すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ヒルサガリ

2022-02-27 20:04:13 | つぶやき

ワタシハ
ハジメカラズット
オマエタチヲミテイタノダ
アワレナ
ニンゲンタチヨ
ホロビユクニンゲンタチヨ
ナンベンクリカエシテモ
マタオナジアヤマチヲオカス
オロカナ ニンゲンタチヨ
アシタノウンメイヲ
シルコトノデキナイ
アワレナ
イトシイ
ニンゲンタチヨ
ワタシハオマエタチガ
モットナガクユルヤカニ
イキツヅケテユクモノト
オモッテイタノダ
ダガモウ
オマエタチニキタイスルノハヤメヨウ

オマエタチガイナクナッタラ
ハグルマノクルッタコノホシヲ
ワタシハカイシュウシヨウ
マタベツノニンゲンタチヲ
ココニスマワセルカドウカハ
ワカラナイ

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2022-02-22 13:01:31 | 自然・季節

冬の午前の鈍い光は
すべてを静止させてしまう
枝の先に一枚だけ枯れ残った
縮れた山吹の葉
霜柱に持ち上げられて
切り通しから落ちてきた小石
道しるべの上を舞っていた羽虫も
そのまま中空に止まって動かない
旅人の歩みも
谷川の側で止まってしまう
心臓の鼓動が消え
白い息も広がるのをやめてしまう
時そのものが凍りついてしまったように

だがたぶん それはほんの一瞬のことなのだ
肌に感じられぬほどの風が立ち
野茨の固い芽をふるわせる
水底に映る枝の影が
止まった水をゆっくりと遡っていく
その時はじめて 旅人は知る
自分の周りに遍在している
目に見えぬ大気を
それが微かに動くと
時が動くのだということを

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ノアの船

2022-02-17 10:03:00 | つぶやき

波は大きく盛り上がり
やや静まったかと思うと
さらに大きく盛り上がり
空は暗く
水は黒く
飛沫(しぶき)は苦い

だがぼくたちは知っている
やがて海は凪ぎ
朝の輝かしい陽が昇る

ぼくたちの船は
どこかの高い山の
中腹に停まるだろう
そこから今度こそは
新しい生活を始めよう

種を蒔き 耕し
自然の中で
子供を育てる生活
子供たちにとっては
すべてが冒険と発見の日々

渦巻く黒い水と闘いながら
朝日の入り江を
想像しよう

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ゴンドラ

2022-02-15 21:34:02 | 夢の記

 ゴンゴン鳴る機械音で目を覚ました。狭い箱の中だ。ガラスと鉄枠でできている。いつの間にか一人乗りのゴンドラリフトに乗っていて、しかも眠ってしまっていたらしい。外は猛烈な霧だ。前後のゴンドラとそれを吊るケーブルの一部しか見えない。どんなところを登っているのか全く分からない。前後のゴンドラには人がいない。つまりぼくはたった一人だ。
 ゴンドラはほとんど停まった状態でゴンゴン鳴りながら振動し、それから数メートルか数十メートルか斜めに一気に急上昇し、また停まって振動するのを繰り返す。振動している時は上昇するための力を溜めているのだろうか?
 ぼくはなぜここにいるのだろうか? 足元にザックが置いてある。してみるとぼくは山登りに来たのらしい。それならば、一緒に来ているはずの友人はどこにいるのだろうか? 一緒に来たのなら、前か後ろのゴンドラに坐っているはずだ。もういちど霧に目を凝らして見てみるが、やはり誰もいない。
 外に岩壁でも雪でも何でもよいから見えれば少しは安心するのだが、完全にホワイト・アウトだ。ぼくはなぜここにいるのだろうか? どうやってここに来たのだろう? このゴンドラはどこに行こうとしているのだろう? 目が覚めてからすでに長い時間が経ったような気がする。これは何時まで続くのだろう?
 ああ、ぼくはずっと昔に、同じような夢を見たことがある。これは不吉な夢だ。この夢は寂しすぎる。 寒い。

 …このあと、本当に目が覚めた。
 夢の中で、「これは夢だ」と思っていることはよくあることだ(多くの人に経験があるだろう)。そのまま夢の中でその夢を方向転換することができる人もいるらしいが、ぼくにはそういう能力は無い。
 ところで、これはぼくがしょっちゅう見る「行き先のわからない夢」のひとつではあるが、今回の場合、重点は、行き先のわからないこと(たぶん老いてゆくことに対する不安)、ではなく、「友がいなくなることの不安」にあるだろう。覚めてからしばらくの間、動悸が収まらなかった。でも大丈夫。夢は予知ではありえない。心の状態の反映に過ぎない。ここのところぼくはだいぶ煮詰まっている。
 今月4日に3回目のワクチン接種を受けたから、効果が表れるまであと2日の辛抱だ。やっと山歩きに出かけられる。気分を変えなければ。

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白い鳥

2022-02-12 17:24:41 | つぶやき

むやみに歩き回るほかに
ぼくにできることは無い
そうして迷い込んだ路地で 
真白い鳩を見た
数メートル先の地面から
ぼくの左手をかすめるように
飛び立っていった

若い頃 ぼくの彼女は
白い鳥になったのだと
それを彼女自身が
知らせに来たのだと
ぼくは信じていた

今のぼくは
魂の存在を信じてはいないが
だからこそ この世の
命は限りなく大切だ

だがなんてことだ
ぼくはさっき 白い鳩を見て
昔の恋人を思い出し
魂のことなどを考え
いま闘っている君のことを考えた

なんてことだ!

君は決して 
白い鳥になるな

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訂正と補足

2022-02-11 10:08:04 | 音楽の楽しみー歌

訂正:昨日の記事をアップした後で念のために「朝倉ノニーの歌物語」にアクセスしてみたら、ぼくはフランス語の大きな間違いをしていることに気づいたので、訂正しておきたい。

 第三節の「時の調べを生きていた」と訳したところは原文では
   Et nous vivions de l’air du temps 
だが、「vivre de l’air du temps」は成句で、「無一文で暮らす」という意味なのだそうだ。
ただ、貧しく、腹が減って、というのがすでに繰り返し出てくるし、

「時の調べを生きていた」⇒「霞を食って生きていた」 と訂正したい。

(「l’air du temps」に含まれる詩的ニュアンスは残しておきたい。例えばニナ・リッチの香水「l’ air du temps 」はやはり「時の調べ」だろうし、ここを単に「無一文」とするのはやや寂しい。「かすみを食べて生きる」の訳語は「ロワイヤル仏和中辞典」にあった。)

ついでにその前の「誰もが」はやはり「二人は」に訂正しておきたい。これは、浮草暮らしをしている仲間たち全員を包みたかったので、勇み足。
 ぼくはシャンソンに関心を持っていた時期は比較的短かったので、調べ足りないところはいろいろある。朝倉ノニーさんの上記のサイトは大変詳しく、教えられるところが多い。これを読んでいる人は関心があったらそちらも当たってみてください。

補足:「ラ・ボエーム」はもともとはプッチーニの有名なオペラのタイトルだ。主人公は絵描きではなく、お針子のミミと詩人のロドルフォだ。こちらは「冷たい手を」、「私の名はミミ」、「愛らしい乙女よ」、「あなたの愛の呼ぶ声に(ミミの別れ)」、「みんな出かけてしまったの?」など、心を震わす名曲が目白押しだ。ただ、オペラはそういうものが多いが、ストーリーはややお粗末だ。これは名曲集として聴くほうが良いかもしれない。あるいは、映画のほうが良いかもしれない。アンナ・ネトレプコがミミ役を演じた2008年の映画は哀切で涙が止まらなかった。
 オペラの舞台は1830年代のカルチェ・ラタンだが、これは「レ・ミゼラブル」の中の学生たちの蜂起(1832年)と同時代だ。
シャンソンの「ラ・ボエーム」は主人公を絵描きに絞って、したがって舞台をモンマルトルに移した。こちらは歌があるだけで、どんな物語があるのかはわからない。(ぼくは「ラ・ボエーム」を最初に聴いたのはアズナヴールの歌唱ではなくて、ジョルジュ・ゲタリーという歌手のものだった。感情がこもらなくて上っ面な歌だった。シャンソンの10枚組のCD の中にあった。これは1965年のオペレッタの中で使われたものらしい。それは見ていないし、見るつもりもないが。)
アズナブールの歌の素晴らしいところは、オペラとは逆に、それを聴くぼくたちが、聴きながらめいめいの青春の物語を重ねられるところにある。例えばぼくの年代なら、5月革命のパリに重ね合わせることもできるし、あるいは茗荷谷の、今は無い東京教育大学のキャンパスに重ねわせることだってできる。
 個人的には、ゴットフリート・ケラーの小説「緑のハインリヒ」の、ミュンヘンの画学生たちの極貧の青春を連想する。同じような青春がいつの時代にもあちこちにあった。

 

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「ラ・ボエーム(浮草暮らし)」

2022-02-10 07:37:25 | 音楽の楽しみー歌

 ネーサン・チェンがこの曲でショートを滑るのを見ていて、「ああ、懐かしい!」と思った人はかなりいるのではないだろうか。何よりもまず、アズナヴールのあの声の響きが懐かしいし、その声から紡ぎ出されてくる、ぼくの青春が、ぼくたちそれぞれの青春が懐かしい。
 今日の昼にフリーがあるそうだから、そこでは別の曲が使われるのだろうから、それが始まる前に、急いで訳を掲げておこう。

      シャルル・アズナヴール (樋口悟:直訳)

未成年には分からない
ある時代の話をしよう
あの頃モンマルトルでは
リラの花が窓辺まで咲いて
ほとんど家具もないぼくたちの巣は 
ひどくみすぼらしかったけど
そこで二人は出会ったのだ
ひもじさに悲鳴を上げていたぼくと
裸でモデルをしていた君と
  「ラ・ボエーム」「ラ・ボエーム」
  その言葉は「二人は幸せ」って意味だった
  ラ・ボエーム ラ・ボエーム
  二日に一度しか食べられなくても

近くのカフェでぼくたちは皆
栄光を待つ者だった
空きっ腹を抱えて
惨めではあったけど
そう信じて疑わなかった
そして どこかの居酒屋が
暖かい食事と引き換えに
一枚の絵を取ってくれると
ぼくたちは詩を口ずさみ
ストーブの周りに仲間たちと集まって
冬の寒さを忘れた
  ラ・ボエーム ラ・ボエーム
  それは「君は美しい」って意味だった
  ラ・ボエーム ラ・ボエーム
  ぼくたちはみんな天才だった

ぼくはよく画架に向かって
君と幾夜も夜を明かした
君の胸のふくらみや腰の線の
デッサンを描き また直しながら
ひと椀のカフェ・オ・レを前に腰を下ろすのは
もう明け方だった
へとへとになりながらも夢見心地で
抱き合わずにはいられなかった
人生を愛さずにはいられなかった
  ラ・ボエーム ラ・ボエーム
  それは「二人は二十(はたち)」って意味だった
  ラ・ボエーム ラ・ボエーム
  誰もが時の調べを生きていた

あるとき 偶然に導かれて
ぼくたちの古い住みかの
界隈を一回りした
見覚えのあるものは何一つなかった
ぼくの青春を見ていたはずの
壁も通りも
階段を上がってかつてのアトリエを探してみたけど
もう何も残ってはいなかった
新しい大道具に囲まれた
モンマルトルは悲しげで
リラも枯れていた
  ラ・ボエーム ラ・ボエーム
  二人は若く 愚かだった
  ラ・ボエーム ラ・ボエーム
  その言葉にはもう 何の意味もない

注1:リラの花はフランスでは青春の象徴です。だから、かつては貧しい二人の窓辺に咲き、今はもう枯れている。だから、「リラの花の咲く頃」、人々は愛を語る。また、だから「過ぎ去りし青春の日々」で、青春はリラの色をした瞳を私から背けてしまう。そういうことが本当は分かっていないと、「涙の向こうで揺れているリラ」や「窓辺に開くリラの花」が、単なる小道具になってしまうと思います。

注2: 原曲でMontmartreには八分音符2つしか充てられていないのに、日本語のモンマルトルは音符5つになっている。これは日本語の特徴で仕方ないし、そこが短所なだけではなく長所にもなりうる(俳句や短歌の短詩形を発達させた)のですが、歌の詞として訳そうとすると「愛の部屋で」「愛の眠りの」「愛の街角」などのあいまいな決まり文句を採用せざるをえないのは残念なことです。ただ、そんな条件の中でも、なかにし礼さん訳の歌詞はさすがに簡潔で素晴らしく美しい。

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2022-02-07 08:42:06 | つぶやき

ジャンプの選手が
向かい風がなければ失速してしまうように
鳥も
風に向かって飛ぶ
だから
遥かな高みを
ゆっくりと舞っているように
見える時
鳥は体の力のすべてを
意志のすべてを使って
前に進もうとしているのだ

飛び続けろ!

力の尽きる前に
次の休み場所に着くと
ぼくは信じている

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悲しみ

2022-02-06 09:14:39 | つぶやき

(ぼくはもう 空を飛ぶすべを
 身につける事はないだろう…)

飛べない悲しみと
飛び続けねばならない悲しみは
どっちが重い?

空を探しても
答えは見つからない

君は今 この瞬間
いのちの瀬戸際にいる

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立春大吉

2022-02-03 10:44:30 | 自然・季節

これまでに
悔んでも悔みきれない傷あとを
いくつか しるしてしまった
もう どうにもならない
だが
これから
どうにかできる 書きこみのない
まっさらの頁があるのだ
と思おう
それに
きょうこの日から
いっさいがっさい なにもかも
新しくはじめて
なにわるいことがある

 私の詞華集38川崎洋 詩集 『食物小屋』より「これから」           

    立 春 大 吉 

 ここ数年、年賀状を書かずにこの時期にご挨拶をさせていただいています。 
 人類は、気が早いかもしれませんが、コロナ感染症自体は、乗り越えつつある、と思います。ただ、そのあとに、究極的に困難な、解決しなければならない数々の問題を抱えています(ブログ「ぼくが地上を離れる前に」の「激しい雨」22/01/14と「ウイルス」01/29も読んで頂けると嬉しいです)。何ができるわけでなくても、現在を見詰め続けましょう。
 でもまだ、希望は捨てないでいよう。良い音楽を聴いて、良い本を読んで、もう少し暖かくなったら、歌を口ずさみながら野山を歩こう。草に坐って友達とお昼も食べよう。夢を語ろう(いくら困難でも、歳を取っても、夢はあるのだから)。熱い議論もしよう。(新しい春にあたっての、自戒の言葉です。)
 ぼくは今年は山登りの計画がいっぱいあります。良かったら声をかけてください。ご一緒したいです。

皆様方のこの一年のご健康とご多幸をお祈りいたします。

(年賀状をいただいた方への寒中御見舞いのはがきの文です。)

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