すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

二月

2021-02-26 13:57:34 | 詩集「黎明」

訪れるもののいない雪原に独り
樹は帆を広げて朝の太陽を孕んでいる
光の粒子は空を渡り 音もなく枝々に満ち
なおも零れ落ちてさざ波を描く
白い広がりに足跡をつけようとのぞむ冒険者がいても
向こう岸に着かないうちに呑みこまれて沈んでしまうだろう
彼は知らないのだ 自然そのものが海なのだということを
足跡はやがて消え去って 染みひとつ残らない
           (連作「はるにれ」のうち 二月)

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巣ごもり

2021-02-25 10:37:44 | 老いを生きる

宴(うたげ)は終わった
仲間たちは三々五々連れ立って
それぞれの家路についた
たぶん 火照った体と
楽しさと寂しさを味わいながら

テーブルに残った沢山の木のコップや皿
それを片付けるのはぼくの仕事だ
生ごみはコンポストに入れて
土や落ち葉と混ぜ
良い堆肥になったら
畑に返そう

コップと皿はバケツに入れて
手押し車で小川に持って行って洗おう
テーブルクロスも洗って
木の間に干そう
冷え性にはなかなか辛いのだが
それはみんな明日でいい

ストーブに薪を足し
腰に毛布を巻き付け
みんなの書いてくれた
ゲストブックを読もう
要さんは相変わらずイラストが上手いな
あきちゃんは字がしっかりしてきたな

一人の夜は冷える
樹々が芽吹き始める頃が
一年でいちばん寒いのだ

外では風が回っている
雪になるかもしれないな
まあいい
みんなと違ってぼくには
春の作業までには
まだだいぶ時間がある
それまではゆっくり本が読める
                      
本を読むぼくの窓の灯は
森の向こうからも見えるだろうか
外の闇のどれくらい遠くまで
届くのだろうか
ここに人がいると
たまには誰かが気付いたら良いな

ここはぼくの仮の住処だ
あと何年か過ごし
あと何回か仲間たちとの
宴を楽しんだら
旅に立とう
ここはじつに気持ちの良いところだが
人は永遠には住み続けられない

 …これはむろん、実体験ではなく、願望です。でもここにはいくらかは、保土ヶ谷の林の中での生活と、そこで何度も仲間たちと過ごした楽しい集まりの思い出が反映しています。あのころ訪ねて来てくれた友人たちに、あらためて、ありがとう。

 

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銀河鉄道―「沈黙の列車」続き

2021-02-24 14:16:44 | 自然・季節

 昨日の記事にUさんからコメントをいただきました。考える手掛かりになるコメントです。ありがとうございます。少し考えてみたいと思います。

 「銀河鉄道の夜。ジョバンニとカンパネルラ。賢治もそういう、宇宙に飲みこまれるような不安をいつも抱いていたかもしれません。」

 ここでは賢治には触れず(それはテーマが大きすぎるから)、鉄道についてだけ考えることにする。
 銀河鉄道は死の鉄道だ。といってキツければ、死者を乗せた鉄道だ。カンパネルラも、難船した二人の子供と青年も、サウザンクロス駅で降りた多数の乗客も死者だ。降りずにさらに行く人たちも死者だ(死者っぽくない鳥捕りも灯台守も死者だ)。彼らは、それぞれの信仰によって定められた、死後の場所に向かう。だから銀河鉄道は片道鉄道だ。汽車は向こうからこっちには決して来ない。
 カンパネルラは、「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか。」以下の言葉から推測するに、自分がすでに死んでいることを知っている。自分がどこに行くのかも知っている
 ただ一人ジョバンニだけが、生きたまま汽車に乗っている。だから彼の切符は、何処まででも行ける、何処でも勝手に歩ける通行券だ。そして彼は、それが死者の乗る汽車であることを無論知らない。どこに向かっているかも知らない。でも行き先の分からない汽車にいつの間にか乗っていることに不安を感じてはいない。彼はただ、カンパネルラと旅をすることがうれしいのだ。彼はその汽車の旅で出会うすべての人に、すべての出来事に心を開いて、新鮮な驚きと関心を持ち続ける。
 ジョバンニが初めて恐れを感じるのは、“石炭袋”を見た時だ。それは死者が赴くべき天上に開いた虚無だ。だが彼はすぐに言う「ぼくもうあんな大きな暗(やみ)の中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」と。その直後に彼は、カンパネルラがいなくなってしまったことを知って激しい衝撃を受ける。
 彼は友達と一緒だったら、死者の鉄道だって何だってどこまでも行けただろう。だが、友を失って現実世界に帰ってくる。誓いを地上で果たすために。

 さて、ここからはぼくの問題だ。
 ぼくはこの手の夢を頻繁に見る。それはなぜか?
 「沈黙の列車」は死の列車であるかどうかは、何も手掛かりがないから分からない。乗っているぼくは、いつの間にか乗っていることに、何処に行くのかわからないことに、たった一人であることに、暗闇が迫ってくることに、ひどく怯えている。そして戻りたがっている。だがどこに戻ったらよいのかわからない。
 ジョバンニとぼくとの違いは明確だ。そして上の疑問の答えも明確だ。
 ぼくは、他者と共感を持つように努めたらよい。どこへ行くのかを過度に恐れず、新鮮な驚きと関心を現実生活の中で持つべきだ。そうすれば夢の中の列車に乗客や乗務員や駅員が現れるようになるはずだ。
 そして、戻ろうとばかり焦らないほうが良い。小さな自分にばかり張り付いている意識を離れて、「みんなの本当の幸いを探しに行く」と思えるようになれば良いのだ。そうすれば夢の汽車の旅が不安ではなくなるはずだ。

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沈黙の列車

2021-02-23 10:07:28 | 夢の記

ぼくの乗った列車は 夜
知らない駅の続く
どこだか見当もつかない線を
走り続ける
乗り換え駅に着けば
乗り換え駅なんてあるのか
ドアの上にかかる路線図には
意味不明の文字が並んでいる
それにこの上を走っているのかどうかも分からない
いっそ次の駅で降りて
戻ったほうが良いのか
でもどこに戻るのか
次の駅で降りれば
何処にいるのかわかるのか
降りてもまた列車が来るのか
いま気がついた
もうしばらく駅に着いていない
もうこの先に駅はないのかも知れない
このままいつまでも走り続けるのか
窓の外の灯りは
何も教えてくれない
見覚えがあるような気がしても
すぐに間違いだと思いなおす
見覚えがあると思いたいだけだ
誰かに訊いてみたら
ぼくの他に乗客はいない
運転手も車掌もいない
まばらな灯もいつか消えて
両側に闇が迫ってきた
山中に向かっているらしい
山に向かうことが
こんなに不安なものだなんて
知らなかった
非常停止ボタンを押そうか
でもなぜだか恐ろしくて
指がふるえて押せない
この列車はぼく一人を閉じ込めて
どこまで走り続けるのか
ぼくはどこから来たのか
どこに行くつもりだったのか
ぼくは誰だったのか
思い出せないことばかりだ

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頭の血の巡り

2021-02-21 13:15:26 | 近況報告

 脳の血管の状態の検査に、一泊で行ってきた。
 長年の不摂生で頸動脈にこびりついたプラーク(血管壁内のコレステロールの塊)の除去手術を受けなければならないのだが、これを除去すると血管の断面積が急に3倍になる(じつは正常に戻るだけなのだが)ので、血流が急に増えることになる。脳内の血管が脆くなっていると破れて脳内がじゃぶじゃぶになるので、そういう危険性がないかどうか調べる検査。
 血管を拡張させる放射性物質を静脈注射して写真を撮るのだが、それ自体危険が全くないわけではないので、検査のあと一泊して経過観察、というわけ。
 結果としては問題なし。血管の弾力は十分。手術 OK、でした。
 先日、心臓のCT検査を受けたときも、「血流の状態・冠動脈の状態ともに全く問題なく、頸動脈に問題のある人で心臓がこんなにきれいな人はむしろ珍しい」と言われたから、今回も同じようなことだろう。
 ならばどうして頸動脈だけ汚れが溜まったのだろうな? ぼくは心がきれいでも頭のなかがきれいでもないのにな。
 手術を受けたら血の巡りが良くなってもう少し頭が良くなるといいな。なんせぼくはものすごく血の巡りが遅いので。
 でも、元に戻るだけだから、物忘れが減るぐらいかもしれないな。

 病棟は清潔で静かで看護師さんも懇切丁寧で居心地は良かった。3:30頃検査が終了した後の体調も悪くなく、のんびり時間を過ごした。
 昨年暮れに読んだ斎藤幸平の「人新世の『資本論』」を読み直した。易しく書いてある本だが、ぼくは繰り返し読まないと頭に入らないので。
 これは今、ぼくに限らず誰もが繰り返し読むべき本だと思う(新書大賞を先日受賞した)。

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「雪の夜、森のそばに足を止めて」

2021-02-18 22:18:59 | 

 最近、20世紀前半のアメリカの詩人ロバート・フロスト(1874-1963)が気に入っている。名前だけは前から知っていたが、日本ではなかなか手に入りやすい本がなかった。ところが先日、新宿紀伊国屋で岩波文庫の棚を見ていたら3年前に対訳が出ているのに気が付いた。この頃ぼくも本をアマゾンで買うことが多いが、やはり本屋さんは覗いたほうが良いな、と改めて思った。
 フロストは美智子上皇后が若いことから愛されているのだそうだし、ケネディ大統領やオバマ大統領も感銘を受けているのだそうだが、ぼくは今回初めて読んだ。気に入っている、と言ってもまだこの文庫本を一冊読んだだけなので、フロストについて何か書けるわけではない。   
 ここではその文庫から一編だけ書き写させてもらうことにしよう(川本皓嗣訳)。

この森の持ち主が誰なのか、おおかた見当はついている。
もっとも彼の家は村のなかだから、
わたしがこんなところに足を止めて、彼の森が
雪で一杯になるのを眺めているとは気がつくまい

小柄なわたしの馬は、近くに農家ひとつないのに、
森と凍った湖のあいだにこうして立ち止まるのを、
変だと思っているに違いない―
一年じゅうでいちばん暗いこの晩に。

何かの間違いではないか、そう訊ねようとして、
馬は、馬具につけた鈴をひと振りする。
ほかに聞こえるものといえば、ゆるい風と
綿毛のような雪が、吹き抜けていく音ばかり。

森はまことに美しく、暗く深い。
だがわたしにはまだ、果たすべき約束があり、
眠る前に、何マイルもの道のりがある。
眠る前に、何マイルもの道のりがある。

 雪で静まり返った暗い美しい森は、生きて負うさまざまな苦しみを終わらせる死という安らぎだろう。詩人はそこにいったんは心を惹かれるが、思いなおす。自分にはまだ家族や社会に対して果たすべき役割がある。本当に死が訪れるまでに、辿るべき長い道がある。

 Stopping by Woods on a Snowy Evening

Whose woods these are I think I know.
His house is in the village though;
He will not see me stopping here
To watch his woods fill up with snow.

My little horse must think it queer
To stop without a farmhouse near
Between the woods and frozen lake 
The darkest evening of the year.

He gives his harness bells a shake
To ask if there is some mistake.
The only other sound’s the sweep
Of easy wind and downy flake.

The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.

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日向ぼっこ

2021-02-15 10:44:03 | 山歩き

日当たりの悪い部屋に閉じこもっていると
心までが縮みこんでしまう
思い切って出かけてきたら

山はこんなに明るい
冬芽がふくらんでひとつひとつ
間近い春を待っている

大きな平たい岩を見つけた
いそいそと這い登って寝ころがる
あーあ 快楽じゃあ

冷え切ってしまったら人間だって
トカゲと大して変わらない
まず温まらなければ
体も心も動き出せやしない

空が深い
まぶたに光の炸裂だ

ぼくは生きている
生きているってことが
まだこんなに嬉しい

ここは故郷の土地に近い
もう何も残っていないけれど
あとで寄ってみようか

トカゲもこんな時
思い出すのだろうか
尻尾が青かった子供の頃のことを

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早春

2021-02-13 10:08:07 | 夢の記

雪の林を抜けて
ドアを開けると
誰もいない
小さな暖炉に残り火が赤い
かたわらに置かれた画架に
雪の林の中の小さな家の絵
いま通ってきた道の向こうから
子供が写生したものだろうか
家も林も夕日に赤く染まっている

ぼくはドアの横の薄暗がりに立って
暖炉と絵を見ていた

残り火が目の前で絵に燃え移り
家も林も燃やし
それから炎は静かに
重いカーテンに壁に天井に移ってゆく

ぼくは慌てるでもなく声を出すでもなく
ただそれを見ていた

芽吹いたばかりの落葉樹林の中の
小さな家は
夕日を浴びながら
静かに燃え崩れる
林の上はるか遠く
白い峰々が
残照に赤く輝く

ああ夜が来るな と思っているぼくは
何処でそれを見ているのだろうか?

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巻雲

2021-02-11 13:48:33 | 老いを生きる

空を見上げることが多くなった

暗い顔をして
俯いて過ごした若い時代
その若ささえ失っていった
長い時代
空が頭上にあることさえ
気付かなかった

年取ってからは
都会の切り取られた空ではなく
野山に出て広い空を見上げるのが好きだ

今日はなぜか みごとな飛行機雲が
空いっぱいに 次々に 縦横に
描かれてゆく
描いてゆく筆の先端も見える

航跡は次第に広がり
周囲の巻雲と溶け合って
漂っていく

空の高みで
大きな魂に融合する
ひとつひとつの魂
漂い流れてゆく
生命の夢

ぼくもいつか

あそこは寒く
風が強いのだろうが
それは構わない

足元に目を移すと
一輪の水仙の黄色

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冬の陽

2021-02-09 09:11:45 | 自然・季節

川岸の段丘は
小さな棚田の連なり

去年の稲架が
陽炎を立てている

枝を払われた桑の
地面から突き上げた握り拳

同じ方向を向いて浮かぶ
枯れ残った薄の疑問符

倒れかけた番小屋
きらめきながら小石の間を流れる

浅い川水
山かげに残る雪の中に

苔むした数個の石塔
雑木林の上

空に向かって伸びた幼い枝の一つ一つを
くまなく輝かす

朝の

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あさね

2021-02-06 11:01:55 | 自然・季節

 8時間はしっかり寝たはずなのに、なんだか寝足りない。朝ご飯を食べて洗濯機を回しているあいだ二度寝をして、干してから三度寝をしてしまった。単にものぐさ老人なだけだとも思うが、これはひょっとして春が始まったのかもしれない。
 「春眠暁を覚えず」という名詩もあったが、ぼくが今朝思い出したのは懐かしい童謡だ。

  とろろんとろろん 鳥がなく
  ねんねの森から 目がさめた
  さめるにゃさめたが まだねむい…

 4番までの歌詞の何処にも書いてないが、これも、気分はぜったい春の朝だ。
 春の朝はなぜ眠たいのだろう?
 素人考えだが、全身の緊張が安心して緩むからだろう。冬の間、ポケットに手を入れながら外を歩いていて、いつの間にか肩を上げて上半身を固めていることに気が付くことがよくある。筋肉を緊張させて放熱を抑え、寒さに対抗しようとしているのだ。
 体の感覚というのは精妙なもので、今日のような朝、「あ、寒さが緩んだな」と意識のレベルで思うより前に体が感知していて筋肉の緊張を解くのだ。それで気持ちも緩んで、ほっとして、「もっと眠りたいな」、ということになる。
 こういう日には、安心してぐうたらを決め込むのが良い。なんせ、冬の間ずっと縮こまって耐えてきた体なのだから、ご苦労さま、だ。
 ところで、春一番ももう吹いたそうだし、暖かくなるのが早いことそれ自体はありがたいのだが、良いことばかりではないですね。花粉症が始まるし、何よりも、夏の台風や豪雨水害が今年は一体どうなるのだろう?
 環境経済学者のレスター・ブラウンが2003年の著書「プランB」ですでに、気候変動による深刻な問題を予言している。巨大ハリケーンで上海やニューオリンズは壊滅的打撃を受けること、温度上昇で光合成能力が阻害されて穀物の収穫が減ること、氷床や氷河が解ける一方で乾燥化・砂漠化が進み、地下水脈は枯渇すること…などなど。
 彼はそれに対する対策を提案しているのだが、20年ほど経った現時点では、「プランB」でさえ事態に追いつかないのではないかと思えてならない。
 あーあ、ウトウト考えていたら眠気がさめてしまった。おちおち春眠を楽しんでもいられないよな。

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高尾山からの富士

2021-02-03 18:07:09 | 山歩き

頂上に少し雲がかかっています。左は西丹沢の大室山。立派ですね。

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「浅き春に寄せて」

2021-02-02 19:36:11 | 音楽の楽しみー歌

 昨日最初の部分だけを引用した立原道造の詩は、「水色のワルツ」の高木東六が作曲している。優しい、美しい曲で日本歌曲中の名曲だと思う。
 以下にその歌詞の全体を紹介しておく。立原の原詩とは若干の違いがあるが、ここでは歌の方を書く。

今は 二月 たったそれだけ
あたりには もう春がきこえている
だけれども たったそれだけ
昔むかしの 約束はもうのこらない

今は 二月 たった一度だけ
夢の中に ささやいて ひとはいない
だけれども たった一度だけ
その人は 私のために ほほえんだ

そう 花は またひらくであろう
そして鳥は かわらずにないて
人びとは春のなかに 笑みかわすだろう

今は 二月 雪の面につづいた
私の みだれた足跡 それだけ
たったそれだけ 私には 私には

 (立原の原詩と違うところは、さいごの「私には」の繰り返しが原詩にはないこと、原詩では「笑みかわすであろう」となっていること、原詩は旧仮名遣いであること、など。)

 ぼくはこの歌が大好きで、練習して発表会では歌ったことがある。特にこの季節になると歌いたくなる。ただ、なかなか伴奏してもらう機会がないのは残念だ。また、伴奏してもらうにしてもいきなりは歌えない。何回か合わせてみなければならない。それも大変だ。
 仕方がないから鍵盤かマンドリンで旋律だけなぞりながら歌うが、フラットが5つもついているので、ぼくにはけっこう難しい(マンドリンのほうがいくらかやりやすい)。

 静かな前奏に続いて、その出だしの音をなぞって静かに歌が始まり、第1節、2節の間、歌は懐かしい遠い思い出のように、悲しみを漂わせながらもやわらかな明るさで続く。だが1~2、2~3節の間の間奏は、心の深層にあるものが無意識のうちに表に出ようとしているかのように、次第に複雑な和音を増してゆく。
 第3節でメロディーラインは変わるものの相変わらず明るいやさしさのままと思わせておいて、「かわらずに」で初めてフォルテになり、「ないて」の「て」の音でいったん身を屈めるように収まり、その3拍の間に伴奏はクレッシェンドし、「人びとは」から激情がほとばしり出てすぐに元に戻り、歌の感情は落ち着いたものの、次の間奏はまだ激情のほとばしるままに下降し上昇し、それから急に、流れるように美しい三連符に変わる。
 その三連符の伴奏の上を最初の穏やかな歌の旋律が、ただし今度は孤独感を込めて歌われ、最後はあきらめきれないあきらめのうちに消え入るように終わる。
 立原道造の甘やかな青春の抒情から、音楽によって複雑な心の裡を浮かび上がらせた、名曲だと思う。

 鮫島有美子の歌ったCDを持っている。ただし、立原が書いた詩なので、元々は男性の感情だと考えられる。高木東六がそう思って作曲しているかどうかは分からないが。やわらかなハイ・バリトンの歌で聴いてみたいものだ。

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立春大吉

2021-02-01 17:14:43 | 自然・季節

今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
昔むかしの 約束はもうのこらない
    私の詞華集36 立原道造「浅き春に寄せて」より
           
 立 春 大 吉  

 ここ数年、年賀状を書かずにこの時期にご挨拶をさせていただいています。
 今年に限っては「大吉」と言えるのかどうか…でも、希望を込めて、やはり「大吉」と言うことにしましょう(今年の立春は2月3日午後23時59分だそうです)。
 今日一日に、今に、美しいもの、美味しいもの、愛おしいものを見つけていきたいです。
 このごろ長い文を書く気力が衰えて、ブログに行分けの老いのつぶやきを書き散らしています。楽器や歌がやや遠くなって、本を以前よりはたくさん読んでいます。
 山登りに行きにくいご時世で、近所をウロウロ彷徨しています。自然が少ないのが寂しいです。この夏は、去年は行けなかった北・南アルプスに登れるかな?「五輪」とかでなく、競技でないスポーツをもっとたくさんの人が楽しむようになると良いですね。コロナが収まって、機会があれば、ご一緒できたらうれしいです。

皆様方のこの一年のご健康と

ご多幸をお祈りいたします

(年賀状を頂いた方への寒中御見舞いのはがきの文です。)

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