すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

シャンソン

2022-10-07 19:43:23 | 音楽の楽しみ

 数か月間ほとんど入らなかった“音楽室”に久しぶりに座った。音楽室、といっても縦横2,5m、4畳ほどの小さな部屋だが。屋根のすぐ下にあり、ご近所に音が迷惑にならないように窓を小さくしてあるので、夏の間は暑くてとてもいられない。やっと涼しくなったので、音楽の季節の到来か?
 でもぼくは耳が遠くなって歌は止めてしまった。それで弾き語りをするために練習した楽器も気持ちが遠のいてしまった。上の部屋でできることは、音楽を聴くこと、あとはそっちに置いてある児童文学書か少女漫画を読むことぐらいだ。
 で、久しぶりにシャンソンを聴いた。ニルダ・フェルナンデスとジェラール・マンセとイヴ・シモンとブリジット・フォンテーヌ。
 フォンテーヌ以外は日本ではあまり知名度は高くないかもしれないが、この4人は大好きだ。4人に共通するのは、声の存在感の希薄さ、だろうか。もっと広い空間で聞いたら、何処から聞こえているのかわからないような声。小さな音で聞いたら、存在しているかいないのかわからないような声。ふわふわと浮遊するような声。それでいて、いつの間にか自分がその声に完全に包まれている。
 シモンとフォンテーヌは若い頃LPで聴いていた。シモンはいわばフォークソングで、健康な音楽だ。この4人の中ではシモン一人が健康かもしれない。彼は今では小説家としての方が有名らしいが。「フルーリーの少女」とか「ジャングル・ガルデニア」とか、懐かしい。
 フォンテーヌはかなり危険だ。むかし、自分がとにかく希薄な存在になりたいと思っていた時期があった。できれば消えてしまいたいと思っていた。その頃に彼女の歌を何時間も聴いていた。フォンテーヌを聴きながらウイスキーを飲んでいて、ガス栓をひねったことがあった。今聴いても、どうしてそういう気になったのかわからないではない。
 フェルナンデスとマンセはパリに住んでいた頃にラジオで聞いて、すぐにCDを買いに行った。それぞれ、そればかり聴いていた時期がある。マンセの「夢の商人」は恐ろしい歌で、夕暮に血の池のほとりで子供の首を入れた袋を担いで船に乗ろうとしている男が、ぼくの夢の中に何度も出てきた。
 4人の中でいちばん好きなのは、フェルナンデスだ。彼は細いハスキーな超ハイトーンで、ぼくは彼の歌を何曲かモノにしようとしたのだが、まるで手に負えなかった。彼はポルナレフのキーを地声で歌う。日本に帰って来てデュモンでCDをかけたら、誰も男性と思わなかった。「フランソワ―ズ・アルディでしょ?」という人がいた。確かにそういう感じはする。 
 じつはぼくのブログのタイトル「ぼくが地上を離れるまでに」は(近いうちに変えようと思っているが)、フェルナンデスの曲から思いついたものだ。残念なことに彼は3年前に心不全で亡くなっている。
 ぼくは今では、「限りなく希薄な存在になりたい」と思ってはいないが、フェルナンデスの声を聴いていると、あまり聴いていると、またそういう感覚が戻ってくるかもしれないという気はする。

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薔薇色の頬の娘

2022-06-06 17:33:54 | 音楽の楽しみ

後方席に座ると
ステージは乾上った湖だ
古代の生き物の骨が散乱している

最前列斜め左に
薔薇色の頬の娘がいる
マスクをしているのに
薔薇色の頬だと分かる
後ろの友達と話すために
何度も振り向く
そのたびに薔薇色が輝くのを
ぼくは盗み見ている

やがて
湖と森は静まりかえり
弦の密かな旋律が始まる
たちまち高潮し駆け出し
涸れていた水が甦り 満ち 溢れる
揺れ動く演奏者たちは
寄せる白い波

波頭がいちだんと高まって崩れる中で
錯覚のような何かを
耳が微かにとらえる

錯覚ではない 確かに
何かが近づいている

宇宙から届く
光の粒子の波動
それが次第に
湖と森を包み 立ち昇り
空間全体を恩寵で満たす

薔薇色の頬の娘が
急に振り返り
驚いたように
オルガンを見上げる

湖の岸
波の音楽と天の音楽の
交わる境
夜の降りた波打ち際に
巫女が一人 光を浴びている

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モーツアルトのレクイエム、他

2021-10-23 14:10:49 | 音楽の楽しみ

 昨夜、オペラシティーに東京交響楽団の演奏会を聴きに行ってきた。ジョナサン・ノット指揮。前半がフランスの現代作曲家デュティユーの交響曲第一番。後半がモーツアルトのレクイエム。
 デュティユーのはいかにも現代フランスが好きそうな華やかな音の爆発で、楽器編成も重厚で、音の饗宴を堪能した。歓喜がきこえた。古典的な交響曲とは全く違うのだが、交響曲の定義って何なんだろう? 一緒に行った、クラッシックに造詣の深いK君は「作曲者が交響曲と言えば交響曲なのさ」と言っていたが。音楽にド素人のぼくはちょっとオリヴィエ・メシアンの「トランガリーラ交響曲」にサウンドが似ているな、と思ったが、K君は「全く違う」そうだ。
 ド素人のぼくはじつはモーツアルトにあまり関心がない。美しいだけの気がする。ベートーヴェンのような苦悩や暗さがないと心惹かれない。モーツアルトの時代は、音楽が貴族社会の楽しみであって、ベートーヴェン以降でないと精神の深みがない。レクイエムは数少ない例外だ(ぼくは、苦悩の無いものには惹かれない)。
 昨夜のレクイエムは、合唱(新国立劇場合唱団)もソリスト4人(特に、ソプラノの三宅理恵)も 共に素晴らしく、音響的には大変聴きごたえのある演奏だったが、モツレクとしてはやや宗教的な天上的な浄福感は弱かったのではないだろうか。最上のモツレクを聴くときの、体が震えてくるような救済感は感じられなかった。が、音楽を聴く喜びとしては申し分なかった。
 メシアンは「トランガリーラ」について自分で書いている:「トランンガリーラ交響曲は愛の歌である。それは歓喜への賛歌であるが、(中略)、哀しみのさなかに、それを仰ぎ見たものだけが心に抱くことができるような歓びである…」。今夜のプログラムの2曲に共通するもの、ジョナサン・ノットが伝えたかったこと、はこれと同じだろう。
 オペラシティーの靴箱型構造は、音響的には素晴らしいのだろうが(例えば、コロナの感染予防のためか合唱団はやや人数が少なく感じたが、響きとしては、耳の遠くなりつつあるぼくにも十分な厚みだった)、サイドの安い席ではステージを見ていると首がひどく疲れる。それにステージの1/3は見えない。これはちょっと残念。
 それにしても、クラシックの演奏会は満足感高いよね。今回は、わけあって半額だったので、この2曲でたった1500円! ブラボー!!
 

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オーケストラ

2021-08-09 14:39:49 | 音楽の楽しみ

 昨日は久しぶりにコンサートを聴きに行った。こんな時期だからどうしようか、というためらいもあったのだが、音楽会は観客が声を出さないし、コンサートホールは天井の高い広い空間だし、直行直帰ならワクチンも接種したから大丈夫だろう、と判断した。
 場所はミューザ川崎。演奏は昭和音大の学生と卒業生のオーケストラ。演目はベートーヴェンの「コリオラン」序曲と交響曲第8番と、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、他小品。料金は全席指定でなんとすべて1000円。
 学生のオケだし、そこそこのものが聴かれたらそれで良いだろう、ぐらいのつもりでいたが、素晴らしかった。いつものお昼寝をしないで出かけて、15時開演だから、眠らないようにしなきゃな、と思ったのだが、「コリオラン」の始めから、ゆるい音は少しもなく(とかいうようなことを音楽知らずのぼくが書くのも滑稽だが)、さわやかな集中と緊張と力強さと伸びやかさで第8番も終わり、休憩後の後半の、とくに「火の鳥」はさらに素晴らしかった。みんなものすごく上手いが、中でもピッコロと木琴は格別音がクリアできれいだなと思った。
 久しぶりに、音楽で豊かな興奮の時をもらった。1000円でこれだけのものが聴かれるのだったら、これから少し学生オケにハマってみるのも良い。11月から12月にかけて音楽大学オーケストラ・フェスティバルというのもあるようだし、ぼくのようなアマは聴く側に回ったほうがずっと豊かかも知れない。
 ところで大人数のオケだけれども、彼らはこののちどう進むのだろうか。全員が音楽家の道に進むことができるのだろうか。
 彼らのうち何人かは、それぞれの楽器でコンクールに挑むのだろう。そこでは、アスリートと同じに「難易度Hの大技、15.30点!」とかいう世界を体験するだろう。でも、それはそれとして、何十人が現在という時間を共有して、一つの管弦楽曲を美しく響かせるために集中する、ということは同等以上に素晴らしいことだろう、と思う。たとえ音楽の道に進まなくても、それは最高に貴重な体験に違いない。ぼくは、アスリートよりもこっちに関心があるかな。

 ミューザ川崎は螺旋形にゆったりと空間配置がしてあって、心地良いホールだ。席を離れると、戻るときにちょっと迷うが(笑)。

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第九

2020-12-24 14:17:39 | 音楽の楽しみ

 昨夜、初台のオペラシティに第九を聴きに行った。秋山和慶指揮の東京交響楽団。今年はベートヴェン生誕250年で密になるかと、ちょっと怖くてためらったのだが、客席はかなり空いていた。ただし、いちばん高いS席と、ぼくたちのいるいちばん安いC席は混んでいてその中間がガラガラだった。これはコロナ禍で取りやめた人が多かったということよりは、二極化している、つまり格差が広がっていることの表れではないだろうか。
 さて、ぼくは音楽について、「良かった」「感動した」などと言うことのほかに言及する能力が無い者だが、ひとつだけ気が付いたことを書いておこう。たくさんの人がたくさんの感動を書く第4楽章ではなく、第3楽章について。
 第3楽章って、眠ってしまう人がかなりいるのではないだろうか? ぼく自身も以前はそうだった。そこで今回は直前にエスプレッソのダブルを飲み、さらに普通のブレンドまで飲んで、眠らないことにした。
 そうして改めてじっくり聞いてみると、実に穏やかで美しい、というより、甘美な楽章であることが分かった。寝てしまう人がかなりいるというのは、心地良すぎて眠気を誘われてしまうからだろう。
 「能楽の客席で眠るのが最高の贅沢だ」というのは井上靖の「氷壁」の中に出てくるが、第九の第3楽章も夢幻能と同じように、夢うつつの世界に誘い込まれるのだ。そしてそこは死の眠りに近い。
 弦の甘やかなメロディーに酔いしれているうちに、第1楽章、第2楽章の反抗や闘争や情熱を忘れて、静かに満ち足りた状態を永遠の安らぎと思ってしまうのだ。闘争のあとでそこにたどり着いて、そこで終わりにすることができたらどんなに良いだろう、と思う。
 だが、その安らぎは激しい金管の音によって突然に揺さぶられる。にもかかわらず、人はなおも安らかな夢を見続けようとする。夢幻の世界が完全に戻ってきた、と思われるがそこでもう一度、激しい金管の響き。それでもまだ、人は安らぎにしがみつきたい。
 その静穏はみたび突然に、今度は決定的に、轟音によって吹き飛ばされる(実際に眠っていた人は、びっくりして目を覚ます)。第4楽章の始まりだ。第3楽章と第4楽章が切れ目なく演奏されるのはこのためだ。そこで初めて、人は闘争も、闘争の放棄も越えて、連帯の喜びに浸る奇跡に巡り合うのだ。
 この第3楽章を心地よく眠ってしまうのは、だから、それがいかに贅沢な眠りではあっても、じつに惜しい。
 ためらっていたのだが、来て良かった。そして、眠らなくてよかった。
 出口で友人と別れて、ぼくは新宿まで歩いた。音楽会のあと歩くのは気持ち良いものだ。

 

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久しぶりのコンサート

2020-07-26 22:09:02 | 音楽の楽しみ
 サントリーホールに、東京交響楽団の演奏会を聴きに行ってきた。1月末に日本フィルを聴きに行って以来だから半年ぶりだ。当初の予定はマーラーの5番ほか、だったのだが、ベートーヴェンの3番と、ストラビンスキーのハ調の交響曲になった。しかもハ調は指揮者なし、3番はコロナ感染拡大でビザが発給されず来日できなくなったジョナサン・ノットがビデオ出演で指揮するという。
 夜の公演を昼夜に分けて客席は一つ置きだそうだ。感染が再拡大している時期だし、行こうかどうしようかとずいぶん迷ったのだが、「サントリーみたいな大ホールは天井が高いし換気も十分にしているから大丈夫だよ」という、一緒に行くことになっていた友人の意見と、「クラシックは生演奏に勝るものはない」という別の友人の激励で、行くことにした。ビデオで指揮、って、どんなだか、大いに興味もあったしね。

 ストラビンスキーは、有名な「春の祭典」や「火の鳥」は聞いたことがあるが、「ハ調の交響曲」というのは初めてだ(もともと、クラシックのコンサートに頻繁に行く余裕はない)。
 席はステージ後ろのP席だ。コンサートマスターが弾き振りっていうか、弾きながら合図をするのだが、その合図がよく見えて面白かった…のだが、演奏は集中というか、まとまりを欠いたもののようにぼくには思えた。席が演奏者に間近なので左右に広く、きょろきょろ目移りしながら聴いていた。目の前が金管なので、やや強く感じたがこれはまあ仕方がない。
 一緒に行った友人、これは本格的に指揮の勉強をしたことのある、音楽の造詣の深い玄人だが、に休憩時間に、「あれは集中が足りないのか、もともとそういう曲なのか」、と訊いたら、「もともとそういう曲なので、演奏は非常にしっかりしているよ」とのことだった。

さて、つぎは「英雄」だ。休憩にロビーに出てホールに戻ったら、舞台の真ん中、本来指揮者のいる場所に画面が4方向に立てられている。団員が席について音合わせがすんだら画面が明るくなってノットが現れた。拍手していいのだろうか、というようなあいまいな拍手が起こる。彼の身振りに従って団員が立ち上がり、また座るので、客席から和やかな笑い声が聞こえる。だが、ノットが指揮棒を大きく振って演奏が始まったとたん、思わず息を呑んだ。
 最初に和音が二つ大きく短く鳴って、チェロの低音の耳馴染みのある第一主題が始まる、その冒頭の瞬間からぼくの目は画面のノットに釘付けになった。過去にこの曲をやっているには違いないが、今回としては一度も対面での練習はしていないのに、オケを一糸乱れずまとめ上げるすごい統率力。ピッタリ息を合わせてついていくオケもすごい。
 それにしてもこの人はどうやって、目の前にいないオケのそれぞれのパートにこんなに的確に身振りによる指示がだせるのだろうか? そもそもこの映像はどのようにして撮影されているのだろうか? 実際に鳴り響く音がなくても、自分のうちにある音だけでこのような指示ができるのだろうか? それともオケの代わりに二台のピアノぐらいに演奏させているのだろうか? それだけでオケの指示が出せるのだろうか? 
 第二楽章の静かな葬送行進曲が始まってやっと、指揮を見ながら演奏者をも見ることができるようになった。暗い悲しいものを好む傾向のあるぼくは、このヴァイオリンに始まる足を引きずるようなハ短調の葬送の主題が大好きだ。途中で転調してオーボエ始まるやや明るい中間部が、雲の切れ間の青空のように響き、それからまた暗い主題に戻って、最後は切れ切れになった記憶のように終わる。
 第三楽章の始まる直前に、コンマスがオーボエに音合わせの音を出すように目で何度か促すのだが、オーボエがそれに答えない、という意思の疎通の行き違いが(たぶん)あったようだが、ノットの指揮棒に合わせてヴァイオリンのスタッカートの演奏が始まるとあとは何事もなく、ほぼ切れ目なく第四楽章に続いて弦楽器の美しいピチカートがあらわれ、やがて壮大なクライマックスに向かって音楽は高まってゆく。
 演奏の鳴りやんだ後は、今日はブラヴォーは禁止だから大きな拍手。珍しいことに舞台袖に引き上げた演奏者全員が再びステージに表れてカーテンコールに答えた。今日はアンコールは無いのだが、観客は大満足だったろう。
 いやあ、プロの凄さというものをまざまざと見せつけられた。迷ったけどやや興味本位もあって聴きに来て本当に良かった。素晴らしいものを聴かせていただいた。

 家に帰ってプログラムに載っていた経緯を読んでまたびっくりした。代役の指揮者を立てようかと団は思っていたがノットがリモート演奏を提案し、でもそれでは時間差ができてしまい、オケの演奏する音が指揮者に届くのに数秒かかることが判明。それでノットは演奏を聴かずに指揮を映像化することを決断。これに対して楽団側は映像に合わせるリハーサルはいっそやらないことを決断。ノットの書き込みのあるスコアを見て音作りをして本番に臨んだのだそうだ。 
 仰天! 
 こういうのを真剣勝負というのだな。

付記:ぼくは耳が遠くなっていて、大ホールの3階席・4階席では音楽が小さく聞こえるから物足りない。で、これまではS席のしかも前から10番目ぐらいの真ん中あたりに座っていたのだが、それではお金がかかるのであまり聴きに行けない。
 ステージ後ろのP席はどこのホールにもあるわけではないし、歌手が後ろ向きになるから声楽曲には向かない。でも安い。通常3000円くらいで聴ける。しかも演奏者に近いから音量は十分だ。やや金管の音が大きい難点はあるが、指揮者はよく見えるし、これから大いに通うことにしよう。
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映画「蜜蜂と遠雷」

2019-10-04 22:11:58 | 音楽の楽しみ
 封切りの初日に映画館に行くなんて、たぶん今までに一度もなかったことだ。
 それだけ期待度が高かったってことだが、残念ながらすごく違和感があった。。
 どこにどのように違和感を持ったかを具体的に書くことは、まだ封切り初日が終わったばかりだからやめておく。ぼくの書くものが客足に影響を及ぼすなんてことは心配していないが、制作した人たち、演じた人たちに対して失礼だから。
 映画の最後に、映画版の主人公の栄伝亜夜によるプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の演奏場面が長くでてきたが、原作では彼女が弾き始める前に小説が終わっているから、これは映画だけ。ここの演奏は、映画だからもちろん断片ではあるが、素晴らしかった。
 2時間の映画では原作に出て来る膨大な音楽を十分には扱えっこないのは当然だから、映画製作者はこの場面を描き切ることで、原作とは違う映画としての作品のまとまりをつくろうとしたのだろう。そういう意味では成功していると言える。
 原作を読んで映画館に来た人が、はじめのうち「あれ、これ、違うよね」とか思いながら居心地悪い思いで見ていて、最後は安心して席を立つ、という意味では。
 今夜ちょうど、Eテレの「らららクラシック」で、この映画を取り上げていた。
 作品中に出て来る「春と修羅」を、河村尚子が弾いていた。現代曲って、ぼくは好きだなあ。古典にはない、硬質な、しかもものすごく純度の高い響き。生き物の温さのしない、それでいて弾く者の、あるいは聴く者の、感覚をきちんと表現することのできる音楽。
 ふだんは自然を愛しながら、いっぽうでそんなことを感じているぼくは矛盾しているかもしれないが、両方があるというのは事実だ。
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グリーン スリーヴス

2019-05-14 10:24:28 | 音楽の楽しみ
 五月の森に最も合う音楽―というような断定はできないが、少なくともその一つは、イギリス民謡の「グリーン スリーヴス」だろう。
 これは古風な6/8拍子で、リコーダーでもギターでもほかの楽器でも歌でも、悲しみを湛えて美しい。リコーダーなら、だれでも簡単に自分で吹けて気分に浸ることはできるだろう。聴くと遠いいにしえから響いてくるような物静かなゆったりとしたメロディーに思えるが、歌おうとすると意外に難しい。息を継ぐべきところで短い繋ぎの音が入るので、どう息継ぎをしていいかわからず、たちまち苦しくなってしまうのだ。
 標準的なホ短調(Em)でいうと、フレーズの終わりのレの付点八分音符からスラーでミの十六分音符で受けて、次のフレーズの頭の#ファにつなげている。これでは息継ぎができないから、次のフレーズの終わりまで我慢するしかない。これが何回も出て来るので、ますます苦しくなってくる。
 これを解決するために、ブラザーズ・フォーは3/4拍子にして、速度を落として、しかも繋ぎの音を省いて歌っている。
 元の歌の滑らかな素早いつなぎはこの歌の優美な美しさの源泉のように思うのだが、ブラザーズ・フォーの歌はそれをやめて、でも歌の美しさも古風な悲しみの味わいも少しも損なわれていない。かえって、元の優美な悲しみの代わりに、もっと素朴な、というか、朴訥とした悲しみを感じさせてくれる。
 イギリス民謡としていちばん有名な曲で、CMやBGMとしても繰り返し使われているし、器楽としても歌としても無数のカヴァーがある。今ぼくの手元に6種類の音源がある。
 イギリスの男性アカペラ・コーラス・グループである、キングズ・シンガーズのもの。同じくイギリスのアカペラ・・グループでこちらははソプラノが入った、スコラーズのもの。ソプラノの波多野睦美がリュートの伴奏で歌っているもの。ギターの村治佳織のもの。さっき上げたアメリカのなつかしいフォークグループ、ブラザーズ・フォーのもの。ぼくが最初に聞いたのはこれだ。
 それぞれが美しいが、スコラーズのものだけは、ややアレンジが騒々しい。
 そして、映画に挿入された断片でしかないが、女優のデビ―・レイノルズが「牧場の我が家」のタイトルで歌っているもの。これはぼくが高校生の頃、日本でもヒットした。後年、ぼくはこれが聴きたくて映画「西部開拓史」のDVDを買った。映画は、西部劇の総集編みたいな、できの良くないものだが、レイノルズの歌は良い。この6種のうちで一番好きかもしれない。断片しかないからかもしれないが。
 このほかに、リコーダーと通奏低音(チェンバロ)の演奏の「グリーン スリーヴスによる変奏曲」のCDがあったはずなのだが、見つからなかった。引っ越しをするたびにいろいろなものが亡くなっていく(もうしないだろうが)。
 …ところで、通例に従って「グリーン スリーヴス」と書いたが、sleeveの複数形だから[ズ]なのではないだろうか? 古英語では[ス]だったのだろうか? 6種の中で唯一、スコラーズのものは「―ヴズ」になっている。歌は、そこの音を呑み込んでしまっているから、ぼくの精妙でない耳には、スなのかズなのか聞き取れない。どなたか、英語に詳しい人、教えていただけないだろうか。
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笛(2)

2019-05-11 22:14:44 | 音楽の楽しみ
 林試の森に散歩に行ったら、フルートを吹いている若い男性がいた。林試の森で楽器の練習をしているのには初めて出会った。
 音大の学生だろうか。譜面台を立てて、でもそこには楽譜は乗っていなくて、ウオーミングアップの指の練習だろうか、しばらく立ち止まって聴いていたのだが、非常に速いパッセージを繰り返し繰り返し練習していた。
 音楽に詳しい人なら、ぼくが「非常に速い」と書くところを、「速度は♩=これこれ位で、誰それの練習曲」みたいに言えるのだろうが、ぼくには言えない。ぼくに言えるのは、「五月の森には笛の音がよく合う」ということぐらいだ。そういえば笛の音は、やはり五月の山の森で聞こえるウグイスやカッコウたちの囀りに似て清々しい。
 パリの郊外のクラマールという町に住んでいた頃、新緑のムードンの森を歩いていたら、森の中の小さな空き地で民族衣装を身に着けてバグパイプの練習をしている人に出会った。しばらく立ち止まって聴いていた。翌日、同じ人が同じ格好でパリ・オペラ座の前で演奏しているのに出会って驚いた。地下鉄の階段を上ったらそこにいた。 「やあ」と声をかけたかったが、吹いている最中だったのでやめた。手だけ振ったら、ちょっと頭を下げてくれた。前日森で会ったぼくを覚えていたようだ。
 パリから南東に鉄道で一時間ほどのフォンテーヌブローの森は好きな場所で、よく行った。アルジェリアに派遣で行っていたころ、一週間のパリ休暇をもらうとパリは素通りしてフォンテーヌブローに行って、駅前の旅館に投宿して、5日間ぐらい毎日森を歩き回った。
 ある時、六月の始めだったが、やはり新緑の森を歩いていたら、すこし窪地になっている藪蔭から、姿は見えないがリコーダー(フリュート・ア・ベック)の音が聞こえてきた。
 宿泊した旅館の裏手から森に入って、30分ほど歩いたあたりだった。
 フルートもバグパイプも五月の森に合うが、やはり一番合うのは、リコーダーだろう。それも、古風なバロック曲が良い。
 リコーダーは、小学校でも習うが、誰でもすぐに鳴ってしまうので、かえって息のコントロールが難しい、なかなかサマにならない楽器だと思う。その時の吹き手はすごく上手かった。
 笛の音は、囀るように、誘惑するように、聴く者を魔法にかけるように、歌い続けていた。
 どんな人が吹いているのか、藪の向こうに下りて行ってみたい気もしたが、わざわざ藪陰で吹いているのを見に行っては悪いだろうし、ひょっとして好奇心が災いして、罰に小動物かなんかに変えられてしまうかもしれない、という怖いような気も(マジで)少ししたので、道端で聴くにとどめた。
 反対側のバルビゾンの村までそこから2時間ほどかけて行って、お昼を食べてまた歩いて帰ってきたのだが、さすがにさっきの場所に笛の音は聞こえなかった。ちょっと、藪陰に行かないで惜しかったかな、と思った。
 (「笛」(1)は、18/11/13に書いています。)
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2018-11-13 22:16:16 | 音楽の楽しみ
 若い頃、笛の音が大好きだった。ケーナ、サンポーニャ(フォルクローレのパンフルート)、尺八、篠笛、オカリナ、フルート、草笛、リコーダー…笛の音であれば何でも好きだった。
 聴くのが好き、が高じて、自分でも吹いてみるようになった。ケーナ、尺八、篠笛、オカリナは何とか吹けた。リコーダーは、一時、アンサンブルに入れてもらっていた。サンポーニャには挑んでみなかった。草笛は、何種類か吹き方を覚えたが、今ではもう忘れてしまっている。指笛と口笛は、吹けるようにはならなかった。
 やっているうちに、尺八、篠笛、オカリナ、ケーナなど西洋音階と少し違うものは、よく知っている歌のメロディーなどを吹くときに気持ちが悪いので、聴くのは好きだが吹くことからは離れた。あれはぼくみたいに移り気でなく、ひとつに集中してやらなければだめなのだろう。そして、その独特の音階・音程を受け入れなければ。楽器を選ぶことは、音楽を選ぶことでもあり、文化を選ぶことでもある。
 フルートだけは、けっこう集中して練習した。通訳の仕事でアルジェリアに長期滞在するときに持って行って、仕事のあと毎日練習した。パリで、友人の友人で東京芸大の講師で作曲を学ぶために留学していた人に、「たいへん筋が良いよ」と言われた。
 でも、歌を始めたときに、笛は止めた。笛を吹きながら歌うことはできない。シャンソン歌手の葵めぐみさんのように、フルートと歌を両立させている人もいる。たいへん素晴らしく、うらやましく思う。でも、歌をうたう間は、ピアノなりなんなり、伴奏者を必要とする。弾き語りはできない。
 今でも、古いフルートとリコーダーは持っている。ときどき取り出してみるけれど、吹くことはしない。吹くことはできても音楽にはならないだろう。
 挑戦してみたけれどまったく鳴らなかったのは、名前は忘れたけどアルジェリアで出会った、アラブの民族音楽の縦笛だ。ただ葦を横に切っただけの形をしていて、ケーナや尺八のような吹き口もなく、斜めに口を当ててエッジに息を当てて演奏する。息を変えてみたり角度を変えてみたり、どうしてもならなかった。砂漠を旅するとオアシスの夜、町のどこかから歌声とともに聞こえてきて、延々と続く不思議な音色の笛だ。
 笛は、乾燥した気候によく合うのだろうと思う。フォルクローレの笛もそうだ。熱帯雨林では、笛は発達していない。樹々の茂みに音が吸われてしまって遠くまで響かないからだろう。ジャングルではタムタムのような打楽器の音がよく伝わる。笛は、サハラの笛も、アンデスの笛も、青空に広がり、草原に広がる。
 パリのプレイエルホールで、ケーナの名手、ウニャ・ラモスのコンサートを聴いたことがある。テーブルの上に何本もの笛を並べて、曲によってそれを取り替えながら吹く。その音色に堪能したが、彼がアンコールに取り出したのは日本の尺八だった。「去年日本に行ったら友人にこれをもらいました。素晴らしい笛なので、自分でも作曲してみました」と言って最後に吹いたのが、その日の最高の曲だった。尺八の音の方が深い。
 でも、ケーナの音色は大好きだ。あの軽さが良い。以前、道玄坂を上がった山手通りに近いところにフォルクローレ専門のライヴの店があって、よく聴きに行った。残念ながらとっくになくなっているが、今でもどこかの駅前の路上で演奏しているグループがあると足を止めて聴く。
 ケーナに限らず笛の音は、ぼくたちが日々の暮らしの中で抱くあこがれの音、そして時には哀しみの音だと思う。だから青空に、草原に、心に、響く。
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ローラ・ソングブック

2018-10-14 10:47:15 | 音楽の楽しみ
 アメリカから本が届いた。TVドラマ・シリーズにもなった「大草原の小さな家」は、お父さんがヴァイオリンを弾いてみんなが歌う一家団欒の場面がたびたび出てきて楽しい(ぼくは本は読んでいるがドラマは見ていないので、ドラマで実際に演奏されていたかは知らない)のだが、その歌が楽譜集として出ていることを知り、注文したのだ。
 実は、日本語訳もあって、しばらく前に手に入れていたのだが、原語の英語歌詞が載っていない。そして、日本語訳詞が物足りない。歌の人ではなく、キリスト教の人が訳しているようだが、この歌詞で歌う気にはなれないし、歌ってみて少しも心が弾まない。それで、原語歌詞だけのためにもう一冊手に入れるのももったいないので放っておいたのだが、メロディーは素朴で美しいものが多く、見捨ててしまうのはもっともったいないので、アメリカに注文することにしたのだ。
 届いた本は、手入れが悪く、カヴァーにセロハン紙がべったり糊付けしてあって、はがそうにもはがせないし、表紙裏の紙が破られている(付属のCDでも剥がしたのだろうか?)し、ページを開くと異臭がする、というひどいものだった。
 アメリカと日本では、古本の扱いが全然違う、ということなのだろうか。日本ではネットで1円の本を買っても、けっこう状態は良い。日本の良いところだ。(けっこう高かったのだ。)
 だが、肝心の原語歌詞は悪くない。これならメロディーの美しさが十分に生きる。つまり、歌として楽しむことができる。
 もともと、以前にも書いたことがあるが、ひとつの音符に原則として1子音と1母音しか乗らない日本語は歌として大変不利だ。欧米語は、ひとつの音符の中でも、子音の連鎖ができるから、跳ねたり捲いたり詰まったり破裂したり、表現の可能性が複雑に広がる。日本語はベタになってしまう(この点では、日本語詞訳者は気の毒だともいえる)。
 内容は、まあ、アーリー・アメリカン的な、素朴な郷愁や陽気さや信仰心のものが多く、名高いスティーブン・コリンズ・フォスターの他にもそんな感じの作者がたくさんいたのだと思えばよい。
 愛唱歌として良く知られた、「旅愁」とか「故郷の廃家」とか「谷間のともしび」を思い出してもらうとよい。
 異臭がするので、コピーして使うことにしよう。
 (初期アメリカの宗教心については、今現在トランプ政権のもとで大きな問題があると思うが、それは別途書くことがあるかもしれない。)
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カルミラ・ブラーナ(2)

2018-09-24 09:15:07 | 音楽の楽しみ
 CDで聴きなおしてみると、カルミラ・ブラーナは、もともと非常にドラマチックに、荘重に悲愴感いっぱいに作曲された音楽だとわかる。
 比較的短い25曲からなる、全体で演奏時間60分ちょっとの楽曲だ。
 最初の2曲で、オーケストラと大合唱で、すべてを押し流し滅ぼす運命の(時の)恐るべき力が歌いあげられ:
 第3~10曲では、春が来た喜び、その中で芽生える恋心、が、11~14では、酒場での男たちのバカ騒ぎが、15~24では、恋、というよりはむしろ肉欲の喜びが歌われる。その全体を通して、短い音列や響きによって、最初の運命の力がところどころで喚起される。
 最後の25で第1曲目がさらに大きく全開で繰り返され、最後の音が鳴りやんだ瞬間に、聴衆は自分の足元に大きく口を開けた奈落を見る。
 先日ライヴでこれを聴いた時には、舞台前面で行われている舞踏パフォーマンスに妨げられて、最初の2曲あたりまで集中できず、この全体の構造が見えなかったのだ。
 ついでに言うと、ぼくは歌の世界に音楽からではなく言葉の方から入ったので、歌詞を伴う曲では詞が気になるのだが、カルミラの場合、13世紀に修道院で編まれた世俗ラテン語の詩集の抜粋というこの大曲の歌詞は、読み直してみるとほとんど見るべきものがない。というより、現代に生きるぼくたちの哀歓や苦悩を的確に表現してくれるものがない。
 だからこれは、言葉をたどりながら音楽を味わう、というのでなく、ざっと大意は頭に入れたうえで、もっぱら音楽の響きに集中して味わう、というのが良いかもしれない。
 なお、CDはC.ティレーマン指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団。これを選んだのは、指揮者や楽団ではなく、バリトン(この曲の場合、3人のソリストの中ではバリトンが最重要)のサイモン・キーンリーサイドに惹かれたからだ。現在、世界最高のバリトンの一人。
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カルミラ・ブラーナ

2018-09-22 22:58:29 | 音楽の楽しみ
 先日、17日の月曜日に、友人と池袋の東京芸術劇場に東京都交響楽団の演奏会を聴きに行ってきた。
 このブログを読んでくれている人の中には、同じ日にアズナヴールの東京公演を聴きに行った方が多いかと思うのだが、シャンソンよりもクラッシックのコンサートの方がコスト・パフォーマンスが、つまり、チケット代金に対する聴きごたえ・感動、がずっと大きいとぼくは思っている(この日は、前から10列目のS席で4500円)。
 メインの演目は、カール・オルフの世俗的カンタータ「カルミラ・ブラーナ」だ。以前、音楽療法をかじっていた時に先生がドイツのオルフ研究所で主に障害のある子どもに対する音楽療法を研究された方で、ぼくはその指導法に感動したことがあって、オルフの音楽に関心があったのだが、何となく聞きそびれていた。
 以前にも書いたことだが、ぼくは音楽を聴いて受けた感動を「素晴らしかった」という以上に表現する能力や素養がないので、どこがどのように、とは書けないのだが、素晴らしかった。
 ステージの前面で学生服を着てダンスパフォーマンスをしている集団があって、それがひどく目ざわりで、なるべく目に入らないようにしながら聞いていたのだが、音楽は素晴らしかった。
 都響のオーケストラと「国立劇場合唱団」のコーラスと、ソプラノとカウンター・テナーとバリトンの3人のソリストと児童合唱団までついていて、一体となった響きがたいへん厚かった。この合唱団は非常に上手い。
 ドラマ性を高めるためかスタッカートを多用(演奏が、ではなくて、たぶん元の作曲自体が)していて、多すぎる気がしないでもなかったが、高揚した。
 事前に予習していかなかったので、ラテン語で歌われる歌詞が何を言っているのかまるで分らなかったのが残念だった。家に帰ってからプログラムの歌詞を見たら、恋と酒を主とする生きる喜びや楽しみや苦しみや、それでもそれを容赦なく破壊していく時間という運命の酷薄さ、のようだった。
 あらかじめ分かっていたら、もっとわが身に沁みて良かったかもしれない。最近、ぼくはそういうテーマに弱い。
 今日、時間ができたので、新宿ユニオン・クラッシック館に行ってCDを手に入れてきた。来週ゆっくり聴こうと思う。
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「羊と鋼の森」

2018-06-12 14:07:12 | 音楽の楽しみ
 昨日、映画「羊と鋼の森」を見に行ってきた。小説の方は、二か月ほど前に読んでいた。音楽をテーマにした小説を読むのは好きだが、これは中でも、大変気持ちの良い小説だ。
 上映開始3日目だけれど、台風接近中の月曜日の午前の回だから空いているだろうと思って行った。半分くらいの入りで、良い席でゆったりと観ることができた。

 ところで、音楽をテーマにした映画は、ひとつだけ気を付けなければいけないことがある。去年だったか、杏が主演した「オケ老人」を見に行って痛感した。へたくそな集団ないし個人が努力のすえ上手になる、というストーリーのものは、初めのうち、ときにはクライマックスの直前まで延々と、音程の狂った気持ちの悪い演奏を聴かされる羽目になる。あれは、ストーリーの展開のためとはいえ、故意にああいう演奏をしているのだと思う。「もうやめてよね」という感じ。
 その点、昨日の映画は、初めから素晴らしくきれいな音が鳴っていて、嬉しかった。
 映画の中で弾かれるピアノ曲も、ラヴェルの「水の戯れ」とかドビュッシーの「月の光」とかベートーヴェンの「月光」とか、よく知られた名曲が使われていて、久しぶりに聴いて懐かしく、心に沁みた(原作の方では、曲名は示されていない)。
 そして何よりも、主人公が育った森の緑が、最高に美しかった。
 この音と自然の美しさだけでも至福の時で、何度も観たい感じ。

 これから見る人のために、内容にはあまり触れないでおくが、ストーリーも主人公をはじめとする登場人物たちの心理描写も原作に忠実に描かれていてよかった。

 主人公役の山崎賢人は、初めのモノローグと、森の中を歩いてゆくシーンの歩き方こそちょっと違和感を感じたものの、それからあとは、自分の才能に疑問を感じながら、困難にぶつかりながら、真摯にひたむきに乗り越えていく姿がさわやかでよかった。彼を指導する役の鈴木亮平も、「西郷どん」よりはるかに良かった(「西郷どん」は、初めのうちしか見てないが、頑張りすぎ、叫び過ぎ)。そして、主人公に調律師の道を歩ませるきっかけとなった大先輩役の三浦友和も良かった(百恵ちゃんは良い選択をした)。双子の姉妹役の二人も、それぞれの個性をくっきりと演じていてよかった。

 ぼくは、意地悪な嫌な性格の登場人物が出て来るドラマや映画や小説は、気分が悪くなるから好きではないが、この小説にも映画にもそういう人物が一人もいない。
 ぼくが特に感銘を受けたのは、南という青年の家の、長年打ち捨てられていたピアノを調律するシーンだ。ここは原作よりずっと膨らませていて、調律の終わったピアノを彼が弾きながら今はいない両親や愛犬のことを思い出すシーンでは、涙が出た。
 もう3回くらいは観に行きたい映画だ。皆さんもぜひ行ってください。

 …それにしても思う。音楽と自然という、人間を包んでくれる二つの美しいものに、曲がりなりにもうんと端っこの方でも、二つながら関心を持っているぼくは幸せだと。
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「ボブ・ディランの7つの詩」

2018-05-23 22:41:45 | 音楽の楽しみ
 昨夜、東京都交響楽団の演奏会を聴きにサントリーホールに行ってきた。演目は第一部がメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」で、第二部がジョン・コリリアーノという名の現代作曲家の歌曲集「ミスター・タンブリンマン-ボブ・ディランの7つの詩」。
 都響の演奏会には割とよく行く。料金がリーズナブルだし、シニア割引もあるので行きやすい。演奏は、ぼくは素人だが、時により少しばらつきがあるかもしれない。1月に聴いたオリヴィエ・メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」は、あの大曲が日本で聴けるということで大いに期待していったのだが、大曲過ぎたせいか途中からやや混沌に陥ってしまったように思う。音が濁っていた。家に帰ってから小澤征爾指揮のトロント交響楽団のCDを聴きなおしてみたら、その方がはるかにクリアな音だった。
 今回は、ディランの詩に新たに曲をつける、というので、若い頃からディラン大好きなぼくは、どうなることか、期待と興味が半々で行ったのだが、感動のステージだった。ディランが曲を作ったときに無意識に表現しようとしていたものを現代クラシック音楽という全く別の形で明晰に表現し、かつ増幅していると思う。
 第一曲「ミスター・タンブリンマン」は、異世界へ導くための導入の役割を果たしている。いや、異世界ではない。ぼくたちは、この世界がある時点から突然、今まで慣れ親しんでいたものとは別の貌を見せるように感じる、という体験をすることがある。自分がいる世界がスッと見知らない世界に変わってしまう。この曲は、その変化の時間を表現している。
 「夕べの帝国は砂に戻り/この手から消え」というのはその変化で、タンブリンマンはその道案内だ。現代音楽の不思議な響きとヒラ・プリットマン(ソプラノ)のクリスタルな声が、その変化してしまった世界に響く。
 第二曲「物干し」では、日常の世界に突然不可解な事態が発生し(「副大統領が昨夜ダウンタウンで発狂」)、家族や隣人との会話が意味をなさなくなる。
 第三曲、有名な「風に吹かれて」は、変わってしまった世界、じつはこの世界、の問題に直面して、苦しみと問いかけの叫び声があげられる。
 第四曲「戦争の親玉」では、その苦しい世界を牛耳っている人々への、非難と反抗とが爆発する。
 にもかかわらず、第五曲「見張り塔からずっと」では、世界はすでに壊れて荒れ果てているようだ。
 にもかかわらず、第六曲「自由の鐘」では、悲惨な状態に置かれ、挫折し、傷を負い、苦しみながらも希望を捨てない者たちの上に、鐘が鳴る。鐘は鳴り続ける。ここがクライマックス。
 終曲「いつまでも若く」は、アイルランド民謡のような素朴なメロディーで、ほとんどアカペラで静かにゆっくりと歌われる。祈りの歌だ。思わず涙が出てしまった。
 プリットマンは折れそうに細い長身で、指揮者の周りを歩きながら全身を使って歌い、怒り、叫び、身もだえし、拒絶し、何かをつかもうと手をのばす。圧巻だった。声は舞台前方の天井からつるされたマイクで拾ってスピーカーで増幅しているのだが、そのためにいわゆるオペラ的発声ではなく、自然な声で囁いたりつぶやいたり問いかけたり、から、怒りの爆発や絶望までを表現できる。「なるほど、マイクというものはこうした表現のためにあるのだな」、と認識した。
 都響の演奏も、昨夜はとてもよかった。ぼくの後ろの席の人が、連れの人に「感動のコンサートだね」と言っていたが、ぼくもそう思った。
 現代音楽って、良いね。
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