すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

Vocation

2022-11-08 14:23:46 | いのち

 三ッ池公園の池のほとりのベンチで友人と話し込んだ。イチョウとカエデがそれぞれあざやかな黄と赤の影を水に映す、静かで美しい一日だった。彼女は今年、瀕死の大病から奇跡的な快復を果たしたのだった。
 「生きながらえさせてもらった命だから、もう少し元気になったら、社会に少しでも恩返しができるような活動がしたい」と言っていた。
 帰宅してから彼女から届いたメール(の一部)と、ぼくの返信(の一部)。
 
「私は、これからの人生に役目があるのなら、それとは自然に巡り合うのだと思いました。
 やりたいことがあれば、まず元気でいること、身近なことを大切にすること。」

 「vocationというフランス語が好きです。英語でも同じvocationまたはcalling。
これからの人生に自分の役目が見つかるとしたら、それは天が(ぼくはキリスト教ではないから「神」とは言わず、「天」なのですが、たぶん同じものだと思います)自分に役目を与えてくれた、そのことをするように呼んでいる、のだと思います。
 呼ばれたときにその呼び声に応じられるように、心と体を整えておかなければならない。
 ・・・いま気がついたのですが、vocalも同じ語源ですね。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君と歩いた

2022-07-13 13:19:53 | いのち

川岸の小道を
二人黙って歩いた

川はゆるやかに曲がりながら
両側の山並みの間を
広い谷になって下る

幾つもの橋を越え
何時間も歩いた

何か話すと
君がいなくなってしまうような
気がして

わずかな田んぼに
穂になる前の
明るい稲が育ち

口に出しにくい
言葉もあった

クルミの並木
繁り放題のクズの土手
萎れたマツヨイグサ

まるで影のような君
本当に隣にいるのか

時々 前方に遠く高く
まだ雪のわずかに残る山

何時の間にか日が傾いて
夕風が起こり
君が立ち止まる気配がした

急いで振り向くと
君はもういなかった

ひとつだけ 勇気を出して
訊けばよかった
ぼくを許してくれるか と

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒトの形(3)

2022-06-03 17:53:30 | いのち

野生動物の多くは
いや 人間に飼われる動物だって時折は
死期を覚ると何処かへ
姿を隠すという

“生きている”自分がじつは仮の姿をしている
のだってことを
知られたくないためだ

そもそもオレたちはなぜ
ヒトの形をしているのだろうか?

ひとはなぜ生まれてくるのか?
という問いには
今のところぼくは答えられないが
(この形をしている間に
 答えられる日は来るか?)

ひとはなぜ死ぬのだろう?
それに答えるのは簡単だ
この形を採り続けない方が
楽だからだ

社会的動物である人間は
原則として
姿を消す自由を与えられていない

でも 本当の姿って なんだろう?
残念ながら
それを知ることはできない

オレたちは一切の記憶をなくして
この世界に生まれるのだから

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死について

2021-03-09 10:55:15 | いのち

 数日間ブログを書かなかった。以下のことを書くのをためらっていたからだ。だが、そのことが引っ掛かったままなのは気持ちがすっきりしないから、それに、そういうことを書かないブログはぼくにとって価値が薄いから、書いてしまうことにしよう。

 ここのところずっと、死のことを考えている。とは言っても、「人間にとって死とは何か?」とかについて深く哲学的に考察している、というようなことではない(ぼくにそんな能力は無い)。ただ単に、死ぬということが頭から離れない、意識のどこかに、家事とかをしていても、ごちゃごちゃ他のことを考えていても、意識のどこかにほとんどいつもそのことが引っ掛かっている、ということだ。
 死ぬのが恐ろしい、という話では全くない。むしろ、その方が好ましく思えるのだ。
 死んだ後の別の世界、別の生のほうが良く思える、ということでも全くない。ぼくは、あの世とか転生とか魂の存在とか神の存在とかを信じてはいない。全否定するものではないが、仮説は全否定することも全肯定することもできないからに過ぎない。それらは仮説であって、信じる気にはなれない。
 だからこの今の生はぼくにとって一回限りの、終われば無でしかないものだと承知している。だから、死の方が好ましく思える、というのはすなわち、今の生が終わって無になる方が、ぼくという存在が消滅する方が好ましく思える、ということだ。
 「それならなぜ、おまえはまだ生きているのか?」と問われるかもしれない。現にお前は、突然死の可能性を低くするための手術を受けようとしているところではないか?
 それは必ずしも、生きることへの執着が強い、ということではない。「死の方が好ましく思える」というのは、決定的にそっちを選択する(ことにした)、ということではない。逡巡の中にいる、ということだ。
 (ついでに書くが、ぼくは「生き続けてゆくことが絶対的に善である」ということを前提とした話にはついて行けない。だから、そういう立場からの批判には聞く耳を持たない。)
 それでは何がぼくを逡巡させているか、仏教的に言えばぼくの「執着」のもとは何か、といえば、読書と山登りだろう。
 ぼくはもっと本を読みたい。かつて読んだ本を読み直したいし、まだ読んでない本も読みたい。読んで知識を得たい、とか、心を豊かにしたい、とかではなく、読むこと自体が楽しいのだ。
 ぼくは山に行きたい。去年初め頃からここまで、コロナ禍であまり行けなかったから、おまけに今ちょっと膝を痛めているから、その気持ちは膨らむ一方だ。この世界の中で、北と南と中央のアルプス、朝日と飯豊の連峰、ほど美しい場所は他に何処にもない、と思う。生きている間にそこにできるだけたくさん行きたい。
 読書と山登り、そのほかに執着はない。だが、読書と山登りとのために、例えばもう10年生き続ける、このような現代社会の中で、このように生き続けてゆく、ことに本当に価値があるかどうか?
 わからないのはそのことだ。

(付記:若い頃食わず嫌いしていたモンテーニュの「エセー(随想録)」を読み始めた。この歳になってから読むと、たいへん面白い。ただ、岩波文庫で約400ページが6冊もあるので、ほかに読みたいものも多いので、たぶん終わりまではいかないだろう。
 もし、「死ぬのが恐ろしい」という人がいたら、第一巻の第20章を読むといい。恐ろしいと考えるたびに繰り返し読むと良い。何度か丁寧に読めば、恐ろしくなくなる。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二度寝しながら…

2019-05-16 13:58:45 | いのち
 山に行くためにうんと早起きするつもりで、うんと早く寝たのだが、1時過ぎに目が覚めてしまって、それからうまく寝られなかった。
 で、結局、(こんなにいい天気なのに、しかも来週は雨が多いらしいのに)今日は山はあきらめて、朝ごはんの後、二度寝をした。これはこれで、大変いい気持だ。
 窓を少し開けて寝ていると、さわやかな風が少しだけ入ってくる。「あーあ、怠惰は良いなあ」と思いながら枕に頭をこすりつけ、寝返りを打ってダウンを襟もとに寄せる。
 ぼくの理想の死に方は、木陰で爽やかな5月の微風に吹かれながら午睡をし、そのまま目覚めない…というものなのだが…アマすぎるだろうか。
 死ぬこと自体は嫌ではないが、きっと、家族や看護師さんたちに散々お世話になって、そのうえで病院で、いろいろ器具をつけられて、鎮痛剤で朦朧としながら、になるのだろうな。
 それならむしろ、山で遭難して…いや、これはたくさんの人に迷惑をかけるから避けたい。
 とりあえず、シーツの上でのんびりと欠伸をする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仮説について

2018-03-24 21:16:41 | いのち
 「死んだ人と話す」、と書いた。でも、どこかこの世界とは別に死んだ人たちが住む世界があって、そこにいるその人と話をするわけではない。
 「僕は霊魂に呼び掛けているのではない」と書いた。霊魂というものは、あるのかないのかは確かめ難い。少なくとも、人類の現在の発展段階では、確かめられない。
 どのようなことでもすべて、実験・観察によって確かめられるまでは、仮説として扱われるべきだ。
 ぼくは、「霊魂はない」とは言っていない。あるかもしれないし、ないかもしれない。「あるとすれば…」という話はできる。でも、確かめようがないことを、あるという前提のもとに議論することはできない。
 科学者はすでに、「実験・観察によって確かめられるまでは、仮説として扱われる」ということを共通認識としている。相対性理論でさえ、その理論の帰結する、重力によって光の進路は曲げられる、とか、ブラックホールが存在する、とかの予言が実際に確かめられるまでは、仮説であった。だから相対性理論はノーベル賞を取っていない。
 それどころか科学者はすでに、不確定性原理によって、科学の力では確かめることができない事柄のあることを認めている。
 経済学者や社会学者は、自分の理論が正しいと信じているだろうが、真理であるとは主張しない。実際に現実社会に適用してみて理論どおりに経済や社会が動くかどうかを確かめる。それに、たとえ現象が理論どおりに進んでも、世の中が変われば、時がたてば別の理論が必要になるかもしれない、と知っている。
 ただ宗教のみが、実験・観察で立証されるのを待つことなく、自分の考えが心理であると主張する。傲慢である。(以前に、トランスパーソナル心理学というものの入門書を読んだことがある。「人の魂は死後、四十九日経つと、生まれ変わる」と書いてあった。「宗教家と一部の心理学者のみが」と言い直しても良いかもしれない。)
 これも以前に、二人一組で宗教の勧誘に個別訪問している人と話してみたことがある。彼らは神様がいるということ、霊魂があるということを絶対的真理だと思っているから、そこを前提にしか話ができない。「確かめようのないことは、仮説である」という前提を、絶対に受け入れようとはしない。
 「あなたの言うことは正しいかもしれないし、そうでないかもしれない。確かめようがない」ということを了解し合えたら、もう少し意見交換をしても良いのに。
 科学技術は進んでも人間の叡智は本当にゆっくりとしか進化しない。確かめる方法はまだ見つからない。宗教の側からは、見つけようとさえしていない。
 宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の初期形の中で、「もしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とをわけてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も科学と同じやうになる」と書いた。
 その通りだと思いたいが、どうも人類は霊魂や神が存在するかどうか知る方法を見つける前に、滅んでしまいそうな気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お彼岸に

2018-03-21 20:00:45 | いのち
 今は亡き、親しかった人の墓に向かって手を合わせる。「待っていてね。もう間もなく僕も行くからね」と心の中で呼びかける。あるいは、仏壇の遺影に向かって手を合わせる。今日はお彼岸だから、母におはぎとイチゴを上げる。「お母さん、見守っていてね」と呼びかける…
 ぼくは霊魂の存在に懐疑的であるのに、呼びかけるのを不自然に感じないどころか、相手が聞いていてくれるような気さえするのは、なぜだろう。
 ぼくは母の霊魂に呼びかけているのではないからだ。ぼくの心の中の母の思い出に呼びかけているのだからだ。むこう側の世界というものがあって、今はそこにいる、親しかった人の霊魂に「僕も間もなく行くからね」と言っているのではない。ぼくの心の中のその人に向かって言うのだ。
 心の中に今でも相手がいるのは良いことだ。その相手と今でも話ができるように思うのは良いことだ。残念ながら、ぼくは母の遺影の隣にある父の遺影に向かって呼びかけている気が少しもしない。
 ところで、手を合わせて話しかけるというのは、相手との心のレベルでのコミュニケーションというだけではなく、自分もやがて死ぬ、その準備でもある。
 死者に手を合わせる、死者と話す、ことによって心が休まる、ぼくたちはそれを繰り返すことを通して、じつは自分自身の死をも少しずつ受け入れることができるようになる。
 子供の頃、そのことを考えると大声で泣き叫ぶほど恐ろしかった、青年時代、夜中に布団から跳ね起きて、いてもたってもいられなくなるほど恐ろしかった死が、今では別に怖くもない、受け入れることができるような気がするのは、そういうコミュニケーションの繰り返しを通じて、死というものに親和、でないまでも、慣れていくからだ。
 そしてそれは、自分が死ぬまでのこれからの人生を心安らかに過ごすための大事な条件でもある。歳をとってきて、いろいろ不調も出てきて、いずれ死ぬということが現実感を増してくる、その時期に死ぬのが怖くて怖くて仕方がなかったら、落ち着いて日々を生きてなんかいられないからね。その時期までに死というものになじんでおくことは絶対に必要だ。
 世界のどんな民族、どんな時代でも、お墓や遺影に手を合わせる、死んだ人を悼む、あるいはその人と話をする、というのは、人類に共通の自然な気持ちであるとともに、人類の叡智でもあるのだ。
 「もう間もなく」というのは、「人間の生きている時間は短い、そのぼくの短い時間の残りを終わりまで生きて」という意味でもある。たとえ死んでから会えなくても、生きている間はその人と話ができる。そのことを心の慰めとも喜びともすることができる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする