すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

フラット・マンドリン(2)

2017-07-31 10:27:54 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 「アラセブ(こんな言い方をするかどうかわからないけれど、これは一生の中で大きな転換点だと思う。もっと社会で取り上げられても良い)にもなって楽器を始めるなんて、なんて無謀で見込みの少ない…」と思われるかもしれないが(自分でもそう思わないではないが)、じつは全くのゼロからのスタートというわけでもない。
 20年ほど前から、マンドリンとよく似た楽器である、ロシアの民族楽器のドムラというのを、自己流で練習していた(それだってすでにアラフィフだが)。
 バラライカは比較的よく知られているが、ドムラというのはまず誰も知らない。マンドリンを小ぶりにして、胴体の丸みを少し浅くしたような、サッカーボールを地面において、直径の三分の一のところで真上から切り下した場合の、小さい方のような形の楽器だ。
 弦は3本しかなく、太い方からミ、ラ、レに(完全四度に)調弦する。ギターの低い方と同じ。
 これもマンドリンと同じ、トレモロを多用し、アンサンブルの中で主にメロディーを受け待つ。
 そのドムラを、自己流でストラップで肩から下げてやっているうちは気にならなかったのだが、「やはり楽器は先生についてキチンと基礎を学ばなければだめだ」と思い、やっと見つけた先生に、「ストラップは外しなさい」と言われた。
 ドムラは、正しくは右足に足台を置いて膝を高くし、右の脇・胸・上腕と膝で上下からがっちりと楽器を固定して弾く。
 脊椎は湾曲する。
 これで練習していたら一年ほどで腰痛になってしまった。
 しばらく休んでいたのだが、あきらめきれなくて再開したらまた半年ほどで再発した。
 仕方なく、やはりあきらめた。
 そのあと、竪琴に似たライアーという楽器を習ってみたり、胴体の丸い普通のマンドリンを買ってみたりしたのだが、いずれも、腰痛は治らなかった。
 それで、フラット・マンドリン(以降、フラマンと書く)にたどり着いたのだ。
 フラマンにたどり着いて、本当に良かった。
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高尾山

2017-07-30 17:55:53 | 山歩き
 高尾山に行った。先週の沢歩きに続き、雨だった。ついていない。
 歩き始めはけっこう強く降っていて、中止しようかとも思ったのだが、新しく買った雨具や傘の具合を見るのにいい機会だし、夏の高尾山だから、仲間と相談してとりあえず本山の山頂までは登ることにした。いつも利用する六号路や稲荷山コースは滑りやすいところがあるので、今回は石畳の一号路を上がった。
 登山道というのは傾斜の強いところではジグザグについているものだが、一号路は車が上がる道なので、かえってきつい気がする。それを、道幅いっぱい使ってジグザグに登ってゆく。リフトの山上駅までコースタイム1時間くらいのところを35分で上がった。今回、靴も新しい軽いのを新調したので快適だ。
 そこからはのんびり歩いて山頂に着くころちょうど雨が上がった。ベンチでビールを飲んでお弁当を食べ終わったころまた降ってきた。ついている。
 同じコースを戻って高尾山口駅で、温泉に行くという仲間たちと別れて、一人で帰ってきた。
 最初に「ついてない」と書いたが、雨の中を登るのも、沢登りと違って、安全でさえあれば、また味わい深く楽しいものだ。
 高尾山は夏、暑い盛りに登って城山の茶屋で名物のかき氷を食べるのも楽しいが、雨の中でも安心して快適に登れる、高齢者にはまことに具合の良い山だ。
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フラット・マンドリン

2017-07-28 14:03:29 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 一年ほど前から、フラット・マンドリンの練習をしている。フラット・マンドリンって、知らない人が多いだろうから、これから何度もこの楽器について書くことになるだろうから、簡単に説明しておきたい。
 イタリア音楽で使われるマンドリンは御存じの方が多いだろう。胴体の丸い、琵琶みたいな形をした、トレモロ奏法の美しい楽器だ。古賀政男の指揮する明治大学マンドリンクラブでよく知られるようになった。複弦4弦の(つまり8弦の)楽器だ。
 フラット・マンドリンは、そのイタリアのマンドリンをもとにアメリカで作られた。胴はギターやウクレレなどのように平らだ。平らにしても響きを良いままにするように、ヴァイオリンの製造技術を取り入れている。と言っても、マンドリン(区別するためにラウンド・バックRBという)の繊細な明るい音に比べると、やや野太い感じの音がする。細い明るさと太い明るさの違い、というか、ブルー系の明るさとブラウン系の明るさの違いと言ったらいいだろうか。
 弦はRBと同じ8弦で、調弦はやはりRBや、ヴァイオリンと同じ完全五度にする(低い方から、ソ、レ、ラ、ミ)。
 主に、ブルーグラス、というか、カントリー&ウエスタンでギターやバンジョーやヴァイオリンなどと一緒に演奏される。
 RBではほとんどメロディーラインを弾くだけでコード(和音)は弾かないと思うが、フラットはメロディーも弾くがコードも大いに弾く。指ではなくてピックで弾く楽器なので、早引きが重要なテクニックになる(これが、年寄りにはなかなかしんどい)。
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年寄りの冷や水

2017-07-24 21:33:52 | 山歩き
 昨日、友人と沢登り(沢歩き)に行ってきた。
 一昨日までは連日の猛暑で、今日はまた猛暑なのに昨日だけ雨で、残念ながら予定のコースの三分の一ぐらいで断念して帰ってきた。
 もともと、稜線に挙がるまでおよそ5時間というロングコースで、下山も考えると体力的・時間的に大丈夫だろうか? という不安のややあるコースだったので、神様の、「ほどほどにしときな」というサインかもしれない。
 初めの三分の一はほとんど滝などなく、そのかわりけっこう深そうな淵はいっぱいあって、魚がツイツイ泳ぐのを覗きながらの歩きは楽しかったが、少し物足りなかった。
 沢登りと言っても、僕らは登攀技術とかを学んだわけではなく、手足だけを使ってよじ登れそうな滝は登る、登れそうもないのはさっさと捲く、というスタイルだから、普通の沢登り愛好家の行くのよりも易しいところを探していく。
 何年か前までは、夏に沢登りに行くのがほんとにワクワクしたのだが、去年あたりから、水に入るのがややおっくう、というか、冷えて風邪を引きそうだ、とか感じ始めている(ここで「なめとこ山の熊」の淵沢小十郎の言葉を思い出してはいけない)。
 昨日の雨は、「年寄りの冷や水はそろそろやめときな」というサインだったかもしれない。
 滝があるのは昨日断念した個所から先なので、8月中旬に昨日の続きを登りに行くつもりなのだ。
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弾き語り

2017-07-20 21:35:14 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 明日、六年前まで住んでいた土地に行ってくる。二か月に一度、地域の老人会の会食会に参加して、僕がフラット・マンドリンを弾き語りしながら皆さんをリードして、一緒に歌をうたってくるのだ。
 住んでいたころは僕は年齢が足りなくて準メンバーだったのだが、今は年齢は足りてしまったが住んでないのでやはり準メンバーだ。
 老人会だから歌うのは懐メロ歌謡曲や童謡唱歌や世界の愛唱歌などだ。ふだんはフラットマンドリンで主にアメリカ民謡やイギリス古謡などを練習しているのだが、ぼくはじつは懐メロや童謡唱歌や女学生愛唱歌が大好きだ。
 スポットライトを浴びてソロで歌をうたうよりも、マイクなしでみんなで声を合わせて歌う方がずっと好きだ。
 お年寄りの皆さんが(自分も十分お年寄りだが)目を輝かしてにこにこした顔で歌うのを一緒に体験するのが好きだ。
 基本的には、何を歌いたいかリクエストを訊いてそれを歌うが、こちらから季節の歌などを提案することも多い。
 前回は、石原裕次郎が大好きだというある女性のリクエストにお応えして、裕次郎特集をやった(リクエストは前々回にいただいた)。
 明日は、どうなるかわからないが、梅雨も明けたので海山特集で「高原列車は行く」や「憧れのハワイ航路」や「山小舎の灯」や「島育ち」や「あざみの歌」や「夏の思い出」などを提案しようと思っている。
 間に一曲か二曲、ソロを頼まれるので、それは「サンタルチア」と「芭蕉布」かな。
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丘ノウエ

2017-07-19 22:21:37 | 
オレタチハ
イナクナロウジャナイカ

カクセンソー トカ
オンダンカ トカ
ソンナンジャナク
タトエバ マクガオリテ
アルヒキュウニ
ヒトリノコラズイナクナルホウホウヲ
カンガエヨウジャナイカ

オレタチガスガタヲケシテシマッタラ
コノホシノソラトウミハ
オレタチガアラワレルマエノ フカイアオニ
モドルニチガイナイ

ソレヲミラレナイノハザンネンダガ
ソンナノハタイシタコトジャナイ

ヒトリノコラズキュウニイナクナル 
ソンナホウホウガミツカルマデノアイダ 
トリアエズ ココニスワッテ
ユメノヨウナヒルノツキヲミアゲナガラ

クサノフエデモナラシテミヨウ 
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南国

2017-07-17 22:25:44 | 自然・季節
 暑い。ここ数年毎年、「この夏は乗り切れるだろうか?」などとふと考えてしまう。でも、年々夏がしんどく感じるのは、歳を取って体力が落ちているからだけではないようだ。
 梅雨はどうなってしまったのだろう。ここ数年、少なくても関東は、梅雨入り宣言は出てもあまり雨は降っていないように思う。7月末の梅雨明け直前に何回か集中的に雨が降って、降水量の帳尻合わせがされているような気がする。
 ふと思う。
 地球温暖化のせいで、日本ではじめじめしとしと雨が降る梅雨という気象現象は姿を消しつつあるのではないか? 集中豪雨というのは、熱帯のスコールのようなものではないか?
 兼好法師の「徒然草」に、「家を建てるときは、夏をいかに過ごしやすくするかを考えると良い。冬は、なんとかなるものだ」というようなことが書かれていたが、日本の夏は、というか、温暖湿潤気候帯というのはもともと、夏は亜熱帯に近いものだが、それがさらに熱帯化しつつあるのではないか?
 今から何十年かすると、日本は常夏の島のようになって、椰子が茂り、ブーゲンビリアの花が咲き、南国のフルーツが実るようになるかもしれない。
 そうすると、ピンポイント的に家の中や都市をいくら冷房しても追いつかなくなるから、生活様式を変えるしかない。
 兼好法師の頃は、(冬は大変だったろうが、少なくとも夏は)いまよりはしのぎやすかったのではないだろうか? 
 風通しが良かっただろうからね。いまよりは人も少なく、エネルギーの消費も少なかったろうからね。
 対抗・克服・封じ込め、ではなく、受け流す、躱す生き方がしたいものだ。
 風通しの良い家に住み、日陰を作り、ゆったりとした服を着て、十分に昼寝をして、働くのはほどほどにして、のんびりと過ごす。ウクレレかなんかを奏で、歌をうたって、隣人と歓談し、日々を味わいながら生きる。
 そうすれば、暑さもしのぎやすくなるかもしれない。
 悪くないかもね。
 まあ、僕はもういないだろうが。
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枕辺の音楽(続き)

2017-07-14 21:55:26 | 音楽の楽しみー歌
 …と言っても、かなりしばしば、人の声を聴きながら眠りに入りたい時がある。そんな時は、言うまでもなく、やさしい女性の声が良い。
 そんな時に聴くものが、二つある。
 一つは、ソプラノの波多野睦美がイギリス古謡を歌った「サリー・ガーデン」だ。主にリュートとリコーダーの伴奏で歌われていて、「グリーンスリーヴス(ズ?)」や「スカボロー・フェア」や「流れは広く(広き河の岸で)」など、日本でも幅広く知られた曲が入っているが、中でもぼくのお気に入りは、タイトルにもなっている「サリー・ガーデン」と、スコットランド民謡の「美しきドーンの岸辺」だ。
 子供の頃、母や叔母がよく歌ってくれていたので、イギリス民謡はまことに懐かしい気がする。もっとも、それは「アニー・ローリー」や「埴生の宿」や「庭の千草」などで、それ自体はこのCDには入っていないのだが、たぶんメロディーとか音階に共通するものがあるのだろう。例えば、五音音階でできている、とか。
 波多野睦美の声はたいへん美しいく柔らかく心地良いのだが、ソプラノなので時に強く、よほど音量を絞らないと、眠りに着こうとする意識を引き戻されてしまうことがある。むしろ、昼間に音量を絞らないで聴く方がさらに良いかもしれない。

 もう一つは、シャンソン・カンツオーネの桜井ハルコさんのCD「モア・メーム」だ(フランス語で“私自身”という意味だ)。
 彼女は今年初めて「パリ祭」に出演した新進歌手で、これが初CDだ。
 これは、最初の「アラビア」から最後の「人魚の涙」まで、比較的短いアルバムなのだが、ほんとにもう、天使の歌声だ。波多野さんと同じく大変美しく柔らかく心地良く、ポップスの声なので、強いところも柔らかく強く、子守唄を聴いているように眠りに誘われる。
 こういう歌声を聴きながら眠りについて、そのまま死んでしまったらどんなに良いだろうかと思ってしまう。
 そういう意味でも、「鏡の向こう側」は特に好きだ。そこまで行かないで眠ってしまうことがしばしばだが。
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枕辺の音楽

2017-07-13 11:36:44 | 音楽の楽しみ
 眠る前に、耳元でごく小さく音を鳴らしている。
 25°の焼酎を60㏄、日本茶で割って飲む。それから枕辺のスイッチを入れる。
 何にも音がなくて横になると、来し方行く末、様々な悔恨、昼間に人との間であった小さないさかいや感情の食い違い、など様々なことを反芻し始めて、眠れなくなる。「羊が一匹・・」などというのは意識を動かして興奮させるだけだ。何も考えないのがいい。何も考えないために、小さな音を必要とする。
 よく聞くのは、せせらぎの音だ。せせらぎの音は、眠るのにまことに有効だ。
 山形の朝日連峰の山小屋「朝日鉱泉」がまだ今の位置に移る前、大朝日川の早瀬の岸に立っていたころ、はじめて行ってそのせせらぎの音の大きさにびっくりした。「こんなに大きな音がしたら夜はとても眠れないのではないか」と思った。ところがこれが、すごくよく寝られるのだ。昼間動き回った疲れた体に、その大きな瀬音が実に快く、眠気を誘われるのだ。
 歌人の吉井勇に、
 かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる
 という名歌のあるのがうなずける。
 ただし、ぼくの聴いている音源は瀬音より大きくカワガラスの鳴き声が鋭くかぶっていて、やや耳障りだ。それを気にならないほどに音量を絞ると、今度は瀬音が聞こえにくくなる。そのうちもっと良い音源を探さなければ、と思いつつ、はたしていない。

 というわけで、せせらぎの音より頻繁に聞いているのは音楽だ。
 以前は、フランスの現代音楽の作曲家、オリヴィエ・メシアンの「幼児イエズスに注ぐ20のまなざし」をよく聞いていた。
 入眠のために聞くのには、ダイナミック・レンジの大きい交響曲やピアノ協奏曲は向かない。ピアノソロが一番いい。あるいは、ピアノ三重奏あたりがいい。
 メシアンの「幼児・・」は、ある音楽がどう素晴らしいのかを語る言葉を持たないぼくにはうまく説明はできないのだが、現代音楽だからただ美しいだけではない複雑な和音を持っていて、非常に不思議な、神秘的な感じのする宗教曲だ。
 その不思議な感じには、宗教的でない人間のぼくでも、なぜか惹かれるものがある、それに心をゆだねていると、いつの間にか安心して眠られるのだ。
 最近は、これよりももっと入眠に適した音楽を見つけた。
 アメリカの、これも現代音楽の作曲家、テリー・ライリーの、「処女航海~ニュー・アルビオンのハープ」だ。題名にハープとついてるが、ソロ・ピアノによるインプロヴィゼーション曲だ。
 ライリーはいわゆるミニマル・ミュージックの旗手だから、半音階的な、不協和音的な変奏がアラビア文様の壁紙のようにどこまでも続いていく。それを音量を絞って聞いているうちに、その心地よい繰り返しに眠りを誘われるのだ。
 考えてみれば、これはせせらぎの音にとても近いのだ。
(続きが少しあるのだが、長くなったからそれは明日。)
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余命

2017-07-11 19:45:40 | 老いを生きる
 今までの人生をやり直すことはできない。たとえそれがどれほど惨憺たるものであったとしても。だからそれは、どんなに苦くても、呑み込むほかはない。
 でも、今からぼくが死ぬまでの残りわずかな期間で、ぼくの人生を全体としてみたら最終的には何とか肯定する気になってもよいと思えるようなものにしていくことは、たぶんできなくはない。
 そのためには、今から始めなければならない。
 「残りわずかな期間で」と書いたが、今まで生きてきた時間の長さに比べたら相対的には残りわずかな、という意味であって、実際にどれだけ、とわかっているわけではない。
 ここで、重度の癌かなんかになって、「余命半年ですね」、とか「三年」とか言われてしまったと仮定しよう。
 そうしたらぼくは、その残りの時間をどのように過ごしたらいいか、悔いの無い充実したものにするには何をどうしたらいいか、十分に考え、これから自分のしたいことに優先順位をつけ、できるだけそれを実現できるように努めるに違いない。できることは限られていても、限られていることを思い患って無駄に時を過ごすことはしないだろう。
 ところで、平均寿命というものから考えると、僕の余命は10年ぐらいなものだろう。
 もちろんそれは平均の話であって、実際にぼくが何年生きるかはわからない。
 だが、医者に「余命半年」と言われたってそれよりずっと長く生きる人もいるし、「三年」と言われたってずっと短い間しか生きない人もいる。それだってやはりわからないのだ。
 それならば、僕は余命10年と思うことにしよう。そして、その間に何ができるか、何をすべきか考えて、それに従うことにしよう。
 取り返しのつかない過去のことを考えて過ごすよりずっと良い。
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おお ヴェネーツィア

2017-07-09 22:21:31 | 読書の楽しみ
 18世紀初めのヴェネチアのピエタに今でいうところの“赤ちゃんポスト”があったなんて知らなかった。18世紀と言えばヴェネチアはすでに衰退の色濃く、繁栄の最盛期はもっとずっと前だろうから、以前からあったものだろう。
 現代のようには命の意味が重くなかっただろう時代だから驚いた。貴族社会の免罪符のようなものだったかもしれないが、少なくとも赤子の運命について真剣に考えた人たちがいなければあり得なかっただろうから。
 ヴェネチアという町は、かつての栄光の記憶を抱えながら残照の中で衰退していく町として取り上げられることが多いように思う。この小説でも、そのように描かれている。
 今まであまり興味を引くことのなかった町なのだが、今回、もう少し関心を持ってみてもいいなと思った。
 大作だけれど塩野七生の「海の都の物語」を読んでみてもいい。トーマス・マンの「ヴェニスに死す」も読み直したい。アンデルセンの「即興詩人」も、主な舞台はローマだけれど、ヴェネチアにも行っていたはずだ。確か、あの主人公の名前もアントニオで、最後の方でヴェネチアで結婚したのじゃなかったっけ。
 バロック音楽の花開いた町でもあるし、舟歌もある。日本では大正時代に「ゴンドラの唄」と「ヴェニスの舟歌」という大流行した歌もある。
 ぼくが今からヴェネチアまで旅行することはないだろうが、その土地に行ってみなくても、いろいろ調べたり想像を膨らませたりすることはできる。
 フランスでもロシアでもほかのどこの国でも、小説を一つ読めばそこから別の小説へ、音楽へ、歴史や文化へと関心は広がる。初めに一つの歌を聞いた、ということでも同じ。
 逆に、例えばカンツオーネを歌う人が、歌だけでなく、食べ物やイタリアの観光名所やファッションだけでなく、イタリア文学やイタリア音楽や、もっと広く、文化や政治や歴史や、の全体に及ぶ広い関心を持っていなければ、その人の歌う歌は物足りないだろう。
 シャンソンでも同じ。
 ぼくはいまアメリカの音楽、アメリカ文学にかなり関心を持っているが、ほかの国にもいっぱい関心は持ちたい。

最近亡くなった大岡信さんの、「地名論」という良く知られた詩の美しい一節:

 外国なまりがベニスといえば
 しらみの混じったベッドの下で
 暗い水が囁くだけだが
 おお ヴェネーツィア
 故郷を離れた赤毛の娘が
 叫べば みよ
 広場の石に光が溢れ
 風は鳩を受胎する
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「蜜蜂と遠雷」

2017-07-07 22:23:53 | 読書の楽しみ
 「ピエタ」は、たまたま手にした。
 友人にヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」の新訳を送ろうと思って新宿の紀伊国屋の草思社文庫の棚に行ったら、並びにポプラ社文庫の棚があって、「ポプラ社文庫なんてあるんだ」と思ってチェックして、この題名にひかれて手にしたらヴィヴァルディの名前があった
 「ピエタ」は、本来、十字架から降ろされたイエスの死体を抱いて嘆き悲しむマリアを題材にした美術作品の名だが、ヴィヴァルディが務めていた音楽院のある孤児養育院の名前でもあることはかすかに覚えていた。(ポプラ社は児童文学として著名な出版社なのでこの作品ももともとジュブナイルとして読みやすく書かれているのかもしれない。)
 音楽を題材にした小説は、あまり多くは知らないが、見つけたら読むことにしている。この春に直木賞と本屋大賞をダブル受賞してベストセラーになった「蜜蜂と遠雷」も、話題になる前、去年の11月にたまたま書店の店頭で見つけて、お金のない僕は原則として単行本は買わないのだが、これはすぐ買って読んで、すぐに再読した。
 非常に魅力的で、読み始めた者をとらえて離さない、一気に読ませてしまう作品です。音楽はド素人のぼくにもわかりやすいし、主要登場人物4人のうちの、特に大天才ではない方の二人の、挫折や迷いや、それを一歩ずつ乗り越えてゆく心の描写には深く共感できる。何よりも、「よくもこれだけの量の音楽をこれだけ深く聴きこんだものだ」、と思う。

 二つだけ、ちょっと引っかかることがある。
 ひとつめは、「家にピアノを持たない、移動生活をしている少年にこれだけのピアノが弾けるものかどうか」ということ。大天才だとしても、世の中には一度聞いただけで全曲を弾きこなしてしまうような天才が実際にいるのだということは承知していても、それでも、そのような天才だとて、毎日毎日血の出るような練習を重ねて初めて、その才能を表現として開花させることができるのではないだろうか。
 毎日(血は出ないが)練習をしてなかなか進歩しない、その上練習すること自体になかなか困難(体力とか時間とか)を感じているぼくは、そのような平凡な疑問を持ってしまう。
 ふたつ目は、マサルが三次予選で弾くリストのピアノソナタ。この曲のところだけ、ほかでは全くそういうことはないのに、作者は長い長い古風な(時代遅れの)物語をつづってみせる。残念ながらぼくにはその物語が曲と重ならなかった。聴きなおしてみたが、その物語は無い方がいい、と思った。
 それでも、そろそろ三度目を読みたい。
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ピエタ

2017-07-06 10:08:50 | 読書の楽しみ
 大島真寿美という作家の、「ピエタ」という作品を読んだ。
 18世紀のヴェネチア、親に捨てられた孤児たちが育つピエタ慈善院の中の、音楽に優れた才能を持つ娘たちが学び演奏する付属音楽院で暮らす主人公エミーリアのもとにある日、かつてここで指導者をしていた作曲家アントニオ・ヴィヴァルディの訃報が届く。
 彼女は、現在は音楽院の指導者でもある友人アンナ・マリーア(実在の、著名なバイオリニスト)とともに、ヴィヴァルディの残したある楽譜を探しだそうと試み、その過程で様々な人に出会い、ヴェネチアというこの特異な町で生きるその人たちを通して、捨て子である自分の過去、生きる意味、この町の置かれた歴史的・将来的状況、音楽の喜び、などに思いをはせてゆく…というような話だ。
 この前に読んでいた「ボヴァリー夫人」さらにひとつ前にやはり再読していた「レ・ミゼラブル」と比べると、これは構成がかなり緩い、文体の緊張感もずっと緩い作品だ。
 緩いから、読みやすい、とも言える。(なんせ、レミゼもボヴァリーも読みやすくはない作品ですからね。) 一般的に言って、19世紀的大作に比べたら現今の作品はすごく読みやすくなっている、読みやすくなければ読んでもらえなくなっている、ともいえる。
 これは、文学にとって良いことではないかもしれない。
 それはともかく、大変気持ちよく読むことができた。続けてもう一度読んでもいい。ぼくは同じ本を、続けて、あるいは少し間を置いてもう一度読むことがかなりある。それは、ぼくがその作品を気に入った、良い作品だと思った、あるいは、もう一度丁寧に読み直す必要のある重要な作品だ、と思ったということだ。
 この作品には、音楽は実はあまり出てこない。最後の方に歌曲が一つ、あとは協奏曲「調和の霊感」が何度か出てくるぐらいだ。でも、その音楽は大変美しい使われ方をしている。
 音楽が美しい使われ方をしているのを読むのは喜びだ。
 詳しいストーリーとか説明とかを書くのはこれから読む人には興ざめだろうからしないが、機会があったら読んでみてください。
 ポプラ文庫です。
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冷たい雨

2017-07-05 21:30:27 | 夢の記
 部屋のドアを閉めて、窓も閉めて、密室状態で楽器の練習をしている。暑い。20分もすればいったん休んで窓を開けて冷たいお茶を飲んで、ということになる(「歌の練習をするのにご近所から苦情が来るので、段ボール製の防音室に閉じこもる」という友人がいる。サウナでしょうね。ぼくにはとてもまねができない)。なかなかはかどらないし、疲れる。
 ぼくの場合、そんなに大きな音のする楽器ではないので、窓を開けたままでもたいしてご近所に迷惑にはならない、とは思うのだが、全くのたどたどしい初心者マークなので、恥ずかしいから閉め切っている。
 梅雨なのに雨の降らない、ただでさえも蒸し暑い今日この頃、そんなに暑い思いをしているのに、寒い夢を頻繁にみる。
 たいていは、凍り付くような冷たい雨が降っている。ぼくはどこかへ行こうとしているのだが、道が分からなくなったり障害物にぶつかったりして、何時まで経ってもたどり着けない。ぐっしょり濡れたシャツ一枚で震えていたりする。道はぬかるんで、泥の海(!)のようで、体はなかなか前に進まない。
 昨夜は(今朝の明け方は)、違うタイプの寒い夢を見た。
 手術台に乗せられて、血を抜かれている、そのせいか寒くてガタガタ震えている夢だ。
 この場合は、原因はまあ、はっきりしている。
 一昨日まで、フローベールの「ボヴァリー夫人」を読み直していたせいだ。あれの中には、当時の医療行為として瀉血という、血を抜く話が何度も出てくる。今から見れば野蛮な話だが、どうも当時は、「体がむずむずするので」とか、「のぼせるので」とか、何かといえば血を抜いていたようだ。
 冷たい雨の夢の場合は、直接思い当たることがない。窓を開けて薄着をして寝ていたので体が冷えた、ということでもない。
 まあ、ぼくはもともとひどい冷え性で、ひと月くらい前までは足元に電気あんかを入れたり、おなかにタオルでくるんだホカロンを入れたりしていたくらいだから、寒いことに対する無意識の恐怖心のようなものはあるかもしれない。
 夢は、体からの何らかの信号かもしれないので、よく考えてみた方が良いと思うのだが、たいていの場合漠然としていてはっきりと思い当たることがないのでもどかしい。

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