すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

2024-02-09 17:43:33 | 山歩き

 (一昨日、2月7日)
 笹子トンネルを抜けると、左手に「ぶどうの丘」がこんもりと白い。丘の上に建物があって、おかかをのせた塩むすびのようだ。甲府盆地に雪の降ることはあっても、2日前のがこんなに残っているのは珍しい。これは楽しくなるぞ、とわくわくする。左前方に南アルプス北部が白銀の連嶺を連ねている。
 時間を節約するために塩山駅からタクシーに乗る。運転手さんも山男だったそうで、南アルプスや奥秩父の話が弾む。丸川峠のゲートまで行かれればよかったのだが、路面凍結で、「ひがし荘」の先で止まってしまう。ここから歩く。林道は凍っていて怖い。いちど滑ってひっくり返り、そのあとは慎重に急な所は路肩の雪の中を歩くが、ここは雪搔きの吹き溜まりだ。しかしまだアイゼンをつけるほどではない。
 ゲートは完全に雪の中で、その少し先からは、林道を離れて右手の沢沿いの緩やかな道に入る。スキーが通った跡がある。道は広く、いつもなら鼻歌混じりにとばすところだが、今日はゆっくり、一歩一歩を感触を味わいながら進む。トレッキングポールの潜り具合で、積雪25㎝ぐらいか。樹上から粉雪のヴェールが降ってきて美しい。

 橋を渡って千石茶屋に着く。ここまで30分もかかってしまった。時間は心配だ。茶屋はもちろんお休み中。ここで軒先を借りてアイゼンをつける。指が冷え切っていて痛い。テルモスのコーヒーを飲みあんパンを食べる。さあ、ここからが本格的な雪山だ。
 茶屋から150mほどは広い道だが、その先で左手に折れると急登が始まる。何十度と来ている道だが、新雪の中ではことにきつい。一人だけ、先に行った足跡がある。これは助かる。足跡のないところをラッセルして行くのはそれこそ大変だ。といっても、靴がずぶずぶ埋まってほとんどラッセルに近いが。3つ折れ式のポールの2段目まで埋まるから、このあたりは積雪50㎝ぐらいだ。少し進んでは止まって息を整え、の繰り返し。すごく楽しい。しかしキツい。ここのところ、体育館に行くのをサボっていたからかなあ。
 

 若い頃友人と冬山入門の北八ヶ岳や那須連山までは行ったが、たいていは沢山の人が通って固く踏まれた道だったし、大学山岳部とかの絶対服従の世界が嫌いで訓練などに縁がなかったから、新雪の大変さなどはほとんど経験にない。でもこのあたりはアイゼンの前爪を蹴りこんで登る、というようなところではないから安全ではある。
 雪の上になぜか動物の足跡がない。物音ひとつしない。都会に住んでいると、こういう静けさに包まれることはない。それだけでも、うれしい。死の世界というよりは、生まれたばかりの世界だ。
 やや緩やかになり、えぐられた溝状の地形が多くなる。左手奥、大菩薩嶺に続く稜線はまだまだ高い。ものすごくペースが遅い。時間が気になり始める。大菩薩峠まで行けるのが一番良いと思っていたが、この分では上日川峠までの往復でも日が暮れてしまいそうだ。
 どこかで決断して引き返す方がよさそうだ、と思い始める。そうすると今度は、何処で決断しようか、と考え始める。もうちょっと、もうちょっと先まで行こう。この先に「展望台」と呼ばれている、見晴らしの良い場所がある。
 何度目か立ち止まってコーヒーを飲んでいるところへ、一人降りてきた。若い、小柄な男性だ。「もう上まで行ってきたんですか?」と訊いたら、「いえ、この先、100メートルくらいのところで断念して引き返してきました。その先はぼくのトレースはありません」という。ぼくはこの人のトレースのおかげで登ってきたのだ。「じゃ、ぼくもその辺りまで行って引き返します。さっきから、何処で引き返そうかと考えていました」「ちょっと、雪が多すぎましたね。じゃあ、気を付けて」「ありがとうございます。あなたも」。
 というわけでその人が下ってからまた歩き始めたが、ちょっと気持ちが切れてしまった。100mどころか、100歩も行かないうちにまた立ち止まった。千石茶屋からわずか1h40。でもあんな若い人でも断念したのだから、年寄りは無理はしないほうがいいぞ。この地域には今はぼく一人しかいない。もし何かあった時、誰も通りかからない。上日川峠までの半分も行ってないだろうが、うん、ここで休んで、おにぎりを食べてゆっくり下ろう。食べながら見上げると、雪を被った木々の上の空が深い。
 

 アイゼンを穿いていれば下りは夏道よりも早いものだが、慎重に下ってもわずか40分ほどで千石茶屋に戻ってしまった。せめて展望台まで行けばよかった、上日川峠までも何とか暗くなる前に行けたのではないか、と後悔したが、もう登り返せない。登山口のバス停の前の「番屋茶屋」で熱々の美味しいほうとうを食べて、今日はやや歩き足りないから、塩山駅まで歩いて帰ることにしようか。
 今朝転んだところの先でアイゼンを外し、茶屋でほうとうを食べながら女将さんとゆっくり世間話をして、陽当りの良い故郷の道をのんびり楽しみながら歩いたら、駅到着はいつもと同じくらい、日暮れに近い時間だった。

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立春大吉

2024-02-04 09:47:16 | 近況報告

おいぼれというのはけちなものだ
棒切れに引っかけたぼろ上衣そっくりだ
もしも魂が手を叩いて歌うのでなければ
肉の衣が裂けるたびになお声高く歌うのでなければ
     私の詞華集㊵ W.B.イエイツ「ビザンティウムへの
        船出」より.高松雄一訳
    立 春 大 吉
 高校のころ嵌っていたアイルランドの詩人イエイツに最近また嵌っています。当時は初期の抒情詩だけだったのですが、今は中期の独立運動に関する詩や晩年の詩に共感しています。
 耳が悪くなって歌は断念したぼくの魂が歌うにはどうしたら良いか?
 今のところ、魂が歌い始める場所の幾つかは、遥かに谷を見下ろす稜線の道。山頂の風の中。広い芝生。波打ち際。あるいはこうした場所で友人とたまにする対話(このごろますます一人で歩くことが多くなったけれど)。あとは何冊かの本の中。
 しかし自分の魂だけが歌うので良いのか? 人間社会は、破局に向かっている。いたる所に混乱と破壊と嘆きと絶望が始まっている。それを見ないふりはできない。ただ息を詰めて見つめているだけで良いのか? ぼろ上衣にも何かできることはないのか?
 一人で歩いていて繰り返し心に浮かぶこの問いに答える術がありません。
 「ああ誰か来てわたくしに云へ()明るい世界はかならず来ると」賢治がそう書いてからほぼ100年。私達は明るい世界を実現することはできるか? 人類は、地球はそれまで持ちこたえるか? ぼくはそれまでは待てないけれど、希望だけは捨てないでいいのか?
 皆様方のこの一年のご健康とご多幸をお祈りいたします。

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暗い道

2023-12-14 13:27:42 | 山歩き

ここではもう沈んでしまった太陽が
振り返ると遥か高みの
さっきまでいた頂きを照らしている
あそこには安らぎがある
とでも言うように
天国に近く
優しく暖かく

だが 幻惑されてはいけない
もういちどあそこまで登って行こう
などと思ってはいけない
あそこは間もなく
極寒の闇に包まれる
人間の住めない場所になる

ぼくはこの薄暗い道を
歩いていかなければいけない
灯りのあるところまで
人の温もりのあるところまで

もう少しの間
生きて行くつもりなら

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朝の光

2023-12-12 10:42:19 | 山歩き

山道を行く時
たびたび前を歩いていたあの娘
声をかけるにはやや遠く
見え隠れしながら歩いていた娘
ザックも背負わぬ軽い姿で
しかし薄物をまとってとか
裸足でとかでなく
つまり霊魂とか幻とかでなく
どこか異界に導くという風でなく
振り返ることも無く
ただ黙って前を歩いていたあの娘

この頃 あの娘を見かけない

道は緩やかな登り坂
葉を落としかけたブナやミズナラの林
降り注ぐ朝の陽射し
坂道の先 小ピークの先に
深い空の淵
冬のまぶしい太陽

あの娘は
どんどん先に行って
光に溶けてしまったろうか

老いたぼくを
地上に残して

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燕岳の空

2023-09-06 10:48:53 | 山歩き

  

  

 

 しばらく前にブログのタイトルを変えた。今までのものは、ぼくの大好きな歌手ニルダ・フェルナンデスの歌にヒントをもらったものだ。「ぼくが地上を離れる前に」は、「~考えること・感じること」を補わなければ漠然としすぎていてなんだかわけがわからないだろう、と思っていた。だが「ぼくが~こと」までの全体をタイトルにすると、今度は逆に直接的すぎてつまらない。
 「すべての頂の上に憩いあり」は、ゲーテの有名な詩の一行で、ご存じの方も多いだろう。普通は、「頂の上に」ではなく「頂に」と訳されることが多い。だが、ドイツ語のüber allen Gipfeln は over all summits に相当すると思うので、これは山のふもと、あるいは山中をさすらう旅人が山頂を見上げ、その上の空に安らぎを見出しているのだ。
 (ぼくは山歩きの記事をこのごろあまり書かない。自分の書くものがつまらなく思えるからだ。先人の書いた山歩きの名エッセイがたくさんある。尾崎喜八や池内紀や辻まことのものは、登山記としてよりも山歩き・山での思索として素晴らしく、ぼくが何か書こうとする時間よりも彼らのものを読み味わう時間の方がずっと良い。というわけで、これからもあまり書かないだろうが、山に行かないわけでも関心が薄れたわけでもない。むしろますます、山が関心の中心になりつつある。)
 この夏は友人と北八ヶ岳散策と、北アルプスの燕(つばくろ)岳に行った。もうテントを担いでどんどん歩ける歳ではないので、4年ほど宿泊を伴う山歩きはほとんどできなかった。この4年ほどのブランクで体力は落ちた。中房温泉から合戦尾根を登って燕岳、大天井岳、常念岳を経て一の沢に下りるコースはもともと北アルプス初級コースなのだが、今回は燕まで登ってその計画を断念し、燕山荘に連泊して天上の休息を堪能し、合戦尾根を降りてきた。
 今日は空の写真のみを揚げる(下手くそだが)。8月31日のスーパームーンがないのが残念だが、小屋の中から眺めるのみで、外に写真を撮りに出る気力がなかった。
 槍ヶ岳の夕焼け
 明けの明星(やや左上。見えるかな)
 朝焼け
 ご来光
  〃
 燕岳

 ゲーテの詩の全体を揚げておく。ごく短いが、深い味わいのあるものだ。ドイツ語は訳せないので、高橋健二の訳を借りる。

旅人の夜の歌

山々の頂に
憩いあり。
木々のこずえに
そよ風の気配もなし。
森に歌う小鳥もなし。
待てよかし、やがて   
なれもまた憩わん。

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シャンソンの反戦歌-補足

2023-08-28 22:07:47 | 音楽の楽しみー歌

 シャンソンの中の反戦歌について、あと幾つか取り上げたいものがあったが、今は気力がないので、またいつか、ということにしておく。涼しくなったら、続きを書く‥かも知れない。明日から、北アルプスにリフレッシュに行く。
 取り上げようと思っていた幾つかのシャンソンのうち、「約束の地」と「ヒロシマ」については、国見靖幸さんの日本語訳歌詞があるので関心があったら本人に問い合わせてほしい。どちらも元の詞を十分に大切にしていて、良い訳だ。
 このうち「約束の地」は日野美子さんが持ち歌にしている。熱唱なのでじかに聴いてもらえると嬉しい。
 「ヒロシマ」は、本にも載っている既訳詞が物足りなく思えたので、頼んで訳してもらい(ぼくは歌詞には訳せないので)、歌っていたのだが、耳が悪くなって歌は止めてしまったので、今は歌う人がいないかもしれない。もったいないことだ。集会などでも歌えるし、その場でリピートを一緒にも歌ってもらえる。
 また、「太陽とそよ風の下で」と、「今夜は帰れない」(厳密にはシャンソンではないが)は、朝倉ノニーさんの「朝倉ノニーの歌物語」というサイトで訳詞と動画が見られる。朝倉さんとは面識がないが、日本にシャンソンを紹介することに長年尽くしてこられた蓄積には感嘆している。
 「太陽と‥」は美しい声のナナ・ムスクーリの歌う、シンプルな美しいメロディーの歌だ。今はこういう美しいものは少なくなってしまった。ぼくが東京日仏学院でフランス語を学んでいたころ、この歌は生徒の間で大変に人気があった。
 「今夜は‥」はパリで活躍したポーランド出身の女優・歌手のアンナ・プリュクナルがポーランド語で歌った歌だ。ぼくは彼女の声が大好きでパリで彼女の自宅に会いに行ったし、コンサートのチラシ配りも手伝った。VTRや5枚組アルバムを日本に持ってきたが、今は手元にない。誰に貸したのか覚えていない。酔って人にものを貸したがるのは悪い癖だ。
 あと、「インシャッラー」は、反戦歌ではなくイスラエル側に加担した歌だが、反戦歌と思っている人が多いようなので、取り上げるつもりでいたのだが、以前にすでに書いた。これも、国見さんに原詞に沿って訳してもらった新訳がある。ただし、ちゃんと訳してもらうとますます歌いにくい。(アダモは後に批判を受けて歌詞を書き直しているが、あまり知られていないし、書き直しが成功してもいない。)
 エピソードをひとつ。故永田文夫先生がデュモンでシャンソンの講座をしていらした頃、ぼくはこの歌の訳が先生のものだと気が付かないで、「あれは誤訳です」ということを子細に申し上げたことがある。そのとき先生は困ったような顔をして「そうでしたか・・・」と口ごもっておられた(あとで気が付いて「ゲゲッ」となったのだが)。それから後しばらくの間、先生はお話をされた後、ぼくに向かって同意を求められることが何度もあったが、「よくわかりません」「知りません」としか答えられないので、そのうちやめてしまわれた。ぼくがフランス語は多少わかるがシャンソンについてはろくに知らないことに気が付かれたのだろう。問いかけが無くなってぼくはホッとした。
 お後がよろしいようで・・

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「葬式列車」

2023-08-25 21:12:42 | 

 「夜と霧」を聴いたり歌詞を読んだりするたびに思い浮かぶ詩がある。逆に、その詩を読むと「夜と霧」の歌詞を読みたくなる。日本の戦後詩人、石原吉郎の「葬式列車」だ。

なんという駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
まっ黒なかたまりが
投げこまれる
そいつはみんな生きており
汽車が走っているときでも
みんなずっと生きているのだが
それでいて汽車のなかは
どこでも屍臭がたちこめている
そこにはたしかに俺もいる
誰でも半分はもう亡霊になって
もたれあったり
からだをすりよせたりしながら
まだすこしずつは
飲んだり食ったりしているが
もう尻のあたりがすきとおって
消えかけている奴さえもいる
ああそこにはたしかに俺もいる
うらめしげに窓によりかかりながら
ときどきどっちかが
くさった林檎をかじり出す
俺だの 俺の亡霊だの
俺たちはそうしてしょっちゅう
自分の亡霊とかさなりあったり
はなれたりしながら
やりきれない遠い未来に
汽車が着くのを待っている
誰が機関車にいるのだ
巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
どろどろと橋桁が鳴り
たくさんの亡霊がひょっと
食う手をやすめる
思い出そうとしているのだ
なんという駅を出発してきたのかを

 似たような状況を表現していると言えなくはないのだが、「夜と‥」(A)は歌であり、「葬式‥」(B)は詩だ。Aは聴かれるためにつくられており、Bは書かれたのち読まれるために発表されている。そしてAの方が届いた範囲は遥かに広いが、表現の緊迫性や体験の直接性はBに及ばない。「詩の困難」というものを思う。翻訳の困難、というものもある。ぼくはAを(当然のことながら)訳で紹介したが、残念ながら訳ではAの詞の持つ音楽性や脚韻の快さは再現できない。それは歌としての「肝(キモ)」であるにもかかわらず。

 石原吉郎は終戦時ハルビンでロシア語通訳をしていてソ連軍に抑留され、旧カザフ共和国の収容所に送られ、軍事法廷で重労働25年の刑を言い渡されたのちシベリアの収容所に移送される。スターリン死後の恩赦で帰国できたのは抑留から8年後だった。Bはシベリアに移送される途中の体験から生まれたものだろうという。
 ぼくはかつてBに衝撃を受けたが、残念ながらぼくには石原について書く力はない。ここでは、シャンソンまたはフランスに関心のある人はAは知っているとしてもBは知らないかもしれないと思い紹介した。ともあれ、「似たような状況」は、一見そのように見えるだけで、じつはAは脱出行を描いており、Bは地獄送りを描いているという決定的な違いがあった。Aにはまだわずかな救いを感じることができる。それが、歌としてAが成功した理由かもしれない。
   

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「夜と霧」

2023-08-21 13:39:28 | 音楽の楽しみー歌

              ジャン・フェラ詞:樋口悟訳
彼らは二十人、百人、いや、何千人だった。
装甲された列車の中で、裸で震えていた。
爪を打ちつけて夜を引き裂いていた。
彼らは二十人、百人、いや、何千人だった。
自分では人間のつもりでいたが、もう数でしかなかった。
とっくの昔に彼らの運命のサイは投げられていた。
上げた腕が再び下ろされると、あとにはもう影しか残っていない。
彼らは二度と、夏にめぐり合うことはなかった。

逃避行は長く、単調だった。
あと一日、せめて一時間、生き延びること。
車輪はどれだけ回転し、止まり、また回ったか。
絶え間なく、わずかな希望を蒸発させながら。
彼らはジャン・ピエール、ナターシャ、あるいはサミュエルという名だった。
ある者はイエスに、あるいはイェホバやヴィシュヌに祈った。
祈らない者もいた。でも、何を信仰しようと彼らの願いはひとつ
もうひざまずいたまま生きたくはないということだった。

旅の終わりに着かない者もいた。
生き残って戻ってきた者も幸せになれたろうか?
彼らは忘れようと努めた。そして驚くのだった、その年齢で
腕の血管がすっかり青く膨れ上がってしまったことに。
胸壁の上でドイツ兵たちが見張っていた。
月は口をつぐんだ、君たちが遠くを見ながら
外を見ながら口をつぐんだように。 
君たちの肉はやつらの警察犬には柔らかだった。

今、人々はぼくに言う、「もうそんなことに耳を貸すものはいない。  
恋の歌だけ歌っていたほうが良い」と。
「血は歴史に組み込まれるとすぐに乾いてしまうのだ」と。
「(そんな歌を歌うために)ギターを手にしても何にもならない」と。
でも、誰がぼくを思いとどまらせることができよう。
いま、夏が再びめぐって来て、影は消えて人になったが、
ぼくは必要ならばいくらでも言葉を紡ぎだそう
君たちが誰だったかを、いつか子供たちに知らせるために。

君たちは二十人、百人、いや、何千人だった。
装甲された列車の中で、裸で震えていた。
爪を打ちつけて夜を引き裂いていた。
君たちは二十人、百人、いや、何千人だった。

 ジャン・フェラの1962年の曲。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害・虐殺をテーマにむしろ淡々と歌った。この曲が、翌年の「山(ふるさとの山)」の史上空前のヒットにつながった。
 説明の必要は何もないと思う。その代わり、明日以降、まったく別の状況で別の詩人によって書かれた、この作品を強く喚起させる作品を紹介したい。
 ただ一つだけ、ぼくがあらためて注目したいのは、第四連だ。

今、人々はぼくに言う、「もうそんなことに耳を貸すものはいない。  
恋の歌だけ歌っていたほうが良い」と。

 今、戦争や災害や貧困なんかまるで関係ないことのように歌を消費しているぼくたちは、耳を貸すだけでも良い、心を痛めた方がもっと良い、のじゃないだろうか? ぼくたち自身の感性を守るためにも。ジャック・ブレルの歌の言葉を借りれば、「ぼくたちの心は 翼を失っている/でも 友が泣くのが見える」。

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「私の好い人」(愛の追憶)-補足

2023-08-18 10:07:31 | 音楽の楽しみー歌

 「私の好い人」はナチスドイツ占領下でのフランス娘とドイツ兵の恋の物語だ。彼女は彼に命を助けられ、愛し合うようになる(このことについては、後の方で再び書く)。でも、その恋が幸福に終わるはずはない。連合軍の反撃が始まり、彼は「必ず戻ってくる」と約束して去ったまま、帰ってはこなかった。彼は殺されてしまったものと思われる(このことも後で触れる)。
 日本では歌い手が「戦争があったことさえ覚えていない、というのはつまり認知症になってしまったんですね」なんて説明していることがあるけれど、「ばっかじゃないの」と思う。彼女は、あまりに体験が辛すぎるので、無意識に心を閉ざして記憶を封じ込めてしまったのだ。PTSD(心的外傷後ストレス障害)だ。
 この歌で思い出す映画がある。マルグリット・デュラス脚本、岡田英次とエマニュエル・リヴァが主演、アラン・レネ監督の「ヒロシマ・モナムール」(邦題「二十四時間の情事」‥なんてまあ、トンデモ題をつけたものだ!)。詳しくは省くが(そのうち、この映画については別途書きたい)、主人公のフランス人女性は娘時代、占領下のフランスの地方都市ヌヴェール(パリから南南東に約200Km)でドイツ兵と恋仲になり、戦争末期、二人で駆け落ちしようと公園で待ち合わせるのだが、ドイツ兵は住民に射殺され、彼女は見せしめのために住民たちの前で頭を丸坊主にされ、地下室に閉じ込められる。このことが彼女の心を今でも苦しめている。
 (同じように、ジャン=ポール・ベルモンド主演、クロード・ルルーシュ監督の映画「レ・ミゼラブル 輝く光の中で」⦅「レ・ミゼラブル」の設定を第二次大戦下に移した驚くべき映画だ⦆のなかでも、パリ解放後、公衆の面前で頭をそられる女性たちが出てくる。“敵と通じた恥ずべき女”たちを晒し者にするためだ。)
 「私の好い人」の「冬の眼をした 子供のままのその老婆」も、彼を失っただけでなく、その後の混乱の中で同じようなつらい体験をし、住民たち白い目に晒されて生きてきたのだと思う。
 ところで、彼女の愛したドイツ兵について書きたい。
 愛し合うようになるまでのことは「私を救ってくれたのがあなただ‥」としか書かれていないので、聴く(または読む)側が勝手な想像をすることができるのだが、ぼくにはこの後の「・・って知ったら天国の父と母はどう思うでしょうね」というのが気になる。一般には「敵であるドイツ兵に助けられたなんて」と解釈するのだろうが、それならば「救ってくれたのがドイツ兵のあなた」というのが普通だ。
 そこでぼくは想像をたくましくする。生前、この一家とこの兵士は旧知の間柄だったのではないか。この歌詞から読み取れるのは、この兵士は普通にイメージするナチスドイツの冷酷な人間とは違うということだ。彼は彼なりに善意の人であり、希望を失くしてはいない。未来の平和と復興を信じてもいる(たとえそれが「民族共和」のような間違った信念であったとしても)。
 そして彼は、フランスをフランス人を、征服すべき対象とは思っていない。彼はひょっとしたら、フランスやフランス文化を愛するドイツ人であって、戦前にパリに、例えばフランス文化の勉強に、来たこともあり、その時にこの家族と知り合っているのではないか。彼はナチスのパリ占領時、この家族のことを心配して訪ねて来て、その時点ですでに両親は死んでいたが、娘だけは救うことができたのではないか?
 ・・・ぼくは想像しすぎるだろうか? でも、こう想像すると、この物語にはもう一つの悲劇が隠れていることがわかる。フランスが好きだったドイツ兵の悲劇。帰ってこれなかった彼は、どんな死に方をしたのだろう? 退却戦の戦闘の中で? 「ヒロシマ‥」の兵士のように、抵抗する住民に狙撃されて? それとも、ベルリンに戻り、ヒトラーに反対し、反逆罪で処刑された?
 ・・・いや、やはり想像が過ぎるようだ。でも、ひとつの歌からはこんなに想像を膨らませることができる。

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「私の好い人」(愛の追憶)

2023-08-16 14:06:02 | 音楽の楽しみー歌

              Michaële詞:樋口悟訳
娘は彼を“マイン・リーバー・ヘア”(私の好い人)と呼んでい
 た
幾夜も夜通し愛し合った屋根裏部屋で
彼の瞳のなかに 娘はふたたび見出したのだ
戦争前の 父の微笑む姿を 母の歌う姿を

「ねえ マイン・リーバー・ヘア 
私を救ってくれたのがあなただって知ったら
天国の父と母はどう思うでしょうね
私を置いていかないでね マイン・リーバー・ヘア
わかっているでしょう もう私には
この世にあなたしか残されていないってこと」

彼は答えた「もうけっして 
君の心のなかの恐れに耳を貸してはいけない
ほんの少し希望を持つだけで
世界はずっと良くなるはずだ
アオフ・ヴィーダーゼーン・リーベ(さようなら愛しい人)
ぼくはすぐに戻ってくるよ ベルリンからパリへ
戦争は終わるだろう 樹々は花咲き
人々は優しい心を取り戻すだろう
約束する 必ずぼくは戻ってくると
アオフ・ヴィーダーゼーン・リーベ」

娘は彼をマイン・リーバー・ヘアと呼んでいた
二人の語り合うのは素晴らしい勝利の日々だった
娘は聞いていた マイン・リーバー・ヘアが話すのを
いつか二人で叶えるだろう夢の数々を
「イルミネーションに輝く街を一緒に歩こう
カフェのテラスで食事をしよう
アオフ・ヴィーダーゼーン・リーベ
ぼくはすぐに戻ってくるよ ベルリンからパリへ
戦争は終わるだろう 樹々は花咲き
人々は優しい心を取り戻すだろう
約束する 必ずぼくは戻ってくると
アオフ・ヴィーダーゼーン・リーベ」

娘は彼を待っていた 来る日も来る日も
地獄のような叫びと沈黙の中で
暖炉の暖かな火のかたわらに坐っても
娘は自分の周りにだけ張りめぐらせてしまった
凍りつくような冬の夜を
そして・・・

  「連合軍がノルマンディーに上陸したぞ!」
  「鐘だ! 鐘が鳴っている! パリは開放されたんだ!」
 
・・・彼女はもうマイン・リーバー・ヘアと口にしなかった
冬の眼をした 子どものままのその老婆は
人々が呼びかけても答えなかった
昔戦争があったことさえ もう憶えてはいなかった

けれど時々 記憶のよみがえる夜があり
すると彼女の瞳は急に輝き 
語り始めるのだった かつての愛の物語を
アオフ・ヴィーダーゼーン・リーベ
ぼくはすぐに戻ってくるよ ベルリンからパリへ
戦争は終わるだろう 樹々は花咲き
人々は優しい心を取り戻すだろう
約束する 必ずぼくは戻ってくると
アオフ・ヴィーダーゼーン・リーベ
 アオフ・ヴィーダーゼーン・リーベ
 ぼくはすぐに戻ってくるよ ベルリンからパリへ
 戦争は終わるだろう 樹々は花咲き
 人々は優しい心を取り戻すだろう
 約束する 必ずぼくは戻ってくると
 アオフ・ヴィーダー・ゼーンリーベ
 ・・・・・・・・・

 ずいぶん前に訳したものだが、今回ドイツ語の片仮名表記を大きく、その他を幾らか、手直しした。
 題名も、娘が彼に直接呼びかける言葉だから「愛しいあなた」ぐらいのほうが良いかな、と思ったのだが、この娘のドイツ語は若干ぎこちないところがあると考えられる(ドイツ語では手紙は別として、通常、呼びかけにMein Lieber Herrとは言わないはずだ)ので、そのままにした。なお、この二人は呼びかけ以外はフランス語で会話している。
 また、ぼくはなるべく直訳を心掛けているが、ここではいくらか自由訳をしているところがある。
 この詞については、明日か、たぶんそれ以降、グダグダと長いコメントを書くつもりでいる。

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「バルバラ」

2023-08-15 08:48:55 | 音楽の楽しみー歌

 八月は戦争について、平和について、考える月だ。ふだんそのことを忘れて暮らしていても、今いちど思い出すべき月だ。だがどうやって? ぼくは戦後すぐの生まれで、直接的な記憶はない。毎年この時期になると、1985年5月8日(ドイツの敗戦40周年)に西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が連邦議会で行なった演説、いわゆる「荒れ野の40年」を読み直してきた。自分の国・民族の歴史に真摯に謙虚に向き合う姿勢を学ぶために。
 正直に言うと、ぼくは今、戦争や平和についてよりも、全地球的な気候危機とそれによる差し迫った人類の運命の方に、より大きな直接的な関心がある。だがロシアによるウクライナ侵攻がいまだに続いている中で、そう言って済まされない気がする。
 それで今年は、自分としては親しみ深いシャンソンの中の反戦歌をいくつか揚げてみることにする。ただしぼくの訳は原詩の意味をなるべく忠実に紹介するためのものであって、歌うための訳ではない。これを歌ってみたい、もしくは学んでみたい、と思う方は、既存の日本語歌詞を参考にしてください。
 「バルバラ」は、ジャック・プレヴェール詩、ジョセフ・コスマ作曲の反戦歌中の最高の名曲。なお、原詩には区切りはないが、読み易くするために適宜分かれ目を入れた。

思い出してバルバラ
あの日ブレストには雨が小止みなく降っていた
その雨に濡れて
君は歩いていた微笑みながら
晴れやかに夢見心地に光り輝いて

思い出してバルバラ
ブレストには雨が小止みなく降っていた
ぼくはシャム通りで君とすれちがった
君は微笑んでいた 
ぼくも微笑んでいた

思い出してバルバラ
君を知らないぼくと
ぼくを知らない君
でも思い出して 
思い出して
忘れないであの日を

一人の男がポーチで雨宿りしていた
彼は君の名を叫んだ
“バルバラ!”
君は走った彼のもとへ雨の中を
光り輝いて晴れやかに夢見心地に
そして君はその腕の中にとびこんだ
あの時を思い出してバルバラ

そしてぼくが“きみ”と呼ぶからといって気を悪くしないで
ぼくはぼくの好きなすべての人を“きみ”と呼ぶ
たった一度しか会ったことのない人でも
愛し合うすべての人達をぼくは“きみ”と呼ぶ
会ったことがない人でさえも

思い出してバルバラ
忘れないで 
海に降っていたあの雨を
君の幸せな顔に降っていた
幸せな町に降っていた雨を
海に降る雨 
兵器敞に降る雨
ウエサン島行きの船に降る雨

おおバルバラ
なんて馬鹿げたことだ戦争なんて
君は今どうしているのだろう
この鉄と火と鋼と血の雨の下で
そして愛する腕に君を抱いたあの若者は
死んだのか行方知れずかそれともまだ生きているのか

おおバルバラ
ブレストに雨は降り続いている
しかしそれはもう同じ雨ではない
すべては台無しになってしまった
今は恐ろしい後悔の喪の雨だ
もはや鉄と鋼と血の嵐ですらない
ただ単に犬のように引き裂かれてゆく
重い雲でしかない

そうブレストで犬たちは
濁流に運ばれて姿を消し
遠く遠く沖に押し流されて腐っていく
そして今はもうブレストに
何一つ残っていない。                           

            ジャック・プレヴェール:樋口悟訳

註:ブレストはブルターニュ半島西端近くにある港湾都市、軍港。第二次大戦ではドイツ軍に占領され甚大な被害を受けた。

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氷の花

2023-08-11 10:07:37 | つぶやき

1万5千発も2万発も
つづけざまに
雑踏と叫喚と熱気の中で
見なくても良い

むしろ
君と二人

たったひとつ音もなくひろがる
光の花を見よう
暗い空を見よう

2万発は束の間だが
たったひとつは
永遠に消えない

ぼくと君の
まぶたの中に
脳の中に

ぼくと君が消えてしまった後も
凍る夜空に
架かり続ける

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塞外

2023-06-10 09:39:50 | 詩集「黎明」

僕は出て行く
この崩れかけた城塞の向こうへ
僕は出て行く
ここから西は茫洋として何百里
道は無く 馬は嘶かず
ただ砂の嵐だけが終日
大地を空に吹き上げている
それこそ僕の望むところだ

幾日目かの終わりに
髭と髪にこわばった砂を払い落とし
古代の井戸で僕は飲むだろう
文明が滅んだあと 幻が消え去ったあとの
星に還った静寂を

嵐は止んで
うずくまった僕の影の上に
夜は軽々と覆い広げるだろう
聴く者もいない何万年もの夢を

この崩れかけた城塞のほとりまで来ても
まだ風は生暖かい
腐った都市のざわめきが流れてきては
ここで最後の澱みを作る
僕はもう
人間の音楽には心を惹かれなくなってしまった

今ちょうど望楼の矢狭間の向こうから
落日が一文字に僕の目を射抜いた
それが出発の合図だ
僕の渇きはもう
人間の唇では癒せない

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ぼくはまだ生きていて元気です

2023-04-28 09:15:49 | 近況報告

 複数の友人が、「『悟さんはこの頃ブログを更新しないけど、どうしたのだろう? 具合が悪いのだろうか? もしかして亡くなったのではないか?』と人に訊かれた」と言います。心配してくれる人がいるというのはありがたいことです。ぼくは老化は進んでいるものの悪いところはないし、足腰が弱くなったけどハイキングも行っています。この夏は、コロナでここ数年行かれなかった北アルプスに行きたいと思っています。
 ブログを(したがって、それをコピーしただけのFBも)書かなくなったのは、視力が落ちてきてパソコンの画面を見るのがシンドくなったこと、文章を書くのがめんどくさくなってきたこと、かな? なんせぼくは頭の回転が遅いので手間がかかるのです。こんな文章でもワードで下書きをしたものを紙にプリントアウトして、鉛筆で手直ししてまたワードで清書しなければならない。少しややこしい文章だと二度も三度も。

   まあ、今は気力が落ちて社会への関心が弱くなっている、ということもありますね。毎日のように異常気象だの水害だの山火事だの戦争だののニュースに接していると、この滅びゆく社会を直視するのがシンドい、ということもある。
 またそのうちこの状態を抜け出したら書く気になるかもしれません。

 ところで、ここから別の話。先日、古いノートを探すために段ボール箱を漁っていたら、モノクロの写真が出てきた。自分では懐かしいので披露してみる。
 1は中学生時代。おかしな顔、というか、ファニー・フェイスだね。ぼくはおばあちゃん子だったが、ある日二階から階段を降り始めたら、障子の向こうで祖母が誰かと話している声が聞こた。「次男は男前だけど、長男(ぼく)はねえ・・・かわいそうに」。ぼくはそっとまた階段を登り返した。でもこの表情は、アルカイックスマイルに見えなくもない。ぼくは世界が滅びるのを見届ける役割になるのかも。
 2は初めてアフリカに行った時。ゴリラの撮影隊の通訳兼助手(雑用係)としてコンゴ民主共和国(当時は、ザイール)に滞在した途中、いつ撮ったものかわからないが、ジャングルのそばにEUの紅茶のプランテーションがあって、根拠地として借りていた家の室内? かなり疲れた顔をしているけど、削ぎ落したような感じもあって、本人はこの写真は好きだ。遺影にはこれを使ってもらおうと思う。
 3は「詩学」という雑誌の新人紹介として何人かの詩と短いエッセイと写真が載った時のもの。その雑誌の切り抜きが残っていて、オリジナルは探したけど見つからなかった。粒子が荒いのは切り抜きのコピーだから。自分で言うのもなんだけど、いい表情だよね。オリジナルが見つかったら、こっちが遺影かな?

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大菩薩峠

2023-02-07 21:01:32 | 山歩き

  

雪は少ない。でも久しぶりにアイゼンでの歩行を楽しんだ。

南アルプス白峰三山:右から北岳、間の岳、農鳥岳

富士山は霞んでいてうまく撮れなかった。

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