すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

外国語

2020-08-29 19:16:40 | 心にうつりゆくよしなし事
 最近岩波文庫から「対訳ランボー詩集」というものが出た。原文と日本語訳が左右に並べられていて、ページ下に丁寧な註と後ろページに解説がついていて、わかりやすい。
 じつはランボーは若いころ読んで、部分的にはかなり惹かれた、とは言うものの、よくわからないところだらけだった。わかりやすいところだけ理解したつもりで夢中になった、でも肝心なところはちんぷんかんぷん、という感じ。
 今回、一語一句じっくり読んでみて、やっとわかり始めている。でもまだ肝心の「地獄の一季節」にかかったところだから、この先どうなるかわからない。
 ランボーについては別に書くことがあるかもしれないが、今回改めて、「外国の詩というものはやはり原文で読むのが良いなあ」とつくづく思った。日本語訳だけでは、詩人の言いたいことの一部ぐらいはわかっても、詩を味わったことにはならない。
 といっても、ぼくにどうにか読めるのはフランス語と、対訳でならイギリス詩の一部、でしかない。ドイツやイタリアの詩も読めるともう少し人生が豊かになるだろうが、そうはいかない。
 「今からもう一つ外国語をやろうかなあ?」と、ふと思った。
 それから、「いやいや、とんでもない」と首を振った。高齢になってから外国語を学ぶこと自体は、悪くない楽しみだ。でも、語学のセンスのないぼくには向かない。他のことに時間とエネルギーを割くほうが良い。
 ぼくに語学のセンスがないなんて、と思う方がいるかもしれないが、これは明白。語学のセンスというのは、ただ一つ、今、同時代を生きている人間に対する、関心と共感。
 ぼくにはそれが希薄なのだ。
 今現実に生きている人間、外国語を学ぶ過程で出会う一人一人の生身の外国人の喜怒哀楽、よりもぼくは、その国の文学、その国の文化のほうに関心と共感を持つ。
 だがここを出発点に外国語を学ぼうとしたら、結局は身につかない。
 「チェーホフを原文で読みたい」という動機でロシア語を学ぼうとしたぼくは見事に失敗した。
 フランス語がものになったのは、その頃は若くて何にでも関心があったからだ。

 昨日書いた友人Tは、語学の天才だ。トロイの遺跡を発掘したシュリーマン並みの天才だと思う。彼はフランス語、英語のほかにドイツ語、スペイン語、アラビア語、中国語、タイ語を話す。しかも、そのうちスペイン語、ドイツ語は、たった2か月で身に着けている! 
 アラビア語に至っては、本場イエメンでアラビア語の教科書を書いて出版までしているのだ。ネイティヴの録音のCD付きで。
 彼の方法は、現地に行き、語学講座に登録し、友人を作り、話しまくる、というものだ。ぼくのように机に向かってコツコツ勉強、という方法ではだめだ。
 だめだ、と書いても、ぼくはコンプレックスを感じているわけではない。人にはそれぞれ得手不得手があるものだから、それはそれで良い。
 
 蛇足だけど(語学センスのない、と認めているぼくが言うのも変な話だけど)、外国語学習の最良の方法は、直接教授法です。直接教授法とは、最初から、いわゆるアルファベットのアも知らないうちから、学習者の母国語(ぼくたちなら日本語)は一切使わず、その外国語のみを使う方法です。
 友人Tも、昨日書いたイラン人も、フランス語の場合のぼくも、この方法でした。これに限る、と言っても言い過ぎではありません。ただ、これには、そのための訓練を受けた、優秀な先生を必要とします。だからみんながこの方法を受ける機会があるとは限りません。でもこれに勝る方法はありません。日本語での説明なんぞ、教室で先生からされなくても、家で参考書を読めばできることです。
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友人T

2020-08-28 10:50:10 | 思い出すことなど
 昨日触れた友人Tとは、最初はフランス東部、スイスにほど近いブザンソン市の大学の夏期講習で出会った(というと恰好良いが、大学付属の言語教育研究所の、外国人向けの講習)。でもその時はすれ違う感じで、ほとんど話さなかった。お互い、「フランスまで来て日本人グループを作っている(そういう連中が多い)のは愚だ」、と思っていたから。
 ぼくは、大きな荷物を抱えてブザンソンの人気(ひとけ)ない駅について、そこから2キロほど離れた学生寮にどうやって行けばよいのかわからずに困っているところを声かけてくれ、ヒッチハイクで寮まで連れて行ってくれ、おまけに学校の案内までしてくれたイラン人の学生を通して、ガーナ人やブラジル人などの友人ができ、ぼくより早く来ていたTはまた別のおもにアラブ人たちのグループに入っていたようだ。
 (余談になるが、このイラン人にはびっくりした。駅で声をかけられたとき、かなりたどたどしいフランス語だな、と思ったのだが、後で聞いたら、フランス語は一言も知らずにいきなりここに来て一か月だという。
 ぼくはそれまでに、週15時間ぐらいの授業を3年間受けていた。第三世界からひと言も言葉を知らないフランスに勉強に来れるということ自体非常に恵まれているし、彼はここでしっかり勉強して国に帰ればエリートコースに乗るのだろうが、それにしても、グループを作ってもっぱら母国語を話している日本人たちとのあまりの違い。
 ひと言も理解できないままやってきても、モチベーションと善良ささえあればすぐに学生仲間が作れるし、一か月たてば駅でオロオロしている新参者を助られるくらいにはなるのだ。)
 (さらに余談になるが、彼の紅茶の飲み方にもびっくりした。角砂糖をひとつ摘まみ、摘まんだまま角をお茶に浸け、液体の滲みた砂糖を口に入れ、お茶を一口飲む。それの繰り返し。一杯のお茶を飲むのに角砂糖をいくつ口に入れるのだろう。イランでは当たり前だよと言っていたが。)

 さて、Tとはその4年半後にアルジェリア東部の町スキクダで再会した。石油化学コンビナートの科学技術通訳として。彼は派遣会社経由で、在庫管理・部品調達部門で。ぼくは本社雇いで、メンテナンス部門で。「どこかで会ってるよね?」、「あぁそうだ、ブザンソンで会ってるんだよ」という話になって意気投合した。
 ブザンソンに、ぼくは当時の東京日仏学院の専門課程を修了して、ちょうど募集していた短期給費留学生試験を受験したら受かったので行ったのだし、アルジェリアにも、アフリカから帰ってからぶらぶらしていて食い詰めたから仕方なく行ったのだが、彼はフランス建築を学ぶために必要な語学習得のためにブザンソンに行き、研究を続けるための資金を稼ぎにアルジェリアに行ったのだという。
 そのあとの人生を見ると、モチベーションの差というのは恐ろしいものだ、と改めて思う。中村哲氏(08/20)の場合と同じに。だがそのことにはくどくどと触れない。
 Tは帰国してから一級建築士の資格を取り、個人住宅を主に手掛けている。彼の作る家は釘を一切使わず、木組みで建てる、というものだし、なんと壁を土で作る。木組みに適したしっかりした木材や土壁に適したきめ細かな土を全国から探す。その家は快適だろうが、ぼくなどの手には届かない。「百年は持つよ」と言っている。ぼくの手には届かないが、彼の建築家としての姿勢をぼくは尊敬している。
 「語学の天才」の話をしようと思ったのだが、長くなりすぎたので明日にしよう。
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アフター・コロナ

2020-08-27 12:50:00 | 社会・現代
 一週間に一度か10日にいちどほど電話をくれる友人がいる。彼は建築家で、語学の大天才でもあるのだが(その話は別途することにしよう)、ぼくと同じ年で持病があり、今仕上げ間近の仕事を抱えている。そして、今時、いまだに家にTV がない。だから、コロナ感染症についての、「大丈夫かねえ?」「これからどうなるんだろう?」というような電話をくれるのだ。それでぼくは、「大丈夫だよ。手を洗ってマスクをして、密を避けるように気を付けてさえいればまずうつらないよ。仕事が完成して、コロナが一段落したら、神代植物公園でも散歩して、そばでも食おう」というような会話をするのだ。
 
 コロナは、いずれ克服される。これまでにも治療は不可能と思われていた病気に対し、人間は治療方法や予防方法を見つけてきた。例えばエイズやハンセン病など。コロナも、いずれは治療法やワクチンが見つかり、有効な感染防止法が見つかり、普通のインフルエンザと同じように付き合っていけるように必ずなる。
 それまでの間、観光業や飲食業や、育児中の人や介護中の人は本当に大変だろうが、ぼくたち老人には、注意して生活するよりほかにできることはない。健康を維持し、気持ちを維持するほかにできることはない。健康を維持し、気持ちを維持するためにしないほうが良いことはなるべくしない。そして、できること、したほうが良いことはなるべくしよう。

 「アフター・コロナ」という言葉がしばしば言われる。たいていは、AIの技術の更なる発展、とか、そのうちの一つだが、今まである場所に行って、人に会って、していたことをリモートでするとか、ヴァーチャルで済ますとかいうことが多いようだ。
 年寄りは、そういう潮流には乗らないことにしよう。
 今から、残り僅かな時間を、時代のトレンドに乗ったり踊らされたりするのは止そう。自然の中に出かけて行こう。人に会おう。「便利」で「お得」な方法ではなくて、ゆっくりと豊かな時間を楽しもう。

 忘れてはならないことがひとつ。
 コロナより熱中症のほうがはるかに深刻な問題であるということ。
 熱中症は、つまりは地球温暖化の一つの表れであって、豪雨災害も農産物の不作も、つまりは飢餓も、砂漠化も絶滅危惧種の命運も南極・北極・ヒマラヤなどの氷雪の消失も、すべて一連の問題だ。
 世界各地で起こっている武力衝突や戦争も、旱魃や飢餓が一因となっているケースが多い。
 先進諸国内の格差の拡大、貧困の問題も、外部から利潤を上げられなくなった(収奪できなくなった)分を内部から上げることに起因するから、やはり同じ問題の一部だ。
 これは、ワクチンが開発されるまで耐えて待っている、ということだけでは済まない。大してできることはなくても、目だけはしっかり見開いて注視していよう。そして、声を上げよう。
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お粗末な話

2020-08-20 09:33:42 | 思い出すことなど
 今から45年前、1975年から76年にかけて、中央アフリカのザイール共和国(現コンゴ民主共和国)に行っていた。マウンテンゴリラの記録映画を撮る撮影隊の通訳兼助手、という立場だった。首都のキンシャサで撮影許可証を取ってすぐに東部国境地帯に近いカフジ=ビエガ国立公園に入る予定だったのに、困難な契約条件を突きつけられて、結局4か月の足止めを余儀なくされた。
 交渉相手は大統領府直属の科学技術庁、といっても、主に熱帯病などの研究、あとはダム開発などをするところだった。毎日のようにその長官室に押しかけて談判をした。廊下で順番を待っているのが熱帯の蒸し暑さでつらかった。
 長官は熱帯病研究の専門家で、ヌティカ氏という、陽気でエネルギッシュな人だった。しょっちゅう押し掛けるので、また来たか、というような、あきれた顔もされたが、最後はぼくを気に入ってくれたようだった。撮影が終わって挨拶に行ったとき、キンシャサ大学の農学部に案内してくれて、「ここで熱帯農業の勉強をして、この国のために働いてくれないか。でも、農業について何も知らないだろうから、猛勉強しないとだめだぞ」と言われた。
 …これは自慢話ではない。
 ぼくはその時、11か月の滞在で疲れ切っていた。上司に当たるカメラマンとの関係で、特に疲れ切っていた。一刻も早く日本に帰って、その状態から解放されたかった。だから、「日本に 帰って考えるから、時間をください」としか言えなかった。
 そして、帰国して、「ああ、もう一度行きたいなあ」と思うことはあっても、行きたいのは涼しくて自然豊かな東部国境地帯の赤道科学研究所であって、叩きつけるような暑さのキンシャサではなかった。そのうち、ザイールではエボラ出血熱が発生し、東部ではゲリラ戦が始まり、革命がおこって政権は倒れた。独裁者モブツ大統領の直属だったヌティカ博士が、その後無事だったかどうかもわからない。

 最近、昨年暮れにアフガニスタンで凶弾に倒れた、かの地で灌漑用水路を作り続けた中村哲医師が、ぼくと同年代(あちらがひとつ上)で、しかもぼくがザイールにいたのとほぼ同時期(1978年)に、ティリチ・ミール登山隊の一員として初めてパキスタンに赴いているのだということに気づいて、愕然とした。
 ぼくは一体、何をしてきたのだろう。
 信念と勇気と勤勉さのない人間というものはダメだ。
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優しい歌

2020-08-13 21:43:58 | 音楽の楽しみー歌
 この夏は音楽がどんどん遠くなっている。楽器の練習をする元気が出ない。体力が落ちていろんなことを一日にできなくなっていて、この夏は読書と散歩が優先になっている。
 いつの間にか歌の練習…どころか声さえあまり出さなくなっていた。
 このまま声が出なくなってしまうのはあまりに残念だ、と思い、日野さんにレッスンをしてもらいにデュモンへ行ってきた。そのためにその前一週間ほど声を出してみていたのだが、ひび割れたかすれた声が出るし、どうすれば良い声が出せるのか、ポイントがわからなくなっている。「うん…これはやばい」と思いつつ一週間。出し方はわからないままだが、ひび割れは減ってきた。
 で、新しく覚えるのでなく、昔うたったのを練習しようと思い、用意したのが日本の抒情歌。昨日見てもらったのは、「出船」、「さくら貝の歌」、「あざみの歌」、「霧と話した」の4曲。
 さいわい、日野さんには「いい声ねえ」と言ってもらえた。一日一時間ぐらい手探りでポイントを再発見していけば、年末ぐらいにはもう少し、ひびではなくて響きを取り戻せるようになるだろう。
 歌ってみると、日本の抒情歌は本当に良い。心にしみる。心にしみる歌を心にしみるように歌えるようになりたいものだ。優しい歌が好きだ。ということはぼくの心にもまだいくらかは優しさが残っているということだ。
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「老いたる者をして」

2020-08-11 12:16:23 | 
 誕生日を祝う習慣がない…のだが、感慨がないわけではない。で、その感慨を言葉にしてみようと2、3日考えたのだが、ロクなものにはならない。
 そこで、替わりに、中原中也の詩を書いておく。このほうがはるかに、ぼく自身の言葉よりもぼくの気持ちにぴったりくる。そして、心安らぐ。
 ただし中也は30歳で他界しているので、これは20代の終わりごろに書かれているのだが。

    老いたる者をして

 老いたる者をして静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ
 そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

 吾は悔いんことを欲す
 こころゆくまで悔ゆるは洵(まこと)に魂(たま)を休むればなり

 あゝ はてしもなく涕(な)かんことこそ望ましけれ
 父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れ
  て

 東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
 はたなびく小旗の如く涕かんかな

 或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひ
  びき
 海の上(へ)の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

    反 歌

 あゝ 吾等怯懦(きょうだ)のために長き間、いとも長き間
 徒(あだ)なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに
  忘れゐたりしよ……

 (カッコ内は、本来は振り仮名。ただし、ここでは中也自身のつけたものと編集者のつけたものを区別していない。また、「はたなびく」には傍点がついているが、ぼくには付け方がわからない。)

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近況報告

2020-08-08 10:51:06 | 近況報告
 Facebookに誕生日のメッセージをくださった皆さん、ありがとうございます。ぼくは誕生日を祝うという習慣を持たないので、皆さんの誕生日にメッセージを送ることは致しませんが、ここで日頃のご厚情に感謝を述べさせていただきます。

 昨日はまたまた、高尾山・城山に行ってきました。遠くに行くのにためらいを感じるので、高尾山域専門になりつつありますが、この猛暑の時期、比較的歩きやすいのは六号路ほかわずかです。
 毎夏、城山茶屋のかき氷を楽しみにしているのですが、昨日はお休みでがっかりしました。ここのところ土日しか開いていないのは分かっていたのですが、土日は人が多いから避けたいし、夏休みだからやっているのではないか…というアマい期待はかないませんでした。帰りの炎天下の尾根道はしんどかったです。
 去年はこの時期は北岳に行っていました(頂上までいけませんでしたが)。お盆の時期が終わったら、北アルプスあたりに行きたいなあ、と思っています。
 ここのところ、遠くへ行けないせいか、山に行かない日も近場を歩きまわっています。常盤台の林の中に住んでいたころはずっと家にいても安心していられたのですが、いまはウロウロ落ち着きなく緑を、というか、緑陰を求めています。
 歩きまわってくたびれて帰ってきて長い昼寝をして本を読んで、という、老人にふさわしい生活です。
 この夏は音楽が遠くなりました。ほとんど消えてしまいそうなほど。
 歳を取ったらいろんなことができなくなるから、山に登れるうちは登って、本を読んで、途切れ途切れにものを考えて、でまあ、仕方がないかな、と思っています。

 長い梅雨と突然の猛暑、コロナ感染拡大。皆様くれぐれもお体を大切にお過ごしください。
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もしも神が存在しないのであれば

2020-08-04 10:38:24 | 心にうつりゆくよしなし事
 梨木果歩の小説「エンジェル エンジェル エンジェル」を再読してふと思った。

 もしも神というものが存在しないのであれば、人は如何にして許され得るのか? 言い換えれば、如何にして、罪から解放され得るのか、もしくは、罪の意識から解放され得るのか?
 社会的罪であれば、法が裁くだろう。友人や家族に対する罪であれば、相手に罪を打ち明けることができれば、そして相手が許してくれれば、自分が罪を抱えて生きているという苦しみからは、完全にかどうかは別にして、解放されるだろう。
 心の罪…というものであれば、「心の罪」という言葉を意識した時点ですでに、その人間が、名前はどうであれ、神もしくは天、もしくは道徳、のような、裁きを与え、あるいは許しを与えてくれるものとしての審級を思い描いている、もしくはそこに辿り着いているということだろう。それに自分をゆだねることができるかどうか、という問題になるだろう。
 いずれにしても、罪の意識からの解放には、ほとんどの場合、他者を必要とする。
 自分自身で乗り越えようと思ったら…これは最も困難だ。自分を捨てて奉仕活動か何かにひたすら専念することだろうか。
 ここで菊池寛の小説「恩讐の彼方に」を思い出した。だがあれはここで考えているのとは別格の重罪の話だし、主人公の市九郎は青の洞門を開削しようと発願する以前に、信仰に入っている。
 神という観念は、死の恐怖を和らげたり生の不条理を受け入れようとしたりするためだけでなく、罪から解放されるために必要であったのかもしれない
 ただし、「エンジェル…」の場合は、前提として神を信じている人間だったからこそ、自分を神に背いた人間だと信じ、一生の間その罪を抱え込むことになってしまった。
 うーん、難しい…
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夢想と救済

2020-08-02 13:08:04 | 
 新しいテントの試し張りをしに、立川の昭和記念公園に行ってきた。家からはかなり遠く、山に行ってしまったほうが良いようなものだが、テントも昔とずいぶん違っているから、山に持っていってからパーツが足りないとか、組み立て方がわからないとかの事態を避けるためには、いちど試し張りをしてみなければならない。幸い、うまく組み立てられた。これでこの夏は安心だ。稜線まで担ぐのは今のぼくには無理だから、行ける山は限られるが。
 ところで、昭和記念公園の「みんなの広場」は、今の季節、緑がまことに美しい。南北400m東西250mほどの、牧場を思わせる広大な草地に名物の大ケヤキをはじめ樹木が点々とあり、木陰にはまばらにテントが張られて、家族やカップルが思い思いにのんびり過ごしている。空が広い。こんなところで暮らすことができて、さらに、死んだらこんなところで眠ることができたら、どんなに幸せだろう。
 もちろんこれは夢想に、あこがれに過ぎない

 ぼくの大好きな、若いころから読んでいた詩人を引き合いに出してみよう。85歳まで生きたヘルマン・ヘッセは、人生の半ば、43歳の時に、次のように書いている。

 「私はこれまでよりも深く自分の存在のはかなさを感じ、向こうの世界へ行ったら、石や、土や、キイチゴの茂みや、木の根などあらゆるものに変身できるように思う…青空に雲となって漂い、小川に波となって流れ、灌木に葉となって芽生え、私は忘れられ、千回も望んでいた変化に身をゆだねるのだ。」(「人は成熟するにつれて若くなる」より)

 彼は人生の後半をスイスの田舎の村の自然の中で生きている。これもそこで書かれたものだ。だから彼はぼくのあこがれの半分は実現している。だが、この文はどうだろう?
 詩的散文の言葉としてまことに、この上なく、美しい。でもこれは単なる願望だ。彼は死を直視しているとは言えない。夢想によって安らかな心でいられるだけだ。このように現実を直視しないで済ますことができたら、人生の後半はさぞ美しく快いものであろう。

 「…死を恐れぬ心構え、再生への意思、おまえが私からもうけっして失われることのないように、神よ、はからいたまえ。いつでも復活の日がめぐってきますように。そしてくりかえし生のよろこびが死への不安に、死への不安が再生による救済になりますように。」(同上)

 なるほど、信仰はこのように安らぎを与えることができるのか。このように安らぎを得るために信仰に自分をゆだねる人もいるのか。だから宗教というものはあるのか、と思う。
 前者と同じ文脈の中で、その延長として書かれているこの文は、前者と同じような夢想に過ぎない。
いや、彼は神を、神による救済を確信しているのだろう。だが、現代に生きるぼくには、その確信は根拠のないものに思える。神は存在するかしないか、現在までの人智では確かめようがない。同じように魂の存否も、確かめようもない。だから、神や魂が存在することを前提とすることはできない。

 ぼくはヘッセを否定するわけではない。彼の小説はどれも好きで繰り返し読んでいる。上に引用した文も、繰り返して書くが、まことに美しい。ぼくが緊急の事態に陥らなければ、ぼくは彼の夢想を愛し続けるだろう。
だがもし仮に、進行した癌が発見されて「余命1年です」とか言われたならば…
 日頃信仰を持っていないのだから、神や転生の観念に依存するわけにはいかない。素手のままで危機に直面するしかあるまい。その時、彼のこの文章はぼくの座右の書にならない。
 ぼくはブッシュ孝子の詩集を、ベッドサイドの小卓に置くだろう。
 彼女の詩をもう二つ、病苦と直接闘っているのでないものを、紹介しておきたい。

    たより

 山道を歩くと
 秋草の多さに驚かされます
 赤とんぼの乱舞に驚かされます
 栗のいがいがとおちてくるくるみに驚かされます
 小さなへびがあわてて水ぎわの草むらに逃げこみました
 おばあちゃんと二人 まぶしい通り雨の中を
 かさもささずに散歩してます
 きつねの嫁入りの話をしながら
 散歩してます


 高い空の上で
 一点の黒い鳥が風と波のりをしている
 雲は四方からしぶきをあげて
 お前をめぐっておしよせてくる

 ああ お前はひとりぼっちだけれど
 この天と地は今 お前のもの
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「暗闇の中で一人枕をぬらす夜は」

2020-08-01 09:31:20 | 
 ブッシュ孝子という名は、7月15日付の朝日新聞の夕刊の記事を読むまで知らなかった。すぐにネットで詩集を取り寄せて読んだ。感銘の溜め息をついた。これはぼくがこれから地上を離れるまでの間に繰り返し繰り返し読むことになる本だ、と思った。

 暗やみの中で一人枕をぬらす夜は
 息をひそめて
 私をよぶ無数の声に耳をすまそう
 地の果てから 空の彼方から
 遠い過去から ほのかな未来から
 夜の闇にこだまする無言のさけび
 あれはみんなお前の仲間たち
 暗やみを一人さまよう者達の声
 沈黙に一人耐える者達の声
 声も出さずに涙する者達の声

 ブッシュ孝子は、乳がんで28歳の若さで世を去っている。この詩集は彼女が亡くなる前の4か月半の間に切迫する死の予感のもとにノートに書き記したものだ。そこには恐れや悲しみや苦悩だけではなく、いのちの喜びや愛や温かな思い出もまた綴られている。
 彼女は自分が遠からず死ぬということを知っていたはずだが、生まれ変わりや魂の永遠や神にすがることで安らぎを得ようとはしていない。
 彼女が信仰を持っていたかどうか、ぼくは知らない。彼女はドイツ留学中に婚約していたヨハネス・ブッシュと、最初の入院・手術後、四谷の教会で結婚している。また、彼女の詩には何度か、神様、という言葉が現れる。「もう私を試みにはあわせないでください」とも、「私をお守りください」とも書いている。それでも、詩集全体として、ぼくは彼女が神による救済を確信・前提として最後の日々を生きていたとは思わない。そういう観念にすがることなく、苦痛と苦悩に直接相対している。
 このことは、明日少し書きたい(今日はこれから、この春に購入したテントの試し張りに昭和記念公園に行きたいので)。
 ここではさらに3つの詩を紹介するにとどめる


    夢の中の少年(夢の木馬 5)

 少年は海辺で私を待っていた
 波のしぶきの荒々しい岩だらけの海辺で

 少年のぬれた小さな手が私の手をしっかりにぎり
 二人ははだしで岩棚を走った

 ああ 金色の髪をした小さなお前は誰
 あの血のように赤い水平線の彼方まで
 お前は私と共に行こうというのか


 かわいそうな私の身体
 お前をみていると涙がこぼれてくる

 やわらかい乳房と若さに輝いた肌はどこにいったのか
 切りさかれ ぬわれ やかれた お前の無残な傷跡

 ああ でも どうか 私を許してほしい
 お前の奥深く 今も痛みにふるえ赤い血潮をふき出しながら
 それでも もえようとしている私の心がひそんでいるのだから


    私に

 お前は一体何者なのか
 お前の中に何がおこった
 お前の中に何がやどった

 何がお前をそのようにいらだたせ
 夜中に寝床から叩きおこし
 部屋の中を歩きまわらせ
 ノートになぐり書きなどさせるのか

 ああ このおののき このときめき
 私は一体どうなるのだろう

 誰か私をよくみてほしい
 私はどこか変わっていますか
     

 彼女は先に書いたように、愛や日々の幸福についての詩も書いているが、ここでは病苦と闘っているものを紹介した。
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