すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

立春大吉

2023-02-04 19:22:05 | 自然・季節

見えがくれに歩きながら
ときには肩をよせあい
迷路をさまよったあげくに
夜明けとも日暮ともつかぬ薄明の中で
ぼくらは崖に立っている

(中略)

雲切れの空にのぞく
まがまがしい双つ星は
離れまいとして
必死に輝きをましている
いとしきひとよ
あそこまでは跳べる
ぼくらの翼で
試してみようではないか 
       私の詞華集㊴鮎川信夫「跳躍へのレッスン」           

   立 春 大 吉  
 (ここ数年、年賀状を書かずにこの時期にご挨拶をさせていただいています。)
 近ごろ心が晴れず、鬱々と過ごすことが多くなっています。人類の迎える破局と終末のことを考えてしまいます。滅びてしまうのは仕方ないとしても滅びる前の酷い苦しみに落ちたくはないし、特に近未来の人たちに、苦しんでもらいたくはない。どうしたらよいのだろう?「そんなことは考えないことにして明るく過ごしましょう」という訳にはいかないし希望はないのだろうか? 柄谷行人の「世界史の構造」は目からウロコでした。
 山歩きで触れる自然がわずかな救いで、そのための体力の維持がもっぱらの課題です。ただしだんだん近場に行くようになっています。ご一緒する機会があったら嬉しいです。
 耳が遠くなって、歌は断念しました。コンサートホールの、音が大きく聞こえる舞台後方席に坐るのが楽しみです。幸い、本はまだぼちぼち読めます。
 皆様方のこの一年のご健康とご多幸をお祈りいたします。

(年賀状を戴いた方への寒中御見舞いのはがきの文です。)

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山茶花

2022-11-26 10:19:16 | 自然・季節

枯れ残ったカエデの葉が
風に揺れる枝の下に
山茶花が咲いている

歌いながらあやす腕に
守られて
花はひっそりと白い

最後の葉が花の上に落ち
花もやがて根元の土に消えたら
自然は乾いた眠りにつく

この土地は開発計画があるそうだ

・・・時が流れ
新緑が 盛夏が廻り・・・

いつかまた この季節に
ぼくはここを訪れるだろうか

あるいは

ぼくが地上を去った後に
ぼくの想いや影だけが
ここを歩き回るだろうか

もうしばらくの間は
この場所はこのまま
在り続けなければならない

影が 失われた花を探して
さまよわぬように

せめて

骨のかけらが土に還るくらいの時間
思い出が消えるくらいの時間
亡霊の心が鎮まるくらいの時間

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約束

2022-10-28 20:06:49 | 自然・季節

新しい菊の供えられた
小さな教会墓地の
柵の前を左に曲がると
森は半日歩いても終わらない
栗の純林だ

山道のあちこちで
ぼくのすぐ傍らでも
イガの落ちる音がする
帽子をかぶっていないと
痛い目にあうに違いない
ここの栗は野生種に近く
小粒だがとても美味しい
拾っていきたいところだが
今日の目的はもっと先だ

古代ケルトの遺跡と思われる
巨石の間を通り
見通しの良い尾根に出て
向う側に下りると
小さな湖

畔に田舎風のレストランがあり
冬は暖炉が焚かれて
水を見ながらゆっくりランチも楽しめるのだが
今日の目的はもう少し先だ

快調に歩き続けて息の弾む頃
森の中の空き地に出る
緩やかに傾斜した草地で
こちら側 いちばん高い縁に
木のベンチが置いてある
誰もいない
まだ露に湿っているが
構わずに腰を下ろす

雲の切れ目から差し込む日の光が
あたり一面の黄葉を燃え上がらせる
恩寵の証しのように
これこそ黄金の秋だ
頭の上の葉群れは
光に透けている
細かな葉脈まで見える

昨夜の雨の名残りの
葉の先の雫が
ひとつひとつに森全体を映して
歓喜に輝き
その幾粒かが
ぼくの顔に落ちる

そうだぼくはここに
大事な約束を思い出しに来たのだ
    (パリ郊外 ムードンの森)

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夢の戦場

2022-10-13 10:35:05 | 自然・季節

穴だらけの戦場を必死に逃げまわっている
すぐ横で砲弾が炸裂する
吹き飛ばされ地面に叩きつけられ
足を引きずり額から脇腹から血を流し
疲れ切ってもう体が動かない
誰かこれを止めてくれ

という夢をよく見る。
何故だろう?
そんな経験はもちろんないし
映像で見ただけとしては生々し過ぎる
いつかどこかでそんなことがあったのだろうか?
前世などというものは信じてはいない

たぶんこれは
ぼく自身の記憶ではないのだ
脳の記憶庫の中でなく
遺伝子の中にしまい込まれた記憶
あれは戦場ではなく今のこのぼくではなく
進化の途中の生物集団の種の記憶
まだ人間でなかった頃
草原であるいは巨大なシダの森で
その小さな種は狩られ
大型肉食獣に襲われ逃げまわり
くりかえし引き裂かれたのだ

それが今のニュース映像に刺激され
呼び戻され
戦場の兵士のように
書き換えられているのだ
この遺伝子の記憶を消す方法は無い
それならば恐ろしい夢に引き裂かれないためには
今の世界から戦争を無くさなければならない

あるいは
世界から目を背けて
何も見ないようにしなければ

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自我の苦しみ(昨日の補足)

2022-10-08 19:33:30 | 自然・季節

 ・・・だが、ぼくはもう、「限りなく希薄な存在になりたい」という願望を持つことは無いだろう。ぼくのかつて持った願望は、自我のあるいは自意識の(ぼくは哲学の勉強をしていないので、この辺の区別や定義はよくわからない。とりあえずこういう言葉を使ってみる)産み出す苦しみ、他者との軋轢など関係性の産み出す苦しみ、を最少化したい、そのためには自分の存在そのものを消しても構わない、ということだと思う。
 自己を攻撃し、取り込んで解体しようとする、自己が恐怖しなければならない、二つのもの-死と他者(あるいは、死と社会)。ぼくは多くの時、死ではなくて他者を恐れていた。そしてその恐れを生み出しているものは、じつは肥大した自意識なのだということに、うすうす感付いていた。
 ところが今ぼくはこうやってブログを書いたりそれをFBに投稿したりしている。今でもぼくがかつてのような願望を持っていたとしたら、それは最大級の矛盾だ。ブログを書くということは、自我の他者との係わりを肯定し、求めさえしているということだから。
 ぼくは決定的に変わってしまったのだ。あの願望は、一種の「青春の病い」のようなものだったろうか(それにしてはずいぶん長く続いたのだが)?
 だからぼくは安心してよい。もうあれは現実には取り付かれる
 あの、存在感の希薄な歌声たちは、これから時たま、懐かしいイージーリスニングとして聞くことにしよう。

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待つ

2022-07-26 09:27:32 | 自然・季節

海まで続く平野を
埋めつくしたヒナゲシの花が
予感のように
わずかに紅を褪せさせる

それから二・三週間後には
海はもう 手のつけようのない
散り乱れる光の洪水に変わっている

焼けつく地表から逃れようと
数知れぬカタツムリが
枯れかけた草に這い上がる頃
(彼らはみなそこで死に
 殻だけが残る)

すでに人影の絶えた丘陵を
砂まじりの熱風が寄せてくる
天と地の間のすべてのものを
押し包み窒息させるために

ふたたび雨が降りそそぐまでの
いつはてるとも知れぬ長い時の間
            (樋口悟「待つ」再録)

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母鳥のうた

2022-05-31 10:32:42 | 自然・季節

そしてお前は
翼を広げる
光あかるい空へ

私のくちばしから
赤い実を受け取った
まだ柔らかなくちばし

私の翼の下で
寒さに震えていた
みぞれの夜

お前を温めながら
私も温かかった
冬の夜

そしてお前は
翼を広げる
香る草原の上で

飛ぶのが怖くて巣の端で
ぎゅっと目をつむった
初めての日

飛び移った枝から
振り返りながらあげた
喜びの叫び

一年が去って今
森は嫩葉の季節
旅だちの季節

そしてお前は
翼を広げる
光まぶしい空へ

新しい愛を
見つけるために

そしてお前は

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天球儀

2022-04-30 10:40:46 | 自然・季節

   

 先日、友人と三鷹の国立天文台に見学に行った。売店で「組み立て式天球儀」というものを買った(国立天文台については、近々また行くつもりなので、別途書きたい)。
 本体は星座を印刷した濃い青色の、北と南の半球に分かれた、たいへん複雑な形の紙で、それを折って内側からセロテープで止めて行って立体にして、最後にその二つの半球を嵌め込み式に組み合わせる。半球は天頂(北半球なら北極星のあるところ)は正五角形、その下の中緯度のところが5個の正六角形、低緯度のところは正五角形と正六角形が互い違いに5個ずつ組み合わされて、二つの半球合わせて32面になっている。
 数学的でないアタマのぼくには、どうして五角形と六角形の組み合わせで模擬的にせよ球体ができるのかよくわからない。
 これを読んでいてすぐに気が付いた方もいるだろうが、ぼくは組み立ててみてやっと気付いた。これはサッカーボールだ!(あのボールを最初につくった人は誰だろう。すごく頭の良い人だったんだな。)
 さて、かなり苦労して出来上がったものは、つなぎ目のところに来る星、例えばわし座のアルタイル(七夕の彦星)が二重星になってしまったり、黄道がずれてしまったり、不細工なものになった(ぼくは小中と図画工作の成績が2だった)が、何はともあれ、天球ではあるので、達成感はある。
 完成したものを眺めていてふと気が付いた。星座の左右が逆になっている! 例えばさそり座は実際の空では頭が右、尾が左のS字形だが、天球儀では尾が右、頭が左の逆S字になっている。左右逆に組み立ててしまったのか? と思ったが、印刷は片面にしかされていないのだから、もちろんそんなことは無い。
 考えてみれば、ぼくはいま、通常は内側から見ている天球を外側から見ているのだから当たり前のことだ。満天の星を見る機会というのは、いまではごくまれに、山登りに行って深い山の中で夜を過ごす時、ぐらいしかないが、その時ぼくは天球という仮想の球の中心にいて、空を、正確には空の一部を、“見上げ”ているごくちっぽけな存在だ。天球儀を見るとき、ぼくは逆に天球の外にいて、天全体を“見下ろす”ことができる、限りなく大きな存在になっている。
 天の川というものは、見上げる時なるほど川のように見えるものだが、じつは天球を二分してぐるりと取り巻いている帯なのだ。その帯はゆるやかに蛇行して、たしかに所どころ氾濫した川のように広がっている。
 「取り巻いて」と今書いたのを急いで訂正しておこう。もちろん、宇宙空間で天の川は真ん中までぎっしりと星で詰まっている。いま球形のものを思いつかないが、平たいもので言えば、シベリアケーキの餡のように。そして実は、シベリアケーキのように見えるのは、カステラと餡のような別のものではなくて、ただ単に星の分布の密度が濃いか薄いかの違いなのだ。
 ・・・シベリアケーキなどを持ち出さずに、宮沢賢治を思い出せばよかったのだ。「銀河鉄道の夜」の冒頭、「午后の授業」で理科の先生がジョバンニたちに見せるレンズ型の模型が、銀河系宇宙だ(ぼくたちもその内部にいる)。そしてそのレンズの表面の方向が星空、直径方向が天の川だ。
 そして、つい先日亡くなった社会学者の見田宗介氏の言葉を借りれば:
「〈模型〉とはこの場所の中に無限を包み込む様式である」 

 天球儀は銀河系宇宙の、もう一つの模型だ。最近ぼくは地球儀を見ると、気候変動やロシアのウクライナ侵攻や、果ては人類の滅亡まで思い浮かんで、実にやり切れない気持ちになるのだが、天球儀はそのような憂いや苦悩を、しばしの間、取り払ってはくれなくても、薄めてはくれる。やっと呼吸ができるような穏やかな気持ちにさせてくれる。時には、現実から意識を逸らしてみることも必要だ。そのことばかり考えていると、鬱になってしまう。
 人間は、想像力があれば、あるいはそれを起動させるきっかけになる物や事さえあれば、無限に小さな存在にでも、大きな存在にでもなることができる。今日は、銀河系宇宙全体を俯瞰している大きな鳥になったつもりでいよう。

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さくら頌

2022-04-05 09:41:01 | 自然・季節

仰ぎ見ると
母や恋人や友人や
もういない人たちを
頻りに思い出す
さくらは
葬送の花だ

満開の枝々の
重なり揺れるその向こうに
過ぎ去った時が
白く光る
さくらは
喪失の花だ

それでもなお さくらは
ほめ歌の花だ
花吹雪の公園で
幼い者たちが
そのひとひらをつかもうと
両手を空に
歓声を上げる

昇り行く生命と降り行く生命

さくらは
老いた者のための
安らぎの歌だ

老いもまた
昇り行く歌と
降り行く歌だ

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2022-02-22 13:01:31 | 自然・季節

冬の午前の鈍い光は
すべてを静止させてしまう
枝の先に一枚だけ枯れ残った
縮れた山吹の葉
霜柱に持ち上げられて
切り通しから落ちてきた小石
道しるべの上を舞っていた羽虫も
そのまま中空に止まって動かない
旅人の歩みも
谷川の側で止まってしまう
心臓の鼓動が消え
白い息も広がるのをやめてしまう
時そのものが凍りついてしまったように

だがたぶん それはほんの一瞬のことなのだ
肌に感じられぬほどの風が立ち
野茨の固い芽をふるわせる
水底に映る枝の影が
止まった水をゆっくりと遡っていく
その時はじめて 旅人は知る
自分の周りに遍在している
目に見えぬ大気を
それが微かに動くと
時が動くのだということを

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立春大吉

2022-02-03 10:44:30 | 自然・季節

これまでに
悔んでも悔みきれない傷あとを
いくつか しるしてしまった
もう どうにもならない
だが
これから
どうにかできる 書きこみのない
まっさらの頁があるのだ
と思おう
それに
きょうこの日から
いっさいがっさい なにもかも
新しくはじめて
なにわるいことがある

 私の詞華集38川崎洋 詩集 『食物小屋』より「これから」           

    立 春 大 吉 

 ここ数年、年賀状を書かずにこの時期にご挨拶をさせていただいています。 
 人類は、気が早いかもしれませんが、コロナ感染症自体は、乗り越えつつある、と思います。ただ、そのあとに、究極的に困難な、解決しなければならない数々の問題を抱えています(ブログ「ぼくが地上を離れる前に」の「激しい雨」22/01/14と「ウイルス」01/29も読んで頂けると嬉しいです)。何ができるわけでなくても、現在を見詰め続けましょう。
 でもまだ、希望は捨てないでいよう。良い音楽を聴いて、良い本を読んで、もう少し暖かくなったら、歌を口ずさみながら野山を歩こう。草に坐って友達とお昼も食べよう。夢を語ろう(いくら困難でも、歳を取っても、夢はあるのだから)。熱い議論もしよう。(新しい春にあたっての、自戒の言葉です。)
 ぼくは今年は山登りの計画がいっぱいあります。良かったら声をかけてください。ご一緒したいです。

皆様方のこの一年のご健康とご多幸をお祈りいたします。

(年賀状をいただいた方への寒中御見舞いのはがきの文です。)

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恩寵の光

2021-11-16 09:13:15 | 自然・季節

冬枯れの高原から下るバスは
黄金の秋の中へ入って行く
カラマツに朝の陽光がきらめいて
君の昨日の言葉を借りれば
まるで恩寵のしるしのようだ

日陰にもう雪の残る
荒涼の散策路をたどりながら
谷を隔てた北方の山並
おそらく草津白根あたりの
鞍部のひとところだけ
重い雲の下に光る青空を指して
君はそう言ったのだ

そのほんの少し前 同じ空を見て
ぼくは世の終りか何かの
禍々しい予兆のように
感じたのだったが

フロントガラスの広い大型バスは
今日はぼくたちで貸し切りだ
いちばん前の席に並んで 動き出すとすぐ
感嘆の声を上げていた君は
ひと晩の眠りではまだ疲れが取れないのか
たちまちまたうとうとと眠ってしまった
君は気付かないが
恩寵の光が
君とぼくをも包んでいる

ゆっくり眠るがいい 
ぼくの方が間違っていた
君が今 この柔らかな光の中で
安らいでいるのだから
世界はまだ
当分は終わらない

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わたらせ渓谷

2021-11-04 17:40:08 | 自然・季節

(11/01)
 昨夜うまく寝付けなかったので久しぶりの早朝がしんどい。5:54の始発のバスで出発。品川と東京で友人と合流。小山着8:32、桐生着9:48。この経路はかなり時間がかかるが、仕方ないか。桐生発10:05。トロッコ列車ではない普通車だが、これで十分。わたらせ鉄道沿線はまだ紅葉は始まったばかり。ピークは下旬くらいだろうか。渓谷そのものは美しい。新緑の頃にもまた来たいものだ。神戸であまりおいしくない舞茸定食を食べ、バスで富弘美術館へ。草木湖岸の、素晴らしい場所に立っている。都会の美術館と違い、ここを訪ねる観光客は、ここに来ただけでも安らぎと幸福に包まれるだろう。
 星野富弘は、頚椎を損傷して手足が動かなくなって、口に絵筆を咥えて絵を描き続けているというその生涯は驚嘆に値するし、その絵は静かな美しさに満ちている。しかし、些細なことでジタバタ生きている、暗い指向のぼくには、彼が画面に綴る短い詩は、なんだか救済の世界に行ってしまった、縁遠い人のようにも思えてしまうのだ。彼は洗礼を受け、信仰に心の安らぎを見出した。彼の言葉は多くの人たちにはそれこそ生きる指針、導きの言葉のようなものなのだろうが、ぼくは同じ信仰の場所に心の安らぎを見出したくはない。ぼくが恩寵のようなものを見出すとしたら、それはむしろ湖岸の風光の中だろう。
 展示ホールの壁に書かれている、したがって彼の深く愛しているだろういくつかの詩、丸山薫の「北の春」や三好達治の「甃(いし)のうえ」や、特に彼と同じ敬虔なクリスチャンであった八木重吉の「素朴な琴」、ぼくも大好きなこれらの詩には教訓や人生の指針のようなものは全く含まれていない。そういうものをもしぼく自身が書くとしたらむしろ、苦悩や孤独を書くほうを選ぶだろう。
 草木湖はちょうど紅葉が美しい。今度またここに来たらここのカフェでお茶を飲み、この湖畔の散策路を歩こう。
 美術館を出て、草木ダム・不動の滝を経由し、小中駅近くの東陽館まで歩いた。
 ここは古い、しかし女将さんとご主人の心配りの行き届いた良い宿だ。別世界に来たように静かだ。女将さんは気立て優しく暖かく丁寧で美人だし、ご主人も物腰落ち着いて控えめながら性格の温厚さはすぐに感じられる人だ。食事も心のこもった工夫がしてあって美味しい。特に「虹鱒の東陽館風」と舞茸の天ぷらの美味しいこと! これで7300円! 先週泊まった高峰高原の宿の半額以下だ。またぜひ来よう。というより、一週間ぐらい静かに物を考えに、あるいは逃避に、滞在したらよいかもしれない。
 食後TVで選挙後の報道を見ながらうつらうつらしてしまったら、その後(いつものことながら)寝付けなくなって、友人のいびきを聞きながらウイスキーをちびりちびり飲んでいた。

(11/02)
 6時前くらいに起き、朝食まで一時間ほど上流へ向かって散歩。気持ちの良い朝! ここは袈裟丸山への登山口でもある。来年でも登りに来ようか。朝食も美味しい。お弁当を作ってもらって、小中駅発8:32で上流へ。草木湖岸の長いトンネルを抜けてからがわたらせ渓谷の一番美しいところだ。深い青緑の水。白い石の河原が時に広がり、時に狭まる。紅葉の盛りはさぞ美しいだろうな。終点の間藤駅に9:13着。
 上流の三沢合流点にある銅(あかがね)親水公園まで、一時間ほどの道のりの静かな舗装道路を、足尾銅山の史跡などを見ながら二時間ほどかけてゆっくり歩く。特に本山精錬所跡とその付属の大煙突(高さ47m)は見ものだ。
 道の両岸は、特に渡良瀬川対岸は、ひどく荒涼としていて崩れかけたような荒々しい岩壁に丈の低い植生の混じる、一種異様な風景だ。途中、精錬所跡を対岸に見る民家の奥さんと立ち話をした。昔はこのあたり一帯は亜硫酸ガスで一木一草もない禿げ山で、今の状態に修復されるまでに何十年もかかった。小学校も、「煙が来るぞ」と声が上がると全員が教室の中に避難して震えていたのだそうだ。山が異様な感じがしたのは、草木が枯れて土壌の保持力が失われて崩壊が進んだせいだろう。
 日本最初の公害の地。ここが閉山したのは水俣のチッソの工場の操業停止(1968年)よりも遅い73年。日本のGNPが世界第二位になったのが1968年。ぼくたちが繁栄を享受している間も、ここは田中正造の時代から、いや、江戸時代から、鉱毒・煙害に苦しんでいたのだ。
 途中、道路の端を下ってくるニホンザル一頭とすれ違った。顔を合わせないように緊張しながら歩いたが、向うも緊張しているのか、速度を上げて一気に下って行った。
 砂防ダムの堰堤下の公園で昼食。宿の心のこもったおにぎり弁当。ウイスキー入りの紅茶を少々。暖かくてうららかな青空だ。公園の芝生は、カモシカのフンがいっぱいだ。
 間藤駅まで戻り、鉄道で帰る友人二人と別れてぼくは一人でバスで日光に抜ける。間藤から上流はまさに紅葉の真っ盛り。沿道に続く山々全体が陽に輝く錦繍だ。峠の長いトンネルを抜けると日光。東照宮手前からやや観光渋滞。
 東武日光駅に来るといつも、いつかの二人のことを思い出す。もう30年以上前のことなのだが今でも、あの二人はあの後どうしたろうか、と思う。
 駅前の金谷ホテルの経営のカフェでチーズケーキと紅茶のセット。東武線の車内でもしきりにあの二人のことを思った。ただの行きずりの出会いなのだが。その後、幸福になっているだろうか。そうではないような気がするが。
 車中で俵万智の「牧水の恋」を読み終えた。

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モミジバスズカケノキ

2021-09-30 22:10:18 | 自然・季節

  幹の周囲:約6.3m
  樹高:約26m
  樹齢:120年以上
こいつは驚きだ
こんなにでかく 
醜く皮の剝げた美しいものが
明治より遡らないなんて
額をそって刀を差したおかしな奴らが
ここらをしゃっちょこばって歩いていた頃には
まだここに居なかったのだ
大樹を老賢人に例えることがあるが
これはそんなもんじゃない
ただただ恐るべき巨人だ
足は象より無惨で
小さなモアイ像をぐるりとと貼り付けたよう
これがざわざわ動き出したら
新宿の街はパニックだろう
幹の下部は焦げ茶色に膨れ上がった脈
上に行くにつれて剥がれて斑になり
先端部は殆どハゲ
ハゲたのは年経たせいだろうか
(上に延びていくのだから上の方が古い?)
いや 気が付いてみると 剥がれているのは
日の当たる部分だ
幹の南側 そして横にのびた枝は
上が白く下は暗い陰の色
してみるとこれは 日光が肌に悪いのだ
地面から5mほどの高さに最初の大枝
四方に伸ばした枝はおよそ23歩長

先端は地上すれすれ
モミジに似た五裂の葉の間に
緑褐色の鈴が下がっている
少女の外套の飾りのように
その径およそ3cm
表面は小さな疣々だが痛くはない
割ってみると 綿毛をびっしり詰め固めたような
薄茶の繊維
これが本当に芽を出して
次の世代に続くのだろうか
少し離れてみると 全体は樹というより
無惨に崩落した崖だ
枝は上部ほど激しく分かれていて
空に向かって爆発した玉座だ
この広い芝生の庭園でこのあたりに来る人は殆どいない
見上げる臣下はぼく一人
王は不在
いや王は
天空高い巻雲

 

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入笠山の花・他 8月27日

2021-08-30 17:28:58 | 自然・季節

 

レンゲショウマ      エゾリンドウ

 

マルバダケブキ      エゾカワラナデシコ

 

キキョウ         シシウド

 

ハクサンフウロ      ヤマトリカブト

 

山頂           大阿原湿原

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