ぼくは檻の中の動物のようだ。格子越しに外の広い世界を見ながらうろうろ輪を描いて回っている。一日に一回、ザックを担いで林試の森に運動に行く。二日に一回ほど、武蔵小山のスーパーへ食材を買いに行く。あとは、時々たまらなくなって、住宅街を歩き回る。
だから厳密にいえば家に蟄居しているわけではない。それでも、家が獣舎で林試の森がその前庭のような気がしている。前庭にいくらかの木が植えてある、水場もある、でもそれ自体がぼくの檻のなかだ。
ぼくはテレワークしていない(そもそも仕事をしていない)。介護しなければならない家族も、育児しなければならない子供もいない。だから、そういう人たちに比べたら心理的・身体的負担は遥かに、全然と言っていいほど、軽いはずだ。
それでもこの頃、気持ちが塞ぐ。けだるい。物憂い。意欲が湧かない。「ぼくの人生はこれで良かったのだろうか?」などと断片的に繰り返し考える。4月中旬に少し続けてブログの記事を書いたが、あれはあの時期、音楽に向かう気持ちになれなかったからでもある。
まあ、音楽はアマチュアだから、その気になれなければそれで仕方がない、のではあるが、こんなに簡単に意欲を失うなんて、ぼくはすごく根性なしのアマチャンだろうか? たぶんそうだろう。でも…
人は自然とのある程度の「濃厚接触」がなければ健康ではいられない。
ここで「健康」とは、病気でない、というだけの意味ではない。体も心も健やかで安定した状態にある、という意味だ。
これはすでに何回も書いていると思うが、人類が自然を離れて都会生活をするようになったのは、ごく最近だ。人類史のうちの99.9%かそれ以上は、自然の中で、あるいは自然との濃厚で豊かな接触の中で過ごしてきた。人類はまだ、自然と切り離されて生きることに慣れてはいない。自然と切り離されて生きることに耐性がない。
人は、自然に囲まれる時間をある程度は持たなければ、くつろぐことができない。
もちろんこれには個人差がある。一日に10分ていど近所の公園に行けばそれで済む、という人もいるかもしれない。ベランダの鉢植えに水をやるだけで、外に出なくても平気、という人もいるかもしれない。そんなもの何にもなくても平気、という人だっているかもしれない。
でもその人たちはそういう生活に慣れてしまって、忘れているだけだ。ぼくは、なかなか慣れることができないタイプかも知れない。
自然と切り離された生活を続けるうちに、ぼくたちの脳細胞はそうした事態を受け入れるように変化を始めているのだ。だから自然と切り離された生活でも、比較的苦痛を感じなくなってきている。自然なんかなくてもやっていける、とだんだん思うようになる。でも実は、気付かないうちに大きなストレスを受けている。その現れが、イライラや鬱やキレやすさや体の不調だ。
これも前に書いたと思うが、現代社会の数々の問題、自殺やDVや虐待やいじめや若者の無軌道な行動や…のかなりの割合は(実証的な数字はぼくには出せないが)このストレスから起こっているとぼくは思っている。自分が気付かないストレスが、他者に転嫁される。
政治家にはこうした意識がない。収入の減少の補償にどれくらいの金を出せば経済的ダメージを少なくしたままで外出を控えてもらえるか、という計算しかしない。
ぼくは新緑の梢を見上げて、ため息をつきながらつぶやく(加藤登紀子さんと中島みゆきさん、ごめんなさい)。
あゝ ぼくは昔むかしサルだったのかもしれないね
こんなにもこんなにも森が恋しい
だから厳密にいえば家に蟄居しているわけではない。それでも、家が獣舎で林試の森がその前庭のような気がしている。前庭にいくらかの木が植えてある、水場もある、でもそれ自体がぼくの檻のなかだ。
ぼくはテレワークしていない(そもそも仕事をしていない)。介護しなければならない家族も、育児しなければならない子供もいない。だから、そういう人たちに比べたら心理的・身体的負担は遥かに、全然と言っていいほど、軽いはずだ。
それでもこの頃、気持ちが塞ぐ。けだるい。物憂い。意欲が湧かない。「ぼくの人生はこれで良かったのだろうか?」などと断片的に繰り返し考える。4月中旬に少し続けてブログの記事を書いたが、あれはあの時期、音楽に向かう気持ちになれなかったからでもある。
まあ、音楽はアマチュアだから、その気になれなければそれで仕方がない、のではあるが、こんなに簡単に意欲を失うなんて、ぼくはすごく根性なしのアマチャンだろうか? たぶんそうだろう。でも…
人は自然とのある程度の「濃厚接触」がなければ健康ではいられない。
ここで「健康」とは、病気でない、というだけの意味ではない。体も心も健やかで安定した状態にある、という意味だ。
これはすでに何回も書いていると思うが、人類が自然を離れて都会生活をするようになったのは、ごく最近だ。人類史のうちの99.9%かそれ以上は、自然の中で、あるいは自然との濃厚で豊かな接触の中で過ごしてきた。人類はまだ、自然と切り離されて生きることに慣れてはいない。自然と切り離されて生きることに耐性がない。
人は、自然に囲まれる時間をある程度は持たなければ、くつろぐことができない。
もちろんこれには個人差がある。一日に10分ていど近所の公園に行けばそれで済む、という人もいるかもしれない。ベランダの鉢植えに水をやるだけで、外に出なくても平気、という人もいるかもしれない。そんなもの何にもなくても平気、という人だっているかもしれない。
でもその人たちはそういう生活に慣れてしまって、忘れているだけだ。ぼくは、なかなか慣れることができないタイプかも知れない。
自然と切り離された生活を続けるうちに、ぼくたちの脳細胞はそうした事態を受け入れるように変化を始めているのだ。だから自然と切り離された生活でも、比較的苦痛を感じなくなってきている。自然なんかなくてもやっていける、とだんだん思うようになる。でも実は、気付かないうちに大きなストレスを受けている。その現れが、イライラや鬱やキレやすさや体の不調だ。
これも前に書いたと思うが、現代社会の数々の問題、自殺やDVや虐待やいじめや若者の無軌道な行動や…のかなりの割合は(実証的な数字はぼくには出せないが)このストレスから起こっているとぼくは思っている。自分が気付かないストレスが、他者に転嫁される。
政治家にはこうした意識がない。収入の減少の補償にどれくらいの金を出せば経済的ダメージを少なくしたままで外出を控えてもらえるか、という計算しかしない。
ぼくは新緑の梢を見上げて、ため息をつきながらつぶやく(加藤登紀子さんと中島みゆきさん、ごめんなさい)。
あゝ ぼくは昔むかしサルだったのかもしれないね
こんなにもこんなにも森が恋しい