すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

帰り着けない夢

2018-04-30 23:14:22 | 夢の記
 帰り着けない夢をよく見る。
このブログの最初の方(17/07/05)でも、道に迷う夢についてちょっと書いているが、以前は頻繁に見ていて、一時あまり見なくなったのだが、このごろまた頻繁に見る。
 昨夜見たのは、以下のような夢だった。
 …地下鉄の駅(東京の地下鉄のようではなく、もっと古臭い、パリの下町の駅のようだった)を出て、広場を通り抜けて帰ろうとする。地上に出てみると、いつもと様子が違う。広場のはずなのに、新しく開発された街の一区画のようになっていて、美術館らしきものとか大学のキャンパスらしきものが点在している。方角はこっちのはずだったから行ってみようと歩き出したのだが、たちまち自信がなくなる。日が暮れ始め、建物がだんだんシルエットのように暗くなってくる。「夜になるまでに帰らなくちゃ」と焦るのだが、海岸通りに出てしまう。「こんなところに海があるはずがない」と思う。馴染みの店を見つける。確かに馴染みの店だと思うのだが、すっかり様子が変わっている。引き返すべきかどうか迷っているうちに、すっかり暗くなって途方に暮れる。…
 冷たい雨の中を、ぬかるんだ道を歩いている7月の夢に比べて、悲惨ではない。周りの様子も、美しいと言えなくもない。
 帰り着けない夢であることは同じだが、最近の方が精神的にゆとりがある、ということだろうか? 

 …思いついて探してみたら、5年ほど前にも、帰り着けない夢について書いている。夜の散歩に出て道に迷った、という文章の中で書いているのだが、今回とよく似た場面も出てくる。
 同じような夢を繰り返し見る時期があって、かなり時間がたってまた繰り返し見る、ということは、その時期に同じような精神的状態になっている、ということなのだろう。
 それを以下に再録してみる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そういえば、夢の中でもよく道に迷う。
 帰ろうとして、でも道に迷って帰れない、という夢は、たいていの人は見た覚えがあるだろうが、ぼくも昔から何度も見ているのだが、それがこの頃は以前よりは多くなってきている気がする。
 ・・・電車に乗って、知らない駅名ばかり続く知らない線を走っている、乗り換え駅に着いて路線図を見ても、知らない地名ばかりしかない・・・帰るつもりでバスに乗ったら、知らない小さな町の知らない広場が終点で、降ろされてしまった・・・通り抜けるつもりで公園に入ったら、そこはものすごく広くて迷路のようになっていて、どこにも出口が見つからない・・ホテルの階段を上ったり下りたりしているうちにふと窓から見ると、自分のいるはずの建物ははるか遠くに見えていて、自分は実は別の建物のなかにいる・・・学校の校舎の裏口を出てまた入ろうとしたら、もう何百年かたっていて、入り口が見つからない・・・
 たいてい、途中で夜になっている。ぼくは胸のつぶれるような思いでいる。そして、結局は帰りつくことができない・・・

 ところで、夢が醒めてから考えてみると、ぼくはいったいどこに帰りたかったのか、じつはわからない場合が多い。夢の中の自分が明確に、家へ、とか分っているのは少ない。たいていは、どこへだかわからないのに、帰りたい、という思いだけが強い。
 現実に夜の街を歩いて迷っているぼくは、帰るべき場所ははっきりしているし、「こっち方向にずっと歩いていけば、いずれ環七に出るな」、というぐらいの見当はつく。
 夢の中のぼくは、自分がどこにいるのかが分からないだけではなく、どこに行くのかが分からないだけではなく、どこから来たのかが分からないのだ。
 たぶん、若いころの夢の中の自分にとっては、自分がどこにいるのかが重要なのだけれども、老いを迎えようとしている自分にとっては、自分がどこから来たのか、だからどこに帰ってゆくのか、が重要なのだろう。このごろ道に迷う夢を多く見るようになったのは、それが老いを迎える人間の見る夢だからなのだ。
 そして、「人は現実の世界で起こったことを夢の中で反芻する」と普通には思われているが、本当は逆なのかもしれない。夢のなかで起こったことを、現実のぼくは夜歩くことによって繰り返し反芻しているのだろう。
 夢のなかのぼくが返るべき場所に帰りつく、ということがしばしば起こるようになったら、現実世界のぼくもまた、帰るべき場所を見つけて帰ってゆく、つまり人生を終える、ということかもしれない。
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貢献感

2018-04-28 23:11:25 | 老いを生きる
 今から20年ほど前、精神科の看護師をしている友人に、「あなたはボーダーライン(境界性人格障害)だよね」と言われてびっくりしたことがある。何の話の中だったか覚えていないが、べつに彼女の勤めるクリニックに相談に行ったわけではなく、喫茶店で言われたのだったはずだ。
 「大外れ」だと思ったが、反論するには知識が確かではないので、やめた。あの頃ぼくは精神的に大混乱してはいたのだが、その後に学んだ心理学的な見地から言えば、ぼくは「アダルトチルドレン」に該当していたかもしれない。
 現在はその状況から脱しているので、ここでボーダーもアダチルも説明するつもりはないが、そのころ及びそれから長い間、ぼくはかなり強い「被承認願望」を抱えてもがいていたことは確かだ。
 幸いなことに、そこからも今は脱している。
 今、ぼくが「あったらいいな」と思うものがあるとしたら、アドラー心理学でいうところの「貢献感」だろう。これも、そう強い願いではなく、これからの人生で、そういうものを感じながら生きていけたらいいな、という程度のものだ。
 そして、そのうえで、これもアドラー心理学でいう、「共同体感覚」を大切にしていきたい。
 この春仕事をやめたのは、耳が遠くなってお客様の注文が聞き取りにくい、とか、距離感が悪くなってコップをぶつける、とか、体力的に夜の仕事がしんどい、とか、いろいろ理由はあるが、ひとつには、このため、すなわち、「被承認願望」を「貢献感」に取り替えるためだ。
 精神的な混乱と試行錯誤の中で長い時間を過ごしてしまったので、せめて残りの時間は、「わりやのごとばかりで/くるしまなあよに」生きていきたい。
 スポットライトを浴びて歌をうたわせてもらうのは、「被承認願望」を満たすことはできても、「貢献感」は得にくい。お年寄りや子供といっしょに歌う方がいい。
 近いうちに、目黒区のボランティア協会に再登録するつもりでいる(以前、ドムラの弾き語りで登録していたのだが、腰を痛めてドムラをやめたので、退会した)。
 できることからはじめよう。
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ご当地デビュー

2018-04-27 23:47:52 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 きのう、今住んでいるところでの弾き語りのデビューをした。デビューといっても老人クラブの総会の余興なのだが、音楽が、ということよりも、地域の人との交流が少しずつ始まっているのが大きい。
 ぼくは現住所に12歳から20歳まで住んだ後、家を出て転々として、戻ってきたのは震災の直前だったし、もともと社交的な方ではないから、近隣の住民の顔も名前もわからないし、地域とのつながりはほとんどなかったのだが、新年会のチラシが郵便受けに入っていたのでふと思いついて、はじめて顔を出したのが今年の1月。3月には「後期お誕生会」で初めて歌わせてもらって、今回が弾き語りデビュー。
 前に住んでいた保土谷には今でも2か月に1回、やはり老人クラブに弾き語りで行っていて、だから人前で初めて、というわけではないので気は楽だった。まあ、何とかなったのではないかな、と思う。
 岸見一郎の「アドラー心理学入門」にチェロのヨーヨー・マの言葉が引用してあって、「演奏の前にこんなふうにリラックスできるのは、もう十分年がいっていて自分が優れていることを証明しなくても良くなったからだ」と。
 その時ヨーヨー・マが何歳だったかわからないし、だいいち彼を引き合いに出すのもおこがましいのだが、「うん、そうそう」という感じ。
 これが、「近い将来に例えば「懐メロを一緒に歌おう」などの活動のクラスを一つ作らせてもらおう」、なんて思っていて、「だから良いパフォーマンスをしなければ」、などと意気込むと絶対緊張するし、緊張したら顔はこわばるし手元が狂うに違いない。
 「楽しんで大きな声を出してもらえばいいや」と思っていればにこにこしながらやれる。
 今回は自分が楽しんで気持ちよく大きな声を出している割には、というか、だから、というか、皆さんの声はまだ小さいが、口元は動いているから、まあ良いか。
 …話がそれるが、先日、妹が「あんちゃん、速く弾けるようになってきたね」というから、「まあ遅々として進歩しているかもね。でも、残りの時間を考えると、もう今生ではそう上達はできないね。次の人生で先に進むか」と返事したら、「次の人生なんかあると思ってないし、私は楽しんでやれれば良くて、上達なんて考えていないけれどね」とのたまわれた。
 それはちょっと違うよね。次の人生があるとは思っていないけれど、練習が楽しいのは大事だけれど、そして上達するのが練習の目的ではないけれど、今まで弾けなかったパッセージが今日は弾けた、というのは、練習の楽しさのうちの大きな要素だものね。
 
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なぜ山に登るのか?

2018-04-25 21:32:10 | 山歩き
 以前、登山の翌々日だったか、「太ももが痛い」と言っていたら、「なぜそんなしんどい思いをして山登りなんかするの?」と訊かれたことがある。
 「頂上に立った時に気持ちが良いから?」、「達成感?」、「俺はまだまだやれるぞ、という感じ?」…どれも違う。
 頂上に立った時の気持ちよさだけなら、ほかに気持ちの良いことを見つけたらやめてしまうかもしれない。それに、息切れしながら登っている途中も、気持ちはいいのだ(マゾじゃなくって)。
 百名山に次々に登るタイプの人もいる。彼らにとっては、達成感は大きな要素なのかもしれない。ぼくはむしろ、お気に入りの同じ山に何度も行くのが好きだ。同じ本を何度も読むのと同様に、そのたびに喜びがある。
 俺はまだまだ…というのは、何も山に登らなくても、いろんな機会に感じることができる。
 うまく言い表せないが、ぼくにとって山に行くのは、体と心がそれを要求するからなのだろう。いわば山は、必須栄養素なのだ。
 この必須栄養素は、人によっては、山に行かなくても採ることができる。自然の中で生活している人、そうでなくても、十分に自然に触れ合う生活をしている人であれば。
 つまり、人間にとって、自然が必須栄養素なのだ。
 現代のように人類が、特に先進国の人間が、都会で生活をするようになったのは、人類史の中で比較的最近のことだ。人類は百万年以上もの間、自然の中で生きてきた。文明が生まれ、発達してからも、今よりははるかに自然に接する生き方をしてきた。
 生物としての人間は、そんなに急に環境の変化に適応できるわけじゃない。血液中の塩分濃度は海の塩分濃度とほぼ同じである。つまりぼくらは体の中に海の記憶を維持している。
 同じように、人間はおそらく体と心の中に、かつてその中で生きていた自然の記憶を維持していて、それがなければ生きていけない、あるいは、身体的、精神的にバランスを崩してしまうのだ。
 ぼくらが山登りで感じるのは、体と心が本来の環境の中で、活性を取り戻す、ということなのだ。本来の環境の中に解き放たれる、という喜び、山で感じる喜びは、これなのだ。
 だから、自然の中で生活していればそれで充足する。ぼくは、アフリカに行っているとき、別に山登りはしなくても全然苦にはならなかった。
 保土ヶ谷の林の中の一軒家に暮らしているとき、そこに暮らしているというだけで、山登りはしなくても苦にはならなかった。その時期の後半に、昔よく一緒に山登りをしていた友人に誘われて、再び山に行くようになったのだが、今現在の生活を考えると、あの時に再開したのは非常に良かった。
 現代の都会生活では、自然が絶対的に不足している。そう自覚していない人でも、じつは不足している。
 ぼくらは子供の頃、野山や田んぼを走り回って遊んだ覚えがある。その記憶は今でも生きていて、時々野山を歩いたり、田舎に帰ったりしたくなる。それだけで足りるかどうかは別にして、しないよりはマシだ。
 団地で生まれ、街中の児童公園で遊び、もしくは家の中でゲームにふけり、という生活をしている子供たちは、大人になっても、自然が不足しているという自覚はないかもしれない。
 現代社会の抱える問題の少なくとも一部は、自然が不足していることに起因する、と、ぼくは前にちょっと書いたかもしれないが、大きなテーマなのでまた別の機会に考えることにしよう。
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山登り

2018-04-23 22:42:07 | 山歩き
 昨日、久しぶりにハイキングに行った。中央線の大月の少し手前の北側の権現山1312mだ。中央高速を走ると上野原あたりから、右手に長大な壁のように稜線を広げているのですぐそれとわかる山だ。
 ぼくは若い頃からの冷え性が歳を取ってからますますひどくなって、一年中厚い毛糸の靴下を履いているし、この時期でもまだ夜は羽毛布団の下に寝袋を敷いて寝ている。寒い日には手の指が血の気を失って真っ白になる。若い頃はそれでも冬山登山なんかしていたのだが、今では冬の間は山に行くお金を音楽会に使うようにしている。
 だから今回は久しぶりの山行だった。
 だから、登りはたいへんしんどかった。
 山は、高尾山くらいの低山でもいいから月2回ぐらい行っていれば体が慣れてかなりきついコースでも大丈夫になるのだが、その高尾山からでさえ、2月に行ってから2か月ぶりなので、太ももの筋肉が落ちて、すぐに息が上がる。
 しんどい登りでは、足を運ぶペースは落とさず、歩幅を小さくして登る。登山靴の長さ、30㎝ぐらいずつ足を運ぶ。本当にしんどいところは、靴の長さの半分ずつ足を出す。そうやって小刻みに歩いていれば、そのうちきつい登りは一段落する。緩やかになったところで歩幅を広げて、またきつくなったらまた半歩ずつ。そうやって登って行った
 若い頃は、休憩時間を入れても、登山地図に書かれているコースタイムの2/3ぐらいで歩けたのだが、今ではコースタイムの2割増しぐらいは予定しておかなければならない。今回もちょうどそれぐらいかかった。これはもう、歳だから仕方がない。
 権現山は、稜線に上がってしまえば、あとは軽いアップダウンが続くだけの、気持ちの良い山だ。稜線までは杉の植林地だが、上は明るい雑木林で、昨日は日当たりが良すぎてちょっと参った。雑木林はまだ葉が開き始めで、美しい新緑になるのはもう2週間ぐらい先だろうか。ところどころ山つつじが咲いている。
 頂上は明るく開けて、富士山も見られたし、近くの三頭山、扇山、百蔵山から、遠くの三つ峠山、御正体山、雲取山、など、よく見えたが、残念ながら双眼鏡を忘れたので、それ以上に詳しい同定はできなかった。
 お昼を食べたら午後はずった楽になって、下りはどんどん飛ばした。
 山登りでは、登りと下りの速度があまり変わらないのが強い人で、ぼくのように極端に差のあるのは実は大変弱い人なのだそうだ。
 毎年夏に高校時代の友人と、たいていは北アルプスに行っているのだが、夏までに大いに体を慣らす必要がありそうだ。もっとも、友人もこの冬は膝が痛くてヒアルロン酸の注射をしていたそうだから、今年はどうなるかわからないが。
 …さて、お昼ご飯を食べるのに日陰を探したのだがなかなかなく、やっと見つけた木の陰にやれやれと手をついたら枯葉の中に栗のイガがあって右手にトゲをいっぱい刺してしまった。
 小指側の掌底の3つが深くて自分では取れないので、今日皮膚科に行って抜いてもらった。かなり血が出て、ガーゼを張って抗生物質を処方される羽目になってしまった。今週は町内会でマンドリンの弾き語りをする予定なのだが、ちょうど弦の上をかすめる微妙なところだ。やれやれ。
 けがをするのは、体力に余裕がないから注意力が散漫になるのだよね。
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多摩川

2018-04-21 19:57:29 | 自然・季節
 東横線の電車が多摩川を渡る。20秒ほど目の前に開ける、河川敷の緑。20秒間の喜びは大きい。桜が終わって、今は新緑のやわらかな、一年でいちばん美しい季節だ。
 電車の中ではたいてい本を読んでいるのだが、多摩川を渡る間だけは目を上げて外を眺める。前は週に何回かは渡っていたのだが、仕事をやめてからは、ずっと機会は少なくなった。並走する電車があるときなどは、がっかりする。大げさではなく、ささやかな幸せを奪われたような気持ち。
 河川敷はぼくの散歩のコースのひとつでもある。多摩川の駅まで電車で行って、こちら側か、あるいは橋を渡ってむこう側を、上流か下流に向かって歩く。下流に向かうと朝日が目に入るので、たいていは上流に向かって、二子多摩川か、体調の良い時には和泉多摩川まで歩いて、電車で帰ってくる。川岸に近い、人の比較的少ないところを歩くことが多いが、時には気分を変えて、サイクリングコースになっている土手の上を、風に吹かれながら歩くこともある。
 サイクリングも気持ちが良いが、子供の頃はよくしたのだが、家から多摩川までの往復が自転車ではしんどいので、今ではほとんどやらない。むしろ、家から歩く方が良い。
 碑文谷八幡の参道を通って、大岡山の工大の横を通って、呑川緑道、緑が丘駅、奥沢神社、奥沢駅、田園調布駅、多摩川台公園を通って多摩川駅まで、のんびり歩いて約2時間、駅から駅を結ぶ割には緑の多い、静かな道だ。天気の悪い時や体調の悪い時にはどこでも中断して電車で帰って来られるのも良い。
 先日、そのコースの最後の部分を、人生の先達でもある友人と歩いた。
 田園調布の老舗の洋菓子屋「エピ・ドール(金の穂)」のサロンでゆっくりお茶をして、高級住宅街を抜けて宝来公園を下って反対側をちょっと上り返せば、そこはもう多摩川の土手、多摩川台公園の一角だ。多摩川駅に向かって古墳群の続く道の左側つまり北側は明るい落葉広葉樹林、右側つまり南側は暗く茂った常緑広葉樹林だ。
 この地形は、高尾山にもあるが、たったこれだけの土手で気候が違い、植物相が違うのも興味深い
 散歩道の途中には富士山の見えるベンチもあり(その日は見えなかったが)、ぼくはやや難しい相談事を受けたときなど、駅で待ち合わせてそのベンチまで行って話を聞いたものだ。眼下に広がった川面を眺めながら、風に吹かれながら、今の季節なら眼前のつつじの花などを眺めながら話を聞くと、お互いに心を開いて話がしやすいのだ。
 先日はそういう難しい話ではなく、宮沢賢治のことや朗読のことや音楽のこと、彼女の主催している小さな子供クラブの子供たちのこと、などを話しながら歩いた。親しい友人と散歩する楽しみを堪能した。
 彼女は元気いっぱいな人で、ぼくは何時でも元気をもらって帰るのだ。
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望郷と日本人

2018-04-19 23:20:26 | 音楽の楽しみー歌
 アルジェリアの地中海沿岸の町にフランス語の科学技術通訳の仕事で赴任していた時の話。
 某大企業の日本人宿舎にいたのだが、派遣の通訳とは違って、社員の皆さんは、「ここは地の果てアルジェリア」と本気で思っている。娯楽もないし、町は危険だし(当時はそんなことはなかったのだが)、早く日本に帰りたくてたまらない。誰かの着任とか帰国とか、何かと理由を考えて宴会をするのだが、宴会の最後には必ず、全員で肩を組んで、「北国の春」を歌う。歌っているうちに何人もが泣き出して、涙の大合唱になるのが毎度のことだった。
 「北国の春」は名曲だと思うが、一流企業の大の大人が、みんなでおいおい泣く、望郷の思いここに極まれり、という感じ。
 日本人は、心優しく、かつ弱い。
 アルジェリアは地球の裏側だが、国内で移動する場合を考えると、アメリカやロシアに比べ、移動距離は短い。帰ろうと思えば帰りやすくもある。仕事先や住むところは決まっている場合が多いし、生活はある程度保証されている。何人かで一緒に出発することも多い。
 西部やシベリアへ、たった一人で出かける、生きて帰れるかどうかもわからない、というのとは全然違う。
 それに、日本では、家族や同郷の人達に見送られて、励ましの声をかけられて、というのが多かったのではないだろうか。
 帰ろうと思えば帰れるケースも多い。
 「帰ろかな 帰るのよそうかな」(北島三郎「帰ろかな」)というのは、その例だ。
 加藤登紀子の「帰りたい帰れない」も、帰れない、と言っているが、これは自分の心の中の決心の問題であって、実際に帰ることのできない状況にあるのではない。
 日本の望郷の歌は、心に沁みる良い歌がすごく多いのだが、比較的おだやかな、甘い歌が多いのではないだろうか。
 もう一つ、故郷に「あの娘」が待っている、という歌詞が非常に多いのも特徴だろう。
 「帰ろかな」も、「北国の春」もそうだが、「ふるさと」(五木ひろし)、「別れの一本杉」(春日八郎)、「チャンチキおけさ」(三波春夫)、「望郷酒場」(千昌夫)、「望郷じょんがら」(細川たかし)…いくらでも挙げられると思う。(例が古くて申し訳ないがお年寄りと懐メロを歌っているので、主に関心がそのあたりにある。)
 したがって、望郷の歌と慕情の歌との境界線があいまいである。そして、たいていの場合、「あの娘」は二番になって出てくるのも顕著だと思う。最初からは言わない、日本人のつつましさだろうか。

 …さて、この調子で書いていくといくらでも書けそうだが、少し飽きても来たので、最後にぼくの大好きな望郷の歌を挙げて、ひとまず終わりにしたい。
 越谷達之助作曲の日本歌曲「やわらかに柳あおめる」。石川啄木の短歌に曲をつけたものとしては、同じ越谷の「初恋」の方が圧倒的に有名だが、こちらは勝るとも劣らない名曲だ。

やわらかに柳あおめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
ああーあーーーあー あーーーあー あーーあー あーーーあー
北上の岸辺よ
ああーあーーーあー あーーーあー あーーあー あーーーあー
北上の岸辺よ

 優しく歌われる主部の後、母音唱法で夢見るように、かつ嘆息のように反復して歌われて、ピアノの間奏・後奏が岸辺に寄せるさざ波のように続く。一度だけ、ライヴで聴いたことがある。目をつむって聴くべき歌だ。
 楽譜はあるが、残念ながらYouTubeには入っていない(新井満作曲のものとは別物)。
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望郷の歌(2)

2018-04-17 22:16:45 | 音楽の楽しみー歌
 望郷というのは、遠くしかも長期間離れている故郷を思うのだから、当然のことながら、移動を前提とする。移動は、罪を犯して故郷にいられなくなった、というような個人的事情によるものもあるが、多くの場合、社会現象でもある。
 アメリカで言えば、西部開拓と、これに伴う大陸横断鉄道の建設とか、ゴールドラッシュとか。南北戦争後は、北部工業地帯への労働力の集中とか。
(南北戦争における重要な争点である奴隷解放は、ただ単にヒューマニズムではなく、北部での安価な大量の労働力の供給という面もあった。政治はしばしば、経済からの(資本からの)要請に応えるために、耳に心地よい言葉を発明する。「より自由なライフスタイルを選択する可能性」と現日本政府が言っている「働き方改革」というのもそれだ。お上の言うことには用心しなければいけない。)
 そのあとは、開拓者たちが住み着いた土地からの、その子孫たちの東部や西部の都市への移住もある。
 個人の仕事探しの旅も、罪を犯しての旅も、こうした社会現象の中で起こった出来事が多いだろう。
 望郷の歌は、そのような社会現象の中で生まれ、歌い継がれる。

 日本で言えば、明治維新後の大移動。また、明治時代には、学業や仕事のために長距離を移動することは多かった。江戸で生まれた夏目漱石は松山へ、次いで熊本へ赴任しているし、その熊本で生まれた犬童球渓は音楽教師として新潟に赴任し、望郷の思いから「旅愁」や「故郷の廃家」の美しい日本語訳を生み出した。
 戦前の、大陸や南方への移動、戦後の大移動、それから、集団就職や出稼ぎ。(「金の卵」も「マイホーム」も、上に書いた、耳ざわりの良い言葉の中だ。)ここでも、そのような社会現象の中で歌が生まれ、歌い継がれる。

 …と前置きをしたうえで、日本の望郷の歌の中でまず挙げるとすれば、「新相馬節」の一番だろうか。
 一般に、民謡は地元の人々が、地元の良さを歌うもの(お国自慢)が圧倒的に多いので、普通は望郷の歌にはならない。また、各節がばらばらに作られて後でまとめられるケースが多いので、内容は一貫していない。 新相馬節もあとの方は恋の歌詞が多い。にもかかわらず一番先に挙げたのは、言うまでもなく、東日本大震災と福島第一の原発事故の後、この一番の歌詞が究極の胸せまる哀切の歌になってしまったからだ。

ハァーアー
遥か彼方は 相馬の空かョー
ナンダコーラヨート
(ハァ チョーイチョーイ)
相馬恋しや 懐かしや
ナンダコーラヨート
(ハァ チョーイチョーイ)

 鈴木正夫の、また三橋美智也の美しい声が、その哀切を深める。でも、この二人だけでなく、この歌は誰が歌っても、相馬や福島を離れた人が歌ったらなおさら、そうでない人が歌ってもやはり、聴くものは、また、共に歌うものは、この歌に哀切と共感を覚えるだろう。
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望郷の歌

2018-04-15 22:51:09 | 音楽の楽しみー歌
 アメリカには、望郷の歌の心に沁みる良い歌が多い。「旅愁」、「故郷の人々」、「懐かしきケンタッキーの我が家」、などのほかにも、「我が心のジョージア」、「懐かしきヴァージニア」、「峠の我が家」、「霧のサンフランシスコ」、などなど、思いつくだけでもいっぱいある。ここで一つ一つに言及することはしないが、ひとつだけ、「谷間の灯」については、触れておきたい。
 「思い出のグリーングラス」は死刑囚が主人公の歌だ、と書いたが、「谷間の灯」も、罪びとの歌だ。
 日本語歌詞はまことに美しい、故郷を思い、母を思慕する歌だが、そして英語の原詞も1番を聴く限りはやはり同じだが、2番3番で別の面が明らかになる。
 (ぼくはこの歌を原語で通して歌う計画が当面ないので、原語詞とその直訳の全文を載せるのはやめておく。)
 2番では、「母はぼくが会いに帰って来るよう祈っているが、ぼくは決してそうできない」と歌った後、
I’ve sinned ‘gainst my home and my loved ones. And now I must evermore roam.
つまり、「ぼくは故郷と愛する人々に対して罪を犯した。だからいつまでもさまよい続けなければならない」と歌う。
 “sin”は道徳的罪だから、これだけなら、単に故郷を捨てたことに対する罪悪感、とも取れるのだが、さらに3番では、
She(母) knows not the crime I have done. … I’ll meet her, up in Heaven when life’s race is run. と、“crime”「犯罪」の語が使われている。「母はぼくの犯した犯罪を知らない。… ぼくは命が尽きたら天国で母に会えるだろう」となっている。
 かなり重大な犯罪なのだろうか。
 ただ、この歌詞は「グリーングラス」の場合と違い(あちらにも牧師は出てくるが)、宗教的な色合いが強い気がする。
 そして、故郷のお母さんは、「ぼく」がどんな罪を犯したかまでは知らないが、「何らかの罪を犯したから帰れないのだ」ということは知っており、もしくは、感じており、彼女の祈りはただ単に「息子が帰って来ますように」というだけではなく、神様に向かって「願わくばあの子の罪が許されて、もしくは、あの子が罪の償いを終えて、生きて故郷に帰ってきますように」ということではないか、と思う。
 そこまで書かれてはいないから、根拠はないが。
 まあ、そこまで考えなくても、流布している日本語の歌詞だけでも、マザコンのぼくとしては大好きだけどね。
 次回は、日本の望郷の歌に触れてみたい。
 …ところで、ぼくはこれを書くのが実は時間的、体力的にかなりしんどいことが分かったので、今後、週に3回ぐらいのペースに落とすつもりでいる。音楽や読書優先ということで。
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ふたたび訳詩について

2018-04-13 14:22:09 | 音楽の楽しみー歌
 ぼくはこの歳になるまできちんとものを考える訓練や習慣を身につけてこなかったから、おおざっぱな感覚的な考えしかできない。今後10年、もっぱら時間をそのことに使ってそういう努力をすれば、もう少しましにはなるだろう。本当は、資質としては音楽よりもそっちの方に向いているかもしれない。でも音楽もやりたいし、音楽を通して少しは人とつながりたいし(そうでなければ、引きこもり老人になってしまう)、残念ながら、今生はこのままズルズル考えてズルズル書くスタイルで行くしかないのだろう。

 …さて、山之内さんから、「思い出のグリーングラスの3コーラス目の訳詩を試みてみたら」と言われた。これはやろうと思わないし、試みても成功しないだろう。
 最初から日本語で詩を書くのならまだしも(若い頃、自費出版の詩集を出したことがある)、ぼくには音符に言葉を合わせて行く才能はない。数日前に書いた、音韻上の困難を乗り越える力量もない。
 これは、やる前から断念しているわけではなく、シャンソンの歌詞の訳をしてみようとしたことはある。
 全然、気に入るものはできなかった。
 まず、どうしても原曲の内容の豊かさに負けてしまう。その豊かさを生かすすべが見つからない。単なる甘い恋の歌にさえならない(もともと、そういうものを書く気もないが)。
 訳詩には、作詞とは違う才能が必要だ。そして、音韻上の困難をクリアして、原曲の内容をきちんと伝えるためには、作詞以上の才能が必要と思う。
 このことをわかっていない人が多い。「ぴったりの訳詩が見つからないので、自分で訳してみました」と言って歌われる歌詞の大部分は、言っちゃあ悪いが、既存の訳にさえ遠く及ばないものだ。
 広く流布している訳詩は、日本流の甘っちょろい歌になってしまっているとはいえ、一応プロが書いていますからねえ。シロウト(ぼくもそのうちの一人である)が、原曲の内容を大切にして、しかも既存の歌詞の完成度のレベルを超える、というのは至難の業だ。
 もともと、歌というものは、ほとんどの場合が、原曲が書かれた時の言葉と音楽の組み合わせが一番幸せな結びつきなのだ。だから、原語でわかる人たちに向かって、言語で歌うのが一番良い。ただし、この場合ネイティブの歌い手を超えることはできない。聴き手が日本人ならば、最初から日本語で作詞された曲を歌うのが一番いい。
 でなければ、やむを得ないから、日本語で説明を交えながら原語で歌うか、あるいは、元の歌とは違うものとしてアクセプトして訳詩を歌うことにするか。
 あるいは、すでに日本語で歌われる歌として長い間愛唱されているものを、原曲の歌詞の豊かさにこだわらず、日本の感性の歌として歌うか。
 「カチューシャ」も「ともしび」も、ここに入るだろうか。
 そういう意味では、「旅愁」も「谷間のともしび」も「ローレライ」も「秋の夜半」も…完成度の高い、日本人の心性にかなった歌はいっぱいある。
 そして、ここには、口語と文語の結晶力の違いという問題もある。それは別に書く機会があると思うが。

 最後に、訳詞の話ではなく、日本語で書かれた作品でぼくが最高傑作と思うものを挙げておきたい。
 作詞:北原白秋、作曲:山田耕作の、「からたちの花」。
 この、ため息の出るような、うっとりと夢見るような、涙が出るような、やさしく美しい曲、これを超える作品はいまだ無い。

からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ

からたちのとげはいたいよ
青い青い針のとげだよ

からたちは畑(はた)の垣根よ
いつもいつもとおる道だよ

からたちも秋はみのるよ
まろいまろい金のたまだよ

からたちのそばで泣いたよ
みんなみんなやさしかつたよ

からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ
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音韻と感性

2018-04-12 21:42:39 | 社会・現代
 ユーラシア協会のMisako Takizawa さんからFBにコメントをいただいた(ありがとうございます)。これも、これから書くことの関係があるので、以下に紹介させていただく。
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(Takizawaさんのコメント)中国語でもロシアの歌はほぼオリジナルの意味が当てられてます。一音一漢字だから載せられる意味の量が多いのは当然ですが、リアリストな中国の国民性かなと思ったことがあります。対して日本人はウケない(都合の悪い)部分をカットする? 以前、朝日の当たる家の原詩を始めて知ったときも思いました
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(昨日の続き)これは実は、歌の訳詩だけの問題ではなく、日本人の感性そのものに、および日本文化の性質に影響している。音韻などというような本質的な問題が、感性の在り方にかかわらないわけがない。
 日本人は、古代から、比較的短いシンプルな言葉の中に情感を盛り込むことを好み、また得意とする。五・七・五も、五・七・五・七・七も、七・七・七・五も、そうして好まれ、洗練されてきた。
 ところで、そうした比較的シンプルな表現方法では、複雑な、社会的・哲学的・歴史的な問題意識は取り扱いにくいし、十分に展開することが難しい。
 だから、日本人は、そういう形式になじみやすい、自然や季節を前にしての詠嘆や、恋愛感情を表現することに関心を集中してきた。ところが、そうしていると、日常生活の中でおのずと心に浮かぶことも、政治や社会問題ではなくて、そういう詠嘆やそういう感情になる。
 地理的、歴史的に、比較的外国との対立・抗争の少なかったことが、この傾向をさらに強めた。
 今日、流行歌の圧倒的大部分が恋の歌で占められているのはそういうわけだし、例えばシャンソンを取り入れるときにもっぱら恋の歌を選択してしまうのも、それが最も日本語になじみ、、ぼくたちの日常の感じ方になじむものだからだ。(自然や季節を歌った歌は明治時代には多くあったが、たぶん売れないから、だんだん姿を消してしまった。)
 これに対して、「難しい」内容の歌は表現しにくいからうまくできない。だから優れたものが生まれにくい。それにだいいち、好まれない。
 今の世の中を見ていても、日本人は諸外国に比べて、社会的意識が弱いように思われるのは、このことに関連しているだろう。
 それが悪いと言いたいわけではない。日本人はそうして、洗練された文学や文化を生み出してきたのだから。ただ、自分たちが無意識的にそういうものを好み、そういうものを選択する、そして、社会的な関心を無意識的に振り落としているらしい、ということは、少し意識しておいた方が良い。
 そういうわけで、外国の歌を日本語にして歌う時、深刻な内容の歌、社会的な問題意識の強い歌は、選ばれず、選ばれたとしても、甘い恋の歌に書き換えられてしまう。そして、聴き手の大部分は、もともとそういうものだったと思っている。
 シャンソニエで恋の歌が好まれる。聴き手も歌い手も、いくつになっても燃えるような恋をしたい、人生の意味は恋にある、と思う。社会的な関心や係わりをもっと持った方が良いような社会であればあるほど、日本人は自分の感性の中に閉じこもる。
 山之内重美さんは社会的な意識のとても高い歌い手で、ぼくはそこが大変好きなのだが、そのために苦労もされているだろうと思う。エールを送りたい。
 (外国の歌の日本語への訳について書くはずだったが、話がそれてしまった。明日以降⦅たぶん⦆、少し話を戻してみたい。)
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訳詞について

2018-04-11 22:51:51 | 音楽の楽しみー歌
 ロシアの歌のスペシャリストである山之内重美さんから、Facebook にコメントをいただいた(ありがとうございます)。そのコメントをまず紹介させていただいて、それから少し訳詩について考えてみたい。
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(山之内さんのコメント)外国の歌を紹介する時、日本では苦いところを削り取り、口当たりの良い「甘くさわやか」路線で日本語訳詞をつける傾向が昔からありましたね。うたごえ喫茶で歌われたロシアの歌の大半もそう。実はドイツとの激戦中の今生の別れを歌った「ともしび」(1942年)も、日本軍が外モンゴル国境を越えてソ連に侵攻してくることへの警戒を背景とする「カチューシャ」(1938年)も、いつの時代とも知れない単なるラブソングにしてしまい、<民謡>なんていうまやかしで歌い続けているので、それを正すのが一苦労です(淚)。「思い出のグリーングラス」3コーラス目の訳詞を、悟さん試みてほしいなぁ。
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 「ともしび」についても、「カチューシャ」についても、全くその通りだと思う。日本で歌われているのは、「ともしび」の方はまだしも、出征する兵士が(これから彼が体験するであろう修羅場とかけ離れたロマンチックな形で)登場するが、「カチューシャ」のほうは、前線の兵士とは全く関係ない甘いラブソングだ。
 そして日本ではその甘いロマンチックが受けたのだ。
 「外国の歌を紹介する時、日本では苦いところを削り取り、口当たりの良い「甘くさわやか」路線で日本語訳詞をつける傾向が昔からありました」これもその通りだと思う。
 なぜ、日本ではそうなってしまうのだろうか?
 これは、ひとつには日本語の音韻の特殊性によるものだと思う。
 その点について先に触れておきたい。
 ご存知の通り、日本語の発音の単位は、普通、1音節=1子音字+1母音字だ。母音の前や後ろに時にはいくつもの子音字がついて1つの音節を構成する西欧語とおおいに違う、簡単な構造だ。
 (音節の構造は、一般的に言って、気候温暖な南方の地域ほど単純になり、寒気の厳しい北方の地域ほど複雑になる。ドイツ語、英語、ロシア語に比べフランス語は母音中心でシンプルだし、イタリア語はもっとシンプルだ。ハワイ語やスワヒリ語は、さらにシンプルだ。スワヒリ語は日本語と同様、1音節=1子音字+1母音字 なので、五・七・五の俳句が作れる。このことは、日本語の南方起源説を有利にしている。仮説ではあるが。)
 ここで、歌の歌詞にとって重大なのは、日本語と西欧語では一つの音符に載せることのできる意味の量がまるで違う、ということだ。外国語を知っている人がその外国語の歌を日本語で歌おうとすると、まず当惑するのが、この、意味の量の壁だ。原曲の歌詞が言っていることの何分の一しか、日本語では言うことができない。
 「ラ・ボエーム」を例にとると、Montmartre は、つぎに来る前置詞 en と結びついても3音節だが、日本語で モンマルトル は6音節を要してしまう。
 また、歌いだしの Je vous parle d’un temps que les moins de vingt ans ne peuvent pas connaître(ぼくはきみに、二十歳未満には知ることのできないある時代の話をしよう)は、「モンマルトルのアパルトマンの」で終わってしまう。
(途中だが、今日はちょっと老人性の疲労がたまっているので、続きは明日書く。)
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故郷の緑の草

2018-04-09 22:53:49 | 音楽の楽しみー歌
 ぼくのバンドでの演奏の2曲目は、日本の題名で言うと「思い出のグリーングラス」にしようと思っている。
 これも望郷の歌、ただし非常に特殊な状況での、まことに切ない望郷の歌だ。
 先にぼくの直訳を書いてみるから、ご存じない方はどう特殊なのかを推測してみて欲しい。

故郷の緑の草

列車から降りて見る 故郷の町は
何も変わっていないようだ
ホームで迎えくれるのは ママとパパだ
道のむこうを見ると メアリーが駆けてくる
金の髪と サクランボの唇の
故郷の緑の草に触れるのは 最高だ
 そう みんなぼくを迎えに来てくれる
 手をさしのべて やさしく微笑んで
 故郷の緑の草に触れるのは 最高だ

古い我が家は まだ立っている
ペンキは剥げ ひび割れているが
子供の頃に登って遊んだ あの古い樫の木もまだある
小径に沿って ぼくは愛しいメアリーと歩く
金の髪と サクランボの唇の
故郷の緑の草に触れるのは 最高だ

…それから僕は目覚めて あたりを見回す
灰色の壁に囲まれて
そして気付く ただ夢を見ていただけなんだと
看守と 年取った悲しげな牧師がいるのだから
夜が明けたら 彼らに腕を取られて ぼくは歩くのだ
もう一度 故郷の緑の草に触れるために
 そう みんなぼくに会いに来てくれる
 古い樫の木の根方に ぼくが横たえられるときに 
 故郷の緑の草の下に

 ぼくのつたない訳でもお判りいただけるだろうか?
 死刑囚が、夜明けには執行という前の晩、故郷に帰る夢を見た、というシチュエーションの歌だ。
 アメリカのカントリー歌手のポーター・ワゴナーという人が創唱して、でもアメリカではあまり流行らなかったようで、イギリス人のトム・ジョーンズがカヴァーしてイギリスで大ヒットした。その後いろんな人がカヴァーしている。You Tubeではエルヴィスやジョーン・バエズのものが聴ける。どれもそれぞれ素晴らしい。
 一番・二番は思いきり明るく、喜びに満ちて歌い、三番でがらりとトーンを変えて悲しみにあふれて歌わなければならないのが、難しいところだ。トム・ジョーンズは三番の前半を語りにしているが、ぼくはここは、この感情の落差を歌って表現してみたいものだと思う。

 日本では森山良子が歌ってけっこう良く知られているが、彼女の歌は、肝心の三番に相当する部分が全くない。だからただの能天気に明るい帰郷の歌になってしまっている(故郷に帰りついたら、望郷の歌ではない)。これはどうしたことだろう? 日本では死刑囚の歌は流行らない、と判断したのだろうか? まことに残念なことだ。

Green Green Grass Of Home

The old hometown looks the same
As I step down from the train
And there to meet me is my Mama and Papa
And down the road I look and there runs Mary
Hair of gold and lips like cherries
It’s good to touch the green green grass of home.
 Yes they’ll all come to meet me
 Arms a reaching, smiling sweetly
 It’s good to touch the green green grass of home.

The old house is still standing
Tho’ the paint is cracked and dry
And there’s that old oak tree that I used to play on
Down the lane I walk with my sweet Mary
Hair of gold and lips like cherries
It’s good to touch the green green grass of home.

Then I awake and look around me
At the grey walls that surround me
And I realize that I was only dreaming
For there’s a guard and there’s a sad old padre
Arm in arm we’ll walk at daybreak
Again I’ll touch the green green grass of home.
 Yes, they’ll all come to see me
 In the shade of that old oak tree
 As they lay me ‘neath the green green grass of home.
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故郷につづく道

2018-04-08 21:14:35 | 音楽の楽しみー歌
 ジョン・デンバーの「故郷に帰りたい」の練習を始めた。
 ぼくの、バンドでの演奏の一曲目はこれになるのではないかと思う(先日書いた、発表会の話です)。
 のびやかに歌い上げることのできる、たいへん気持ちの良い曲だ。メロディーもシンプルだし、コードも比較的やさしい。
 望郷の歌だが、北米大陸は広いので、アメリカには望郷の歌がいっぱいある。内容は深刻なものもあるが、そういうものでも気持ちよく歌えるのが多い。
 愛唱歌でおなじみの、「谷間のともしび」も「旅愁」も「なつかしきケンタッキーの我が家」も「故郷の人々」も。どれも好きだ。
 「故郷に帰りたい」は比較的新しく、また、望郷の歌の中でも代表的な一曲だと思う。
 ぼくは英語の訳はふだんはしないのだが、これはちょっと訳してみる(直訳なので、これでは歌えません)。

故郷へ連れて行け 田舎の道よ

天国のような ウエスト・ヴァージニア
ブルーリッジ山脈 シェナンドー川
生命は太古から 樹々よりも古く
山よりは若く そよ風のように育ってきた

*田舎の道よ ぼくを故郷へ連れていけ
 ぼくの属する場所へ
 ウエスト・ヴァージニア 母なる山
 故郷へ連れて行け 田舎の道よ

思い出すのはすべて ウエスト・ヴァージニアのことばかり
抗夫達の思い人(ウエスト・ヴァージニア) 海を知らない彼女
暗く埃っぽい空に 涙にかすんで浮かぶ
月の光の 不思議な味わい 

*繰り返し

夜明けに彼女(ウエスト・ヴァージニア)は ラジオから僕を呼ぶ
その声は思い出させる 遥か遠くの故郷を
車で走りながら ぼくは感じる
昨日には 故郷に帰っていればよかったと 昨日には

田舎の道よ ぼくを故郷へ連れて行け
ぼくの属する場所へ
ウエスト・ヴァージニア 母なる山
故郷へ連れて行け 田舎の道よ
故郷へ連れて行け 田舎の道よ
故郷へ連れて行け 田舎の道よ

Take Me Home Country Roads

Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge mountains, Shenandoah river
Life is old there, older than the trees
Younger than the mountains, growin’ like a breeze

*Country roads, take me home
 To the place, I belong
 West Virginia, mountain mama
 Take me home, country roads

All my memories, gather ‘round her
Miner’s lady, stranger to blue water
Dark and dusty, painted on the sky
Misty taste of moonshine, teardrop in my eye

* Repeat

I hear her voice, in the mornin’ hour she calls me
The radio reminds me of my home far away
Drivin’ down the road I get a feelin’
That I should have been home yesterday, yesterday

Country roads, take me home
To the place, I belong
West Virginia, mountain mama
Take me home, country roads
Take me home, country roads
Take me home, country roads
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サトクリフ/「精霊の守り人」

2018-04-07 22:05:38 | 読書の楽しみ
 「仕事をやめました」、という葉書をあちこちに出したので、「久しぶりに会おうよ」、と言ってくれる旧友がたくさんいて、楽しい懐かしい時を過ごしたが、それも一段落。
 今日も、テンションは下がっている。

 仕事をやめてから、読書量はかえって落ちた。
 ほかにやることがいっぱいあったのと、電車で読まなくなったため、電車の続きを夜更かしして読んでしまう、ということがなくなったので。

 漱石の「三四郎」「それから」「門」「こころ」を読み直したけど、面白くなかった。
徳田秋声の「あらくれ」も読み直したけど、これはかなり良かった。
 現在では漱石の高評価に比べて秋声はほとんど顧みられない作家だけれど、ぼくは秋声はかなり好きだ。漱石よりはずっと良いと思う。
「あらくれ」も、しょうもない下らない現実を書いているのだけれど、主人公の女性の雑草根性が良い。
知識人の苦悩よりは、ありきたりの庶民の苦しみ。

 今、岩波少年文庫のローズマリー・サトクリフを読んでいる。「運命の騎士」を読んで、次いで「ローマン・ブリテン四部作」の「第九軍団のワシ」「銀の枝」を読んで、今「ともしびをかかげて」を読んでいる。
 上橋菜穂子がどこかで「サトクリフの与えてくれたものが非常に大きかった」と書いていると思うのだけど、「守り人」シリーズより、ぼくはこっちが好きだなあ。
 「守り人」は、特にシリーズ前半の女用心棒バルサが主人公の話は、息もつかせぬ戦闘場面が多すぎる。妹がTVの「守り人」シリーズを見て、「戦闘シーンが多すぎて原作とあまりに違う」と言っていたが、ぼくには原作がすでにバルサの戦いのシーンが多すぎると思った。
 話が息詰まる急展開過ぎる。テンポよく読めるが、現代はそういうものが読者や視聴者に評価される時代なのだろう。

 「ゲド戦記」も、「ナルニア国物語」(ぼくはこれはキリスト教の押し付けが強すぎて好きではないが)も、サトクリフの作品も、物語のテンポがもっとずっとゆっくりしている。
 「運命の騎士」は、悲惨な境遇にある犬飼いの少年が、人に助けられ、友人を見つけ、困難や試練を乗り越えて成長してゆく物語だ。
 古い用語をつかえば一種の「教養小説」の系譜に連なる作品だろう(この用語は良くないと思うのだが)。人が成長するには時間がかかる。だからこの物語は戦いに次ぐ戦いではなくて、比較的ゆっくり進む。
 バルサは、少女時代からあまりにも切羽詰まった、身も心も切り刻まれるような戦いの連続過ぎて、時間をかけて成長することができなかったようだ。だから、あまり人間的に変化していない。
 その点、「守り人」シリーズの後半の主人公と言えるチャグム皇太子の方が、大きく変化する機会に恵まれているようだ。
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