すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

約束

2022-10-28 20:06:49 | 自然・季節

新しい菊の供えられた
小さな教会墓地の
柵の前を左に曲がると
森は半日歩いても終わらない
栗の純林だ

山道のあちこちで
ぼくのすぐ傍らでも
イガの落ちる音がする
帽子をかぶっていないと
痛い目にあうに違いない
ここの栗は野生種に近く
小粒だがとても美味しい
拾っていきたいところだが
今日の目的はもっと先だ

古代ケルトの遺跡と思われる
巨石の間を通り
見通しの良い尾根に出て
向う側に下りると
小さな湖

畔に田舎風のレストランがあり
冬は暖炉が焚かれて
水を見ながらゆっくりランチも楽しめるのだが
今日の目的はもう少し先だ

快調に歩き続けて息の弾む頃
森の中の空き地に出る
緩やかに傾斜した草地で
こちら側 いちばん高い縁に
木のベンチが置いてある
誰もいない
まだ露に湿っているが
構わずに腰を下ろす

雲の切れ目から差し込む日の光が
あたり一面の黄葉を燃え上がらせる
恩寵の証しのように
これこそ黄金の秋だ
頭の上の葉群れは
光に透けている
細かな葉脈まで見える

昨夜の雨の名残りの
葉の先の雫が
ひとつひとつに森全体を映して
歓喜に輝き
その幾粒かが
ぼくの顔に落ちる

そうだぼくはここに
大事な約束を思い出しに来たのだ
    (パリ郊外 ムードンの森)

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2022-10-23 20:07:43 | 老いを生きる

すでに骨ばかりになった林の
枯草の急斜面を
止まり戻り
右に左に揺れ

ためらいながらのように
恐れながらのように
少しずつ少しずつ
影が
進んでゆく
二本の杖を支えに

本体はどこにあるのか
もちろんここにある これは疲れて
意識の薄れかけた
ぼくの影だ

だが
ぼくの肉体が消えても
照りつける日光に
射られて
影は在り続けるだろう

動くことのできるのは
幸いなことだ
石に永遠に刻まれ
そこを離れることのできない
影でなく

影は動いて
何処へ行くのか
あの遥か下に見える
青い水面まで

失われた
肉体を探して

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赤城山晩秋

2022-10-22 10:47:03 | 山歩き

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赤城山の紅葉はもう(20・21、木・金)ピークを過ぎたようだ。女将さんが「月曜日には最高だったのに」と言っていた。まあ、春と晩秋では木の持つエネルギーが違うのかな。

1.左が最高峰の黒檜山、右が駒ケ岳。2.大沼を望む。4.小沼。山口百恵の「湖の決心」を思い出した。 5.尾根からの小沼遠望。真上に富士山が霞んでいたが、写真には写らなかった。 6.「みやま山荘」。古い宿だが、おかみさんのおもてなしは暖かく、食事も美味しい。2食付き8250円。 7.マユミの実。 9.黒檜山山頂。 11.大沼の対岸からの黒檜と駒。右端から登り、黒檜からは正面を沼に向かって下る。標高差は500mたらずしかないが、侮れない急登と急降下。

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登山バス

2022-10-17 21:42:07 | 老いを生きる

すぐ前に中年女性が二人いて
あとから一人が合流した
乗車する時にその三人目が
「どうぞお先に」と言うので
一瞬たじろいだ

「あ、いえ」
「先にいらしてたのですから、どうぞ」

ああそうか
老人なので席を譲られた
と思ったのだ

おかしなことだ
このごろ電車でもバスでも
大きな顔をしてシルバー席に座るのに
つまり老人を自認しているのに

人からそう見られると
動揺するなんて
譲られると動揺するなんて

バスは峠に上がって行く
窓外の森は
初夏の瑞々しさも
夏の勢いと落ち着きも失って
ついでに自信も失くしたようだ

もうすぐだ もうすぐだ
もう少し待て
木々の葉のひとつひとつが
地上を離れる前に
(あるいは 地に帰る前に)
思い思いの色に
燃え輝く時は

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夢の戦場

2022-10-13 10:35:05 | 自然・季節

穴だらけの戦場を必死に逃げまわっている
すぐ横で砲弾が炸裂する
吹き飛ばされ地面に叩きつけられ
足を引きずり額から脇腹から血を流し
疲れ切ってもう体が動かない
誰かこれを止めてくれ

という夢をよく見る。
何故だろう?
そんな経験はもちろんないし
映像で見ただけとしては生々し過ぎる
いつかどこかでそんなことがあったのだろうか?
前世などというものは信じてはいない

たぶんこれは
ぼく自身の記憶ではないのだ
脳の記憶庫の中でなく
遺伝子の中にしまい込まれた記憶
あれは戦場ではなく今のこのぼくではなく
進化の途中の生物集団の種の記憶
まだ人間でなかった頃
草原であるいは巨大なシダの森で
その小さな種は狩られ
大型肉食獣に襲われ逃げまわり
くりかえし引き裂かれたのだ

それが今のニュース映像に刺激され
呼び戻され
戦場の兵士のように
書き換えられているのだ
この遺伝子の記憶を消す方法は無い
それならば恐ろしい夢に引き裂かれないためには
今の世界から戦争を無くさなければならない

あるいは
世界から目を背けて
何も見ないようにしなければ

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世界は苦しんでいる

2022-10-09 11:24:32 | 社会・現代

 世界は苦しんでいる。ウクライナで、ソマリアで、パキスタンで、アフガニスタンで、人々は戦争で殺され、飢えと栄養失調で死に、洪水に続く疫病に倒れ、人間として生きる権利と自由を奪われて苦しんでいる。そしてこれだけでなく世界中いたるところに、貧困や差別や暴力は蔓延している。
 ブリジット・フォンテーヌはすでに1969年に代表作「ラジオのように」で歌っている:

 ・・・この瞬間に、何千匹もの猫が道路で引き裂かれている。この瞬間にアル中の医者が若い娘の上に屈みこんで「くたばるんじゃないだろうな、このアバズレめ」と罵っている。・・・この瞬間に何万人もの人が「生きることは耐え難い」と思って泣いている。この瞬間に二人の警官が救急車に乗り込み、頭に怪我をした若い男を川に放り込んでいる。・・・
 ・・・世界は寒い。人々は気付き始めた。世界があまりに寒いので、あちこちで火災が発生している。・・・

 あの頃ぼくはこれを聴いていて、世界全体が夜の闇に包まれ、その中で音もなく燃え広がっている真っ赤な炎を、ありありと思い浮かべたものだ。

 宮沢賢治は宣言している:

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸術概論綱要」)

 それならば、世界が苦しんでいる今、ぼくたちの個人の幸福はあり得ないのではないか? ぼくたちも苦しまなければならないのではないか? 少なくとも、世界の苦しみを自分自身の苦悩として引き受けるべきではないか?(賢治は引き受けようとした。)
 これが、ここのところずっと、ぼくの心に棘のように刺さっている問題だ。

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自我の苦しみ(昨日の補足)

2022-10-08 19:33:30 | 自然・季節

 ・・・だが、ぼくはもう、「限りなく希薄な存在になりたい」という願望を持つことは無いだろう。ぼくのかつて持った願望は、自我のあるいは自意識の(ぼくは哲学の勉強をしていないので、この辺の区別や定義はよくわからない。とりあえずこういう言葉を使ってみる)産み出す苦しみ、他者との軋轢など関係性の産み出す苦しみ、を最少化したい、そのためには自分の存在そのものを消しても構わない、ということだと思う。
 自己を攻撃し、取り込んで解体しようとする、自己が恐怖しなければならない、二つのもの-死と他者(あるいは、死と社会)。ぼくは多くの時、死ではなくて他者を恐れていた。そしてその恐れを生み出しているものは、じつは肥大した自意識なのだということに、うすうす感付いていた。
 ところが今ぼくはこうやってブログを書いたりそれをFBに投稿したりしている。今でもぼくがかつてのような願望を持っていたとしたら、それは最大級の矛盾だ。ブログを書くということは、自我の他者との係わりを肯定し、求めさえしているということだから。
 ぼくは決定的に変わってしまったのだ。あの願望は、一種の「青春の病い」のようなものだったろうか(それにしてはずいぶん長く続いたのだが)?
 だからぼくは安心してよい。もうあれは現実には取り付かれる
 あの、存在感の希薄な歌声たちは、これから時たま、懐かしいイージーリスニングとして聞くことにしよう。

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シャンソン

2022-10-07 19:43:23 | 音楽の楽しみ

 数か月間ほとんど入らなかった“音楽室”に久しぶりに座った。音楽室、といっても縦横2,5m、4畳ほどの小さな部屋だが。屋根のすぐ下にあり、ご近所に音が迷惑にならないように窓を小さくしてあるので、夏の間は暑くてとてもいられない。やっと涼しくなったので、音楽の季節の到来か?
 でもぼくは耳が遠くなって歌は止めてしまった。それで弾き語りをするために練習した楽器も気持ちが遠のいてしまった。上の部屋でできることは、音楽を聴くこと、あとはそっちに置いてある児童文学書か少女漫画を読むことぐらいだ。
 で、久しぶりにシャンソンを聴いた。ニルダ・フェルナンデスとジェラール・マンセとイヴ・シモンとブリジット・フォンテーヌ。
 フォンテーヌ以外は日本ではあまり知名度は高くないかもしれないが、この4人は大好きだ。4人に共通するのは、声の存在感の希薄さ、だろうか。もっと広い空間で聞いたら、何処から聞こえているのかわからないような声。小さな音で聞いたら、存在しているかいないのかわからないような声。ふわふわと浮遊するような声。それでいて、いつの間にか自分がその声に完全に包まれている。
 シモンとフォンテーヌは若い頃LPで聴いていた。シモンはいわばフォークソングで、健康な音楽だ。この4人の中ではシモン一人が健康かもしれない。彼は今では小説家としての方が有名らしいが。「フルーリーの少女」とか「ジャングル・ガルデニア」とか、懐かしい。
 フォンテーヌはかなり危険だ。むかし、自分がとにかく希薄な存在になりたいと思っていた時期があった。できれば消えてしまいたいと思っていた。その頃に彼女の歌を何時間も聴いていた。フォンテーヌを聴きながらウイスキーを飲んでいて、ガス栓をひねったことがあった。今聴いても、どうしてそういう気になったのかわからないではない。
 フェルナンデスとマンセはパリに住んでいた頃にラジオで聞いて、すぐにCDを買いに行った。それぞれ、そればかり聴いていた時期がある。マンセの「夢の商人」は恐ろしい歌で、夕暮に血の池のほとりで子供の首を入れた袋を担いで船に乗ろうとしている男が、ぼくの夢の中に何度も出てきた。
 4人の中でいちばん好きなのは、フェルナンデスだ。彼は細いハスキーな超ハイトーンで、ぼくは彼の歌を何曲かモノにしようとしたのだが、まるで手に負えなかった。彼はポルナレフのキーを地声で歌う。日本に帰って来てデュモンでCDをかけたら、誰も男性と思わなかった。「フランソワ―ズ・アルディでしょ?」という人がいた。確かにそういう感じはする。 
 じつはぼくのブログのタイトル「ぼくが地上を離れるまでに」は(近いうちに変えようと思っているが)、フェルナンデスの曲から思いついたものだ。残念なことに彼は3年前に心不全で亡くなっている。
 ぼくは今では、「限りなく希薄な存在になりたい」と思ってはいないが、フェルナンデスの声を聴いていると、あまり聴いていると、またそういう感覚が戻ってくるかもしれないという気はする。

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何度目かの「はじめの一歩」

2022-10-04 10:07:58 | 山歩き

 春先から、膝を少し痛めていた。膝を痛めるなんてことは若い頃から何度もしているので、騙し騙し山歩きを続けていたのだが、8月の末に安達太良に行ってから、「このままではいかん。山が歩けなくなったら生き甲斐が無くなってしまう」と思い、近くの整形外科のリハビリに通って、体重を膝に掛けないで筋肉をつける方法などを教えてもらっていた。ぼくはけっこう太い太腿とふくらはぎを持っていて、自分では「山できたえた筋肉」と思っていたのだが、いつの間にか単なるお肉になっていたようだ。コロナ禍で体育館に通うのも止めてしまっていたからなあ。
 「数カ月かかるかなあ」と覚悟していたのだが、思いのほか回復が早く、昨日、5週間ぶりに恐る恐る試し歩きに行った。はじめは高尾山だ。高尾山は、こういう時に便利だ。去年春、手術の後も高尾山に行った。もっともあの時ははじめの一歩は舞岡で、二歩目が高尾山だったが。
 琵琶滝から病院坂、四号路を経て、後からくる人全員に道を譲って、1h30のコースを2h30かけて登った。急いではいけない。膝を痛める原因はたいていは大股でドシドシ歩くことにあるのだから。一歩一歩ゆっくり歩くのも楽しい。
 涼しくて気持ちよかったが、山頂から富士も丹沢山塊もぼんやり霞んでしか見えなかった。
 山頂の人出を避けて、六号路下山口のベンチでお昼を食べ、三号路を下った。
 去年の春は、歩きながらつい「♪ぼくらはみんな生きている」と口ずさんでいたが、昨日は西行法師の名高い短歌

 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山

を思い出していた。
 膝を痛めて回復して高尾山に来て、「歳を取ってまた来られるとは思わなかった。生きていてよかったなあ」とはあまりに大げさすぎるが、歳を取るとそう感じることは時々ある。それは良いことだ。この歌はむしろ、今年大病や大手術をした友人たちに捧げよう。

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9ガツ30ニチ ヨル

2022-10-02 20:37:17 | つぶやき

オオ人間タチヨ
モウイチド
考エ直シテハクレマイカ
私ニオマエタチヲ
見限ラセナイデクレ
デキルコトナラ私モ
オマエタチトイッシヨニ
コノ星デ歳ヲ重ネテユキタイト
思ッテイタノダ

(マア実サイニハ
私ハコノ星ノスベテヲ
見下ロシテイルダケナノダガ
ソレデモ)
私ノツクッタモノタチガ
争イモナク幸福ニ
暮ラシテユクノガ
私ノ喜ビデモアッタノダ

私ガ手ヲ下サズトモ
オマエタチハ自ラノ上ニ
火ト硫黄ヲ注ゴウトシテイル

人間タチヨ
モウイチド
考エ直シテハクレマイカ
コンナ事ハモウ
終ワリニシヨウ

 これはまあ、02/27の「ヒルサガリ」の続きと言っていい。あの後にメモしたものを投げ出しておいたのだが、先夜のニュースを見ているうちにまた取り上げてみる気になったものだ(私ハコンナモノヲ/書キタクハナカッタノダガ)。
 前のものは地球の環境危機を念頭に置いていたのだが、今回は、ロシアの留まるところを知らない暴挙に心を絞めつけられている。

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