すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

自我の起原

2017-08-16 12:56:21 | 読書の楽しみ
 前に書いた(8/07)「現代思想」に載っている大澤真幸の自我の起原論はわかりやすくてありがたい。
 「自我の起原」は、真木悠介(=見田宗介)さんの著書だ。ドーキンスの有名な「利己的な遺伝子」の理論を検証しながら、単純な原核細胞が真核細胞に、さらに多細胞体にと共生を発展させていく過程を追い、さらに性と死の誕生、個体の自己意識の誕生、主体性の獲得、他個体との共生関係(生態系・社会)の必然性…を論じているのだが、これがなんせ、遺伝子生物学を論じながら、カルロス・サンタナの「キャラバンサライ」から始まって宮沢賢治論で終わるという、真木さんらしいまことに自在な展開なのだ。
 むかし、竹内敏晴さんの「からだとことばの教室」に行っていたころ、真木さんのゼミの学生が来ていて、「先生の書くものは難しくて大変なのです」と言っていた。確かに「現代社会の存立構造」など、とてもぼくにはついていけなくて投げ出してしまったことがあるのだが、「自我の起原」は初期の論文に比べればたいへん分かりやすく書かれてはいると思う。にもかかわらず、ぼくの粗末な頭脳ではよくわからないところがあった。
 たいへん魅力的で大事なことが書かれていると思い、一読後すぐに読み直してみたのだが、それでもよくわからなくて、気にかかる本のひとつになっていた。
 今回、大澤真幸の論を読んで、ぼくにはわかりにくかった部分、特に後半の部分の、個体の開放性が生まれる機序が、かなり分かったように思う。
 当たり前だが、真木さんの書き方の問題ではなく、ぼくの能力の問題なのだった。
 もう一度、原著を読み直してみよう。今は「気流の鳴る音」を読み直している(これも5度目くらい!)ので、そのあとにでも。
 これは、ぼくたちを個という桎梏から解き放ってくれる書物なのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦記念日

2017-08-15 08:40:09 | 社会・現代
 かつて日本はおろかな戦争をした。今日はその愚かな戦争が徹底的な敗北という形で終わった日だ。
 たくさんの人が、強制的に戦争に駆り出され、死ななくてもいい無残な死に方をした。たくさんの人が、死ぬことを強いられ、あるものは心の中で「いやだ」と叫びながら、あるものはそれが正しいことと思いこんで、死んだ。
 もっとたくさんの人が、もっと早く止めていれば死ななくて済んだのに、にもかかわらず死んだ。
 ぼくは「ーーな死」とか「ー死に」とかいうような死者を冒涜するような言葉を使いたくないので、こういう書き方をしているが、それでも身内に死者のいる人たちの中には、ぼくの言い方に承服し難い人、激怒する人はいるかもしれない。
 北朝鮮のニュースを見ていて思う。
 ぼくたちの国は、かつてまさにあのようだったのではないかと。
 あの「鬼畜米日を滅ぼしつくすまで戦う」と言っている人たちに、「身をささげて国を護る」と言って志願する人たちに、教えてあげたい。
 かつてのぼくらの国の間違いを繰り返すべきではない、と。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

…にもかかわらず

2017-08-13 21:48:01 | 無いアタマを絞る
 このブログはここまでのところ、かなり遅々としているし、マイナスイメージの強いものになっているように思う。これからもさらにそうなるかもしれない。
 にもかかわらず、このブログは今、長い助走をしているのだと考えても良い。
 助走というか、長い滑走というか。始まったばかりの、長い滑走。
 いつ離陸するのか、どうなったら離陸したといえるのか、そもそも離陸するのかどうかさえ、いまのところわからない。
 ぼくの人や世間や今の社会に対する感じ方がある面では変わり、ある面ではさらに強まり、ぼくの自然に対する接し方や音楽や読書が深まり、その二つが別々のものではなくなり、そうなるために必要な程度の健康をぼくが維持し、ぼくの残りの(たぶん)10年ばかりが納得のいくものであれば、その時に、このブログは離陸して所期の役割を果たしたといえるだろうか。
 これはある意味点検作業であり、同時にある意味推進力でもあるのだから、そのためには毎日書いた方が良いのだが、なかなかそれも果たせないでいる。
 いま週に二日ほどしている仕事をやめれば時間はもう少しできるだろうが、やめることが好ましいかどうかも、いまのところわからない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偏屈老人記す

2017-08-11 23:59:31 | 無いアタマを絞る
 …どうも、ぼくの感覚はいろんな意味で、世間の人の感覚と少しずれているところが多いらしい。金銭感覚とか、人との接し方とか、関心を持つ対象とか、したがって、共通の話題とか、、、最近特にそういうことを感じる。昨日も仕事をしていていくつも感じた。いまのところ、いろいろ差しさわりがあるので、具体的なことは書かないが。
 そしてぼくは、自分の感じ方が間違っているとは思っていない。
 むしろ、ほかの人が当然と思っている感じ方の方が、思い込みや、「こういうものが普通の生活」とマスコミが押し付けてくる常識や、自分で生き生きと物を感じる力の衰えによって、不自然なものに変わってしまっていると思うのだが、これも具体的なことは今は書けないので、やめておく。
 でもこれではあまりに漠然としているので、直接的じゃないことを少し書いておく。
 まず僕は、スマホに夢中にならない(持っていない)。二人三人集まると「スマホでこんなことができる」とかいう話題に夢中になっているのをよく目にするが、ぼくは入っていく気が全くない。
 本をkindleで読まない。傍線を引いたり書き込みしたりができないからだ。
 血液型に関心が全くない。
 Facebookに知り合いの勧めで加入したが、全く記事を送らないし、人の記事も読まない。煩わしいからだ。朝何時に起きて昼に何を食べたか写真付き、なんて関心がない。
 先日、誕生祝いの投稿をいくつもいただいたようだが、それも、少し躊躇ったが、けっきょく読まなかった。
 …というようなことをいくら書いても、今日気が付いたことは別なので、これでやめておく。

 肝心なことは、感覚がずれたまま日々を送っていると、その日々に接する人たちとか、世間の付き合いとか、仕事上の関係とかから、どんどん心が離れてしまうことだ。
 これがあまりひどくなると、心の病ということになる。
 ぼくの場合は、まだそこまではいかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古希

2017-08-10 14:08:51 | 老いを生きる
 つい先日、70歳になった。
 別になんの感慨もあるわけではないが、これで医療費が今までの3分の2になるし、バス代がかからなくなるのだけはありがたいかな。
 一つの峠という気はしないでもない。でも、峠というのが、いままで上り坂だったのがここからは下り坂になる、という意味なら、体力の面から言えばとっくの昔に下り坂だし、人生の上での幸福感という意味ではぼくの峠は10歳だったかもしれないので、けっきょくなんの峠だかわからない。
 昨夜、半年ぶりにあった友達と恵比寿のガーデンプレイスでビールを飲んで近況報告をしあった。
 「ぼくは最近だんだん、社会や世間に背を向けた偏屈ジジイになりつつあるような気がする」と言ったら、「あら、前からそうじゃない」と返された。
 うすうすそんな気はしていたのだが、やっぱりね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見田宗介さんの著作

2017-08-07 21:34:25 | 社会・現代
 今夜はフラット・マンドリンのレッスンの日だったのだが、台風の雨がひどいので、楽器を濡らしたくないので、お休みにしていただいた(お休みにしたらなんだか小降りになったようだ)。
 時間ができたので、昼間アマゾンから届いていた「現代思想2016年1月臨時増刊号、総特集見田宗介=真木悠介 未来の社会学のために」を読み始めた。
 巻頭は、見田さんと加藤典洋氏の「現代社会論/比較社会学を再照射する」という対談で、次いで見田さんの「現代社会はどこに向かうか(2015版)」という論文だ。
(ぼくは見田さんのゼミ生でもないし面識もないので、「さん」付けはおかしいのだろうが、この人のことは心情的に呼び捨てにはし難いので、つけることにする。)
 ぼくは頭があまり緻密ではないので、これまで「現代思想」などというような本は興味を持って買ってもたいてい理解できなくて投げ出してしまっていたのだが、今回はわかりやすく読むことができた。
 前者は見田さんのこれまでの著作に現れた、現代社会を理解し、乗り越えていくための思想を、見田名で書かれたものと真木名で書かれたものの関連性をポイントにまとめたもので、後者は見田宗介著作集Ⅰの巻末に置かれた著作を加筆訂正したものだ。
 前者は対談で、後者は以前に読んだものの加筆なのでわかりやすかったのだろう。
 改めて、「家にあるこの人の著作をみんな読み直してみよう」と思った(読んでないものも含めて、ほとんどある)。
 様々な人が現代社会の危機に警鐘を鳴らしている。そういう本は数限りなく出版されている。これから危機が一層深まるにつれて、それはますます増えるだろう。
 危機を叫ぶことは誰にでもできる。現代に生きるほとんど誰もが、それを身に迫るものとして、何らかの形で感じているからだ。
 だがその危機を乗り越える可能性のパースペクティヴを示すことができているものはほとんどない。
 見田さんの著作にはそれがあると思う。
 この人の著作を読み直し、読み込んでいけば、数限りなく出版されるそのほかの著作はほとんど気にする必要がない、とぼくはここに希望のようなものを改めて感じている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七十の手習いは・・・(続)

2017-08-06 08:45:41 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 …それにまあ、進歩の遅いこと。
 去年の4月の半ばにフラ・マンに替えて、9月の末からレッスンに通い始めたから、先生についてからでももう11か月近くになるが、やっているのは16小節繰り返しありの練習曲8曲目。ほぼ2曲ずつ楽譜をいただくのだが、中には次の2曲をもらうのに5か月かかったものもある。
  ♩=90くらいのすごく遅いテンポから始めてだんだん速くするのだが、これがなかなか上がらない。先生に「本当はどれくらいの速さで弾くのですか?」と聞くと弾いてくれるのが、もうむちゃくちゃ速い。200くらいで弾いているのではないか。
 ぼくはもう指がそんなに早くは動かせないから、一生かかっても(と言ってもそう残ってはいないが)そんなに速く弾けるようにはならないだろう。今のところ、せいぜい130か140ぐらいまでしか行かない。フラ・マンは、速弾きが持ち味なのだが。
 それに、困るのは指が勝手に楽譜と違う音を弾いてしまうこと。楽譜を見ながら、次にどこを押さえるかということはいちいち頭で考えないで、指は自動的に動いているのだが(いちいち考えていたら音楽なんてできやしない)、それで当然、練習すれば正しく弾けるはずなのだが、その指が楽譜とは違うところに動く。
 これは日常生活でも出始めていて、例えばコップをつかもうとしてそのコップに指がぶつかって倒してしまったり、とか、実は音楽だけではない大問題に将来なるかもしれないのだが…
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七十の手習いは・・・

2017-08-05 21:32:09 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 昨日までの記事で、ドムラでうまくいかなかったのがフラ・マンに変えたら大変順調、のように思われたかもしれないが、さにあらず。
 ドムラを始めたのは約20年前だった。この20年の差は、ものすごく大きい。
 まず第一に、一日にできることの総量が大幅に減った。だから練習量も減っている。ドムラを練習していたころより練習時間は大幅に減っている。
 ドムラをやっていたころ、「楽器がうまくなるかどうかの分かれ目は一日の練習時間が3時間」と聞いたことがある。これは、仕事のある日(現在は、週2日)、一日がかりの用事のある日、山に行く日、など、あまりできない日もあるから、何も無い日には4~5時間ぐらいは弾いていなければいけない計算になる。
 今は、とてもそんなにはやれない。ここのところあまり暑い日が続かないからいいが、7月のあの暑い盛りには、一日に1時間半ぐらいしかやれなかった。3時間どころか、やりたいことは8時間でも足りないくらいあるのだが、30分やるたびに休んで、などしていると全然捗らない。
 疲れていて、やる気になれないことも多い。すぐに横のなって休みたくなることも多い。体力を維持するために朝運動に出かけると、昼までは読書ぐらいしかできなくなる。
 疲れていてもできるのはまず読書、それも現代小説のたぐいだ。音楽は体力が必要だ。歌の練習は、本気で1時間やればへとへとになる。楽器はそれほどではないが、疲れると集中力はたちまち落ちる。
 歳を取るということは、何を優先するかをいつも考えなければならないということでもある。ブログを書くということさえ、練習時間の確保とぶつかる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドムラ(続2)

2017-08-03 10:54:43 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 フラマンは、少なくとも、いま習っているアメリカの古いダンス音楽のようなものを弾く限りは(初心者用の簡単なアレンジになっているとは思うが)、または、お年寄りたちと一緒に歌うのに懐メロ歌謡曲などのメロディーを弾く限りは、左手は4本の弦を行ったり来たりすれば済む。
 ドムラは、それよりはずっと難しい曲を練習していたのは確かだが、左手を上下に飛ばさなければカヴァーできない。また、高音の美しさが持ち味のひとつでもあるので、特に第一弦(一番細い弦)は、一番低い固定位置ならレからラまでだが、実際にはさらに1オクターヴ上のラくらいまではよく使う。左手は頻繁に飛ばさなければならない。小指である音を押さえて、次にそれより高い音を人差し指で押さえる。ピアノを弾く人は「なんだ、そんなのあたりまえの初歩の初歩」と思うだろうが、なんせ、前に書いたように、ドムラは押さえる位置が1ミリずれたら音が出ない。
 したがって、左手の手元を見ながら弾くことになる。これは上達すれば見ないでも弾けるようにはなるだろうが、そこまで行くのがなかなか遠い。先生も、「目は今指を置いている位置ではなく、次に置く位置をあらかじめ見ていなければなりません」と指導するのだ。
 そうすると、楽譜は見られなくなるし、指揮者も見られなくなるから、目は左手と楽譜と指揮者のあいだを激しく入ったり来たりする。
 そして、自分の弾こうとする曲はまず暗譜しなければならない。だから、弾ける曲はなかなか増えない。
 ぼくは、一時、アマチュアのオーケストラに入れてもらっていたことがあるが(ついていけなくて辞めたのだが)、残念ながら、その期間を通して、ついに左手を見ないで弾けるようにはならなかった。
 手元を見ないで弾くのは初歩の初歩、という観点から言えば、ぼくは初歩の段階から抜けることができなかったわけだが、じつはこれは、ものすごく上手な人でもなかなか難しいことなのだと思う。
 ドムラ奏者の中で最高の名手、“ドムラ王”ツィガンコフ氏の演奏を何度か見たことがある。彼は極端な猫背で、楽器の棹の部分を目の前に持ってきて目を細めて弾いている。あれは、左手と指揮者を同時に見ることができるように構えた癖なのだと、ぼくは思う。
 ドムラを弾いていたころのぼくは、楽譜を見なければ弾けなかった。フラマンに変えた今は、いま練習しているアメリカ音楽も、懐メロ歌謡曲も、見ないで弾ける。このため、弾ける曲が一気に増えた。
 お年寄りの会で、「じゃあ次回は石原裕次郎の特集をやりましょう」とか「ド演歌大会にしましょう」とかいうことができる。
 たいへん楽しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドムラ(続)

2017-08-02 20:00:28 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 話が細切れになるが、このごろ長い文章が書けない。暑いからさらに書けない。このブログは優先順位から言って、家事、健康を維持するための運動、休憩、楽器の練習、の次になるので、なかなか書けない。まあ、仕方がない。一気に書いた方が、自分が考えをまとめるためにはベターなのだが(そのために書いているのだが)。

 フラマンにたどり着いて良かったことのもう一つ大きなことは、左手の手元を見ないで済むことだ。
 楽器を弾くときに弾いている手元を見てはいけない。もちろん初心者は見なければ弾けないが、できるだけ早く、見ないで弾くことに慣れなければならない。
 手元を見なければならないと、楽譜を見ることができないし、アンサンブルの時に指揮者やリーダーの出す合図を見ることもできない。
 ところがドムラでは、これがなかなか難しい。
 ドムラは完全四度に調弦した弦3本なので、手を上下にスライドさせずに小指まで弾ける範囲は、ミからラまでの一オクターブ半弱でしかない。
 マンドリンは完全五度の4弦だから、ソから上のシまでの二オクターブと一音になる。
 この違いは、非常に大きい。

 話がそれるが、ギターやウクレレなど、棹に音程の区切りの横棒(フレット)のある楽器の方が、ヴァイオリンや三味線などそれがない楽器よりは易しい、と思っている人が多いのではないだろうか。
 そんなことはない。
 ヴァイオリンや三味線はどこを押さえても音は出る。音程が外れて耳障りなだけだ。この耳障りは、人によって許容範囲が違う。
 日本民謡(唄)を少しだけ習ったことがあるが、師匠が弾いてくれる伴奏の三味線の音は、西洋音楽になれた耳には、かなり狂って聞こえる。日本民謡ってそういうもの、なのかもしれないが、かなり気になる。不快にさえ感じることも少なくない(だから、やめた)。
 フレットのある楽器では、押さえる位置がずれたら音が割れる。あるいは、音が出ない。
 ドムラでは、1ミリずれたら音は出ない。
(さらに、少しだけ、続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドムラ

2017-08-01 07:19:00 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 昨日書いたのは、もちろん、先生に対する恨みとか不満ではない。先生は正しいことを教えているのだし、ドムラを弾く人を何人か知っているが、だれも、正しい構え方をしてぼくのように腰痛になったという話は聞かない。残念ながら、ぼくがたまたま潜在的に腰痛持ちだっただけだ。
 それに、ドムラは軽い楽器で、ストラップでぶら下げただけでは安定せず、右手でトレモロを弾くと左手側の棹の部分はぐらぐら動くから、ぼくのやり方では所詮良い演奏はできない(それが、「先生に着かなければ」と思った理由のひとつでもある)。
 フラマンは、コンセプトからして、ギターやバンジョーと同じにストラップでぶら下げて弾くことを想定しているから、楽器全体がドムラよりは大きく、重く、特に棹の部分は重く作られている。だから弾くときにぐらぐら動くことはない。
 フラマンは腰が痛まない。相変わらずぼくは腰痛持ちで、特に座った状態から立ち上がる時、腰を曲げる時などにかなり痛むが、少なくとも今のところは、フラマンを2時間や3時間弾いてもそのために痛くなることはない。ドムラでは、弾き始めて20分もするともう弾いていて痛くて辛かった。ぼくの姿勢が悪いわけではない。もっと曲がった姿勢をしている人もいたし、もともと楽器の押さえ方に原理的に無理があると思う。

 腰痛のほかにも、フラマンにたどり着いて良かったことがいくつかある。
 一つは、弦を押さえる左手の指が痛くないことだ。
 あっちが痛い、こっちが痛いと、ぼくが痛みに弱い人間のように思われるかもしれないが(そうではあるのだが)、でも、ドムラは指が痛いし、フラマンは痛くない。どちらもスチール弦だが、ドムラは単弦なので、細い弦は特に指に食い込む。マンドリンは複弦なので、力が分散されて、食い込まない。
 誰でも弦楽器を始めると指が痛いもので、そのうちそれが胼胝のように固くなって、そうなると食い込むのよりはましだが、今度はその固い部分がその下の柔らかい部分を刺激して痛く、その胼胝をある程度ヤスリで削って、なるべく痛くないように適当な厚さにして弾く。だからドムラ奏者はみんなヤスリを持っていると思う。
 それでも、弾き始めて30分もすると痛いので、ぼくは家で練習するときには指先に絆創膏を張っていた。
 フラマンでも胼胝はできるし、2時間3時間弾くと痛いが、絆創膏を張らなければ続けられないというほどではない。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする