すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

訳詞について

2018-04-11 22:51:51 | 音楽の楽しみー歌
 ロシアの歌のスペシャリストである山之内重美さんから、Facebook にコメントをいただいた(ありがとうございます)。そのコメントをまず紹介させていただいて、それから少し訳詩について考えてみたい。
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(山之内さんのコメント)外国の歌を紹介する時、日本では苦いところを削り取り、口当たりの良い「甘くさわやか」路線で日本語訳詞をつける傾向が昔からありましたね。うたごえ喫茶で歌われたロシアの歌の大半もそう。実はドイツとの激戦中の今生の別れを歌った「ともしび」(1942年)も、日本軍が外モンゴル国境を越えてソ連に侵攻してくることへの警戒を背景とする「カチューシャ」(1938年)も、いつの時代とも知れない単なるラブソングにしてしまい、<民謡>なんていうまやかしで歌い続けているので、それを正すのが一苦労です(淚)。「思い出のグリーングラス」3コーラス目の訳詞を、悟さん試みてほしいなぁ。
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 「ともしび」についても、「カチューシャ」についても、全くその通りだと思う。日本で歌われているのは、「ともしび」の方はまだしも、出征する兵士が(これから彼が体験するであろう修羅場とかけ離れたロマンチックな形で)登場するが、「カチューシャ」のほうは、前線の兵士とは全く関係ない甘いラブソングだ。
 そして日本ではその甘いロマンチックが受けたのだ。
 「外国の歌を紹介する時、日本では苦いところを削り取り、口当たりの良い「甘くさわやか」路線で日本語訳詞をつける傾向が昔からありました」これもその通りだと思う。
 なぜ、日本ではそうなってしまうのだろうか?
 これは、ひとつには日本語の音韻の特殊性によるものだと思う。
 その点について先に触れておきたい。
 ご存知の通り、日本語の発音の単位は、普通、1音節=1子音字+1母音字だ。母音の前や後ろに時にはいくつもの子音字がついて1つの音節を構成する西欧語とおおいに違う、簡単な構造だ。
 (音節の構造は、一般的に言って、気候温暖な南方の地域ほど単純になり、寒気の厳しい北方の地域ほど複雑になる。ドイツ語、英語、ロシア語に比べフランス語は母音中心でシンプルだし、イタリア語はもっとシンプルだ。ハワイ語やスワヒリ語は、さらにシンプルだ。スワヒリ語は日本語と同様、1音節=1子音字+1母音字 なので、五・七・五の俳句が作れる。このことは、日本語の南方起源説を有利にしている。仮説ではあるが。)
 ここで、歌の歌詞にとって重大なのは、日本語と西欧語では一つの音符に載せることのできる意味の量がまるで違う、ということだ。外国語を知っている人がその外国語の歌を日本語で歌おうとすると、まず当惑するのが、この、意味の量の壁だ。原曲の歌詞が言っていることの何分の一しか、日本語では言うことができない。
 「ラ・ボエーム」を例にとると、Montmartre は、つぎに来る前置詞 en と結びついても3音節だが、日本語で モンマルトル は6音節を要してしまう。
 また、歌いだしの Je vous parle d’un temps que les moins de vingt ans ne peuvent pas connaître(ぼくはきみに、二十歳未満には知ることのできないある時代の話をしよう)は、「モンマルトルのアパルトマンの」で終わってしまう。
(途中だが、今日はちょっと老人性の疲労がたまっているので、続きは明日書く。)
コメント
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