すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ひとすじの光

2020-04-22 20:40:15 | 社会・現代
 町内会の津軽三味線の達人に買い出しの途中で会って立ち話をした。彼はぼくより10歳か、あるいはもっと上だろうか。このごろ林試の森の朝の散歩で会わないし、自転車で街を走っている姿も見かけないので、ちょっと心配していた。今朝の新聞で、目黒区内の感染者が102人という数字が出ていたので、なおさら心配していた。「感染が収まったら、またいろいろ教えてください」と言って別れた。老人クラブはみんな元気だという。ほっとした。

 話が変わるが、今朝の新聞(朝日)と言えば、オピニオン欄に辻仁成の「パリに差した光」という寄稿が出ていた。
 彼は今、息子とパリで生活している。感染爆発が起きてしまったフランスの現状、去年までは不人気にあえいでいたマクロン大統領のリーダーシップと支持の回復、フランス人のメンタリティーと行動、などを紹介しているのだが、大変重要な指摘は、コロナウイルスが健康・生命や経済への甚大な打撃だけでなく、人々から絆や連帯感を奪うという、もう一つの深刻な打撃をもたらした、というものだ。彼はそれを、「人類から愛を奪う」と表現している。
 この指摘のあとに彼は、にもかかわらず、この状況下で息子との間に新たな連帯感が生まれている、それを希望と呼んでもいいのじゃないか、と書き、最後に「そうだ、人類にはまだ希望がある」と結んでいる。
 日本とかの国との違いを考えさせられるとともに、ぼくもひとすじの光を与えられた思いがした。
 ぼくの要領を得ない紹介じゃなく、できれば彼の寄稿そのものを読んで欲しい。図書館が閉まっているから新聞自体は手に取れないが、ネットで読めるのじゃないだろうか。
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テント

2020-04-20 13:32:02 | 山歩き
 昨日は山登りに絶好の日和。風も爽やかだし、公園ではツツジも咲き始めているし。例によってベンチで空を見上げながら、ため息をついていた。「見よ 今日も かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを」(石川啄木)とか「白い雲は流れ流れて 今日も夢はもつれ わびしくゆれる」(サトウハチロー)とか「空の色の 忘れな草を 髪に飾り思えば」(ドイツ民謡)…とかを口ずさんだりしながら。
 一週間前に、「今週は思い切って高尾山・城山ぐらいは行くことにしよう」と書いたが、果たしていない。山登りはもっとも濃厚接触の少ないスポーツ、とはいえ、外出自粛の横紙破りをあえてするのも気が引けるし、ぼくも高齢者だし、家族の白い目も無視しがたいし…
 あ~あ、山登りはあと何年かしかできないのになあ。
 結局、林試の森を歩いている。ジョギングをしている人は多いが、リュックを背負っているのはどうもぼく一人のようだ。変わり者、ってことだろうか。
 6キロから始めたウエイトも、12キロになった。山では8~10キロぐらいは背負って何時間も歩くのだから大したことはないのだが、山登りはそれだけしかしないのに対して、日常生活ではほかにいろいろあるので、結構キツい(若い頃は、20キロぐらい背負って縦走するのは平気だった…なんてこといま言っても仕方ない)。
 まだ世間が「クルーズ船が」「屋形船が」と報道している頃、品薄になる前に、と思ってテントを買った。前に、「75歳になったらテントを買って、山登りのスタイルを登攀型・縦走型から高原滞在型に変えたい」と書いた(19/03/29) が、ちょっと予定を早めた。
 仮に夏までに感染が下火になったとしても、「ペスト」で言うように、ウィルスは消滅したのでも無力化されたのでもなく、どこかに潜んで次の機会を待っているだけなのだから、夏の山小屋の雑魚寝は避けた方が良い。昔の八ヶ岳や穂高岳では頭と足を交互に寝るのを「オイルサーデン」と言ったものだが、今はそれほどではないが、それでも混んでくれば畳一畳に二人くらいのことはある。それは避けたいのでテントを買った。
 稜線にテント場はたくさんあるが、そこまで担いで上がる体力は今のぼくにはもうないので、登山口か、せいぜい途中、急登になる手前でテントを張って、山頂まで軽荷でピストンするということになる。そういうテント場はあまり多くはないが、ないわけではない。記憶を辿ったりガイドブックをめくったりしながら候補地を今から探すのが、山に行けない今の慰めだ。
 ただし、そうは言っても、そこに行くまでに、15キロぐらいを背負って3時間ぐらいは歩けるようにしておかなければならない。
 やれやれ、とベンチから立ち上がる。
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「ペスト」

2020-04-17 21:15:00 | 読書の楽しみ
 アルベール・カミュの小説「ペスト」が大いに売れているそうだ。とは言っても年頭から15万部ほどだそうだから、もっともっとたくさんの人に読んでほしいものだ。
 ぼくには全体を適切に要約して紹介するなどということが出来るわけもないので、最後の一節だけを引用することにしたい。これから読む予定の人は以下を読まない方が良いかもしれない。でも、この最後の一節を読んで全体を読んでみる気になる人がいたら嬉しい。
 これは今現在の危機的状況の中でぼくたちが肝に銘じなければならないこと、そして感染が収まった後には決して忘れてはならないことだ。
 …ペストの終息宣言がなされ、封鎖されていた市の門が開かれ、街中から喜びの歓声が上がるのを聴きながら、この疫病との戦いに中心的な働きをしてきた医師リウーは考える。

 「じっさい、リウーはこの町から立ちのぼる歓喜の叫びを聞きながら、この歓喜がつねに脅やかされていることを思いだしていた。というのも、彼はこの喜びに沸く群衆の知らないことを知っていたからだ。それは様々な本のなかで読めることだ。ペスト菌はけっして死ぬことも、消滅することもない。数十年間も、家具や布製品のなかで眠りながら生きのこり、寝室や地下倉庫やトランクやハンカチや紙束のなかで忍耐づよく待ちつづける。そして、おそらくいつの日か、人間に不幸と教えをもたらすために、ペストはネズミたちを目覚めさせ、どこかの幸福な町で死なせるために送りこむのである。」
(これも、「100分de名著」中条省平から引用しました。全訳は新潮文庫・宮崎嶺雄訳があります。)
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感染症

2020-04-16 21:04:44 | 思い出すことなど
 1975年にザイール共和国、現在のコンゴ民主共和国、にほぼ一年滞在した(もう45年も前のことだ!)。ブルンジやウガンダに近い東部の山地の国立公園で、マウンテンゴリラの記録映画を撮影するプロジェクトの、通訳兼助手という仕事だった。ところが西のはじの首都キンシャサで撮影許可を取るために、4か月も足止めを食うことになってしまった。

 当時、ザイールではコレラが大流行していた。キンシャサはまだ持ちこたえていたものの、首都を取り巻いて環状に感染が迫っていて、口から口への情報で「あと300キロ」「あと200キロ」というように環は絞られつつあった。
 日本を出る前に、破傷風と黄熱病とコレラの予防注射はしていた。マラリアも蔓延していたが、これはワクチンが無く、予防薬を毎週呑まなければならないとのことだった。
 コレラの環が狭まる中、ぼくはほぼ毎日、首都一の巨大市場に食料品の買い出しに行った。露店や屋台で現地の人と一緒に串焼きの肉やオムレツや主食のウガリやバナナを食べた。多くは直に指で食べた。ときどきは昆虫の空揚げや佃煮のようなものも食べた。コメを除いて、どれも美味かった(コメは一口食べてやめた。白い細かい石が混じっていて、噛むとガリガリして、とても食べられたものじゃなかった。コメを常食にするザイール人は歯がボロボロになっている)。
 コレラのことは、予防注射が万全かどうかわからなかったが、気にしても仕方がない、と思った。

 マラリアの予防薬ははじめのうち呑んでいたが、キニーネ系の薬で呑み続けると胃に負担がかかる、酒がまずくなる、気分が鬱になる…とかで、みんな嫌がるのだそうだ。半年ぐらいでやめてしまうので、長期滞在の日本人商社員などはマラリア持ちが多い、と聞いた。ぼくらもやめてしまった。マラリアを媒介する蚊はいたるところにいて、一緒にいた大酒飲みのカメラマンなどはあるとき酔っぱらって路上で寝てしまったそうで、朝になって手足や顔をぼこぼこにして帰ってきたが、感染はしなかったようだ。

 コレラの予防接種は有効期限が半年。半年たったら現地で再接種をして、証明書をもらわなければならない。 ここで驚くべき話。
 撮影許可がやっと取れて、東部に移動。キブ湖のほとりのブカブという町から少し離れたカフジ=ビエガ国立公園に入った。すぐ近くにかつてのベルギー植民地時代につくられた、広大な敷地を待つ熱帯研究所というのがあって、東北大学の地震研究チームや京都大学の文化人類学チームなどもいたのだが、感染症を研究しているベルギー人のドクターがいて、相談したところ、「ぼくはコレラの予防接種をして証明書を発行する権限を持っています。でも、あれは効かないから、してもほとんど意味ありません。証明書だけ出してあげましょう」ということで済んでしまった!
 ものすごく意識の低い野蛮な話をしているようだが、いまから45年前は、コレラもマラリアも、現地で暮らす人々は、手洗いや飲み水の煮沸はしたが、その程度の危機感で済んでしまっていたのだ。

 帰国して翌年、同じ会社から同じザイールでの、今度はピグミー・チンパンジー(ボノボ)の撮影の仕事のオファーが来た。ただ、ぼくは前回の仕事の条件があまりにひどかったので、断った。その年、まさにその撮影予定地で、エボラ出血熱の初めての感染が発生した。致死率80%の、驚愕のウィルスだった。行かなくてよかった、と思ったが、その後プロジェクトは中止になったはずだ。
 ぼくはエボラのニュースを聞いて初めて、自分たちが熱帯病に対していかに軽率だったかを知って戦慄した。そしてそれはおそらく、スペイン風邪いらい初めて世界中に、その間に小さな感染症はあっても、ウィルスの恐ろしさを知らしめた事態だったろう。

 今日、感染症対策も人々の意識も遥かに進歩しているはずだが、それでもSARSだのMARSだの、次々に新しい感染症が出現する。それは高度に開発が進み、高度にグローバル化が進行してしまった現代文明の業のようなものかもしれない。人類はこれからも新しい感染症に直面し、それを乗り越え、それと共存していく道を探し続けるしかないだろう。
 「ペスト」の最後の言葉を引用したいが、長くなり過ぎたので明日にしよう。

註:1.コレラの予防接種は現在では効き目が乏しいことが立証され、廃止され、予防薬を呑むように変えられている。
  2.マラリアの予防薬の副作用も現在ではよく知られている。近年ワクチンの研究が進んでいるが、まだ承認、実用化はされていないようだ。
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祈り

2020-04-15 20:22:41 | 社会・現代
 あなたが遭難しかかっていると仮定する。そして、危機的な状況の中で苦闘しているさなかに、あなたは突然、猛烈に腹が減って喉が渇いていることに気付くとする。
 その時、何を食べたいと思うだろうか?

 「星の王子様」で知られるサン=テグジュペリの「人間の大地」という作品の中に、次のような部分がある。素晴らしい文章なのだが、ここではざっと説明する。ぜひ読んでみて欲しい(光文社古典新訳文庫、他)。

 …“僕”は航空開発期の郵便路線のパイロットとして、西サハラの海岸線を飛んでいる。だが、その夜、機の位置と飛ぶべき方向を指示してくれるはずの地上からの無線が不調で、どこを飛んでいるのかまるで分らなくなる。気が付くと眼下の霧の隙間に海が見える。あわてて向きを変えるが、どれくらい前から海上を飛んでいたのか分からない。どの方向が陸地なのかもわからない。次々に見える、航空灯台だと思ったものはすべて、水平線ぎりぎりに光る星だった。燃料も尽きかけていた。
 そんな絶体絶命の中で、ぼくは、喉が渇いて腹ぺこなのに気づく。もし中継基地に辿り着けたら、満タンにしてカサブランカに戻ろう。街に繰り出し、早朝から店を開けているビストロを見つけよう…
 
さて、“僕”は何を注文するでしょうか?

 新型コロナウイルスで、感染爆発するかどうかの、医療崩壊が始まってしまうかどうかの、ぎりぎりの緊迫した状況が続いている。出口が何時見えるのか想像がつかない。このまま実際に感染爆発に至ってしまうのだろうか? そこまで行かずに収まってくれるのか、まったくわからない。
 だがいつかは必ず、ぼくたちはこの事態から解放されるだろう。三か月になるか三年になるかあるいは十年になるかわからないが、必ず。
 気が早いが、その時のことを考えよう。その時ぼくらは、以前のままだろうか?
 社会・経済・政治などのことはぼくには手に負えない。だからぼくたちの感覚のことだけ考えてみる。
 今回の症状のひとつに、味や匂いが感じられなくなることが言われている(ただし、典型的な症状とまでは言えないらしい)。
 事態が収まった後、ぼくたちの感じる味や匂いは、以前と同じだろうか?
 公園の水道の噴き上げる水の味は、雨上がりの樹々の匂いは、風の音や子供たちの上げる歓声や、空の輝きや、木のベンチの手触りは、同じだろうか? 
 朝のコーヒーの味や、手にした本の重さや、ふと耳にした音楽のフレーズや、友人の話し声は、愛する人の手の湿り気やコロンの匂いは、日々ぼくたちが感じるちょっとした嬉しさや哀しさは、同じだろうか?

 ぼくたちは今回、何気なく日々を送っていたこの現代社会がひどく脆いものであることを知ってしまった。人間の健康が、命が、あっという間に傷つき、失われてしまうようなものであることも知ってしまった。ぼくたちは深淵の上に生きている。この気づきは、東日本大震災・福島原発事故の時もあったのだが、今回もあの時と同じように、あるいはそれ以上に、衝撃的だ。
 そう知ってしまった以上、ぼくたちの感覚は、必然的に、変わるだろう。コーヒーはもっと香り豊かに、風はさらに快く、人はもっと愛おしく感じられるに違いない。ぼくたちの命が失われやすいものであるからなおさら、健康が大切なものであり、日々の生活が大切なものであることが実感される。そしてそうした日々の生活の味わいや健康は個人でなく同時代を生きる誰もが享受できるものにならなければならない。
 そのためには、ぼくたちの感覚が変わることを手掛かりに、さらにそれを磨いていくように意識しなければならない。
 そして同時に、ぼくたちは今までよりももっと思慮深くなるだろう。

 最初の質問、ぼくの身内の答えは、「ステーキと強い酒」だった。バツ。
 正解は、「焼きたてのクロワッサンとカフェオレ」だ。この後をちょっとだけ引用する。

 「…僕に生きる喜びを教えてくれるもの、それは香ばしくて、舌が焼けるほど熱い朝食の最初の一口だ。(略)人は牛乳とコーヒー豆と小麦の味を通して、のどかな牧場、エキゾチックなプランテーション、刈り入れ時の麦畑と結ばれる。人はこの味を通して、自分の惑星の大地と結ばれる。」

 いかにもフランス人だよね、この感じ方。これだからぼくはフランス文学が好きだ。生還した“僕”にコーヒーとクロワッサンはいつにも増して美味しかったに違いない。
 日本人には、こういう日々の味わいの感覚がずっと乏しいように思えてならない。

 この事態が爆発に至らずに収束して欲しい、そしてそのあかつきには、日本人がこの日々の感覚をもっともっと大切に生きるようになって欲しい…これがぼくの祈りだ。
 そして、思慮深くもなく新鮮な感覚もなく生きてきてしまったぼくのこれからの願いでもある。
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「なんにも愛さなくなったら」

2020-04-13 21:30:57 | 近況報告
 今日は一日冷たい雨。机の上を整理したり片付け物をしたりして、のんびり過ごす。
 山登りは“不要不急”だし、4月から改修オープンするはずだった区立体育館のジムも休館のままなので、ここのところ毎朝、足首に重りを巻いて、リュックに水の入ったポリタンを背負って、近くの林試の森を、なるべくアップダウンのあるところを選んで一時間半ほど歩いている(家族に、「バカじゃね?」とか言われている)。
 今のところ合わせて10キロぐらいだが、夏までには15キロで3時間、には持って行きたい。ぼくの今の体力から言うと、かなり遠い目標だ。
 実際、今はそれだけ歩いただけで、家に帰ると汗びっしょり。汗を拭いて着替えて一時間半ほど朝寝。これで午前中が終わってしまう、という状態だ。
 とちゅう、芝生の広場のベンチで一休みする。お茶を飲みながら樹々の上の青空を見上げる。その美しさに思わずため息が漏れる。
 月並みな言い方だが、「あこがれが空を駆けて」行きそうだ。山では樹々が新緑に輝き始めているに違いない。

 今週は思い切って、高尾山・城山ぐらいには行くことにしよう。4時半に起きて武蔵小山駅発5時20分の電車に乗れば、高尾山口駅に6時40分ぐらいに着く。1時か2時ぐらいに下山すれば、行きも帰りもほとんど電車はガラ空きのはずだ。人に迷惑をかけることも、感染の可能性も極少のはずだ。山歩き自体は、ほとんど濃厚接触のない、オープンエアの安全なスポーツだ。
 ぼくのこの考えは危険だろうか? 外出自粛破り、と非難されるだろうか?

 いまこの状況の中で大いに読まれているというカミュの「ペスト」の中にこういう一節がある。終わりに近いあたり、主人公二人が夜の海で水泳をする(じつは水泳は、当局によって禁止されている)、この小説の最も美しい場面の直前だ

「海水浴をしよう。(略)ペストのなかだけで生きているなんて、つまらないからね。もちろん、犠牲者たちのために戦う必要はある。でも、ほかになんにも愛さなくなったら、戦うことに何の意味がある?」 
(新潮文庫の訳ではなく、「100分で名著」の中の訳。この方が好きだ。)

 …もちろんぼくは「ペスト」の登場人物たちのようにはコロナに対して何も戦ってはいない。一般市民用の防護服なんてないし予防注射もないから、彼らのように志願の保健隊に参加することもできない。自粛することしかできない。
 でも、困難の中で投げやりになったり無感覚になったりせずに、新鮮な感情を持ち続けること、人を・自然を愛するのを止めないこと、それは、たぶん、ぼくたちにもできる、そしてしなければならない、大切なことだと思う。
 
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