すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ぼくはクマ

2022-01-28 20:05:23 | 心にうつりゆくよしなし事

 また、ハイキング自粛の日々になってしまった。自粛要請が出ているわけではないが、ここのところの新規感染者数を見ていると、家族の意向に逆らって出かけるわけにもいかない。ぼくは、感染拡大、というより爆発、にもかかわらず、人類はコロナを克服しつつある、と思うが、とりあえず、三回目の接種を受けるまでは自主自粛(こんな変な言葉はないが、自粛要請の対立概念としてはあるだろう)せざるを得ない。
 体を動かさないわけにはいかないから、今は毎日、仕方なく住宅街を歩く。歩きながらぼくは子供の頃の田舎の野山や、特に田んぼの畦道や、走り回るのが大好きだったワイン工場や蔵の屋根の上や、さらにその上の、入道雲の湧く青い空を思い出している。
 散歩に出かける手頃な場所がない。住宅街を歩いても少しも心が弾まないし、必ずどこかで環七や目黒通りなどのうっとおしい通りを越さなければならない。(ここのところ急速に、車のたくさん走る通りが厭わしくなっている。耳が遠くなってからいっそう、逆のようだが、耳障りな物音が苛立たしくなった。)
 林試の森や自然教育園は飽きてしまった。それに林試は犬の散歩が多すぎる。教育園は歩き回れるところが少なすぎる。新宿御苑や小石川植物園は悪くないが、電車で行かなければならない。行くまでも音が煩い。水元公園や舞岡谷戸はさらに遠い。
 住宅街を歩き回るにしても、日本・東京はちょっと立ち寄れるテラス席のあるカフェが少なすぎる(ほぼ、無い)。パリの街はぼくは好きではないが(田舎が好きだ)、ゆっくりぼんやり物を考えられるカフェは沢山あった。リュクサンブール公園の入り口のエドモンド・ロスタン広場とメディシス通りの角のカフェに坐ってプラタナスの並木やその下を通って公園に出入りする若者や子供やお年寄りを眺めながらノートに思いの断片を書くゆっくりした時間が好きだった。もっとも、今度行くならフィンランドかスコットランドか南ドイツに行きたい。やはり都会ではなく、緑の豊かな所に。ドイツ人は今でも徒歩旅行をするのだろうか? 若山牧水の歩き回った旅の道が、例えば六里ヶ原や草津や吾妻や八ケ岳山麓などが今は殆ど舗装道路になってしまっているのだから、ドイツ人の旅のスタイルも変わってしまったのだろうな。
 ・・・住宅街を歩きながら、ぼくのとりとめのない思い、もしくは妄想は広がる。昨秋山の中でクマに遭遇したが、考えてみればぼく自身が、檻の中のクマのようだ。自然の中のクマは、時には人間に怖がられたり追い払われたりするが、それでもうらやましくもある。もっとも、ぼくは厳しい自然環境や生存競争の中で生き抜く強さは持ち合わせていないから、ばかげた考えだが。
 檻の中のクマはぐるぐる歩き回りながら、だんだん心を病むのではないか? 現代の日本で理解しがたい暴力事件や犯罪が頻発するのは、ぼくたちが檻の中のクマと似た状況にいるからではないだろうか?
 これは、ぼくの個人の問題であるとともに、文明の在り方の問題でもあるだろう。

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日光 補足 +いつかの二人のこと

2021-11-05 13:59:45 | 心にうつりゆくよしなし事

 11/03の「日光」について、人生の先達として尊敬している二人の方からFB上でコメントをいただいた。おふたりとも、さまざまな社会活動をしている、前向きで行動的で優しい方だ。いただいたコメントは共に、ぼくの心の状態を心配してくださってのものと思う(このごろ書くものが暗いからね)。感謝です。返信はしたのだが、そのことをもう少し考えてみたい。
 ついでに、東武日光駅で会った二人のことについても、少し詳しく考えてみたい。
 お二人(仮にAさん、Bさんとする)のコメントは以下の通り。

 Aさん:なんだかね。光の素足を思い出しました。悟氏お元気でよかったですね♪
 Bさん:「いいね」とか
     出来ませんでした・・・

 Bさんは思ったことを率直に言ってくださる方で、彼女の言葉はシンプルだが重い意味を持つ。単にあのFBの記事に「いいね」できないということでなく、死やあるいは自殺などのことを想起しがちなぼくのこのごろの心の状態について、「賛成できません」ということだろう。そう思うのはある意味当然で、自分自身でも気になってはいる。しかもセンチメンタルに安易にそちらに惹かれがちな傾向は感心できない(と、人ごとのような言い方をするが)。そういうことを考えるのなら、情緒的にではなくもっと、なんと言ったらよいか、哲学的に、というか、生と死について深く真剣に考えるべきだろう(それはぼくの能力を超えるが)。そこのところを自戒しよう。
 じつは、ブログに書いていることは、かなり薄めて上澄み的なことを書いている。考えることをそのまま書いたら、誰も読もうとしない暗いブログになるだろう。それは残念だし、書くことによって自分の感情を自分で増幅するスパイラルに陥りかねない。それだけは避けなければならない。若い頃、詩の合評会に参加していたことがあって、ぼくはそういう傾向の人たちに「それだけは止めようよ」と言って反発を買っていた。自分がそうなってはいけない、ということは自覚しているので、ブログではそうならないようには心掛けている。感情の薄い行分け文で表現する、という今の形は、そういう意味ではぼくの心のブレーキとして役には立っている、と思ってもらえるとありがたい。もちろん、だからと言って賛成できないものは賛成できないと言っていただくのはさらにありがたい。

 さて、Aさんの言う「光の素足」というのは、宮沢賢治の童話だ。二人の子供が嵐の雪山で遭難し、地獄のようなところに連れて行かれるが、それは自分の迷いが生み出した幻で、実はそこは極楽であって、二人の子供のうち弟はそこに留まり(つまり死に)、兄はこの世に帰ってくる、という話だ。ぼくはじつはこの話が好きではない。賢治の童話の中には彼の仏教信仰が生(なま)なまま表出されているものと、それが芸術的昇華に達しているものとあって、「光の素足」は前者だ。同じく子供が吹雪の山で遭難する童話に「水仙月の四日」がある。これはもう、雪や氷の結晶のような透明な美しい作品だ。
 ただし、「水仙月の四日」には、ぼくの書いた「日光」と繋がるようなものは何一つない。Aさんが「光の素足」を連想した、というのは、心優しい彼女には悲惨な話と思えた「日光」の二人を、救済の方に転轍してくださろうとしたのだろう。そのことに感謝したい。

 ぼく自身が連想していたのは、それに以前からこの季節になると何かにつけ連想するのは、万葉集巻第二、挽歌、の柿本人麻呂のあの有名な一首だ。   

秋山の 黄葉を茂み 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも
   (黄葉:もみち、妹:いも=妻、山道:やまぢ)

「萬葉集釋注」という大著のある伊藤博の現代語訳を揚げさせていただくと、

 秋山いっぱいに色づいた草木が茂っているので中に迷い込んでしまったいとおしい子、あの子を探し求めようにもその道さえわからない。

 この歌は、「離れて暮らしていた愛しい妻が死んでしまったとの使いが届いたので、信じられなくて、探し求めて市に出てみて名を呼んでみたが、姿は見えす声も聞こえない」、という内容の長歌のあとに歌われている。
 古代人は、「死んだ人はこの自分の生きている世界からはいなくなってしまったが、本当は山の中で今も暮らしている」、という信仰を持っていたそうだ。同じような感覚の歌でやはり大好きな歌が同じ巻にある。

山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく

 また、この感覚は近代にも続いていて、竹久夢二に「かへらぬひと」という詩がある。

  花をたづねてゆきしまま
  かへらぬひとのこひしさに
  岡にのぼりて名をよべど
  幾山河は白雲の
  かなしや山彦かへりきぬ。
(山河:やまかは、白雲:しらくも→知らぬげに、との掛け言葉)
(山彦:こだま→亡くなった恋人の名前は彦乃(ひこの)だった。それで山彦の字を充てていると思われる)

 このような歌や詩に親しんでいると、死というものがぼくの今の生との断絶ではないように思えてくる。ぼくの見方はあまりにロマンチックでかつセンチメンタルで、なんとしても生きつづけていくことの大切さを第一に考える人たちには受け入れられないかもしれないが、ぼくはこうした見方のおかげで、少なくとも死の恐怖というものは感じずにいる。

(いつかの二人について考えようと思ったが、長くなりすぎたのでまた別途。)

 

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感覚の恣意

2020-10-25 22:16:14 | 心にうつりゆくよしなし事
 山形の朝日連峰で非常に美しい紅葉を撮って、あとで見たらちょっと残念な写真になっていた。手前に枯れ枝が大きく伸びている。よくあることだが。
 美しいものを目にして感嘆するとき、ぼくたちしばしば、その手前にあるものを見ていない。視野には入っているのだが、それを意識から落としてしまっている。落としてしまえば、その向こうの美しいものを見るのに差し支えない。
 同じことはもっと自動的に聴覚についても起こっている。風が鳴り、木の葉がざわめき、枯葉をカサコソ踏む音を立てながら歩いていて、ふと、これから下ってゆく谷の沢音を聞いたように思う。いや、まだここからは聞こえないだろう、と思いつつ耳をすましてみれば、確かに聞こえる。期待が空耳を聞かせるのではなく、まだかまだかと意識を集中させているから聞きとれるのでもなく、耳は近場の様々な音をスルーして遠いかすかな音を捉えたのだ。
 これは例外的なことではなく、もっと日常的にも起こっていることだ。がやがやした場所で友人と会話をしている時、耳は入ってくる信号のうち必要なもの、自分にとって心地よいもの、この場合で言えば友人の声、をかなりな程度、選択的に聞くことができる。そしてそうして選択していることを意識していない。
 この選択能力は、視覚や聴覚の持つ精妙な能力だ。だが、脳の発達した人間だけに備わっているものではない。むしろ、野生の動物の方がはるかに高い選択能力を持っているだろう。人間の千倍の視力を持つ鳥は高い空からピンポイントで獲物を捉えることができる。千倍の視力ですべてのものが見えたら、煩わしくて仕方ないだろう。万倍の嗅覚を持つ獣はエサになる小動物のにおいを万物の犇めく地上で嗅ぎ分けることができる。万物すべてが同じほどにおったら臭くて気が狂ってしまうだろう。
 人間が野生の生き物を越えている分野があるとすれば、それは感覚の次元ではなくて、同じような能力を、出来事の意味の判断、という次元でも発揮できることだろう。人間はニュースを聞き、あるいはある人の発言を聞き、また新聞やネットの記事を読み、あるいは実際にある出来事を目の当たりに見た場合でさえ、それを自分の都合の良いように、あるいは心地良いように、解釈し、選択し、信じ、そうでないものに気づかないでいるという能力がある。これは、動物の感覚についての選択能力が生きるために必須であるのと同様に、人間にとって生きるために、あるいはより居心地よく生きるために、必須だ。
 だがそれはしばしば、大きな誤りのもととなりうる。人間は自分の見たいものを見、聞きたいものを聞く。それはほとんど無意識に行われ、したがって、誤りの可能性のあることに気づかない。ほかの考え方、ほかの立場のありうることに気づかない。ほかの人が自分とは異なる困難に直面していることに気づかない。トランプを熱狂的に支持する人たちの間で起きていることは、かつてヒトラーを支持する人たちの間で起きたことと似ている。それは何らかの宗教を熱烈に支持する人たちの間でも起きる。
 それは、この国でも起きる。ある程度は経験を積んだはずのぼくたち年寄りの間でも起きる。ぼくたちよりも柔軟な脳を持っている(かもしれない)若い人たちの間でも起きる。政治的リーダーと言われる人たちの間でも、組織の中で上位にいる人たちの間でも、そうでない市民の間でも起きる。
 このことは、今の社会の中で起きている様々の問題を考えるカギになるかもしれない。
 紅葉の手前に写っていた枯れ枝から、そんなことを考えた。心していよう、と思った。
 (歳をとって聴覚が衰えると、選択的に聞き分ける能力も衰えるから、聞きたいものが他の音に紛れて聞き取りにくくなる。たいへん不便なことなのだが、こんなことにもし利点があるとすれば、上記のようなことを意識する機会になる、という点だろう。)
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外国語

2020-08-29 19:16:40 | 心にうつりゆくよしなし事
 最近岩波文庫から「対訳ランボー詩集」というものが出た。原文と日本語訳が左右に並べられていて、ページ下に丁寧な註と後ろページに解説がついていて、わかりやすい。
 じつはランボーは若いころ読んで、部分的にはかなり惹かれた、とは言うものの、よくわからないところだらけだった。わかりやすいところだけ理解したつもりで夢中になった、でも肝心なところはちんぷんかんぷん、という感じ。
 今回、一語一句じっくり読んでみて、やっとわかり始めている。でもまだ肝心の「地獄の一季節」にかかったところだから、この先どうなるかわからない。
 ランボーについては別に書くことがあるかもしれないが、今回改めて、「外国の詩というものはやはり原文で読むのが良いなあ」とつくづく思った。日本語訳だけでは、詩人の言いたいことの一部ぐらいはわかっても、詩を味わったことにはならない。
 といっても、ぼくにどうにか読めるのはフランス語と、対訳でならイギリス詩の一部、でしかない。ドイツやイタリアの詩も読めるともう少し人生が豊かになるだろうが、そうはいかない。
 「今からもう一つ外国語をやろうかなあ?」と、ふと思った。
 それから、「いやいや、とんでもない」と首を振った。高齢になってから外国語を学ぶこと自体は、悪くない楽しみだ。でも、語学のセンスのないぼくには向かない。他のことに時間とエネルギーを割くほうが良い。
 ぼくに語学のセンスがないなんて、と思う方がいるかもしれないが、これは明白。語学のセンスというのは、ただ一つ、今、同時代を生きている人間に対する、関心と共感。
 ぼくにはそれが希薄なのだ。
 今現実に生きている人間、外国語を学ぶ過程で出会う一人一人の生身の外国人の喜怒哀楽、よりもぼくは、その国の文学、その国の文化のほうに関心と共感を持つ。
 だがここを出発点に外国語を学ぼうとしたら、結局は身につかない。
 「チェーホフを原文で読みたい」という動機でロシア語を学ぼうとしたぼくは見事に失敗した。
 フランス語がものになったのは、その頃は若くて何にでも関心があったからだ。

 昨日書いた友人Tは、語学の天才だ。トロイの遺跡を発掘したシュリーマン並みの天才だと思う。彼はフランス語、英語のほかにドイツ語、スペイン語、アラビア語、中国語、タイ語を話す。しかも、そのうちスペイン語、ドイツ語は、たった2か月で身に着けている! 
 アラビア語に至っては、本場イエメンでアラビア語の教科書を書いて出版までしているのだ。ネイティヴの録音のCD付きで。
 彼の方法は、現地に行き、語学講座に登録し、友人を作り、話しまくる、というものだ。ぼくのように机に向かってコツコツ勉強、という方法ではだめだ。
 だめだ、と書いても、ぼくはコンプレックスを感じているわけではない。人にはそれぞれ得手不得手があるものだから、それはそれで良い。
 
 蛇足だけど(語学センスのない、と認めているぼくが言うのも変な話だけど)、外国語学習の最良の方法は、直接教授法です。直接教授法とは、最初から、いわゆるアルファベットのアも知らないうちから、学習者の母国語(ぼくたちなら日本語)は一切使わず、その外国語のみを使う方法です。
 友人Tも、昨日書いたイラン人も、フランス語の場合のぼくも、この方法でした。これに限る、と言っても言い過ぎではありません。ただ、これには、そのための訓練を受けた、優秀な先生を必要とします。だからみんながこの方法を受ける機会があるとは限りません。でもこれに勝る方法はありません。日本語での説明なんぞ、教室で先生からされなくても、家で参考書を読めばできることです。
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もしも神が存在しないのであれば

2020-08-04 10:38:24 | 心にうつりゆくよしなし事
 梨木果歩の小説「エンジェル エンジェル エンジェル」を再読してふと思った。

 もしも神というものが存在しないのであれば、人は如何にして許され得るのか? 言い換えれば、如何にして、罪から解放され得るのか、もしくは、罪の意識から解放され得るのか?
 社会的罪であれば、法が裁くだろう。友人や家族に対する罪であれば、相手に罪を打ち明けることができれば、そして相手が許してくれれば、自分が罪を抱えて生きているという苦しみからは、完全にかどうかは別にして、解放されるだろう。
 心の罪…というものであれば、「心の罪」という言葉を意識した時点ですでに、その人間が、名前はどうであれ、神もしくは天、もしくは道徳、のような、裁きを与え、あるいは許しを与えてくれるものとしての審級を思い描いている、もしくはそこに辿り着いているということだろう。それに自分をゆだねることができるかどうか、という問題になるだろう。
 いずれにしても、罪の意識からの解放には、ほとんどの場合、他者を必要とする。
 自分自身で乗り越えようと思ったら…これは最も困難だ。自分を捨てて奉仕活動か何かにひたすら専念することだろうか。
 ここで菊池寛の小説「恩讐の彼方に」を思い出した。だがあれはここで考えているのとは別格の重罪の話だし、主人公の市九郎は青の洞門を開削しようと発願する以前に、信仰に入っている。
 神という観念は、死の恐怖を和らげたり生の不条理を受け入れようとしたりするためだけでなく、罪から解放されるために必要であったのかもしれない
 ただし、「エンジェル…」の場合は、前提として神を信じている人間だったからこそ、自分を神に背いた人間だと信じ、一生の間その罪を抱え込むことになってしまった。
 うーん、難しい…
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