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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

『万葉集』と新年号「令和」 ―大伴旅人をめぐる政治状況―

2019年07月20日 | 日々雑記
一、新元号「令和」の出典

二〇一九年五月一日、新元号「令和」の時代が始まった。その出典は現存最古の和歌集『万葉集』巻五の「梅花歌三十二首併序」に見える「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」(初春の素晴らしい月、空気は澄み、風は和らぎ、梅は鏡前のように白く咲き、蘭は袋の中のように薫っている、の意)であると公表されている。

ただし改元にあわせて新聞、テレビ等で広く知られることとなったこの「梅花歌」の序文であるが、「令和」の出典部分は起承転結でいえば「起」に過ぎない。あとの「承転結」部分は意訳すれば「早朝の山々に雲が移り、夕方の谷間に霧が立ち込め鳥が迷う。庭に蝶が舞い、鴈が空を飛ぶ。天を覆いとし、地を座席として盃を酌み交わし、梅の歌を作ろう」と『万葉集』の特徴ともいえる近景、遠景を大胆に描き込む内容となっている。

この文章は、天平二(七三〇)年正月に九州・大宰帥(大宰府の長官)の大伴旅人邸で盛大な梅花宴が開かれ、参加者が披露した三二首の和歌を列挙したその序文である。旅人が中国の六朝風漢文で記したものとされ、江戸時代の国学者・契沖が王羲之の「蘭亭集序」に倣ったものと指摘し、通説化している。

二、大伴旅人と藤原氏

旅人は天智天皇四(六六五)年に旧来の大豪族・大伴氏に生まれ、神亀四(七二七)年頃に大宰府に赴任し、帰京して大納言にまで登り詰めるも、梅花宴の翌年、天平三(七三一)年に没している。

当時、政権の中枢を担っていたのは藤原房前をはじめとする藤原四兄弟であり、旅人は藤原氏の策略によって九州に追いやられたとの説もある。

大宰府赴任の直後、天平元(七二九)年時点での大伴旅人をめぐる政治状況を見てみると、天皇は聖武天皇であり、当時二九歳であった。聖武は天武天皇の曽孫、文武天皇の皇子で母は藤原不比等の娘宮子、妻も不比等の娘で藤原四兄弟の異母妹である光明子であり、藤原氏と深い姻戚関係にあった。議政官は知太政官事が舎人親王で当時五三歳。藤原不比等の没直後に知太政官事となり聖武を補佐するとともに藤原四兄弟政権の成立に協力した皇族である。左大臣は藤原氏を抑えて皇親政治を進めていた長屋王、当時四五歳であったが、「密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」との告発を受け、その年の二月に自害している。当時は大納言が六〇歳代の多治比池守、そして四九歳の藤原武智麻呂であり、中納言が七〇歳でかつて伊予守も経験している阿倍広庭であった。それに続く参議が四八歳の藤原房前であり、天平三年には藤原宇合(三五歳)・藤原麻呂(三四歳)も参議へ昇進しているように、長屋王の排除によって壮年世代の藤原四兄弟が政治の中枢に座ることとなる。

藤原氏とは姻戚関係の無い大伴旅人であるが、藤原房前とは琴の贈答での歌が『万葉集』に見えるなど、藤原氏との関係性は決して悪いものではなかった。しかし長屋王の変直前の大宰府赴任は「排除」、「左遷」とは言わないまでも藤原四兄弟政権の安定のために都から有力氏族大伴氏の旅人を遠ざける意味があったと推察できる。

三、大宰府赴任中の大伴旅人

さて、天平初期の大宰府がどのような環境にあったのだろうか。大宰府は内政面では九州(西海道九国・壱岐・対馬・多禰)の人事・行政・司法を管轄する役所であり、外政面では大陸との外交、防衛の拠点であった。天智天皇二(六六三)年の白村江の戦いで日本が唐・新羅に大敗したことで「防人」が配置され、大宰府は大陸からの最前線司令部としての機能を持つ防衛拠点としての緊張状態はいまだ続いていた。

また、大宰府管轄の南九州は不安定な状況が続き、養老四(七二〇)年には大隅国の隼人が大規模な反乱を起こし、朝廷側兵士は一万人、隼人側の死者・捕虜は一四〇〇人を数えた。この乱を指揮する「征隼人持節大将軍」に任じられたのは実は大伴旅人であった。旅人が大宰帥となったのも、九州と全く縁も所縁もなかったわけではなく、隼人の乱での指揮経験が評価されていたとも考えられる。

藤原四兄弟を中心として内政、外交でも不安定な政情の中、旅人は都から遠く離れた大宰府に赴き、その旅人邸で開かれたのが梅花宴であった。この宴に集まったのは、大宰府の官人二一人と九州各国の国司等一一名の計三二名である。藤原氏の台頭や隼人の不安定統治の中で旅人のもとに九州の多くの高官が集合しており、その中には当時、筑紫守であった万葉歌人の代表、山上憶良も含まれていた。この宴は新年を祝い、皆で梅の和歌を披露する牧歌的な場でもあると同時に、政治情報を交換するきな臭い場でもあったといえるのではないだろうか。

また、旅人は大宰府に妻の大伴郎女や、子で後に『万葉集』編纂に関わった大伴家持も伴っていたとされる。家持は一〇歳を超えた年齢で、旅人邸に住んでいたとすれば梅花宴の傍らに居た可能性もある。しかし妻の郎女は神亀五(七二八)年四月に亡くなっており、旅人はいまだ悲しみを拭えない状況であり、『万葉集』には亡き妻の挽歌が一三首も残されている。

このように梅花宴は政治的にも、旅人の個人的な環境も決して順風満帆とはいえない状況下で催され、そこで創作された文章が新元号「令和」の出典となったのである。

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