すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

「枯葉」

2021-10-25 10:12:13 | 音楽の楽しみー歌

   枯葉                      
              ジャック・プレヴェール:詩                    
 思い出してほしい
 二人が愛し合っていたあの幸せの日々を。
 あの頃 人生はもっと美しく
 太陽はもっと燃えていた。
 枯葉がシャベルで集められる。
 ねえ ぼくは忘れてはいないよ。
 枯葉がシャベルで集められる。
 思い出と悔恨もまた。
 そして北風がそれを
 忘却の冷たい夜へと運び去る。
 ねえ ぼくは忘れてはいないよ
 君の歌っていたあの歌を。
   ぼくたち二人のことのようなあの歌。
   君はぼくを愛していた。
   ぼくは君を愛していた。
   二人は固く結ばれて生きていた。
   ぼくを愛していた君と
   君を愛していたぼくと。
   でも 人生は愛し合う二人を引き裂く。
   ゆっくりと 音も立てずに。 
   そして海は消してゆく 砂の上の
   別れた恋人たちの足跡を。

 枯葉がシャベルで集められる。
 思い出と悔恨もまた。
 でも ぼくの静かな変わらぬ愛は
 いつも微笑んで 人生に感謝する。
 ぼくはあんなに君を愛した 君はあんなに美しかった。
 どうして君は 忘れて欲しいなんていうの?
 あの頃 人生はもっと美しく
 太陽はもっと輝いていた。
 君はぼくのいちばん優しい恋人だった。
 でも今のぼくには 後悔しか残されていない。
 そして君の歌ったあの歌を
 いつまでもいつまでも ぼくは思い出すだろう。
   ぼくたち二人のことのようなあの歌。
   君はぼくを愛していた。
   ぼくは君を愛していた。
   二人は固く結ばれて生きていた。
   ぼくを愛していた君と
   君を愛していたぼくと。
   でも 人生は愛し合う二人を引き裂く。
   ゆっくりと 音も立てずに。 
   そして海は消してゆく 砂の上の
   別れた恋人たちの足跡を。    (樋口悟 直訳)

 秋になると必ず繰り返し暗誦したくなる詩が、とりあえず二つある。ひとつがこれで、もうひとつはライナー・マリア・リルケの「秋の日」。
 「枯葉」は以前にブログに書いているが、また書いておきたい。ただしぼくのは直訳であって、歌うことはできないし、みんなに歌われている「あれは遠い思い出~」の名訳に比べるといかにも散文的だ。だが、シャンソンを日本語の歌詞にすると、通常、とても情緒的にセンチメンタルになってしまうので、原詩の言っていることを直訳で丸ごと伝えることはそれなりに意味がある、と思う。
 
 日本で普通歌われているのは、一番分と繰り返ししかないし、英語の「枯葉」は繰り返しの部分しかない。
 よく見ると、一番で使われた歌詞の一部が、二番でバラバラに繰り返されている。メロディーもそれにあわせて低く変えられている。

 シドレ シドレ シレドラ  →  #ソラシ #ソラシ #ソシラ#ファ   のように。

 作曲者ジョセフ・コスマの、精妙なテクニック。そして、この繰り返しと微妙なトーンダウンが、ハラハラと散り行く落ち葉の様を見事に表現している。この名曲の、ここを見過ごすのはもったいない。

 

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モーツアルトのレクイエム、他

2021-10-23 14:10:49 | 音楽の楽しみ

 昨夜、オペラシティーに東京交響楽団の演奏会を聴きに行ってきた。ジョナサン・ノット指揮。前半がフランスの現代作曲家デュティユーの交響曲第一番。後半がモーツアルトのレクイエム。
 デュティユーのはいかにも現代フランスが好きそうな華やかな音の爆発で、楽器編成も重厚で、音の饗宴を堪能した。歓喜がきこえた。古典的な交響曲とは全く違うのだが、交響曲の定義って何なんだろう? 一緒に行った、クラッシックに造詣の深いK君は「作曲者が交響曲と言えば交響曲なのさ」と言っていたが。音楽にド素人のぼくはちょっとオリヴィエ・メシアンの「トランガリーラ交響曲」にサウンドが似ているな、と思ったが、K君は「全く違う」そうだ。
 ド素人のぼくはじつはモーツアルトにあまり関心がない。美しいだけの気がする。ベートーヴェンのような苦悩や暗さがないと心惹かれない。モーツアルトの時代は、音楽が貴族社会の楽しみであって、ベートーヴェン以降でないと精神の深みがない。レクイエムは数少ない例外だ(ぼくは、苦悩の無いものには惹かれない)。
 昨夜のレクイエムは、合唱(新国立劇場合唱団)もソリスト4人(特に、ソプラノの三宅理恵)も 共に素晴らしく、音響的には大変聴きごたえのある演奏だったが、モツレクとしてはやや宗教的な天上的な浄福感は弱かったのではないだろうか。最上のモツレクを聴くときの、体が震えてくるような救済感は感じられなかった。が、音楽を聴く喜びとしては申し分なかった。
 メシアンは「トランガリーラ」について自分で書いている:「トランンガリーラ交響曲は愛の歌である。それは歓喜への賛歌であるが、(中略)、哀しみのさなかに、それを仰ぎ見たものだけが心に抱くことができるような歓びである…」。今夜のプログラムの2曲に共通するもの、ジョナサン・ノットが伝えたかったこと、はこれと同じだろう。
 オペラシティーの靴箱型構造は、音響的には素晴らしいのだろうが(例えば、コロナの感染予防のためか合唱団はやや人数が少なく感じたが、響きとしては、耳の遠くなりつつあるぼくにも十分な厚みだった)、サイドの安い席ではステージを見ていると首がひどく疲れる。それにステージの1/3は見えない。これはちょっと残念。
 それにしても、クラシックの演奏会は満足感高いよね。今回は、わけあって半額だったので、この2曲でたった1500円! ブラボー!!
 

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「素朴な琴」

2021-10-22 10:33:49 | 

こんな美しい秋の一日に
野山に出て
自分も自然の一員だったと
思い出す者は幸いだ
思い出したぼくは幸いだ

 …と、高尾から城山に続く尾根道で手帳に書きつけて、数歩あるいて、八木重吉をふと思い出した。
 ぼくのメモには、そういう気持ちになったという以上には、ぜんぜん価値がない(この頃のどちらかといえば鬱屈した日々の中で、そういう気持ちになったというだけで、良いことではあるが)。
 八木重吉はこう書いている:
   
  素朴な琴

この明るさの中へ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしずかに鳴りいだすだろう

 ・・・晴れた秋の一日は、人の心を美しくする。リルケの「秋」(主よ 時が来ました 夏はまことにさかんでした/あなたの影を日時計の上に横たえたまえ・・・)もそうだ。

 

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試し歩き

2021-10-12 21:12:56 | 近況報告

 目眩がやや収まってきて、何とか歩けそうなので、山歩きの友人を誘って栄区の「横浜自然観察の森」に試し歩きに行ってきた(昨日)。
 大船駅で待ち合わせ。緑ヶ丘住宅までバスで行って、いつもはここから瀬上池に下って尾根に登り返すのだが、この登り返しが急登なので今回はパス。馬の背の尾根を直接登って円海山から鎌倉の天園に向かうハイキングコースに出る。ほとんど平らな道。もう落ち葉を踏みながらの陽だまり散歩は気持ちが良い。左側は大岡川の源流になっている深い森で、右側は眼下に迫る住宅街の向こうに箱根の山並み。その向こうにやや霞んで富士山。足もとには白菊が咲き乱れる。縦走路を逸れて階段道を急登して、横浜市の最高峰、大丸山157m。ゆっくり歩いてここまででちょうど一時間。
 眼下に八景島と海を見下ろす、気持ちの良い草地。空は真っ青。日陰にテントシートを敷いてここでお昼。おにぎりと、紅茶にウイスキーを数滴。この頃ぼくはすっかり紅茶党だ。フランス流の濃いコーヒーばかりだったのだが、これも体調の変わり目だろうか。
 歩くのは何とか大丈夫そうだ。まっすぐ前方になら歩ける。用心のためストックを突いているが、上下左右後方を見るときにだけいったん立ち止まって、また正面に向き直ってから足を出せば、千鳥足にはならないようだ。厄介なことだが、しばらくはこんな感じかもしれない。山道が何とか歩けるのはうれしい。
 一時間ほど休んでまた歩く。天園に行く縦走路と別れて右に下れば、自然観察の森。こちらは鼬(いたち)川の源流域で、雑木林の森や原っぱや野鳥の観察舎やホタルの生息する湿地など、自然観察が楽しめるように整備してある。自然観察センターや宿泊施設もあり、以前に男声合唱の合宿に来たことがある(飲み会に終わったが)。広々とのんびりしたまことに良いところだ。こんなところが家の近くにあったら良いのだが、残念ながら高尾山に行くよりもやや遠い。
 草地はセイタカアワダチソウの大群落。沢沿いにはツリフネソウの鮮やかな赤いシャンデリア。ゆっくり下ってバス停まで約1時間。今日の足慣らしはわずか歩行2時間で終了。物足りない気持ちもあるが、試し歩きとしては上々。
 今年は4月の手術のあと徐々に体を作ってきたつもりだったが、せっかくコロナ感染が下火になったと思ったら、また一から作り直しだ。焦っても仕方がないから、ぼちぼちやるさ。
 大船の駅のバスセンターの前の新しいビルでケーキセットで話をした。これも久しぶりのことだ。
 ついでに書くと、ぼくの目眩は検査の結果、重大な問題やこれからずっと、というような問題ではなく、あと一か月ぐらいすれば治るでしょうとのことだ。
 もう山登りには行かれないのだろうか、と心配だったのだが、そうではないそうで、ほっとしている。お医者様も山好きらしく、「いきなり槍ヶ岳とか行かないで、高尾山から始めてくださいね」と楽しそうに言っていた。

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ジョンの夢・ヒトの夢

2021-10-07 21:21:14 | 夢の記

Ⅰ.

たどりつけない夢を繰り返し見るのは
当たり前だ
生命は永遠に
たどりつくことのない旅を続けているのだから

ぼくの見る夢は
ぼくだけの夢じゃない
ぼくのいのちは
地球という星に生まれた生命の
波がしらにきらめく
泡のひと粒だ
ぼくがいなくなっても
生命はさらに何十億年か
遠く旅を続ける

ウニは夢を見るか
カブトムシは夢を見るか
人は彼らの代わりに夢を見るように
進化したのだ
ぼくは時に 個人の夢ではなく
人類の夢を
海洋プランクトンやシダやサンショウウオの夢を
地球生命全体の夢を
見ているのだ

ぼくのジョンは
夢を見るか
たぶん見るだろう ぼくらのよりは
いくらかは単純な夢を
生命は進化のどこかで
夢を見ることを始めた

いのちの意味について
考えるために
ぼくたちがどこから来たのか
思い出すために
ぼくたちがどこへ行くのか
予見するために

だがその企ては
実現しないだろう

Ⅱ.

雨に濡れたホーム
見知らぬ名の駅
読めない表示板

暗い山並みの前を流れる
家々の小さな灯りはどれも
生命のたどり着くゴールではない

空を飛ぶ夢が
憧れでも喜びでもあっていいはずなのに
歯の根が合わないほど寒く
孤独で恐ろしいのは
ぼくの無意識の中に組み込まれている
地球生命の意志が
もっと先へ もっと遠くへ
果てしない遠方へ
果てしない高みへ
行こうと望むからだ
ぼくたちはその意志に強いられ
急き立てられている

光のあふれる場所を目指して
温かな休息の地を求めて 得られず

それでも生命はさらに何十億年か後には
母なる地球とともに消滅する
(その前にとっくに
ぼくたちはいなくなっている)

たどりつく先はない
その予感が 不安が
たどりつけない夢や 飛ぶ夢を
見させるのだ

Ⅲ.

目的地に着く前に
旅は断ち切られるだろう
それだからすべては空虚で無意味
・・・という訳ではない

生きている間の日々は
すべて新たな体験だ
引っ越しや転職や入学や卒業や
出会いや別れや
親しい人との死別でさえ 
近ごろ得た病でさえ
すべては新たな寄港地だ

もうぼくの分の旅は残り少ないが
たどりつけないからと言って
焦る必要はない
若い頃 目的地のない
あてどない放浪が
あんなに好きだったではないか

立ち止まることを
ゆっくり進むことを選ぼう

コマクサは生きる意味を求めるか
ライチョウは生きる意味を求めるか
ぼくたちが意味を求めながら生きてゆくのは
当然だ
彼らの代わりに意味を求めるように
人間が進化したからだ

だが求めすぎてはいけない
そのことにこだわり続ければ
ぼくたちは地球生命を運ぶ
ただの器になってしまう

Ⅳ.

ぼくには夢を書き替えることができる
そう望みさえすれば
不安が教えるのとは別の夢を
見ることができる
ヒトという種は
そこまでは進化したのだ

玄関の陽だまりでジョンが眠っている
ときどきびくりと動くのは
狼だった頃の雪原の狩りの夢を
見ているのだろうか

あるいは 人類が地球から消えてしまった後
ぼくと暮らしていた懐かしい家に帰ろうと
荒野を必死に走っている夢を
見ているのじゃないだろうか

夢の中でまで走らなくていい
ぼくはここにいる
お前の身体の熱さを
手のひらに感じている

安心して眠るがいい
お前の夢の続きは
ぼくが見てあげよう
お前のたどり着けない夢は
ぼくが書き換えてあげよう
ぼくはお前と一緒に
新しい今日を生きる

 

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