すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

白い衣の女の人

2021-01-30 17:00:41 | 夢の記

眠っているぼくの部屋に
誰かが音も立てずに入ってきた
豆電球ひとつの薄暗がりの中に
白い衣が浮かぶ
女の人らしい
両腕を下げ
うつむいて
無言で寝台の傍に立った
泣いているのだろうか?
でも悲しそうではない

そうか
ぼくは死の床にいるのだな
此の世での時は終わり
ぼくの迷いや過ちは
許されたのだな

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一月

2021-01-29 20:18:12 | 詩集「黎明」

終日 平原は吹雪の乱舞に覆い尽くされた
平原には果てがなかった 果てのない平原を呑みこんで
風は白い大地を空へ投げ返した
生命あるものは何もなかった ただ大樹が一本
全身を引き絞って踏みとどまっていた
樹は平原のまんなかに立っていた いや
樹があるからこそ そこが平原のまんなかだった だから
吹雪が止むと静寂は枝々の先から四方にひろがっていった
          (連作「はるにれ」のうち 一月)

 

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クワヘリ(さよなら)

2021-01-27 09:53:06 | 思い出すことなど

村はプランテンバナナの林の陰に
動物保護区の密林の傍らにあった
保護区になったので追い出された狩猟民が
それでも祖霊の森から離れられずに
そこに住み着いたのだ

村長(むらおさ)は「小さな人」の中でもいちばん小さく
最長老だが元気の塊で
ちょっとおっちょこちょいだが経験と知識はすごく
(もちろんジャングルで生きるのに必要な知識だ)
村人たちの人望を一手に集めているようだ
何時も上機嫌で乱杭歯を広げて笑う
(米に石が混じっているのをかまわずに食うから
彼らの歯はボロボロだ)
それが実に人懐こい笑いなのだ

村に電気は来てないから
明かりには灯油ランプを使う
灯油はビールの空き瓶に入れておく
たまに訪れる観光客に出したものだ
だが時々 間違えてその瓶が回収され
工場で洗浄されて またビールが詰められることがある
栓を開けて一口飲むと
口中に灯油が広がってゲッと吐くことになる
「大当たり」だ

ランプはおもに住まいに使う
夜道を歩くのに使われることは稀だ
彼らは真っ暗やみの中を平気でスタスタ歩くことができる
月のない闇夜
明かりを忘れて出かけて帰りが遅くなったぼくらが
手探り足探りで歩いていると
後ろからハバリザジオニ!(こんばんは)
と突然に声をかけられて
飛び上がることがある
怯える必要はない
ぼくらを襲うつもりなどないのだ
「身ぐるみ剥がれるぞ」というような都会でのうわさこそが
夜道で怯えあがらせるのだ
少なくともこの小さな民たちは安全だ
近ごろ住み着いた金に縁のなさそうな“シノワ”
に親近感を持っている(とぼくは思う)
安心して道案内を頼むと良い
お礼はタバコ一本でいいのだ

彼らは子供並みに小さいので
歩幅はかなり狭いはずだが
黙っているとどんどん引き離される
ピッチが速いのだ
同じピッチで歩こうとすると
こっちはたちまち足がもつれる
息も切れる
おいおい もっとポレポレ(ゆっくり)歩いてくれ
並んで歩くと すごい早口で何か訴え続ける
言葉は分からないが
どうも腹が痛くて虫下しが欲しいらしい
小屋に着いてタバコを一本やる
残念ながら虫下しは無い
それでもたばこ一本で満面の笑顔
アサンテアサンテ(ありがとうありがとう)と手を握る
またジャングルに一緒に入ろうな

ぼくらがジャングルに入る時
村長は今でも
先頭の藪切り払い役のすぐ後ろに着き
方角を指示する
動物のフンを見つけ
何時頃そこを通ったかを教える
夕方になると木に登って
「こっちだ」と指さす
沢も湿地も越えてその方角に進むと
昨夜のテント場に出るのだ

テント場の夜はまず
ジャングルの霊たちに捧げる祈りだ
火を焚き 四方に向かって
祖先の霊に祈り
殺された象や鹿や猿の霊に祈り
ぼくら異人の分まで加護を願うのだ
それから酒の買い出しに若者二人が選ばれて
真っ暗な山道をはだしで集落のある場所まで下りて
巨大な瓢箪にどぶろくを入れて戻ってくる
さあ 宴会の始まりだ
焚火を囲んで歌だ踊りだ
彼らはすぐに酔っぱらう
村長が大声で朗誦を始める
祖先や若かりし自分の武勇伝らしい
そして狩りの獲物をたくさん与えてくれと祈るのだ
(狩りは今では禁止されているのだが)

ぼくは彼らの祖霊への祈りや
動物たちの霊への祈りに
何か遠い懐かしいものを感じる
絶対の高みからぼくたちを裁き
ぼくたちを許す一人の神ではなくて
里を見守ってくれる祖先や
森に人と共生する生き物たち
水や空までを含めた
森羅万象
同じ世界を生きている仲間たち
ぼくたちが忘れてしまったもの

もういちど
葦原を渡る風に吹かれたいよ
草地に車座になって
大皿のウガリをめいめい指でちぎって丸めて
干し魚とトマトと玉ねぎとピリピリの汁に浸けて
食いたいよ
胃の中でさらに発酵を続けるので
腹が膨れるバナナのどぶろくを
回し飲みしたいよ
(余談だがあの頃 帰国すると家族が
一年で5キロ太ったと笑ったものだ)

だが ぼくは歳をとった
もういちど君たちの村に行きたかったが
もう行けない

クワヘリ(さよなら)気の良い仲間たち
ときたまニュースで聞く 君たちの国は
とりわけ あの村のある東部一帯は
内乱が果てしなく 
国境を越えて軍隊が入り込み
人々は難民になって逆に越えるという

君たちはまだあのジャングルの村にいるのか
あの村はまだあるのか
君たちの子や孫はつつがなく暮らしているのか
村長は今では祖霊の長になって
見守ってくれているのか

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ぬくもり

2021-01-25 09:04:02 | 山歩き

指先が凍えて
千切れるように痛んだら
手袋を脱いでポケットに指を突っ込む
布を通して腿のぬくもりが伝わってきて
このほうが温かい
(だから雪山では
ストックは2本は突かない)

それでも足りなくなったら
防寒着のボタンをひとつ開けて
襟首から直接
手を入れる
胸の肌が一瞬
驚きの悲鳴を上げるが
少しすれば胸も指も
また温まってくる

生きているってことはこんなにも温かい
血液がめぐるってことは
こんなにも温かい

雪山で遭難者を温めるには
素裸で一緒に寝袋に入るのだと
昔小説で読んだことがある
素裸にされるのも
氷のような体に添い寝をするのも
どちらも体験したくはないが

愛するという事は
二人が体温を交わすという事だ
相手の体の温かさで
生きていることの喜びを
確かめ合う事だ

愛するという事は

最近すっかり縁のない
そんなことを妄想しながら
雪の樹林帯を

一人でたどる

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考えれば考えるほど

2021-01-22 20:50:18 | つぶやき

何べん考えても
答えは分からない
それに 
考えれば考えるほど気持ちが暗くなる
それでも
考えることを止めてはならない
明るい未来は必ず来ると
信じているだけでは決してこない
ぼくらの子供や孫の世代に
(ぼくには子供も孫もいないが)
悲惨な体験をさせないためには
何をどうすればよいのか
何べん考えても
今のぼくには答えがわからない
それでも…

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黙示録

2021-01-19 08:20:11 | つぶやき

岩穴から這い出し
天を仰ぐ
黒いほど深い青空に
太陽の位置を探す
正午過ぎぐらいだろうか
暗がりに慣れた目に
いちめんの光が眩しい
枯れた草地と疎林の向こう
左手西方に川が
相変わらず蛇行している
そうだ今日は久しぶりに
あそこまで下りて
水を浴び
汚れた服を洗おう
それから
町がどうなっているか
見に行こう
家族や仲間たちは
心やさしい人たちは
無事だろうか?
それともぼくはたった一人だろうか?

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多摩川

2021-01-16 22:40:15 | 自然・季節

 よく散歩に行く林試の森も自然教育園も、大きな木が育って自然豊かなのだが、その分日影が多い。それで今日はあまり麗らかなので、チャリで多摩川に行ってみた。子供の頃は大岡山や奥沢や田園調布を通って、上ったり下ったりして行ったものだが、それはもうきついので目黒通りをまっすぐ行くことにする。それでもけっこう、緩いアップダウンはある。環八を越えて川に向かって急坂を下り、土手にぶつかったら左折して丸子橋を渡り、川崎側のサイクリングロードを二子橋に向かう。
 思い立って家を出たのが遅かったので、二子側へ1/4ほど進んだあたりで、枯草の土手にチャリを寝かせ、お茶を飲み、コンビニのお稲荷と羊かんを食べる。ここらは春になると土手の桜と菜の花が美しいところだ。
 眼下のグランドで子供らがボールを蹴り、その向こうに川が光る。その向こうは環八から下ってくる傾斜地なので、家々が積み重なって見える。右は古墳群のある多摩川台の森まで、左は二子玉川のビル群まで、左右に視界の切れるまでずっと。残念ながら、まことに美しくない。これが北アフリカの海岸の町あたりなら、所々に丸屋根を交えた白い壁の家々の重なりが美しいことだろう。あるいは、もう少し南に行けば、サハラの砂と同じ赤茶色の家々が、そう、“砂漠の薔薇”と呼ばれる鉱物の結晶と同じ色に美しいことだろう。
 暖かくて風が心地良い。陽射しは春のようだ。静かならばうたた寝なんかしたらいいだろうが、なんせ、人がいっぱい通る。散歩の家族、ジョギングやサイクリングの人。自分もその一人なのだから仕方がない。「自粛」で家にこもっているよりははるかに良い。家にいる人たちに「みんな出ておいで」と呼びかけたいくらいだ。
 道を続ける。川崎側は道が整備されていて走りやすい。スピードを上げてみる。それでも、メットをかぶってスポーツタイプに乗った人たちにどんどん抜かれてゆく。散歩の老人ややママチャリの間を全く減速せずにすり抜けていく人もけっこう多い。事故は起こさないのだろうか? せめて減速するのがマナーだよね。
 左手から南風が強い。うっかりしていると体が振られそうだ。横で大きな工事をしているところもあって、砂が巻き上げられて目がチクチクする。でもおおむね、気分は爽快だ。ここは歩いて通ることの方が多い。その時は電車で新丸子か多摩川まで来る。右岸か左岸を上流に向かって歩く。和泉多摩川までは約2時間。土手を歩いたほうが展望は良いし風も気持ちよいのだが、車の通行の多い道路がすぐ横を走っているので、河川敷を歩くほうが楽しい。ただしかなりくたびれる。同じ2時間なら山道のほうがずっと疲れないのはなぜだろう。
 今日はチャリだから楽なものだ。スイスイ第三京浜をくぐって二子橋が近づく。でも川と家の往復が長いので、橋を渡って東京側を戻ることにする。こちらはサイクリングロードが途切れ途切れで、途中から横の車道を走らされる。そうすると、川は見えない。その前にもう一度土手で一休み。川原は一昨年の台風19号でひどくやられた。ホームレスの人たちはどうしただろう。避難して無事だったろうか? ブルーシートの住処はほとんど見えないままだ。
 目黒通りに戻るのに、環八までは急な上り坂になる。ここが一番苦しい。が幸い、緩めの坂を見つけた。坂の途中に「六所神社」という大きな神社がある。疫病終息をお願いする(休めてうれしい)。その先に大きな前方後円墳もある。後円部がかなり大きい。この近くには野毛図書館があって、田んぼの中みたいなところで、それが好きで中学生の頃はわざわざよく来たものだ。今はもちろん何の変哲もない住宅地の中だ。環八は等々力渓谷の上を通る。こんなところで遥か下を歩いている人を見るのは不思議な気がするものだ。
 家を出てから帰り着くまで4時間。3時間は走っている。足が張った。コロナな状況でも、まあまあ元気だ。動き回っている方が体調も気分も良い。毎日はできないけどね。

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「止水」

2021-01-15 22:04:56 | 詩集「黎明」

沢の本流から離れて
水はひっそりと目覚めている
小さな崖の陰
さざ波も走らなければ
砂を動かす底流もない
片隅に雑木林が映っていなければ
水が在ることさえわからないだろう
浅い水底に沈んだ枯葉
ミズキ コナラ サルトリイバラ…
虫に喰われ ところどころ欠けた鋸歯
今は役目を果たさなくなった葉脈
木にあったときよりも鮮明な毛細管の網目が
生命のなまあたたかさを捨てて
澄み切った水のなかで凝結している
指を入れ 一枚の葉を拾い上げ
また離してやると
束の間の波紋のあと
ゆっくりともとの静止に戻る
滅び去ったものの曇りの無さ
呼吸を止めたものの静謐
朽ち果てるまでの凍りついた時間
時折り水辺に近づく足音だけが
水のおもてを微かにふるわす

 若い頃、自費出版の詩集を二冊出した。だがそのあと、ぼくのライフスタイルは180度変わってしまって、それに伴ってぼくの関心は歌の方に行って、詩を書くことはおろか、読むこともほとんどなくなった。再び読み始めたのは、仕事を辞めてからだ。
 最近このブログの記事を行分けで書くことが多くなっている。それは、詩を書きたいというより、ある程度まとまった文章を書くのがだんだんシンドくなってきたからだ。歩きながら切れ切れにものを考える。それを考えたときのまゝに近い形で言葉にすれば、行分けの形になる。
 それは推敲や彫琢をしていないから、詩と呼べる程度のものになっていない。だから「つぶやき」と呼んでいる。これも、山登りと同じに、若い頃の集中にとても及ばないものだ。でも、(山登りと同じに、)できればもう少し力を取り戻したいとは思っている。
 これも、「やれやれ どっこいしょ」だ。
 新しく力をつけるまでの間、古いものも時々ここに書かせてもらうことにしよう。

 

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老いた足取りで

2021-01-14 21:25:34 | 山歩き

22㎏の水を入れたリュックを担いで
公園を1/3まわって
いつものベンチに腰を下ろす
やれやれ
家を出てからまだ30分
何も若い頃と同じ重さにこだわらなくても良いのだが
去年の春に新調したテント一式と食料を担ぐと
それくらいにはなるだろう
荷物に合わせてこれも新調したリュックは
荷重がぴったり体についてすこぶる背負いやすいのだが
玄関まで運ぶ間もこんなもの無理だろう思う重さが
背負って歩き出すとすっと軽くなる気がするのだが
それでも老いた体は30分もすると
息が上がる足がふらつく
ぼくは20年くらいの永いブランクがあるからね
あの頃と同じに体が動くわけはないのだが
分かってはいるのだが
でももういちど
これくらい担いでアルプスを縦走したいのだ
縦走が無理なら初めは涸沢のテント場まで
それも無理なら横尾まででもいい
そこにテントを張ったらその先は軽装で行こう
横尾までなら上高地から3時間
30分の6倍
帰路は少しは軽くなるだろう
夏までには何とか…
去年コロナを避けるために買ったのに一度も使わなかったテントを
今年こそは張りに行かなければ
やれやれ
どっこいしょ だな

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「アレクセイと泉」

2021-01-13 10:37:30 | 社会・現代

 映画はほとんど見ない。頭の回転が遅いので、ストーリーだけは頭に入っても、画面の情景を味わっている余裕がないからだ。その点、DVDで鑑賞するのは、何度でも静止画像にしたり戻したりできるので好都合だ。でも、レンタルはほとんどしない。棚にはほとんど、最近のヒット作しか並んでいないからだ。それらは全然見る気になれない。

 友人に勧められて、「アレクセイと泉」を見た。その友人の勧めるものなら何度も見るだろうと思い、中古を買った。送料込みで千円だった。
 チェルノブイリ原発の北東180Kmに位置する、プジシチェ村に残った村人たちの生活を一年間、淡々と記録したものだ。
 ベラルーシは原発の爆発で甚大な被害を受け、ブジシチェも立ち退きを迫られた。6000人の村人のうち、老人55人とただ一人の若者アレクセイだけが村に残ることを選択した。
 彼らが主食とするジャガイモの畑をはじめとして、村は放射線に汚染されている。キノコを採取したり薪を切り出したりする森は特に高い。村に水道はなく、村人の生活の中心になっているのは泉だ。不思議なことに、この泉の水からは放射能は検出されなかった。
 村人は水を汲み、二つのバケツを振り分けにして天秤棒で担いで運ぶ。重さ30キロだ。水を運ぶアレクセイの足取りはややぎこちない。放射能の影響だろうか。爆発の起こった時、彼は10代の前半だったはずだ。
 だが映画は今時の報道のようには、事故のことに喧しく触れない。村人の日々の生活を、静かに記録し続ける。ジャガイモ掘りを、草刈りを、洗濯を、キノコ狩りを、糸紡ぎを、馬や豚や鶏の世話を、泉の木枠の修理のための伐採を。収穫の祭りを、ダンスを、男たちのウオッカを、女たちの歌を、老夫婦の愛情(と、そこにある男と女のわずかな気持ちのずれを)。そして祈りを。 

 泉は生活の支えであるとともに、祈りをささげる場だ。放射能から彼らを護ってくれた奇跡の泉なのだ。十字架を立て、イコンを置き、司祭が聖なる水として村人たちに振りかける。村人たちは「百年の泉」と呼ぶ。
 ただ一か所、泉のかたわらの洗濯場の足場の修理の場面の最後に、ナレーションを担当したアレクセイがとつとつと語る一言が、彼らの生活の後ろにある事実を告げている。「これが最後の修理だろう」と。
 映画の撮影の時点でチェルノブイリの事故から15年が経っている。村人たちがさらに年老いて、村を離れた息子や娘たちに引き取られるか、あるいはこの世を去ってしまえば、洗濯をする者はいなくなるのだ。
 撮影からすでに20年がたっている。村は今どうなっているだろう。今も住む人がいるのだろうか?
 映像は非常に美しい。ただし、この村が特に美しい場所だった、という事ではないのだろう。世界中の沢山の場所に、美しい村はある。そして、消えつつある。
 福島原発の事故の後、神奈川ユーラシア協会の企画の現地訪問で福島から飯館・浪江に行ったことがある。マイクロバスが通行止めのゲートをくぐって、人が住めなくなってしまった地域に入った時、その土地の美しさに心を打たれかつ痛めたことがある。山桜が咲いて、あたり一面の芽吹きが始まる季節だった。「ここはこんなにも美しい土地だったのだ!」(あれは何年だったろうか。日記をつけないぼくには思い出せないことがいっぱいある。)
 ぼくたち現代の都会に生きている者たちは、決定的に失ってしまったものがそこにはある。ぼくは、そのような暮らしがしたいとは言いだせない。洗濯ひとつ、ジャガイモ掘りひとつとっても、つらい苦しい作業だ。だが、都会に生きるものとしても、せめて人々や自然への共感と祈りとを取り戻すことはできないだろうか? もうすこし、静かな生活のよろこびを取り戻すことはできないだろうか?
 そして、唐突かもしれないが、泉の水(水道)、たきぎ(電気などエネルギー)など、生活に欠かせないものの共有を目指すことはできないものだろうか?
 この映画は、本橋成一監督をはじめとする日本人が撮ったもので、2001年冬から02年冬まで撮影された。02年にはサンクトペテルブルグ映画祭でグランプリを獲得している。坂本龍一の音楽も美しい。撮影の時点では、スタッフの誰一人、10年後に福島であんなことが起きると思わなかったはずだ。
 福島の事故の後、日本各地で繰り返し上映会が行われているのだそうだ。友人に勧めてもらってよかった。この記事を読んだ人にも見てほしい。手に入りにくかったら、ぼくのをお貸ししますよ。

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徘徊

2021-01-11 08:27:04 | 老いを生きる

昨日歩きながら考えていたことは何だったろう?
すごく大事なことだったような気がする

…と考えながら歩いている
気が付くとこの頃いつもこうだ

…という事は別に大事なことではないのだ
何かやり残したことがあるような気がするだけだ

毎日同じことを考えているだけかもしれない
山に行けないので近所を毎日歩き回る

なるべく車の通らないところを
なるべく日当たりの中をでも時には寒風の中も

草原も小川もないところを歩き回るのは空しいが歩かないよりはマシだ
何時間も歩き回ってくたびれて眠る

まだ今のところ自分がどこを歩いているのかは分かっている
夢の中でなら何処だかわからずに歩くのはしょっちゅうだ

分からないのはなぜこんなに渇いた者のように
あるいは救いを求める者のように歩かねばならないのかだ

そのうち夢と現実との境界が薄くなったら
人はぼくの行為を徘徊と呼ぶことだろう

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長い時が流れた後

2021-01-08 12:08:05 | つぶやき

やがて
長い時が流れた後
人々は
今日の日のことを
後世に語り伝えるだろうか

姿の見えない災厄が
恐怖で人々を支配したことを

それでも経済的繁栄にしがみ付いて
後退に次ぐ後退を余儀なくされた
政治家たちのことを

それとも そんな状況の中でも
希望を失わなかった
静かな人々のことを

災厄の中で
二度と 疫病や
気候変動や
原発爆発などが起こらないように
ともかくも考え始め
迷いながら動き始めた人々のことを

それとも
その頃にはすでに
人々はこの地上からいなくなっていて
ひそひそと嘆きあうのは
あるいは無言でさまよい歩くのは
もういない人々の幻だけだろうか?

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緊急事態

2021-01-07 10:54:32 | 社会・現代

 一昨日、「想像力が欠けていたのだ」と書いた。それにしても、ぼくは想像力が欠けすぎていたな、と思う。
 10年前にとつぜん津波に襲われた人々、原発事故に見舞われた人々のことを、いつの間にかほとんど忘れていた。
 あの時、それまでの生活を、日々の幸福を、とつぜん断ち切られた人たちの悲嘆と不安と困窮は、今のコロナのための不安や悲しみと比べられるようなものじゃないのだった。それに、あの時ですら、当事者でないぼくは間接的にしか心を痛めることがなかった。
 そして今、目に見えないコロナにおびえている。「生きていることがうれしい」、などと言っている。いくらかは当事者なわけだ。
 コロナは目に見えないから、何処にいるのかわからないから不安だ。でも放射能はさらに目に見えない。そしていくつもの町や村を住めなくし、人々をばらばらにしてなすすべもなく異郷に追い立てる。
 ぼくたちにはまだ自分の今いるここに住み続けることができる。こまめに手を洗い、消毒し、人混みを避け、会話を控える、健康の維持に努める、などの対策を取ることができる。
 「いくらかは当事者」と書いたが、これ自体、想像力にかけている。必死で働いている医療従事者、職を失って困窮している人々、何時倒産するかわからない飲食店や中小の企業の経営者や従業員、希望の光の見えない人たちに対する痛みの共感が欠けている。
 今日、緊急事態宣言が出される。多くの人が感じていると思うが、手ぬるいものだ。これで抑え込めるのか?と疑う。
 だが、ともかくできることをしよう。そして、家にいる機会の多くなるこの時に、今起きていることを、今苦境にある人たちのことを、そしてそれと同時に、ちょうど10年になるあの出来事とその人たちのことを、もう一度深く考えることにしよう。

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今日が最後の一日かも

2021-01-05 18:00:41 | 社会・現代

 昨日の記事は、心優しい人たちにご心配をおかけしてしまったようです。ぼくは、山の記事でもそうですが、些細なことを大仰に言ったり書いたりする癖があるので…心配してくださってありがとうございます。大した手術ではありません。この時期にやるかどうかです。
 昨日はCTと超音波の検査の結果を聞きに行ったのですが、ドクトル曰く、「心臓の動きも冠動脈の状態も全く異常ありません。むしろ、循環器系に問題のある人で心臓がこんなにきれいな人は珍しいです」。うれしくなって「心がきれいだからでしょうか?」と突っ込みを入れたら、「ハハハ、それは検査ではわかりません」。(無論、「心が…」のわけはないよな。)
 手術は、「こんな時期なので、病院側の都合で日にちを先延ばしにさせていただくことになるかもしれません」、だそうです。うーん、アルプスが…
 明日明後日にも緊急事態宣言が、という状況下で夏山の心配をしているヤツにも困ったものだ。明日は駆け込みで鶴が鳥屋山に登る予定だったのだけど、中止しました。

 さて、ここからが、今日の物騒なタイトルの本題。
 このようなコロナ感染下の日々を生きているぼくたちは、たとえすでに重大な疾患を抱えている人でなくとも、何時、これまでの日常が突然に断たれる日が来るかもしれない、という不安は多かれ少なかれ感じているのじゃないだろうか?
 そして、考えてみれば、コロナじゃなくても、明日、あるいは今夜、何が起きるかは分からないのだ。夜中に脳梗塞を起こすかもしれないし、大震災に見舞われるかもしれないし、交通事故にあうかもしれない。山登りであれば、つまづいた拍子に崖から転落するかもしれない。      
 あるいは、直ちにいのちの終わり、ではなくても、ある日重大な病気が見つかって余命宣告をされるかもしれない。
 ぼくたちはふだんそのことを意識しないで生きているのだが、この状況下では、ある日発熱したり味覚が無くなったりして、とつぜん呼吸困難に陥ってECMOにつながれるかもしれないのだ。そうでなくても、受け入れてくれるところもなく自宅待機させられたらどんなに不安なことだろう。
 ぼくには、そして「ぼくたちには」、と言っても良いと思うが、想像力が欠けていたのだ。日々を生きているということは、それだけで幸運なのだ。敬虔なクリスチャンなら、「毎日・毎瞬、神の恩寵によって生かされている」と考えるかもしれない。
 コロナは、少なくとも、そのことを意識するきっかけにはなった。日々を生きている幸せを味わいながら生きることにしよう。
 昨日の記事で「おーい/ぼくはまだ生きている」と書いたのは、また、ガラスに乱反射する朝日のきらめきが嬉しかったのは、手術がどうこうということではなくて、そういう幸福感からです。

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朝のひかり

2021-01-04 14:45:14 | つぶやき

病院のカフェのコーヒーが美味い
家から40分ほど急ぎ足で歩いて来たので
指がすっかり冷えて白くなっている
紙カップを掴むと温かさが滲みる
ぼくはどちらかというと
エスプレッソ系の濃い苦いコーヒーが好きなのだが
冬の朝には量のたっぷりした薄めのものも悪くない
指が温まれば心の屈折もほぐれる
大きなガラス窓に
ケヤキの枝越しに朝の日のきらめき

おーい
ぼくはまだ生きている

と思ってしまってから笑った
なんて大げさなことだろう 
ただ ガラスに乱反射するきらめきがうれしかっただけだ

病院に来ている理由は大したことじゃない
この2月か3月にちょっとした手術を受ける
こんな時に手術を受けるというのもナンだが
緊急ではないからもっと延ばしても良いのだが
夏までには体力を回復して南か北のアルプスに
登りたいのだ
それではドクトルに会ってくることにしよう

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