すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

マンドリン・ギター・バイオリン

2021-03-25 19:16:12 | 音楽の楽しみー楽器を弾く

 二か月ぶりにマンドリンを取り上げてみる気になったのは、先日触れた辻まことのおかげだ。
 彼はギターの名手で、行きつけのあちこちの酒場で弾き語りをしたのだそうだ。ある程度お酒が入って興が乗ったところで彼がギターを手にするのをお客も楽しみにしていて、がやがやした雰囲気の中で歌い出しても途中からシンと聴き惚れていたという。
 いいなあ、と思った。マンドリンはピックで弾くからスリーフィンガーとかできないし、主にメロディーを弾く楽器だから弾き語りには向いていない。コード奏法も、とくにアメリカ音楽のマンドリンは、できないわけじゃないけど、ギターほどの歌とのしっくり感は、たとえ名手であっても望めない。
 それに、ぼくの場合は弾き語りといっても、単純にコードをじゃんじゃんと弾くか歌と一緒にメロディーを弾くかしかできない(もっとも、同じく旋律楽器のドムラでも、むかし自分でコードの押え方を考えて、そんな稚拙な弾き語りをしていたけどね)。
 だから自分でもやりたい、という話ではない。ただ、そういう場に居合わせて、楽器を弾くのじゃなくてみんなと一緒に歌えれば良いなあ、と思うのだ。
 霧ヶ峰のクヌルプヒュッテに泊まったら、サロンの長椅子の後ろの隅っこに年季の入ったギターが二本置いてあった。若主人に「弾くのですか」と訊いたら、「いいえ、自分がまだ子供の頃、父の山の仲間たちが集まって歌っていたのですよ」と言っていた。
 9月初めに北アルプスの大日小屋に泊まったら、夕食後ランプの灯りの下でスタッフがギターのミニコンサートをしてくれた。常念小屋では8月下旬、たまたまその日は年に一度の小屋祭りだとかで、音大のフルート専攻の学生と卒業生たちによるコンサートがあった。どちらもとても幸せな気分になったのだが、山小屋で仲間たちが歌を歌う、というのはまた特別な楽しみだろう。今でもそういうことをしている小屋はないだろうか。
 そうだ、コロナが収束したら、とりあえず何人か誘ってクヌルプヒュッテに泊まりに行こう。楽器は無くても、山の歌やフォークを歌うだけでも良い。

 話が変わるがついでに、立原道造に、忘れられていた弦楽器を鳴らしてみるという詩があるのを思い出したので、下に引いておく。この詩の楽器は「弓」と書いてあるからバイオリンだろうが、イメージとしては膝に乗せて弾く竪琴でも良いように思う。

    民謡
            ―—エリザのために
弦(いと)は張られてゐるが もう
誰もがそれから調べを引き出さない
指を触れると 老いたかなしみが
しづかに帰つて来た・・小さな歌の器

或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に
人はときをりこれを手にとりあげる
弓が誘ふかろい響き—―それは奏でた
(おお ながいとほいながれるとき)

――昔むかし野ばらが咲いてゐた
野鳩が啼いてゐた・・あの頃・・
さうしてその歌が人の心にやすむと

時あつて やさしい調べが目をさます
指を組みあはす 古びた唄のなかに
――水車よ 小川よ おまへは美しかつた

 註:「エリザ」は「エリーザベト」の略。テオドール・シュトルムの中編小説「みずうみ」の主人公の幼なじみの名。立原は一時期、自分の想い人をこの名で呼んでいた。

 

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久しぶりにマンドリン

2021-03-24 17:01:16 | 音楽の楽しみー楽器を弾く

 このごろ、時間があれば本を読み歩き回りたいので、楽器を手にすることも、歌を歌うことさえ、すっかり縁遠くなっていた。コロナ禍でボランティアでお年寄りの会に行くことも無くなったし、モチベーションが下がったということもある。
 昨日、久しぶりにマンドリンを手にしてみた。なんと、ほぼ2か月ぶりだった。弦楽器は長期間放置しておくと次第にテンションが上がってしまい、しまいには弦が切れたり竿が曲がってしまったりすることがあるが、ぼくのはかなりしっかりした良い楽器であるためか、2か月ぐらいではまだ長期間放置とまではいかないものか(、それとも冬の間の乾燥で木が縮んだか)、幸いテンションは少し下がったぐらいだった。
 鳴らしてみると、暖かい良い音がした。
 ぼくのはフラットマンドリンという、アメリカで発達した楽器で、イタリアの胴の丸い普通のマンドリンに比べると地中海の繊細な抒情性はやや弱いかもしれないし、ロシアのドムラに比べると北国の澄んだ哀愁はやや弱いかもしれないのだが、そのかわり明るく開放的な伸びやかなプレーリーの音がする。
 指はだいぶ動かなくなっている。というより、これはパソコンのキーボードでも同じだが、指が勝手に正しくない場所に行く。♯や♭で意識して指を動かさないと、隣の位置に行きがちになる。でもまあこれはサボリっぱなしでいたのだから仕方がない。
 声を出してみたら、これも結構出た。結構出た、といっても、とても人前で歌うレベルじゃないが、自分だけで歌の気分に浸るには差し支えはない。
 昨日歌ってみたのはフォークソング系の「イカ採りの唄」、「芭蕉布」、「バラが咲いた」、「時代」、「希望」、山の歌で「遥かな友に」、「いつかある日」、それに懐かしいロシアの歌「私の焚火」。どれも比較的テンポのゆっくりとした、弾きやすい歌いやすい曲だ。
 ここのところの、どちらかといえば鬱々とした気分が晴れた。毎日1時間でも、あるいは30分でも歌えばよいのだろうが、保土谷の林の中のように一人暮らしではないし、周囲に全く気兼ねがなく、というわけにもいかないし、また、このごろ主な関心事がそこにはないので、なかなかそうはいかない。

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クリス・シーリーのバッハ

2020-05-25 21:22:15 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 ここのところ、クリス・シーリーの演奏するバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」というCDに嵌まっている。
 クリス・シーリーという名前は聞いたことがない人が多いかもしれないが、アメリカのブルーグラス音楽というジャンルのフラットマンドリン(以下、フラット)の奏者だ。ぼくはブルーグラスに詳しくないが、世界一の奏者だそうだ。
 だからヴァイオリンではなく、バッハをフラットで弾いている。ぼく自身フラットの練習を独学でしているが(ちっとも上手くならないのだが)、こんなに美しい音のする楽器だったなんて、知らなかった。びっくりした。何度も、ロシアのドムラやイタリアのマンドリン(以下、ラウンド)に比べてやや頼りない音色の楽器だな、と感じていた。目が覚める思いがしたた。この発見だけでも、とても嬉しかった。
 このCDをほぼ毎日聴いている。夜寝るときも、枕もとの小型スピーカーで小さい音でかけている。今までは入眠時に聴くのはもっぱらせせらぎの音だったのだが。これはせせらぎの音と同じくらい、あるいはそれ以上に、ゆっくりとくつろいで安心して眠りにつける。やわらかな悲しみの響きが感じられるのが、せせらぎの音よりもいっそうぼくの気にいったのかもしれない。
 こんなに一つの音楽に嵌まったのは、若い頃繰り返し聞いた、ミッシェル・ベロフの演奏するオリヴィエ・メシアンのピアノ曲「幼児イエズスに注ぐ20のまなざし」以来だろう。
 
 さて、ぼくは残念ながら、音楽を聴いて語る言葉を持たない。この演奏のどこがどう素晴らしいかを分析する能力を持たない。だから、心地よい、とか、感動的だ、とかというようなことしか書けない。そういうことを少しだけ書こう。
 (ぼくは、ヴァイオリンという楽器にあまり心を惹かれない。ピアノソナタや協奏曲は聴くけど、ヴァイオリンのそれは聴かない。ヴァイオリンは、過剰に思える。表現力過剰、感情過剰。だからこのバッハも原曲を聴いていない。)

 マンドリンはピックで弾くから持続音が出せない。持続音の代わりにトレモロで弾く、というのが常識だが、ここではトレモロは使われていない(もともと、ブルーグラスではラウンドと違ってトレモロを多用しない。持ち味は速弾きだ)。
 演奏が始まると、いくらかくぐもったような、古風な音色に驚く。ドムラやラウンドのようには完全には澄み切らない、すこしかすれたような音。それがいっそう、古い昔のなつかしい憂いを新しく心に沁み入らせる。そう、これはバッハよりさらに前の、エリザベス朝のイギリスのような音楽だ。ジョン・ダウランドのリュート歌曲に近いかもしれない。
 そういえば、ダウランドのリュート歌曲も、若い頃に嵌まった。シーリーのフラットの演奏はマンドリンではなくリュートの音色を現代に蘇らせたようだ。
 それにしても、ものすごいテクニックだ。CDのタイトルに「超絶のマンドリン」とあるがその通りだ。超高速の左手の動きもすごいし、右手によるダイナミズムのコントロールもすごい。とくに、通奏低音に当たるものを弾きながらの高音のものすごい高速のパッセージ。複数弦を一緒に弾くのは、マンドリンはそもそも複弦だから例えば二つの弦なら一回のストロークで4本の弦を横断しなければならず、弓で同時に音が出せるヴァイオリンよりも場合によっては難しいのではないだろうか。
 持続音が出せない楽器でヴァイオリンのための曲を弾いてしかもそれが感動的でありうるためには、頭を切り替えてまったく別の表現を成立させなければならない。この演奏はそれに見事に成功している。

追記:クリス・シーリーは「パンチ・ブラザーズ」という名の5人組のバンド活動を主にしている。フラットとギターとベースとバンジョーとフィドル(ヴァイオリン)のバンドで、彼はリーダーであり、リードボーカルも担当している。でもそのサウンドは(声も)ぼくには残念ながら全然ピンと来ない。シーリーに興味を持っても、お間違えになりませんように。

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望郷じょんから

2019-02-23 21:32:42 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 町内会の老人クラブに、津軽三味線の達人がいる(かりに、Uさんと呼ぶ)。鉄工所を経営していて、事故で左手の指を一本怪我しているのだそうだが、音を聞いているとそんなことは全く分からない、素晴らしい演奏だ。来年、東京オリンピックの開会式のイベントでも弾くのだそうだから、本当にすごい。
 老人クラブの集まりのある時には、その演奏を聴かせてくれる。ぼくもその集まりでマンドリンを鳴らしながら歌うのだが、Uさんの前後では、自分のやっていることがあまりにへたっぴーで、気後れがして、「やりたくないな-」、といつも思う。もっとも、ぼくは皆さんと一緒に歌えばいいと思っているので、それでもやるのだが(先日、彼はぼくのあとに登場して、「わたしは歌えないので…」と言っていた。人それぞれ持ち場はある)。
 その音色があんまり素晴らしいので、ぼくもやってみたくなった。もちろん、三味線を、ではなく、津軽っぽい音楽を、マンドリンでだ(もちろん、単なるまねっこだ)。
 三味線の楽譜などぼくに理解できるはずもないし、あれは師匠と一対一で一音一音稽古するものだろうから、やりようがない。そこで、細川たかしの「望郷じょんから」をやってみた。たまたま、家に伴奏付きの楽譜があったのだ。
 やってみると、なかなか楽しい。
 津軽三味線による前奏・間奏・後奏は、はじめのうち何がなんだかわけがわからなかったが、手の付けようがないながらやっていると、そのうち何となくメロディーラインだけは見えるようになってきた。でも津軽三味線特有のあのずり上がるような唸るような音はどうすれば出せるのだろう? 
 フラット・マンドリンのテクニックのハンマー・オンかスライドで、いくらか雰囲気だけは出せるようだが、本当はどうするのかは分からない。連続して同じ音を素早く弾くときに、右手のピッキングだけではなく、左指をいちいち上げて下ろす方が、近い感じになるようだ。これはマンドリンやドムラではやらないようだが。
 こんどUさんに会ったらどうするのか尋ねてみよう。たぶん4月下旬だろうから、それまで自分でいろいろ考えるのも楽しい。
 津軽三味線とマンドリンでは楽器としての表現力が数段違うと思うし、Uさんのように何十年やっている達人のしていることが真似できるわけはないので、やってみること自体あまり意味がないのだが、興味深くて楽しければそれでよいことにしよう。
 人に聴かせるものじゃなし。
 アンデスのフォルクローレの楽器、チャランゴみたいな感じで「コンドルは飛んでゆく」を弾いてみる、とか、沖縄の三線みたいなかんじで「芭蕉布」を弾いてみるとか、遊びはいろいろできる。
 余生は遊びだからね。
 あ、ついでに、津軽三味線の真似をするには、マンドリンのあの小さいピックではなくて、ギター用の大きな三角のピックの、鼈甲製のを使った方が良いようだ。これも、遊びの中の発見だ。

 明日は友人と筑波山だ。ケーブルカーで登るようだし、帰りは温泉なので、ハイキングというよりは物見遊山だけれど。
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音色

2019-02-13 20:35:50 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 同じ楽器を弾いても、弾く人によって音色は大きく違う。熟練した人が弾くとクリアな良い音に、初心者が弾くと、ぼやけた頼りない音になる。これは聞いている人がアマチュアでも、違いはすぐわかる。ピアノの音色などで多くの人が経験していることだろう。
 ぼくが以前持っていた2台のドムラの片方を手放した時、渡した相手がそれを手に取って弾き始めた瞬間に驚いたことがある。ぼくが弾いていた時と全然違う音が出た。「これは、こんなに良い音だったのか」と思った。相手は、ロシア民族楽器オーケストラの指揮者で、日本一の演奏家でもあるのだから、あたりまえと言えばそれまでだが。
 また、良い楽器は弾き込めば引き込むほど、初めは生硬だった音が柔らかくしかも豊かに響くようになるということも良く知られている。
 ぼくの今弾いているフラットは、やっとこの頃、初めの頃よりは良い音で鳴るようになったと実感できる。専門家が弾いたらこんなものではないだろうが。
 昨日ぼくは、「あまり進歩していない」と書いたが、じつは楽器もぼくも、いくらかずつは進歩しているのかもしれない。ぼくの腕はとにかく、いまの楽器には満足している。
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立ち弾き

2019-02-12 21:48:12 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 ロシアの民族楽器ドムラを腰痛でマンドリンに持ち替えてからそろそろ3年になる。あまり進歩していない。
 マンドリンと言っても、普通のマンドリンはやはり腰に負担が来るから、ぼくのはフラットマンドリンという楽器だ。最初の練習用のを買ってほぼ1年後に、「なんとかやれそうだ」と思って買い替えてちょうど2年になる。
 今もっているのは、ウエーバー社のAタイプの、かなり良いものと思われる、なかなか美しい楽器だ。こんなに進歩しないのでは宝の持ち腐れでもったいないくらいだ。
 フラットは本来はカントリー・ミュージックでバンジョーとかフィドル(ヴァイオリン)とかと一緒に、ストラップで肩から吊るして立って弾く楽器だ。ドムラからの習慣でずっと座って練習していたが、最近になって立って弾いてみたら、体全体を使うから大変気持ちが良い。感情もずっと入れやすい気がする(もちろん、マンドリンの奏者は座って弾いて感情を入れている。初心者の話だと思ってほしい)。右手の強弱も付けやすい。
 ぼくは弾きながら歌をうたうのだが、歌も乗りやすい気がする。ただし年寄り故、疲れてしまうから、譜面台を二つ並べて、立ったり座ったりしながら弾いている。
 若い頃、合気道の練習をしていて右側のあばら骨を折って(剥離骨折して)、医者がそのままコルセットで固定したから、今でも骨が出っ張ったままだ。これが楽器の背に当たって痛いので、出っ張った骨の上下に肌着の上から極厚の隙間止めテープを張って、当たらないようにしている。
 立って弾くようになったきっかけは、心臓だ。この冬は少し心臓の動悸が強く、やや圧迫感もあり、楽器を弾くときに共鳴して余計に動悸が強くなるような気がしたので、なるべく心臓から離した位置で、今までよりも下げて弾いてみようと思ったのだ。左手首の返りがやや強くなって慣れるまでは多少弾きづらい、心臓には良いようだ。
 いろんなことがあって、いろんな発見をするものだ。
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記憶―かぐや姫の物語(6)

2019-01-31 14:24:43 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 彼女は、雲の上から振り返る。彼方に青く美しい地球が浮かんでいる。
 その情景が、彼女の心になぜだか引っかかる。何かそこに大切なものがあったように思う。そこに何か残して来たものがあるように思う。それが何なのかは、今の彼女にはわからないが、思い出さなくてはいけない何かだったように思う。
 これは驚くべきことだ。
 地上での記憶を忘れてしまうという天の羽衣を着せられたにもかかわらず、彼女は記憶の全てを失くしてしまったわけではない!
 このことは、彼女がかつて月の世界にいたときに会った天人のことを考えれば、いっそう明らかだ。その天人は、かつて過ごしたことのある地上の世界のわらべ歌を覚えている(いつの時点かで、思い出した)。そしてそれを口ずさみながら、涙を流す。
 その天人が、自分を育ててくれた人、心を通わせた人、地球の四季の美しさ、などを具体的に思い出しているわけではないかもしれない。しかし、空にかかる青く美しい地球を見上げながら、天人の心は悲しみにあふれている。そこに何か、自分の心をひどく悲しくさせるもの、ひどく懐かしいもの、があったことを思い出しているのだ。そして、その地に帰りたいと思っている。  
 帰りたいと心から思っているからには、わらべ歌を歌っているうちに、その歌のうたわれたシチュエーションの一部ぐらいは思い出しているのかもしれない。養い親のことぐらいは思い出しているかもしれない。
 …そうすると、かぐや姫も、記憶が完全に失われたのでない以上、青い地球という手掛かりがある以上、これから少しずつ思い出すことになるだろう。そして、そこが、ありありと見えているのにもかかわらず、決して再び行くことができない場所であることに、胸塞がれるに違いない。
 彼女は、月の世界でやがて結婚するだろう。自分も子供を育てる人になるだろう。それでも、地球の美しい夜には空を見上げて泣くだろう、幾夜も幾夜も。
 彼女が月の世界で送らなければならないのは、そういう生活だ。

 最後に、アニメ版で迎えに来た天人の“王”に彼女が叫ぶ言葉を記しておこう。「かぐや姫の物語」の全体は、この言葉のためにこそある、と言ってもいい。
 「喜びも悲しみも、この地に生きるものはみな彩りに満ちて(いるのです)」(終)
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オデル

2018-12-10 10:27:03 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 そう、ぼくは2年間受けていたブルーグラスのレッスンをやめてしまった。
 そのことは当然ある種の断念に違いないのだが、やめて良かった。ここのところ、もうイヤイヤ練習をしていて、気分が悪かった。
 「わらの中の七面鳥」みたいな、どれも同じような練習曲を、ゆっくりの速度から始める。トレモロ奏法はほとんど使わず、アップダウン奏法で弾く。先生が一緒に弾いてくれて、メロディーとコードのパートを入れ替える。その速度で弾けるようになったら、だんだん上げていく。延々これの繰り返しで、2年間を過ごしてしまった。
 プロの演奏を聴くと、ものすごい高速で弾いている。高速で弾くのが、ブルーグラスマンドリンの持ち味らしい。元のゆっくりしたメロディーを高速で装飾して弾くというのは、言わば、演歌のこぶしのようなものだと思う。こぶしがいかに上手くなっても、それだけで歌が心に伝わるわけではない。と僕は思う。昨夜のプロのマンドリンも、聴いていて面白いと思わなかった。
 もっと抒情的な音楽がしたい。心を伝えられる音楽がしたい。
 ぼくが、高速で弾けるようにはならなかった、というのは事実なのだが。

 それで今は、普通のラウンド・バックのマンドリン用の、代表的な教則本である「オデル」を練習している。先日、「イケガク」のサイトで、青山忠氏がオデルの最初の53の練習曲を模範演奏しているDVDがあるのを知った。早速購入した。
 それが、いつ止めようかと思っていたブルーグラスをやめる転機になった。
 今、一日に1時間半ぐらいオデルを練習して、もっと時間の取れるときにはいろんな歌を弾き語りで一人で歌っている。オデルは、練習曲でも美しくて、弾いていて楽しい。部屋の外に漏れる音で、妹が「前のよりずっと気持ちいいね。前のは、またか、という感じだったけど」と言っている。
 53の練習曲だけは、一昨日53番目まで到達した(以前から、時々気になって試し引きしていたので、一気に全部こなしたわけではない)。ちゃんと弾けるというわけではないし、ましてデュエットできるわけではない(オデルのこの部分は、先生の伴奏で合奏するように書かれている)。でも、とりあえずそこまで行ってみようと思ったのだから、今はこれでよいことにする。これからはじめに戻る。
 これは、上下2巻あるオデルの1巻目のまだ前半だ。ここから先は(ここまでのところも)、誰かに指導してもらわなければ進めないだろうと思う。
 ぼくは、(ラウンドは腰が痛くなるので)フラット・マンドリンを弾いているので、先生を見つけるのは至難だろう。すでに、問い合わせてみたところは断られている。
 この2年間、最初からオデルをやっていれば、今頃は下巻の方に入っていたかもね、と思わないでもない。まあ、仕方がないけどね。

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ブルーグラス

2018-12-09 21:05:59 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 今夜ブルーグラスのコンサートに行ったのだが、自分がそこから降りてしまったせいか、面白く感じなかった(ブルーグラスとは、ケンタッキー州を中心に広がったアメリカのカントリー・ミュージックの一種だ。念のため)。  次々に演奏され、歌われる曲が、ほとんど同じように感じた。同じような曲想、同じように繰り返し高音をのんびりと引っ張る歌唱法、同じような演奏技法。それに、不安定な音程の歌。
 急に寒くなったので体が慣れなくて、頭が重く、ふらふらする感じだったせいもあるかもしれないが、途中の休憩時間に、もういいや、と思ってホールから出てきてしまった。ここ何年も安定していた血圧が上がってきたのかとも思った。家に帰って計ってみたら、正常値だったので、そのせいではない。
 近年聴覚が衰えていて、耳に手を当てないとよく聞こえないということが多く、クラシックの演奏会などでも、仕方なくS席に座るのだが、小ホールの前から6列目ぐらいにいたので、耳のせいでもない。
 やはり、演奏が物足りなかったのと、このジャンルに興味が持てなくなってしまっているせいだろう。
 かつては自分も親しんでいた音楽から心が離れてしまっているのを改めて感じるのは寂しい。そういえばシャンソンもそうだが。
 そう、ぼくは2年間受けていたブルーグラスのレッスンをやめてしまった。
 でも、そのことは明日書こう。
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セレナーデ

2018-10-11 23:26:21 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 先日、某学校のマンドリン・コンサートを聴きに行った。中等部、高校、大学、OB会のそれぞれのステージに、合同ステージまであって、某大ホールで行われる大掛かりなものだった。
 合同ステージの「ウエストサイド物語メドレー」はなかなか楽しかったが、ほかの、主にクラシックの名曲たちはどれもあまり心に届かなかった。
 ぼくは最近、聴力がだいぶ落ちているので、コンサートは前の方で聴ことにしていて、今回も前から7列目で聴いたのだが、物足りない感じだった。後ろの人を気にしながら、部分的に耳に手を当てて聞いてみたのだが、やはり物足りなかった。
 マンドリンはあまり音量の出ない楽器なので、大ホールでの演奏会はしない方が良いと思った。
 それに、ヴァイオリンを中心とする普通のオーケストラの演奏する曲を演奏しても仕方がないのではないか。表現力から言っても、マンドリン族はヴァイオリン族には太刀打ちできない。
 マンドリンの教則本としていちばん有名なものを書いているオデル自身が、「マンドリンは表現能力が割合に少ない」と言っている。
 以前、バラライカ、ドムラを中心とするロシア民族楽器についても同じことを思ったのだが、演奏者はことさらヴァイオリンの、あるいはオーケストラの名曲・難曲を演奏したがるようだが、太刀打ちできることを示したいのだろうが、聞く方は、ヴァイオリンや通常のオケで聴いた方が心に届く。
 マンドリンにはマンドリンに向いた演奏形態や曲があるはずだ。叙情的な可憐な独特の音色を持っているのだから(これも、ロシアの楽器も同じ)。恋人の窓辺でセレナーデを弾くか、ホームコンサートか、せいぜいサロンコンサートぐらいの規模でやった方が良い。その方が人を感動させることができるはずだ。
 昔の吟遊詩人が街角で弾いている絵を見たことがある。吟遊詩人の楽器は竪琴と思い込んでいたが、イタリアではマンドリンも使われていたのだろう。その場合も、窓辺のセレナーデも、どちらも歌を伴っていたに違いない。
 今はそういうことをするミュージシャンはいないのだろうか? マンドリン専門店イケガクで尋ねてみたが、そのような音源も楽譜もないそうだ。
 ぼくが今18か25くらいだったら、音源も楽譜もなくても、そういう勉強を一から手探りでしてみたいものだが、この歳でそもそも初心者では、せめて何らかの手掛かりか、あるいは先生がいなければどうにもならないね。メロディーを弾きながら一緒に歌うだけでは、ボランティアぐらいはできても、そこから先には行けない。残念なことだが。
 自分の歌う、あるいは人の歌う、歌の伴奏をどのようにしたらよいのか、わからないまま過ごしている。
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マンドリンその後

2018-09-03 22:22:57 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 涼しくなってきたので、気にかかっていたマンドリン(18/07/29)をやっと、池袋にあるマンドリン専門店「イケガク」に持って行った。
 結局、「修理不可能とは言えないけれど、新品を買う程度の費用が掛かるし、修理しても、今後、故障が再発する可能性もある」ということだったので、断念した。
 持ち主にお返しすることにした。いただいたときに、「修理不能なら処分していただいて構いません」と言われていたのだが、自分で楽器を処分するのは気が重いし、修理できなくても、ご主人の思い出の品物であることに変わりはないだろうから。
 お返しする待ち合わせの場所には、息子さんがやってきた。温厚そうな、感じの良い人だった。お互いに恐縮して帰ってきた。
 イソップのブドウとキツネの話ではないが、考えてみれば、フラットが上達しているとはとても言えないのにラウンドバックを手に入れたところで、ぼくは気持ちを分散させて結果的に苦しむことになっただろう。腰痛の問題だってあるのだし。
 色気を出してはいけないというお話。
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マンドリンをいただいた!

2018-07-29 10:27:22 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 一昨日、地元の老人会でフラット・マンドリンの弾き語りで「一緒に歌いましょう」というのをしていたら、休憩時間に女性に声をかけられた。今まではあまり見かけなかった人だ。
 ご主人が若い頃弾いていたマンドリンが、押し入れにしまってあるのだけれど、だれか使ってくれる人がいたら嬉しいと思っていたのだそうだ。
 箱はボロボロだし、弦も張りっ放しにしてあるので、使えるかどうかわからないけれども…と言う。
 ぼくは腰痛持ちで、腰に負担のかからないフラットを弾いているが、ラウンド・バックとは音色がかなり違うものなので、ラウンドもあれば嬉しいと思っていたのだ。
 早速、会が終わる前に、息子さんが会場に届けてくれた。
 見たところ、すぐ気づく程度に棹が反ってしまっている。弦楽器は、弦を張ったまま長期間放置するとテンションで棹が歪んでしまうのだ。ただ、響きは、年季の入った楽器に特有の枯れた高く大きな響きで、大変良いようだ。
 このまま使えるものか、修理が可能なものか、費用はいくらぐらいかかるか、修理するだけの価値があるか、ぼくにはわからないので、とにかくお預かりすることにした。
 山から帰ってきたら、イケガクに持って行って相談してみようと思う。修理不能なら、ご主人の大切な思い出なのだから、お返ししよう。修理して使えるものなら、ぼくは主にフラットだから、手元に置いてときどき音色を楽しむことにしよう。

 明日から二泊三日で、霧ヶ峰に行く予定。本当は一週間ぐらい滞在したいが、これでも一応は避暑のつもり。高原を散策して、クヌルプ・ヒュッテのおいしいご飯を食べて、本を少し読んで音楽を少し聴くぞー。
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一日さぼれば・・・

2018-05-17 21:27:19 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 三日ぶりに楽器にさわった。
 指が全然動かない。というか、指が勝手に動く。弾くべき音と違う音を弾く。
 腹を立てながら弾く。
 スポーツでも音楽でも手工芸でも、一日さぼれば3日分後退する、とよく言うけれど、6日分どころではないね。
 メトロノームの速度をぐっと落として弾く。日付を書いてあるわけではないが、たぶん2週間分ぐらいよりはもっと戻っている。
 トレモロも、違う弦に移るときにばらけて、音が気に入らない。
 熱を出してもなんでも、楽器には触ってあげなければだめだ。楽器にさわるのは、スポーツや舞踏ほどはしんどくはないはずだ。
 指が違う音を弾く、ということを前にも書いている(17/08/06)けれど、あの時は老化の始まりのせいにしていたけれど、そうではなくて、単純に練習不足だったのだ。
 肝に銘じておこう。
 ぼくは寝室のほかに練習用に小部屋をもらっているけれど、3階の小部屋は暑い。
 楽器に汗を落としてはいけないから、途中で手を停めてタオルで拭きながら弾く。
 今日は4時間弾いた(こう書くということは、普段はもっと少ないということ)。
 楽しくあるべき練習で腹を立てていてはいけないのだ。
 焦っても早くは進めない。
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基本のき

2018-05-10 23:00:33 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 ラウンドの方の教則本の練習を始めてから18日。使っているのは、「宮田蝶子のマンドリン教本」。昔から有名な「オデルマンドリン教本」を現代の目で編集しなおしたもので、たぶんこれが一番しっかりしていて、しかも使いやすい。
 最初の方はごくやさしい練習曲なのだが、これが弾いていてとても美しい。それだけでも、これを始めて良かった。美しい音楽は良い。
 (美しい音楽よい、とは限らない。現代音楽の、不思議な半音階的進行や、ときに不安や苦悩の表現のようにも思える不協和音も好きだ。美しくない形でしか表現できないものは、たぶんある。でも、美しい音楽は好きだ。)

 ところで、「ごくやさしい」と書いたが、今のぼくにとってはこれがなかなか悩ましい。ピックの持ち方から手の形から、基本中の基本ができていないのだ。同じように見える楽器でも、ドムラと違うところがあって、気が付くと無意識に昔のくせのまま弾いている。フラットの方ではすごく大雑把に、「どんな持ち方でも自分がやりやすいのでよい」ということなので、ドムラの時のくせをほとんど指摘・修正されていない。(これが、「ラウンドの方の教則本を一からやった方が良いのではないか」と思った理由でもある。)
 まず、ドムラでは右手の手首を固定してひじから先を振って弾く。マンドリンは手首から先を振って弾く。
 ドムラではピックを握るのに親指を第一関節から曲げるが、マンドリンでは曲げてはいけない。
 ドムラでは手の振りを安定させるために小指をピック・ガードに軽くつけてスライドさせるが、マンドリンでは胴体の縁に当てた前腕から先は、楽器に触れてはいけない。

 どれもたいへん難しいし、正しいやり方でしないと良い音が出ない。練習していて「あ、音がショボいな」と感じたときは、いつの間にか元のくせに戻っているのだ。
 今頃こんなことを言っているようでは前途多難なのだが、でも仕方があるまい。意欲があるだけ良い、ということにしよう。
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トキワ松学園マンドリン・ギター部

2018-05-07 15:28:13 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 家の近くにある(と言っても、徒歩20分、散歩コース)トキワ松学園マンドリン・ギター部の定期演奏会を聴きに、パーシモンホールに行った。トキワ松にそういう部のあることは知らなかった。姪っ子を目黒区民キャンパスの芝生に遊ばせに連れて行って、ホールの催し物のチラシで知った。(ついでながら、区民キャンパスは都立大学の跡地で、芝生とホールと図書館とトレーニング・ルームとイタリアン・レストランとカフェがある、大変気持ちのいい場所で、家から40分ほどの、これも散歩コース。)
 中学生・高校生の部活だから、まあどんな演奏をするのかな? と思っていたら、とてもよかった。恐るべし,中高生の練習量。指揮の子も入れて15人の編成ながら豊かな音量で、最近耳が遠くなってきていてコンサートに行ってもそのせいで物足りない思いをするぼくにも十分音楽を楽しむことができた。音の乱れもリズムの乱れもなく、きれいな演奏だった。
 難しい曲に挑む意欲の強すぎるアマチュア・オケは、演奏者が弾きこなせないままステージに上がるから乱れるし、自信がないから音が小さくなる。この子たちはしっかりと指揮者を見ているし、ソロで弾く高音のパッセージ以外は手元を見ていない。
 三部構成で、一部はよく知られたクラシック曲。この中のボロディンの「ダッタン人の踊り」がいちばんの大曲で、これはマンドリニストの宮田蝶子さんが指揮をした。宮田さんはトキワ松にマンドリンクラブを創った方で、今でもコーチをされている。ぼくも彼女の教則本を持っている(ちょうど、「フラット・マンドリンでもやはり普通の教則本もやった方が良いかな」と思って、ひと月ほど前から始めたところだ)。
 第二部は、この演奏会で部活をやめることになっている高校3年生3人だけの演奏。ちょうど、1stが一人、2ndが一人、ギターが一人。それぞれが自分の好きな曲を持ち寄ってのアンサンブル。一人一人が卒部のあいさつと曲の紹介をするのだが、三人とも「これまで育ててくれたお父さんお母さん」、とか「温かい指導をしていただいたコーチや顧問の先生や先輩たち」とかいうところで泣いて言葉に詰まってしまって、とてもういういしかった。制服の袖で涙をぬぐいながら座って楽器を構えて、仲間とアイコンタクトで演奏開始…若いって、うらやましいなあ、と思った。ユーミンの「卒業写真」て、こんないい曲だったんだ。
 この時点で卒部してしまうのはもったいないような、でも学校の教育方針がしっかりしているのだろうな。
 第三部は、「スターウオーズ」や「銀河鉄道999」など、おなじみのメロディー。このあたりは、もう山場を越えて安心して弾いているから音がいっそう伸びやか。アンコールは「世界に一つだけの花」。たいへん気持ちの良いコンサートだった。
 1stの一番後ろ、客席に一番近いところに座った中学2年生が、さすがに緊張して表情を硬くして弾いていた。たぶん、あの子はまだ弾ききれないところがあるんだろうな。ぼくも経験があるが、ああいう時、客席からしっかり手元が見えてしまう場所で弾くのは、本当につらいんだよね。あの子があと3年経つうちに抜群に上達してコンサート・ミストレスになるのだろうな。これから毎年聴きに行って、応援してあげなきゃ。
 おじさんも、君たちには全然及ばないけれど、しっかり練習するからね。
コメント
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