(一九八三年)所収
(10)『日本古典文学大系三六 太平記三』岩波書店、一九六二年発行、三四六〜三四八頁
(11)高橋治郎「愛媛新聞にみる昭和の南海地震」(『愛媛の地学研究』一〇巻二、二〇〇六年
(12)愛媛新聞記事は、愛媛県歴史文化博物館所蔵の「愛媛新聞マイクロフィルム」を閲覧の上、翻刻した。(以下同じ)
(13)註3に同じ。
(14)愛媛新聞 昭和二二年三月二二日記事
(15)村上節太郎『私たちの郷土 愛媛縣』実業教科書、一九四九年、三二頁
(16)国会会議録検索システムhttp://kokkai.ndl.go.jp/より
(17)獅子文六『てんやわんや』毎日新聞社、一九九九年
(18)昭和南海地震の体験の聞き取りしてまとめた成果については、愛媛県内では西条市市民安全部危機管理課編・発行『西条市防災一〇〇年誌』(二〇〇九年)、愛南町防災対策課編・発行『今語り継ぐ、愛南町の災害体験談 ~子や孫へ~』(二〇一四年)、柚山俊夫編『伊予市・松前町の昭和南海地震』(二〇一六年)などがある。
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