すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

音韻と感性

2018-04-12 21:42:39 | 社会・現代
 ユーラシア協会のMisako Takizawa さんからFBにコメントをいただいた(ありがとうございます)。これも、これから書くことの関係があるので、以下に紹介させていただく。
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(Takizawaさんのコメント)中国語でもロシアの歌はほぼオリジナルの意味が当てられてます。一音一漢字だから載せられる意味の量が多いのは当然ですが、リアリストな中国の国民性かなと思ったことがあります。対して日本人はウケない(都合の悪い)部分をカットする? 以前、朝日の当たる家の原詩を始めて知ったときも思いました
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(昨日の続き)これは実は、歌の訳詩だけの問題ではなく、日本人の感性そのものに、および日本文化の性質に影響している。音韻などというような本質的な問題が、感性の在り方にかかわらないわけがない。
 日本人は、古代から、比較的短いシンプルな言葉の中に情感を盛り込むことを好み、また得意とする。五・七・五も、五・七・五・七・七も、七・七・七・五も、そうして好まれ、洗練されてきた。
 ところで、そうした比較的シンプルな表現方法では、複雑な、社会的・哲学的・歴史的な問題意識は取り扱いにくいし、十分に展開することが難しい。
 だから、日本人は、そういう形式になじみやすい、自然や季節を前にしての詠嘆や、恋愛感情を表現することに関心を集中してきた。ところが、そうしていると、日常生活の中でおのずと心に浮かぶことも、政治や社会問題ではなくて、そういう詠嘆やそういう感情になる。
 地理的、歴史的に、比較的外国との対立・抗争の少なかったことが、この傾向をさらに強めた。
 今日、流行歌の圧倒的大部分が恋の歌で占められているのはそういうわけだし、例えばシャンソンを取り入れるときにもっぱら恋の歌を選択してしまうのも、それが最も日本語になじみ、、ぼくたちの日常の感じ方になじむものだからだ。(自然や季節を歌った歌は明治時代には多くあったが、たぶん売れないから、だんだん姿を消してしまった。)
 これに対して、「難しい」内容の歌は表現しにくいからうまくできない。だから優れたものが生まれにくい。それにだいいち、好まれない。
 今の世の中を見ていても、日本人は諸外国に比べて、社会的意識が弱いように思われるのは、このことに関連しているだろう。
 それが悪いと言いたいわけではない。日本人はそうして、洗練された文学や文化を生み出してきたのだから。ただ、自分たちが無意識的にそういうものを好み、そういうものを選択する、そして、社会的な関心を無意識的に振り落としているらしい、ということは、少し意識しておいた方が良い。
 そういうわけで、外国の歌を日本語にして歌う時、深刻な内容の歌、社会的な問題意識の強い歌は、選ばれず、選ばれたとしても、甘い恋の歌に書き換えられてしまう。そして、聴き手の大部分は、もともとそういうものだったと思っている。
 シャンソニエで恋の歌が好まれる。聴き手も歌い手も、いくつになっても燃えるような恋をしたい、人生の意味は恋にある、と思う。社会的な関心や係わりをもっと持った方が良いような社会であればあるほど、日本人は自分の感性の中に閉じこもる。
 山之内重美さんは社会的な意識のとても高い歌い手で、ぼくはそこが大変好きなのだが、そのために苦労もされているだろうと思う。エールを送りたい。
 (外国の歌の日本語への訳について書くはずだったが、話がそれてしまった。明日以降⦅たぶん⦆、少し話を戻してみたい。)
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