すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

帰り着けない夢

2018-04-30 23:14:22 | 夢の記
 帰り着けない夢をよく見る。
このブログの最初の方(17/07/05)でも、道に迷う夢についてちょっと書いているが、以前は頻繁に見ていて、一時あまり見なくなったのだが、このごろまた頻繁に見る。
 昨夜見たのは、以下のような夢だった。
 …地下鉄の駅(東京の地下鉄のようではなく、もっと古臭い、パリの下町の駅のようだった)を出て、広場を通り抜けて帰ろうとする。地上に出てみると、いつもと様子が違う。広場のはずなのに、新しく開発された街の一区画のようになっていて、美術館らしきものとか大学のキャンパスらしきものが点在している。方角はこっちのはずだったから行ってみようと歩き出したのだが、たちまち自信がなくなる。日が暮れ始め、建物がだんだんシルエットのように暗くなってくる。「夜になるまでに帰らなくちゃ」と焦るのだが、海岸通りに出てしまう。「こんなところに海があるはずがない」と思う。馴染みの店を見つける。確かに馴染みの店だと思うのだが、すっかり様子が変わっている。引き返すべきかどうか迷っているうちに、すっかり暗くなって途方に暮れる。…
 冷たい雨の中を、ぬかるんだ道を歩いている7月の夢に比べて、悲惨ではない。周りの様子も、美しいと言えなくもない。
 帰り着けない夢であることは同じだが、最近の方が精神的にゆとりがある、ということだろうか? 

 …思いついて探してみたら、5年ほど前にも、帰り着けない夢について書いている。夜の散歩に出て道に迷った、という文章の中で書いているのだが、今回とよく似た場面も出てくる。
 同じような夢を繰り返し見る時期があって、かなり時間がたってまた繰り返し見る、ということは、その時期に同じような精神的状態になっている、ということなのだろう。
 それを以下に再録してみる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そういえば、夢の中でもよく道に迷う。
 帰ろうとして、でも道に迷って帰れない、という夢は、たいていの人は見た覚えがあるだろうが、ぼくも昔から何度も見ているのだが、それがこの頃は以前よりは多くなってきている気がする。
 ・・・電車に乗って、知らない駅名ばかり続く知らない線を走っている、乗り換え駅に着いて路線図を見ても、知らない地名ばかりしかない・・・帰るつもりでバスに乗ったら、知らない小さな町の知らない広場が終点で、降ろされてしまった・・・通り抜けるつもりで公園に入ったら、そこはものすごく広くて迷路のようになっていて、どこにも出口が見つからない・・ホテルの階段を上ったり下りたりしているうちにふと窓から見ると、自分のいるはずの建物ははるか遠くに見えていて、自分は実は別の建物のなかにいる・・・学校の校舎の裏口を出てまた入ろうとしたら、もう何百年かたっていて、入り口が見つからない・・・
 たいてい、途中で夜になっている。ぼくは胸のつぶれるような思いでいる。そして、結局は帰りつくことができない・・・

 ところで、夢が醒めてから考えてみると、ぼくはいったいどこに帰りたかったのか、じつはわからない場合が多い。夢の中の自分が明確に、家へ、とか分っているのは少ない。たいていは、どこへだかわからないのに、帰りたい、という思いだけが強い。
 現実に夜の街を歩いて迷っているぼくは、帰るべき場所ははっきりしているし、「こっち方向にずっと歩いていけば、いずれ環七に出るな」、というぐらいの見当はつく。
 夢の中のぼくは、自分がどこにいるのかが分からないだけではなく、どこに行くのかが分からないだけではなく、どこから来たのかが分からないのだ。
 たぶん、若いころの夢の中の自分にとっては、自分がどこにいるのかが重要なのだけれども、老いを迎えようとしている自分にとっては、自分がどこから来たのか、だからどこに帰ってゆくのか、が重要なのだろう。このごろ道に迷う夢を多く見るようになったのは、それが老いを迎える人間の見る夢だからなのだ。
 そして、「人は現実の世界で起こったことを夢の中で反芻する」と普通には思われているが、本当は逆なのかもしれない。夢のなかで起こったことを、現実のぼくは夜歩くことによって繰り返し反芻しているのだろう。
 夢のなかのぼくが返るべき場所に帰りつく、ということがしばしば起こるようになったら、現実世界のぼくもまた、帰るべき場所を見つけて帰ってゆく、つまり人生を終える、ということかもしれない。
コメント
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