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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

野村町の歴史・文化と子ども達

2019年03月23日 | 日々雑記
西予市野村図書館へ。Nジオチャレ。

子どもたちと「ふるさとの本を探してみよう」。1月末から取り組んで本日ひとまず完結。

一人一冊。各自お気に入りの本について作文&プレゼンしてもらいました。

野村町のジオ、伝説、祭り、方言、名字、戦国時代の山城などなど。

さて次は、4/21に図書館にて、「野村町かるた」であそぼう!をやる予定で調整中。

西日本豪雨とギャラリーしろかわ

2019年03月18日 | 日々雑記
西予市立美術館ギャラリーしろかわ。

3月23日から企画展「すべてはここからはじまった。復刻 西予こども絵画展」開幕です。

25年前、開館したばかりのギャラリー。その当時のこどもたちが描いた絵を展示。

西日本豪雨のあと、新たな一歩を踏み出す西予市。

過去をふりかえりつつ、思いを未来につなげていく。

いまのこどもたち。そして25年前のこどもたち。

ぜひ、見に行きましょ!!!

西日本豪雨災害における資料救済・保全

2019年03月17日 | 日々雑記
観音寺市へ。本日は四国ミュージアム研究会。今回のテーマは「西日本豪雨災害における資料救済・保全」。同僚の甲斐さんと口頭報告してきました。

四国4県と岡山県から約50名の参加。このネットワーク・つながりにはホント涙が出そうになる。ありがたや。

途中、四国中央市の暁雨館、四国霊場の観音寺、そして寛永通宝を見てまわる。

空海の誕生―仏道修行の動機となった時代背景―

2018年01月30日 | 日々雑記
1 空海の生涯
空海は平安時代前期に活躍した真言宗僧である。幼名は真魚といった。生まれは奈良時代後期の宝亀五(七七四)年、讃岐国(香川県)多度郡であり、父は佐伯氏、母は阿刀氏である。延暦七(七八八)年に入京し学問の研鑽を積んだ後、仏道に入り山林修行をし、四国の大瀧嶽(徳島県)、室戸(高知県)、石鎚山、出石山(愛媛県)でも修行をした。二四歳で『三教指帰』を著すが、これは日本文化史上、個人名で残された最初の文学作品ともいわれる。延暦二三年に留学僧として入唐し、唐の都長安の青龍寺恵果和尚と出会い、師主とすることを得た。空海は恵果について胎蔵界、金剛界、そして伝法阿闍梨灌頂に沐し、「遍照金剛」の密号を受けた。大同元(八〇六)年に帰国し、多くの経典や仏具等を請来した上に密教の本義を日本に伝えたことにより、その後の平安仏教の在り方に大きな影響を与えた。弘仁六(八一五)年、空海四二歳(厄年とされる年)に四国を巡り、四国霊場を開創したとの伝承もあるが、平安時代の史料からは史実か否かは確認できない。翌七年、嵯峨天皇から高野山(和歌山県)を賜り、金剛峯寺を建立し、同一四年には東寺を給預され、真言宗の基礎を築いた。宗教者としてだけではなく三筆の一人に数えられる書家として、『文鏡秘府論』など漢詩、文学者として、綜芸種智院の創設など教育者としてなど、様々な分野で大きな功績を残している。承和二(八三五)年三月に高野山で入定し、その後、延喜二一(九二一)年に醍醐天皇から「弘法大師」の号を賜っている。

2 空海誕生期の仏教
空海(真魚)が誕生した奈良時代後期。律令制下では教団が独自に出家を承認して僧尼となるのではなく、出家得度には朝廷の許可を得なければならなかった。許可を得ずに出家することを私度僧と呼び、禁止されていた。空海も若き日に山林修行をするが私度僧としての修行であり、正式な出家得度は延暦二三(八〇四)年、三一歳の時であった。奈良時代の仏教の特徴は「鎮護国家」の性格が強く、個人救済を前面に押し出したものではなかった。その最たるものが国分寺の建立や東大寺大仏の造営である。天平年間から疱瘡や飢饉に加え、新羅の来襲の恐れもあり、国ごとに大般若経を書写し、宮中で最勝王経の転読を行う等、鎮護国家を祈るための性格が強くなった。国分寺でも「最勝王経」が護国、外敵撃払のため、「法華経」が滅罪のため、「大般若経」が除災招福のため用いられた。空海が誕生する約三〇年前、『続日本紀』巻天平十三(七四一)年三月乙巳条の「国分寺建立の詔」を読むと聖武天皇は皇后の光明子とともに深く仏教に帰依し、「最勝王経」、「法華経」により王が四天王より擁護され一切の災障が消除されるといった鎮護国家の要素が強かったことがよくわかる。称徳天皇が百万塔陀羅尼を東大寺や法隆寺など十大寺に納めたのも恵美押勝の乱後の国家安穏を祈願したものであり、鎮護国家仏教は平安時代前期の空海等の密教の時代にも引き継がれていくことになる。
なお、奈良時代には南都六宗(法相、三論、律、倶舎、成実、華厳宗)が成立している。後の宗派とは異なり一種の学派のようなものであったが、桓武天皇は奈良仏教の権勢を敬遠するため遷都を決意したり、天台宗の最澄は奈良仏教への対抗意識が強かったりしたが、空海は奈良仏教界とは人的交流で対立は避ける傾向にあり、空海の遺言書とされる「御遺告」にて「末代の弟子等に三論・法相を兼学せしむべき縁起」とあるように真言以外に奈良時代からの仏教を兼学させることを弟子たちにも伝えている。
また、奈良後期からは神仏習合が進んでいくが、『太神宮諸雑事記』天平十四年十一月三日条を見ると、聖武天皇が東大寺大仏建立の趣旨を申すため、橘諸兄を伊勢大神宮に遣わしたところ「本朝は神国なり。神明をうやまい仰ぎ奉りたまうべきなりが、日輪は大日如来なり。本地は盧舎那仏なり。衆生はこれを悟り、まさに仏法に帰依すべし」とある。神仏習合、本地垂迹説について早期の事例であるが、後に空海が主尊とする大日如来が登場しており、それが伊勢神宮、そして天皇とも繋がっている。空海が大日如来を通して鎮護国家仏教の担い手になった前提と見ることもできるだろう。

3 庶民の苦しみと若き空海
空海(真魚)の幼少期にあたる奈良時代後期は、庶民にとっては労役、兵役、そして飢饉、地震等の災害に苦しんだ時期であった。空海が生誕した同月の史料である『続日本紀』宝亀五(七七四)年六月条を見ると、伊予国が飢饉で賑給(物資の救援)されている記事がある。翌七月には土佐国が飢えていたことも記されており、四国全体が飢饉に悩まされていた時期に空海は生誕した。また『日本後紀』延暦十八(七九九)年五月辛未条には讃岐国の飢饉記事が載っており、同六月条によると南海道諸国が前年の凶作のため田租が免除されている。この延暦十八年は空海二六歳。その一年半前に出家宣言の書『三教指帰』を著したばかりであり、空海は山林修行をしていた頃である。この時期、四国では飢饉で人々は苦しみ、空海もその様子を目の当たりにしていたのかもしれない。
さて、延暦三(七八四)年に桓武天皇が平城京で強まった寺社勢力から距離を取る等の理由で長岡京への遷都を決めたが新都の造成には多くの庶民が工事に携わっていた。『続日本紀』延暦三年七月癸酉条によると、長岡京への遷都で阿波、讃岐、伊予の三国に山城国山崎橋の造材を進めるよう命じている。長岡京の遷都、造営に関して空海出身地の四国の多くの庶民も工事に携わっていたのであり、これは給金を貰う勤務ではなく、歳役や雑徭など労働力で支払う税として徴用されたもので、庶民にとっては苦役であった。『続日本紀』延暦十年九月甲戌条によると越前、丹波、但馬、播磨、美作、備前、阿波、伊予国などに命じて、平城宮の諸門を長岡宮に移させている。四国の庶民も諸門移転に苦使された。この延暦十年は空海が大学明経科に入り学び始めた年である。空海は平城京に滞在していたが、その建物が出身地の四国の人々によって苦役、移転されていたことを間近に見ながら、自らは学問に取り組んでいたのである。この長岡京も造宮使の藤原種継が暗殺される等したため、わずか十年で再度新しい都城を造成することになり平安京へ遷都し、労役が重ねられることになった。
飢饉だけではなく延暦十三(七九四)年には西日本で地震が多発し、京畿内で死者が出たり、四国でも復旧のために新しい官道が整備されたりするなど、大きな被害があったことが『日本紀略』延暦十三年六月甲寅条、七月庚辰条に見える。この地震は一説に南海トラフを震源とする大地震とされ、古代における南海トラフ地震は、天武十三(六八四)年に太平洋岸で津波被害があり、土佐国が広範囲にわたって浸水している。また仁和三(八八七)年にも起こり、摂津国などで多くの津波被害者が出るなど全国的に被害が大きかった。本史料もその中間時期にあたり、記録上では京畿内のみの被害記述であるが、空海出身の四国(南海道)にも大きな被害があった可能性も否定できない。菅原道真が六国史を基に編纂した歴史書『類聚国史』災異部によると、この延暦十三年だけではなく数年前の延暦九年から地震が頻発していることがわかる。この史料は六国史の性格上、畿内中心の記述が多く、当時畿内中心に活動していた空海はそれらの地震を経験し、被害状況を把握していたことは想像に難くない。
また、宝亀年間以降、朝廷は蝦夷征討を何次にもわたって行った。宝亀五(七七四)年から弘仁二(八一一)年まで蝦夷征討が続き、三八年戦争とも称されている。多くの兵士が東北地方に派遣され、そして東北地方から四国など西日本に俘囚が移配された。この蝦夷征討の時代が始まったまさに宝亀五年に空海が讃岐国に誕生している。『続日本紀』宝亀七年十一月癸未条によれば、光仁天皇の即位以降、蝦夷征討に関する動きが盛んとなり、宝亀五年に按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、全国から多くの兵士が東北地方に派遣されたが、宝亀七年に出羽国俘囚三五八人が九州と讃岐国に移配されたことが記されている。空海二歳の時である。また、『続日本紀』延暦七(七八八)年三月辛亥条には東海道、東山道、坂東諸国から兵士五万二千八百余人を徴発し、東北の多賀城に集結させることが記されている。結局、延暦九年には坂東諸国の疲弊が甚だしくなったとの報告もあり、蝦夷との戦争は地方疲弊の一因となっていた。
このように飢饉や、都の造営の負担に加え、地震災害の頻発、そして蝦夷との三八年戦争での動員などで庶民が苦しむ時代を若き日の空海は過ごした。この状況を目の当たりにして空海はどのように考えたのだろうか。空海著『三教指帰』の序文には「一多の親識」(多くの親族・知人)が儒教で守るべき道(いわば朝廷での出世の道)を以って自分を束縛し、それを断ることは「忠孝」に背くものだという。空海はそれに悩み、「物の情、一つならず」つまり儒教、道教、仏教と三つの聖説があり、その一つ(仏教)に入る事で「忠孝」に背くことにはならないと主張した。自らが衆生を救うためには、儒教中心の学問では限界を感じ、「唯憤懣の逸気を写せり」と記しているように、自らが仏道修行に入っていく動機や沸き出てくる気持ちを一気に記したのが二四歳の時に執筆した『三教指帰』なのである。それまでに飢饉、苦役、災害、戦争により苦悩する庶民を実見したり、交流したりした経験、体験が宗教者・空海を誕生させたといえるのだろう。

大本敬久「空海の誕生―仏道修行の動機となった時代背景―」(『一遍会報』396号、2018年1月発行)より

歴史的事実の「記憶」と創出される「伝統」」

2017年03月29日 | 日々雑記
本稿は、大本敬久「歴史的事実の「記憶」と創出される「伝統」」(『一遍会報』376号、2016年2月)の掲載原稿である。

1 「伝統」と「集合的記憶」
民俗学界では一九九〇年代に「伝統の創出」に関する論議が盛んとなった。その先駆はホブズボーム『創られた伝統』(前川啓治他訳、紀伊国屋書店、一九九二年)と岩竹美加子『民俗学の政治性―アメリカ民俗学百年の省察から―』(未来社、一九九六年)である。ホブズボームは、「過去」が政治的変動や権力の移動により塗り替えられ、「伝統」も現在の政治的な目的によって創造されることを示し、特に近代的な国民国家論の中で「創出される伝統」論を展開した。従来、「民俗」が過去から連綿と伝承されてきた自明のものであるという一種の幻想を克服するために、近代においていかに変容・伝承されてきたのかを問い直す動きであった。
民俗学の創始者柳田國男が終戦後に「日本人」の自己認識を促す研究傾向を強めたのも、政治、社会との関連で位置づけられる。柳田は日本人の一体性を強調するため『先祖の話』(一九四五年)を公表した。それまでの仏教式の六道輪廻、地獄極楽中心の死後観念から、日本人独自の死生観を抽出、提示し、さらに『海上の道』(一九六一年)では日本人の先祖が列島へ渡ってきた経路を、大陸南部から沖縄、日本列島へ広がったと主張したが、これは、沖縄を含めて日本が一つだということを強調する意図が垣間見えるものであった。
「伝統」は一般的に過去と現在との間の文化的、社会的継続として理解される。自然の時の流れとともに連なっていると感じられるが、ホブズボームは、歴史的に脈々と継承されているとされる伝統は、多くの場合新しいもので、比較的短期間の間に成立したものであることを指摘し、また儀礼やシンボルを用いて巧みに演出されることにより、ある慣習と関連づけられ、伝統として定着するメカニズムを論じた。「伝統」が創出されるのは、多くの場合、政治的権力が移行した直後や、社会的状況が激変した場合が多く、「伝統」が現状にそぐわなくなれば、新たな「伝統」が創出されるとし、これを日本の歴史に当てはめれば、戦国時代から江戸時代初期、幕末から明治維新期、昭和二〇年代、高度経済成長期がその時期に該当するともいえる。愛媛県内の民俗芸能など「村」において伝承されてきた民俗の起源伝承が戦国時代もしくは幕末から明治時代初期に求められるのも、この社会的状況の激変による「伝統」の創出といえるだろう。
「伝統」の持つ特徴としては「集団の安定化」が挙げられる。同じ集団(国・地域・家)の中で、共通認識としての「伝統」意識を有することは、集団内部の自己同一性を高め、集団は安定する方向に向かう。つまり、政治的権力の移行や、社会的激変期において「伝統」を創出することは、新たな社会集団を安定化させる手段といえる。江戸時代の幕藩体制の確立期、明治新政府の確立期、戦後復興に関する研究には「伝統の創出」という視点は有用であろう。ホブズボームの「伝統の創出」論は、近代国家と民俗との相克という土俵の上での研究であったが、もっと広く個人・家・地域を基礎とした議論も必要であり、「過去」・「現在」を「伝統」を通して考える場合の重要なキーワードに「記憶」がある。
実は「伝統」の創出も一種の「記憶」の一作用であり、集団によって記憶が構築される「記憶実践」と位置づけられる。これは「集合的記憶」であり、モーリス・アルヴァックスが提唱したものである(『集合的記憶』行路社、一九八九年)。「記憶」は集団を集団たらしめる接着剤としての要素を持っているとし、「記憶」を数種に分類している。一つは「実際の体験者の記憶」(一次的記憶)であり、二つ目は「見聞者の記憶」(二次的記憶)、そして「情報収集者としての記憶」(三次的記憶)である。これらは、別々に存在するものであるが、集団の中で物語化されることによって共有化されていく。これが「制度化された記憶」であり、ここに集団の中での伝承性の萌芽が見られ、これにある種の権力が作用することによって「伝統」として創出される場合がある。つまり、「伝統」は単に意図的に創出されるというよりも、個人と集団の間柄の中で生み出されるプロセスがあることに注目すべきことを指摘している。

2 「記憶実践」と「忘却実践」
現在、私の「記憶」についての関心は、災害や戦争の歴史的事実がいかに次世代に受け継がれていくかという点である(災害の記憶化のメカニズムについては近刊『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』二二号で公表する予定)。先に挙げた愛媛県内の民俗芸能も起源伝承が戦国時代の武将の慰霊をもとに始まったとする事例が非常に多く、戦争という歴史的事実を後世に「記憶」として伝承させる一種の装置として民俗芸能は機能しており、それは村落においての「集合的記憶」であるといえる。
同時代的な問題としては、太平洋戦争の体験(歴史的事実)をめぐる「記憶」は、民俗学における「過去」と「現在」の関係性を考察する上で、重要なテーマに位置づけられる。例えば、明治時代の日清・日露戦争の「記憶」・「伝承」は、もはや直接的聞き取りでの情報収集は不可能に近く、「記録」および、集合的記憶の媒介となる物質(モニュメント等)から、戦争の歴史が再構成されるのみである。戦争体験とは、戦闘行為のみならず、その時代を経験した各個人の体験も含まれる。当然、兵士を送り出した家族も戦争体験者であり、各個人の体験という事実は膨大な歴史的情報量といえる。これに対して、次世代に「記憶」として継承される情報量はごく一部である。歴史的事実の継承にあたっては、「語り」と「記録」がその媒体となる。その「語り」についても、「語られること」・「語られないこと」があり、戦争体験で言えば、「語りやすいこと」・「語りづらいこと」が明確に分かれる。また、公文書・メディアよる記録は膨大であるが、個人的体験の記録は、前者に比べて多くはない。すべての戦争体験者が自分の体験を綴るわけではなく、記録するのはごく一部の体験者である。また、体験者の中でも差異が見られる。以前、愛媛県内の図書館に収蔵されている戦争体験記の一覧を作成したことがある。それは『戦争体験の記録と語りに関する資料調査』(国立歴史民俗博物館、二〇〇五年)にて公表しているが、その一覧を作成してみて気づくことがある。元兵士、学生時代に勤労動員した方々、戦災に遭った方々の体験集は多いが、それに比べて戦争未亡人・遺児が直接語った体験集は少ない。戦争未亡人・遺児は、最も身近な人を戦争で失った悲しみを経験しており、しかも昭和二十年代後半までは国家補償もない状態での生活を余儀なくされた。この方々の戦争体験集が少ないのは、体験を綴るには、あまりにも現実が厳しく、書くに書けない、もしくは伝えるに伝えられない状況があったと察する。「語りづらい」、「記録しづらい」代表例だといえる。また、戦争体験記を執筆した年代を分類すると、昭和二〇年代には少なく、昭和三〇年代後半~五〇年代前半に多いという傾向がある。これは遺族会や戦友会の活動の活発化や記念誌の発行が一つの要因といえる。歴史的事実のうち、個人の体験が「語り」「記録」化(個人史的記憶)されるのは、世代の交代による「記憶」の薄れへの危機感が契機になる場合があるが、この時期の体験記の増加はそれにあてはまるといえるだろう。
「語り」は口頭伝承となって次世代に伝えられ、「記録」されたものも、後世に引き継がれ、やがて「歴史」として再構成される材料となる。しかし、それは歴史的事実の総体からいえばごく一部である。そして「語り」や「記録」された内容も執筆者個人の取捨選択により、「語られること」・「語られないこと(語りづらいこと)」、そして「記録されること」・「記録されない(記録したくないこと)」に選り分けられているのである。
「伝統」は、国家などの権力による創出の側面があると指摘したが、個人レベルの体験・記憶・記録に関しても、様々な取捨選択が行われている。日清・日露戦争の場合、戦争体験は「ナショナルな語り」(国家による集合的記憶・制度化された記憶)によって歴史が再構成されている現状があるという印象があるが、「ナショナルな語り」に回収されない個人的体験の語り・記録も当然、存在する。歴史的事実の伝承(「記憶」・「記録」)は、国レベル・地域レベル・家レベルのそれぞれの次元があり、それぞれの存在の相互作用があることを忘れてはいけない。近年の戦没者祭祀の議論でいえば、祭祀を国家に回収することに力点を置き、地域や家が行ってきた戦没者祭祀との関係性の議論が希薄という印象がある。国家による戦没者祭祀が一種の「伝統」として国家によって創出されている側面も垣間見える。これは祭祀を対象とする民俗学に課せられた重要なテーマといえるが、同時に、戦争という歴史的事実が、集団的そして個人的伝承として後世にどのように「語り」・「記録」されていくのかという同時代的な動きを注視することも、民俗学の課題といえる。それは個人、そして集団による「記憶実践」がテーマの中心になるといえるが、現在の戦争観・社会的状況や「語らない」・「語りづらい」体験を鑑みると、「記憶実践」とは逆に「忘却実践」という視点を強調した上で、これを歴史学・民俗学の中で概念化する必要があるのではないだろうか。「記憶」と「忘却」のはざまで、過去は再構成され、集団にとってあるべき「伝統」(言葉は悪くいえば「都合のよい伝統」)が創出されるのであり、今後は歴史的事実の「記憶」・「忘却」を国家・地域・個人の各レベルで考察する視点がますます重要となると考えている。

さよなら二宮忠八翁

2016年11月20日 | 日々雑記


八幡浜市民ギャラリーの「大空への挑戦」を見る。飛行機原理を発見したとされる二宮忠八の功績を出発点に、近代、現代、そして未来の人々の大空への夢、飛行機の歴史を端的に紹介した展示。

これまで、八幡浜で二宮忠八が取り上げられる際には、「ライト兄弟よりも前に飛行原理を発見して、模型飛行器を飛ばした偉人」と紹介され、「二宮忠八翁」と「翁」の尊称が付けられてきた。

ところがどっこい、二宮忠八が飛行原理を発見したとされるのは青年期であり、決して「翁」ではない。

「翁」とつけられるのは、なんでかというと、飛行機が世界各地で戦闘で用いられるようになった戦中に忠八が国定教科書に掲載されるなど、再評価がされる。この時期が「翁」だったことによる。

そして、この再評価も、シンプルに飛行科学による評価ではなく、戦争・戦闘=飛行機=日本での先駆者忠八、という戦中の時代のボトムアップもあってのものだった。

しかし、その時代のボトムアップは一般には意識もされず、地域の偉人としてのイメージが戦後も続いて、八幡浜では「翁」を付けて呼んできた。

ところが、今回の八幡浜市民ギャラリーの展示では、戦後から今にいたる飛行機開発の挑戦がきちっと紹介されている。(こんな展示、いままでなかった!)

「大空への挑戦」が戦中の戦闘飛行を背景としたものではなく、今、未来に続く飛行を意識した展示内容となっている。これは八幡浜における二宮忠八の新たな評価指標を提示している、と思ってしまう。

今回の展示で、戦前イメージを引きずる「二宮忠八翁」の脱皮ができたのではないか。この新たなステージによって、若き忠八のチャレンジをもっとピュアにシンプルに評価できるかもしれない。

そんなことを考えさせられる展示でした。

もう、二宮忠八「翁」って言わんでもええんやないん?飛行原理発見したとき、若かったんやけん。

そう考えると、タイトルの「大空への夢」って、まさにピッタリ。若き忠八の大空への挑戦!

はい、とにかく展示は明日11/20が最終日です!


ジャパニーズハロウィン「亥の子」

2016年10月31日 | 日々雑記
今日はハロウィン。あしたは亥の子。

@jumboshimizu おばあちゃんに「ハロウィンって何?」と聞かれた母が「外国の亥の子よ」と答えていて、なるほど(笑)!と思った。五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄。(Twitterより)

いのこ いのこ いのこ餅ついて 祝わぬ者は 鬼産め 蛇産め 角のはえた子産め

愛媛で広く歌われる亥の子唄の一つ。

亥の子で子どもたち、家々を脅して、ご祝儀もらう。ジャパニーズハロウィン?

いつぞや、亥の子で「Trick or treat」「お菓子(ご祝儀)くれんといたずらするぞ」と歌われる日が来るのかもしれん。

ちなみに、ハロウィンみていて、互酬性が感じられないことに、ちょっと注目(家々を子どもたちが回る、祝福する、お菓子をもらう。ということまでは定着していない)。

近代以降に定着した年中行事クリスマスやバレンタインデーは互酬的要素が見られるが、ハロウィンの定着はまた違う。この差をどうとらえるか。新時代の年中行事を考えるいいヒントになるような気がする。

互酬性といった社会的交換ではなく、祝祭性で捉えれば理解はできるが、クリスマス、バレンタインデーと比較する上ではやはり互酬性がキーワードになりそう。



高校生 食育ふるさと料理マルシェ

2016年10月28日 | 日々雑記


11月12日(土)に愛媛県歴史文化博物館にて。

南予の「食文化」を未来につなげるべく、県内高校生ら10チームによる「食育ふるさと料理マルシェ」が開催されます。

高校生が南予の食材を使って考えたオリジナル料理を披露するとともに、各校200食限定、200円で販売。

また、川之石高校書道パフォーマンス、野村高校筝曲部演奏も。

私も愛媛の食文化展示解説を行います。


四国西予ジオパーク学習会 惣川土居家

2016年10月23日 | 日々雑記
四国西予ジオパークのホームページより。惣川土居家の現地見学会のお知らせです。自然と文化の両面から惣川、土居家を散策します。申込は先着順です。


http://www.seiyo1400.jp/c/geopark/2016/10/19/ジオパーク学習会のお知らせ/


11月26日に「土居家」やその周辺でジオパーク学習会-歴史文化偏-を開催します。

土居家は四国最大級の規模と歴史を持つ茅葺民家です。
その周辺には山間部にもかかわらず平坦な土地が広がります。この土地はどのようにできたのでしょうか。
県歴史文化博物館の学芸員と現地で学んでみませんか。

内容:古民家に学ぶ生活の知恵-惣川土居家の自然と文化-
土居家の見学、生活と景観の変遷についての講義、周辺の土地からジオを探す体験活動を予定しています。
日時:11月26日(土)午前9時~午後4時半
定員:30名(先着順、本庁からバスに乗っていただくことも可能です)
参加費:無料(お弁当代1000円程度)
申し込み方法:電話にて(西予市役所ジオパーク推進室 0894-62-6403)

宇和先哲記念館「末光績展」

2016年10月13日 | 日々雑記


現在、宇和先哲記念館にて平成28年度特別展「末光績(すえみついさお)展~大自然を離れて私の人生はない~」開催中。

重要伝統的建造物群保存地区「卯之町の町並み」にある西予市指定有形文化財「末光家住宅」にゆかりがあり、宇和農蚕学校(現在の宇和高校)建学の父といわれる「末光績」にスポットを当てた展示。



西予市宇和町で生まれた「末光績」は、後に札幌農学校(現在の北海道大学)に進学。ここで文豪「有島武郎」と出会う。展示では有島の直筆の書簡なども紹介。また、新渡戸稲造との交流もあった績。新渡戸の書簡なども並ぶ。

札幌農学校卒業後、故郷に帰り、一教師として働くが、40歳で再び東京大学に入学。その後は、恵泉女学園で女子教育に関わる。

また、績は、山に魅了され、日常生活で感じる自然のありのままを詩や絵で描く。その作品も展示中。

あと宇和高校に保管されていた植物標本も並んでいる。

績の遺したものが、いかに地元で受け継がれるのか、いろいろ考えさせられます。

重伝建は建物だけが受け継がれるのではなく、そこに生まれ育った人物の生き様もいかに伝えるのかが大事。(その意味で先哲記念館の役割は大きいかなと思います。)卯之町に生まれたからこそ札幌農学校に行って、宇和高校の礎を築いた績。重伝建卯之町の持つ「人を育てる、巣立たせる環境」に注目することは大事だなと展示を見ながら痛感。


期間 【前期】平成29年3月12日(日)まで
【後期】平成29年3月18日(土)から平成29年9月24日(日)

入館料は無料。(この充実した展示が無料とは!こりゃ西予市民は一度はみないとね。)

数年前に愛媛新聞で高橋記者が執筆した末光績の特集記事(これがまた力の入った連載でした)が、展示として地元で実現したか!と思いながら展示を拝見。高橋記者や先哲記念館のスタッフの尽力に頭が下がる思いです。