すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ヒロシマ神話

2020-03-23 10:20:25 | 
 現代詩(戦後詩)を読み直している。というより、「読み始めている」と言った方が良いかもしれない。若い頃読んでいた時期があるが、理解できていたとは言い難い。今でも、よく理解できるとは言えない。だから、解りやすいものだけを読んでいる。それでも、歳をとって、理解できる範囲がいくらかは広がったかもしれない。
 以前はよく解らなかったのに、いまならいくらかは解る詩人・作品がある。ぼくがそれなりに時を過ごして、死にも近づいているからだろうか。
 その一人に、お恥ずかしいことながら、嵯峨信之さんがいる。
 「さん」付けで呼ぶのは、「お恥ずかしいことに」と書くのは、嵯峨さんには生前にずいぶんお世話になっているのだからだ。ただし、そのことは別途書くことにして、先に彼の作品を(わかりやすいものを)2、3紹介したい。
 
  

二度と消さないでくれ
わたしの中からお前の中へうつす小さな火を
それはこの世にただ一つしかない火だ
わたしと死との深い谷底から大きな鳥が舞い下りて拾いあげた
 のだ
その小さな火は
お前に何も求めない
だが零(ゼロ)のように空しさをもつてお前を庇い
あらゆるものからお前を拒むのだ
いま素裸のお前は
その火をかかげて階段に立つている
はてしれぬ二階へつづいている階段の上に


  旅の小さな仏たち

何も数えなくてもいい
指は五本ずつある
二つの手を合わせて同じものが十本
それを折りまげずに真つすぐにして 向い合せて
指の腹と腹 掌と掌とをぴつたりくつつけて両手を閉じる
そのなかに何を包むか
旅の小さな仏たち

その群れにまじつてたち去つて行くおまえに
ただ一度のさようならを云う
さようならと

註:奥様が無くなられたのちに発表された作品。手は作者の手ではなく亡くなった人の手だ。この作品はこうして引用していても涙が出てしまう。


  ヒロシマ神話

失われた時の頂きにかけのぼつて
何を見ようというのか
一瞬に透明な気体になつて消えた数百人の人間が空中を歩い
 ている

  (死はぼくたちに来なかつた)
  (一気に死を飛び越えて魂になつた)
  (われわれにもういちど人間のほんとうの死を与えよ)

そのなかのひとりの影が石段に焼きつけられている

  (わたしは何のために石に縛られているのか)
  (影をひき放されたわたしの肉体はどこへ消えたのか)
  (わたしは何を待たねばならぬのか)

それは火で刻印された二十世紀の神話だ
いつになつたら誰が来てその影を石から解き放つのだ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ・災害・戦争

2020-03-19 20:59:33 | 社会・現代
 数万人の兵士が死ぬ。数十万人の戦闘員でない一般人が死ぬ。数百万人の市民が住む土地を追われ、難民となって流浪する。
 それでも戦争は無くならない。
 ところが、数千人の人が死に、数万人の感染者が出るだけで、現代社会はパニックに陥る。国境は封鎖され、街はゴーストタウン化し、政府は一兆ドルの財政出動をすると宣言し、あるいは一人当たり1万2千円を支給すると言い、それでもオリンピックは予定通りに実施すると言う。
 戦争が無くならないのは、大国にとって戦争とは、よその国に行ってやるものだからだ。想像力と感受性がないと、戦争は現実から遠い。そこでの死者は数でしかない。自国で疫病が起こって初めて、政治家は慌てふためき、市民は見えない危険におびえる。
 だが今のところどうも、政治家たちの考えることは第一に経済的損失であるように、ぼくには思えてならない。
 こういったからと言って、ぼくは財政出動に反対しているわけではもちろんない。事態を一刻も早く収束に向かわせるために、市民の人権を損なう以外の、あらゆる手を打ってほしい。
 でも、事態が収束したあかつきには、災害のことや戦争のことも考えるようにしようよ。
 疫病でも災害でも戦争でも、生命にかけがえはなく、そのかけがえのない生命が失われ、あるいは生き延びた人たちも、肉親や親しい友を失くした悲しみに打ちひしがれることに変わりはない。戦争や災害ではさらに、多くの人々が住む家や今までの暮らしを失い、故郷を離れ、悲しみや苦しみを抱えて悲惨な生活を送らなければならない。
 疫病はいつかは収束する。戦争や自然災害も、いつかは収束させなければ。
 新型コロナウイルスで今のところ唯一の救いは、先進諸国以外にあまり拡がっていないことだ。医療の整わない国や地域、また難民キャンプなどに広がらないうちに食い止められることを心から祈る。
 戦争がなくなったのちに、本当の「平和の祭典」を、ささやかなものでいいから財界主導ではなく市民主導で行えるようになったらいいな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林試の森 日曜日

2020-03-17 22:08:34 | 社会・現代
 日曜日に姪と近くの林試の森に行ったら、すごい数の親子連れが来ていた(弟が比較的遅くに再婚したので、この春に中学生になる姪がいる。ふだんは遠くに住んでいる)。
 ぼくはよく平日の午前中に散歩に行くのだが、ほとんど、保母さんに連れられた保育園児か、犬の散歩に来ている年配者か、ゲートボールの高齢者か、ジョギングの若者しかいない。この日曜日はいつもの5倍くらいの人出はあったろうか(今日行ってみたらやはり閑散としていた)。
 林試の森には大きな木に囲まれた大きな広場が4つあるのだが、どこも運動をする人たちがいっぱいだった。コーチの指導の下にサッカーや野球の練習をしているグループもいたが、それよりも、バドミントンやキャッチボールやフリスビーや鬼ごっこや縄跳びや自転車の練習や…思い思いに体を動かしている、あるいは遊んでいる、親子が多かった。
 コロナのために休校で、平日は親は仕事で、日曜日に親も子も体を動かしたくてたまらなくなっていて、TVでもさかんに「広場や公園に行きましょう」と奨めているので出た来たのだろう(ぼくらもそのうちの一組だが)。
 とても良いことだ。
 これを機会に、外で遊ぶこと、親子で遊ぶこと、の楽しさを多くの人が再発見すると良い。
 林試の森ではザリガニ採りなどはできないし、冒険ごっこもできないだろうし、それに今の親はすでに子供に自分の子供の頃の遊びを教えることは困難になっているかもしれないが、できることを少しずつ一緒に身に付けていけば良い。
 ついでに言えば、いまオリンピックを延期するかどうかが検討され始めているようだが(もちろん、なるべく早いうちに延期の決定をするべきだが)、これを機会に、競技ではないスポーツの楽しみが再発見されると良い。競技ではないスポーツにも、喜びと友情と心の解放と向上とは大いにある。誰でも自分に合わせてそれらを味わうことが出来る。
 ぼくももう駆けっこでもフリスビーでもすぐに息切れがして姪っ子にかなわないが、子供にかなわない、ということもまた楽しい。
 さらについでに言うと、これを機会に、いまの社会の在り方を考えてみるべきだろうなあ。もっと心のゆとりのある、優しいつながりのある社会にするために。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活

2020-03-08 10:20:53 | 
夜の雨ごとに
丘は少しずつ緑に傾いていく
昨日今日明日と続く
その変化が目に見えるわけではなく
しかし確実に何かが変わりつつあり
何かが来ようとしている

時が満ちれば大地はよみがえる
それは時が来るまで忘れられていただけで
しごく当然のことなのだが

その時が満ちるまでの
永い遠い 不安と恍惚の時

丘の頂に
年を経たコルク樫が一本
枝を半分枯らし
残りの半分で生きている
その根方に
麻袋をのせた木箱がひとつ
昨夜の雨に濡れたままおいてある

羊を飼う老人のように
ぼくはそこに腰を下ろし

風に目を細める
海からの風に焼かれ
沙漠からの風に削られた

褐色の皮膚のしみも窪んだ深い目も
ぼくはまだ持ってはいないが

海からの風は
雨の兆し
沙漠からの風は
晴れの兆し

やっと伸びはじめた草の中に
早くも花を咲かせようとしている
野生のニラの小さな六粒のつぼみ

はるか丘のふもとには
工場のコンクリートと鉄骨の残骸
その横に飛行場の跡
ひび割れた滑走路からも
芝草は芽吹き 伸び 広がり

その先はオリーブとオレンジの畑が
波うつ丘陵の向こうへ消えている

やがてユーカリの花が咲き
ミモザの花が咲き
野はいちめんの菜の花の黄に染まり

子供たちは手かごに
アザミの若芽を摘むだろう

そのあとふたたび過酷な季節が来ることを
ぼくは知っている
だが受け容れることができる

ぼくは何時 夕暮れに
杖にすがりつつ
戻る羊を数えるだろうか

(旧作)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝の街

2020-03-06 09:43:15 | 社会・現代
いつもと少しも変わらない
ように見える
朝の街

ガラス窓に並ぶ
美味しそうなパン
花屋のバケツには
ヒアシンス クロッカス 水仙
桃の枝

いつもと違うのは
近くの小学校の
マーチングバンドの
練習の音がないだけ

買い物にあるいは仕事に
あるいは約束の場所に
向かう人たち
(のほとんどはマスクをしているが)
明るく交わされるあいさつ

でも本当は
そこら中にあれがいるかもしれないのだ
青い色で染めることが出来たら
カウントダウンのイルミネーション
のように見えるほど

何のカウントダウン?

始まりの時のためのではなく
終わりの時のための

いいえもう
その時は来ているのかもしれない
ぼくたちに見えないだけで

見上げると空は
春の麗らかな
と言ってもいい輝き

まるで
見えないものは存在しないかのように
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする