すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

昔の仲間

2018-04-06 21:46:22 | 近況報告
 旧い友人たちと、二日連続して会った。一昨日は、カウンセリングの勉強をしていたころの仲間と、渋谷で唯一静かな環境の残る桜が丘のインドネシア料理店で、ぼくを入れて5人で会った。4人ともぼくより一回り以上若く、それぞれ、今でもカウンセリングや心理学にかかわり続けているし、それを職業にしていたり、職業に生かしたりしている。ぼくだけは、完全に降りてしまって、そういうことに関心すらもなくしてしまっている。
 それでぼくは、話は盛り上がって大いに楽しかったのではあるが、座の真ん中にいながら、話の盛り上がりからやや離れている感じだった。現役から降りてしまった感じ。心理学からも、恋愛からも、仕事からも、人生そのものからも。
 最終的には誰でもそうなるのだし、それはそれで良いのかもしれない。ぼくにとって最も美しい老いと死は、ヘルマン・ヘッセが「ガラス玉演技」の中で書いている、「音楽名人」と呼ばれる人の最晩年の姿なのだから。
 ただし、そこに至るまでの間に、いまでも、ぼくは迷いと混乱と懊悩と疲労感の中で生きている。
昔の仲間たちと話していると、いや、かれらの話を聞いていると、自分の懊悩が少し和らげられる気がしてうれしい。
 昨日は、昔フランス語の学校の職員をしていたころの同僚だ。彼女とは、静かな運河沿いの、大きな窓から葉桜の見えるイタリアン・レストランで、もっぱら思い出話、当時の仲間の近況の話、そして現在のお互いの健康の話をした。こちらは、年相応の話と言えるだろうか。
 ぼくはフランス語からもフランス文化からもやはり降りてしまったのだが、今でも映画や音楽の話をするのは楽しい。ヌーヴェル・ヴァーグとかは、かつて自分もその熱狂に染まっていたこともあったのだから。
彼女は、向こうに友人もいるし、今年はぜひまたフランスに行きたいと言っていた。ぼくは今年、スコットランドに行きたいと思っている。
 「夏になったらみいちゃんのお墓参りに行こうね」、と約束して別れた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする