すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ふたたび訳詩について

2018-04-13 14:22:09 | 音楽の楽しみー歌
 ぼくはこの歳になるまできちんとものを考える訓練や習慣を身につけてこなかったから、おおざっぱな感覚的な考えしかできない。今後10年、もっぱら時間をそのことに使ってそういう努力をすれば、もう少しましにはなるだろう。本当は、資質としては音楽よりもそっちの方に向いているかもしれない。でも音楽もやりたいし、音楽を通して少しは人とつながりたいし(そうでなければ、引きこもり老人になってしまう)、残念ながら、今生はこのままズルズル考えてズルズル書くスタイルで行くしかないのだろう。

 …さて、山之内さんから、「思い出のグリーングラスの3コーラス目の訳詩を試みてみたら」と言われた。これはやろうと思わないし、試みても成功しないだろう。
 最初から日本語で詩を書くのならまだしも(若い頃、自費出版の詩集を出したことがある)、ぼくには音符に言葉を合わせて行く才能はない。数日前に書いた、音韻上の困難を乗り越える力量もない。
 これは、やる前から断念しているわけではなく、シャンソンの歌詞の訳をしてみようとしたことはある。
 全然、気に入るものはできなかった。
 まず、どうしても原曲の内容の豊かさに負けてしまう。その豊かさを生かすすべが見つからない。単なる甘い恋の歌にさえならない(もともと、そういうものを書く気もないが)。
 訳詩には、作詞とは違う才能が必要だ。そして、音韻上の困難をクリアして、原曲の内容をきちんと伝えるためには、作詞以上の才能が必要と思う。
 このことをわかっていない人が多い。「ぴったりの訳詩が見つからないので、自分で訳してみました」と言って歌われる歌詞の大部分は、言っちゃあ悪いが、既存の訳にさえ遠く及ばないものだ。
 広く流布している訳詩は、日本流の甘っちょろい歌になってしまっているとはいえ、一応プロが書いていますからねえ。シロウト(ぼくもそのうちの一人である)が、原曲の内容を大切にして、しかも既存の歌詞の完成度のレベルを超える、というのは至難の業だ。
 もともと、歌というものは、ほとんどの場合が、原曲が書かれた時の言葉と音楽の組み合わせが一番幸せな結びつきなのだ。だから、原語でわかる人たちに向かって、言語で歌うのが一番良い。ただし、この場合ネイティブの歌い手を超えることはできない。聴き手が日本人ならば、最初から日本語で作詞された曲を歌うのが一番いい。
 でなければ、やむを得ないから、日本語で説明を交えながら原語で歌うか、あるいは、元の歌とは違うものとしてアクセプトして訳詩を歌うことにするか。
 あるいは、すでに日本語で歌われる歌として長い間愛唱されているものを、原曲の歌詞の豊かさにこだわらず、日本の感性の歌として歌うか。
 「カチューシャ」も「ともしび」も、ここに入るだろうか。
 そういう意味では、「旅愁」も「谷間のともしび」も「ローレライ」も「秋の夜半」も…完成度の高い、日本人の心性にかなった歌はいっぱいある。
 そして、ここには、口語と文語の結晶力の違いという問題もある。それは別に書く機会があると思うが。

 最後に、訳詞の話ではなく、日本語で書かれた作品でぼくが最高傑作と思うものを挙げておきたい。
 作詞:北原白秋、作曲:山田耕作の、「からたちの花」。
 この、ため息の出るような、うっとりと夢見るような、涙が出るような、やさしく美しい曲、これを超える作品はいまだ無い。

からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ

からたちのとげはいたいよ
青い青い針のとげだよ

からたちは畑(はた)の垣根よ
いつもいつもとおる道だよ

からたちも秋はみのるよ
まろいまろい金のたまだよ

からたちのそばで泣いたよ
みんなみんなやさしかつたよ

からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ
コメント
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