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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

野村町かるたで遊び、野村の町歩き

2019年07月27日 | 日々雑記
午前は「宇和町&野村町かるたで遊ぼう」inまなびあん。参加者約20名。

午後は野村町の子どもたち11名と町歩き。慈眼堂、大泉寺、旧岡池をまわる。夏本番。あまりの暑さに見学コースをショートカット。1時間早く切り上げました。

次回8月下旬は商店街から石久保、氏宮方面を歩く予定。まずは利助の石がもとあったところから緒方酒造にいたる斜めの道。水路、通りの高低差みながら、町の成り立ちを考えてみる。





野村の輪抜け

2019年07月25日 | 日々雑記
野村の弁天さまのおまつり。かつて緒方家が江戸中期に徳城の森に祀った弁天さま。昭和26年に徳城の森を整地した際にいまの場所に移転。

その後は荒瀬の淡嶋さまへ。雨が降ってきた。さすが淡嶋さま。御神体をまじまじ見ていたらおっちゃんに笑われる。写真アップしたいけど、やめておこう。

三嶋神社。輪抜け。夕立にあう。すぶぬれ。雨宿り。そして野村の町にかかる虹🌈。




『万葉集』と新年号「令和」 ―大伴旅人をめぐる政治状況―

2019年07月20日 | 日々雑記
一、新元号「令和」の出典

二〇一九年五月一日、新元号「令和」の時代が始まった。その出典は現存最古の和歌集『万葉集』巻五の「梅花歌三十二首併序」に見える「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」(初春の素晴らしい月、空気は澄み、風は和らぎ、梅は鏡前のように白く咲き、蘭は袋の中のように薫っている、の意)であると公表されている。

ただし改元にあわせて新聞、テレビ等で広く知られることとなったこの「梅花歌」の序文であるが、「令和」の出典部分は起承転結でいえば「起」に過ぎない。あとの「承転結」部分は意訳すれば「早朝の山々に雲が移り、夕方の谷間に霧が立ち込め鳥が迷う。庭に蝶が舞い、鴈が空を飛ぶ。天を覆いとし、地を座席として盃を酌み交わし、梅の歌を作ろう」と『万葉集』の特徴ともいえる近景、遠景を大胆に描き込む内容となっている。

この文章は、天平二(七三〇)年正月に九州・大宰帥(大宰府の長官)の大伴旅人邸で盛大な梅花宴が開かれ、参加者が披露した三二首の和歌を列挙したその序文である。旅人が中国の六朝風漢文で記したものとされ、江戸時代の国学者・契沖が王羲之の「蘭亭集序」に倣ったものと指摘し、通説化している。

二、大伴旅人と藤原氏

旅人は天智天皇四(六六五)年に旧来の大豪族・大伴氏に生まれ、神亀四(七二七)年頃に大宰府に赴任し、帰京して大納言にまで登り詰めるも、梅花宴の翌年、天平三(七三一)年に没している。

当時、政権の中枢を担っていたのは藤原房前をはじめとする藤原四兄弟であり、旅人は藤原氏の策略によって九州に追いやられたとの説もある。

大宰府赴任の直後、天平元(七二九)年時点での大伴旅人をめぐる政治状況を見てみると、天皇は聖武天皇であり、当時二九歳であった。聖武は天武天皇の曽孫、文武天皇の皇子で母は藤原不比等の娘宮子、妻も不比等の娘で藤原四兄弟の異母妹である光明子であり、藤原氏と深い姻戚関係にあった。議政官は知太政官事が舎人親王で当時五三歳。藤原不比等の没直後に知太政官事となり聖武を補佐するとともに藤原四兄弟政権の成立に協力した皇族である。左大臣は藤原氏を抑えて皇親政治を進めていた長屋王、当時四五歳であったが、「密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」との告発を受け、その年の二月に自害している。当時は大納言が六〇歳代の多治比池守、そして四九歳の藤原武智麻呂であり、中納言が七〇歳でかつて伊予守も経験している阿倍広庭であった。それに続く参議が四八歳の藤原房前であり、天平三年には藤原宇合(三五歳)・藤原麻呂(三四歳)も参議へ昇進しているように、長屋王の排除によって壮年世代の藤原四兄弟が政治の中枢に座ることとなる。

藤原氏とは姻戚関係の無い大伴旅人であるが、藤原房前とは琴の贈答での歌が『万葉集』に見えるなど、藤原氏との関係性は決して悪いものではなかった。しかし長屋王の変直前の大宰府赴任は「排除」、「左遷」とは言わないまでも藤原四兄弟政権の安定のために都から有力氏族大伴氏の旅人を遠ざける意味があったと推察できる。

三、大宰府赴任中の大伴旅人

さて、天平初期の大宰府がどのような環境にあったのだろうか。大宰府は内政面では九州(西海道九国・壱岐・対馬・多禰)の人事・行政・司法を管轄する役所であり、外政面では大陸との外交、防衛の拠点であった。天智天皇二(六六三)年の白村江の戦いで日本が唐・新羅に大敗したことで「防人」が配置され、大宰府は大陸からの最前線司令部としての機能を持つ防衛拠点としての緊張状態はいまだ続いていた。

また、大宰府管轄の南九州は不安定な状況が続き、養老四(七二〇)年には大隅国の隼人が大規模な反乱を起こし、朝廷側兵士は一万人、隼人側の死者・捕虜は一四〇〇人を数えた。この乱を指揮する「征隼人持節大将軍」に任じられたのは実は大伴旅人であった。旅人が大宰帥となったのも、九州と全く縁も所縁もなかったわけではなく、隼人の乱での指揮経験が評価されていたとも考えられる。

藤原四兄弟を中心として内政、外交でも不安定な政情の中、旅人は都から遠く離れた大宰府に赴き、その旅人邸で開かれたのが梅花宴であった。この宴に集まったのは、大宰府の官人二一人と九州各国の国司等一一名の計三二名である。藤原氏の台頭や隼人の不安定統治の中で旅人のもとに九州の多くの高官が集合しており、その中には当時、筑紫守であった万葉歌人の代表、山上憶良も含まれていた。この宴は新年を祝い、皆で梅の和歌を披露する牧歌的な場でもあると同時に、政治情報を交換するきな臭い場でもあったといえるのではないだろうか。

また、旅人は大宰府に妻の大伴郎女や、子で後に『万葉集』編纂に関わった大伴家持も伴っていたとされる。家持は一〇歳を超えた年齢で、旅人邸に住んでいたとすれば梅花宴の傍らに居た可能性もある。しかし妻の郎女は神亀五(七二八)年四月に亡くなっており、旅人はいまだ悲しみを拭えない状況であり、『万葉集』には亡き妻の挽歌が一三首も残されている。

このように梅花宴は政治的にも、旅人の個人的な環境も決して順風満帆とはいえない状況下で催され、そこで創作された文章が新元号「令和」の出典となったのである。

日本古代の年号と『伊予国風土記』

2019年05月20日 | 日々雑記
一、「元号」と「年号」

「平成」から「令和」へと元号が変わったが、日本の紀年法を「元号」と呼ぶべきか「年号」と呼ぶべきかは様々な議論がある。現在は元号制度について定めた法律に「元号法」(昭和五四年公布)があり、(一)元号は政令で定める、(二)元号は皇位の継承があった場合に限り改める、の二項からなっている。明治元(一八六八)年九月八日に「慶応」から「明治」に改元する際に一世一元の制が定められ、明治二二年制定の皇室典範にてそれが法制化されるが、太平洋戦争後、昭和二二年五月三日の日本国憲法施行とともに、皇室典範は改正され、元号に関する条項は削除された。それにより元号は法的根拠を失って「慣習」として存続することとなり、その後、法制化の要求の声の高まりもあり、昭和五四年に元号法が成立し、法的根拠を持つに至った。現在、法律上は「年号」ではなく「元号」を用いるのが適当であろうが、元号が使われ始めた古代の史料を見ると事情は異なっている。

そもそも元号(年号)は中国由来である。前漢の武帝の建元元(前一四〇)年に始まり、日本、朝鮮、ベトナムでも採用され、皇帝や天皇に制定する権限があった。日本では「大化」が最初の元号とされ、孝徳天皇即位時に使用されはじめたが一世一元ではなく、孝徳期には「大化」と「白雉」が使われ、孝徳崩御(六五四年)とともに元号は使われなくなり、次の元号は六八六年の「朱鳥」であり、こちらも諸説あるが数ヶ月の使用で、次は七〇一年の「大宝」まで待たなければならない。このように「大宝」まで元号は連綿とは用いられず、不連続なものであった。

「大宝」以降、元号が途切れることなく連綿と用いられるようになる契機は、律令で元号の制度が明記されたことである。『養老令』儀制令の公文条に「凡公文応記年者、皆用年号」とあり、それまで干支等を用いて表記していたものを、公文書には元号を明記することが規定されたが、元号ではなく「年号」と記される。この『養老令』は天平宝字元(七五七)年に施行された奈良時代の根本法令であり、井上光貞他校注『律令』(日本思想大系三、岩波書店)によると原文は残っていない大宝元年制定の『大宝令』でも儀制令の各条文はほぼ同じであったことから、古代においては「元号」ではなく「年号」と表現するのが一般的かつ正式であった。『大宝令』以前の天武期の『浄御原令』やさらに存在自体が議論される天智期の『近江令』についてはどう表記されていたかは確認する術はないが、律令が施行され、そこに明記されていれば元号は連綿と用いられていたはずであるが、実際はそうではなかった。律令での「年号」制定は大宝元年ではないかと判断する所以である。

また、「年号」は古代の史料には頻出する。例えば『続日本紀』に所収される和銅元(七〇八)年正月の元明天皇の詔では武蔵国から銅が献上されたことで「慶雲」から「和銅」に改元されるが、ここで「元号」ではなく「年号」と表記されるなど、六国史の『日本三代実録』までの各年代の改元の詔に見える。しかし六国史では「元号」は全く出てこず、古代においては使用されない語彙であった。「元号」が一般化するのはやはり一世一元の制が始まる明治時代からではないかと推察するのだが、語彙として「元号」の初見がいつなのかはいまだ実証はできていない段階である。

二、私年号「法興」

日本最古の元号「大化」よりも古いとされる年号がある。それは『伊予国風土記』のに見える「伊予湯岡碑」の記事に出る「法興」で、「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王 与恵慈法師及葛城臣 道遙夷予村 正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首」(『日本古典文学大系二 風土記』岩波書店より)とあり、法興六年は推古天皇四(五九六)年にあたるとされる。湯岡碑自体は失われているが、聖徳太子と思われる人物が伊予温泉に僧・慧慈、葛城臣と来訪して碑を建立し、その碑の文章が逸文として残っている。

『伊予国風土記』は原本、写本が残っているわけではなく、一三世紀後半の文永から弘安年間頃に卜部兼方が著した日本書紀の註釈書『釈日本紀』や、同時期に天台僧仙覚が鎌倉将軍藤原頼経の命で著した『万葉集註釈』に逸文として出てくる。奈良時代、朝廷は各国に対して風土記の撰録の命を出すが、これは『続日本紀』和銅六(七一三)年五月二日条に見えており、①郡郷名に好字(漢字二字)をつける、②特産品の目録の作成、③土地の肥沃状態を記録、④山川原野の名前の由来、⑤古老が昔から伝えている話を記録することが明記されている。大宝令成立から一二年が経ち、律令国家体制の整備の一環として朝廷、国司による各地域の事情を把握のための事業として実施されたものである。風土記の編纂過程はまず郡司が現況調査し、国司に報告し、その報告を国司がまとめて編纂し、「解」(国司が朝廷に上申する公式文書)として朝廷に提出された。このように『伊予国風土記』の編纂時期は八世紀前半である。

私年号は『国史大辞典』によると「古代の私年号の多くは後世に作られた架空の年号である」と書かれるが、「法興」については『伊予国風土記』だけはなく、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に「法興元卅一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩、明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆」(框本杜人『書道全集第九巻』平凡社より)とあり、「法興」が実際に存在したかどうか、肯定説(東野治之『日本古代金石文の研究』岩波書店など)、否定説(大山誠一『「聖徳太子」の誕生』吉川弘文館など)さまざまであり決着を見ていない。『伊予国風土記』については、古代史学では松原弘宣氏が『熟田津と古代伊予国』(創風社出版)にて聖徳太子の伊予来訪伝承や湯岡碑は伊予在地勢力と法隆寺の結びつきで八世紀に成立したものとするなど、今後も検証、検討を深化させる必要があるテーマといえる。

以上、「令和」への改元を機に、元号の歴史や伊予国と関連する私年号「法興」について雑感を綴ってみた。 

未就学児向け歴史講座

2019年05月13日 | 日々雑記
八幡浜。マーマレード世界大会の関連企画。新町ドームにて、市内の園児向けのふるさと歴史講座(紙芝居形式)。みきゃん&ダークみきゃん登壇の前説、前座として、会場をあたためる重責を与えられる。

今週(17日まで)、12時半から13時に、新町ドームにて毎日、みきゃん出現します。記念写真撮れますので、お近くの方はぜひ。

新町ドームでは、日本農業遺産「南予の柑橘農業システム」に関する展示もやってます。


八幡浜市の神山塾

2019年05月08日 | 日々雑記
神山地区公民館での神山塾。「矢野神山」と新元号「令和」の出典である『万葉集』について話す。万葉集由来の「神山」ゆえに関心も高い?大伴旅人、山上憶良に加えて伊予国関連で額田王、山部赤人も紹介。

会場には、五反田縞に関する資料も急遽、展示。

五反田縞とは関係ないけど、大本酒造場の清酒「萬楽(ばんらく)」の前垂れ(昭和10年代)も飾りました。うちのじいちゃんの時代。

万葉集

2019年05月03日 | 日々雑記
今朝(5/3)の愛媛新聞。万葉集の梅花宴について。長屋王の変など、当時の大伴旅人をめぐる政治状況など書いてみる。字数の都合で書けなかったが、①いまだ白村江の戦以降の唐・新羅との緊張関係の続く中での大宰府(いわば国際的な最前線司令部)での宴であったこと。②梅花宴の10年前、隼人の反乱で大伴旅人は征隼人持節大将軍として南九州の支配確立にあたったが九州ではその緊張状態は持続していたこと。③九州にて山上憶良とかなり深い交流があったこと、④万葉集の旅人の序文は六朝からの漢文の流行である四六駢儷体で書かれていること、などなど触れておきたかったことが多い。

ちなみに、このことは、5月8日(水)19:00~の神山塾で話す予定。「新元号『令和』と『矢野神山』の出典『万葉集』を読む」。会場は八幡浜市神山地区公民館。申込不要。無料です。

時空を超える感覚を味わう ―松山市考古館―

2019年04月20日 | 日々雑記
1986年、八幡浜高校1年の時、私は南江戸町にあった「古照資料館」を訪れて遺跡、遺物の迫力に感動し、学芸員を志すきっかけとなった。この施設が基礎となり1989年に開館したのが松山市考古館である。
昨年、文化庁から県内でも数少ない「公開承認施設」に認定され、年4回行われている企画展では貴重な指定文化財に触れる機会が充実した。公開承認施設とは、資料保存の環境が整い、専門職の館長、資料の扱いに習熟した複数名の学芸員が在籍するのが条件で、高い信頼性を持つ博物館の証しとされる。
展示の中心を占める古照遺跡は1972年に南江戸町で古墳時代の農業用の堰(せき)が出土し全国的に注目され、葉佐池古墳は1992年に北梅本町で横穴式石室が未盗掘のまま出土、発見。2011年に国史跡の指定を受け、館内には石室の復元コーナーが設けられた。全国的な注目度に加え、速報性を意識した展示は地域との密着度をさらに増す仕掛けともなっている。
私が勤める愛媛県歴史文化博物館は県内各市町の歴史、民俗などの分野を幅広く、かつ深く展示などで紹介することが課題の一つであるが、考古館は古照遺跡、葉佐池古墳などの遺跡、遺物を紹介し、地域の歴史を深く掘り下げるとともに、体験活動を充実させることで親しみやすさを実現させている。
エントランスホールには気軽に土器に触れたり、時代ごとの遺物を探し当てるクイズもあったりする。学校団体で来館する場合、展示見学に加え、火起こし等の体験や近隣の古墳散策は好評と聞く。そして学芸員が館外に出向き、小学校等で実際の考古遺物を使った授業が年間約80件行われている。古代生活の体験活動の充実度は県内随一といえるだろう。
こうした展示や体験活動からは、考古館が県都松山にて真正性(オーセンティシティ)を感じることのできる数少ない場所だと断言できる。調査・研究に裏付けられた「かけがえのない」歴史的価値。これが真正性であり、時代的、地域的特徴を有する無二の資料群に出会うことができる。
私は、一人でも多くの児童、生徒に考古館を見学してもらいたいと思う。本物から「学ぶ」だけではなく、何を「感じる」か。千年以上前の資料を間近に見て、時空を超える感覚を味わう。夢やロマンだけではない。自らの存在を時間軸や空間軸で位置づける機会となり、自分を考える、顧みる場ともなるはずだ。

*本稿は、大本敬久「時空を超える感覚を味わう―松山市考古館―」(愛媛新聞2018年12月25日)掲載原稿である。