すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

飛行機雲

2019-12-30 12:49:49 | つぶやき
ふと見上げた青空に
一直線に伸びてゆく
白い花綵

サン=テグジュペリの「戦う操縦士」の言葉を借りれば
「花嫁のベールのような
真珠のきらめきを持つ純白の帯」

あの美しい場所は空気がひどく薄く
水蒸気がすぐに氷の結晶になってしまうほど寒いのだそうな

でもそのさらにはるか向こう
青い光さえ消えてしまう
沈黙の星と星の間

そこにいらっしゃる神様
一人ぼっちで寒くありませんか?

できればもういちどこちらに降りてきて
貧困や戦争や差別をなくすために
ぼくたちに力を貸してくださいませんか?

じっとしているより動いている方が暖かいですし
あなたがお創りになったこの地球は
最近はぼくたち人間の所業で
どんどん暖かくなっているのです
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行き止まりを

2019-12-29 11:03:31 | つぶやき
もうこれで行き止まりだと思った山道の突き当り
辿り着いてふと傍らを見ると
まだ踏み跡らしきものが
細く上に向かっている
地図には載っていないが
まだもう少し行けるかもしれない
ほんのちょろちょろではあるが
岩を伝って水が滲みだしている
その水を掌に溜めて
口に含んでみる
ほのかに甘い
麻痺しかかった神経が再び目覚め
滞った血がまためぐりだすようだ
さっきから日暮れを恐れていたのだが
気を取り直してみれば本当は
日暮れにはまだ少しだけ間がある
もう少しだけ
この道を辿ってみよう
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生籐山

2019-12-21 10:26:11 | 山歩き
 藤野駅に下りたらあたりはすっかりガスっていて、寒々しく薄暗かった。このまま引き返そうかと一瞬思った。「この時期は気持ちの良い山登りをするのに快晴が絶対条件なのにねえ」「東京は晴れていたのにねえ」と、バスに乗り合わせた登山客と話した。だが、和田に着いたらあたりはまだガスの中だが、そのガスを通して山の上の方は朝日に輝いているらしいのが見える。ほっと安心した。
 今日(20日)は、8日に歩いたコースの続きだ。和田から、まず、前回下山した「山の神」をめざす。廃屋になりかかった「一軒家」までは、林道とはいいがたいが、山道というには広い、幅1.5mほどの緩やかな登り。そこから先が山道だ。今日このコースを登っているのはぼく一人らしい。蜘蛛の糸があるし、歩くのが遅いぼくを追い抜いていく人もいないから。
 山の神からは、なだらかな、展望の良い、まことに快適な尾根道。左手、つまり真南に、丹沢山塊が見える。大山から丹沢三峯、蛭ヶ岳、檜洞丸、大室山、畦が丸…全部見える。陽も出て、快晴だ。絶好の登山日和になった。中央線方面を見下ろすと雲で埋まっている。下は相変わらずガスの中なのだろう。
 やがて、丹沢の右側に真っ白な富士山が現れた。そのさらに右に連なるのは、滝子山から大菩薩の峰々だろう。落ち葉を踏みながら暖かい雑木林を一人辿るのは、静けさを好む心に、最高の御馳走のひとつだ。
 連行峰をなんなく超え、次の茅丸1019mは短いが急な階段上り。今日初めて、息の上がるところだ。ところが次の生籐山は、これも短いが、今までとは様子の一変した岩尾根の急登。息切れしながら登った山頂はベンチこそあるものの、狭く、防火用水の赤錆びたドラム缶が並んでいるだけの、殺風景な場所。何でここがこのあたりを代表する山名なのか理解に苦しむ。標高だって、茅丸の方が高いのに。
 すぐ先の三国山のテーブルで、富士山を眺めながらお昼を食べた。若いころ奥多摩の三頭山から生籐山までは歩いているから、これでやっと高尾山から奥多摩湖までがつながったことになる。ぼくのような陣馬山から生籐山までが登り残しになる人は多いのらしい。そういえば、バスの中の二人も、下山中の二人もそう言っていた。
 皆さん、人生の中で登り残しはありませんか?
 浅間峠まで「笹尾根」の道を続ける。ここも気持ちの良い道だが、午前よりもアップダウンはやや多い。それに日陰がちになるので、陽だまり山行を楽しみたい人は生籐山から南に下った方が良いかもしれない。
 午後もほとんど人に会わずに、上川乗のバス停に下山した。今日は体調がよかったし、日の長い時期なら笛吹(うずしき)峠あたりまで行けたかもしれない。バスが1時間待ちだったし、まだ力が余っていたので、柏木野まで歩いた。
 来年は、先を続けて再び奥多摩湖まで歩くことにしよう。若い頃は一日で歩けたコースだが、今はゆっくり、陣馬から何回に分けて歩くことになるだろうか。

参考所要時間:和田バス停スタート 8:30、一軒家 9:14、山の神 10:02、連行峰 10:46、茅丸 11:07、生籐山 11:24、三国山 11:32 昼食、再スタート 12:00、浅間峠 13:14、上川乗 14:03、柏木野 15:02

(追記)一軒家にも、山道の脇に墓地がある。前に書いた「入山至誠居士」(12/10)の墓地よりもさらに遠く、バス停から40分かかる。この家はどうしてここに建てたのだろう。大きいとは言えないが、土蔵まである家だ。話題のTV番組「ぽつんと一軒家」みたいだ。日当たりの良い、しかし急勾配の谷の上にあって、家の下には茶畑がある。茶の木はちゃんとかまぼこ型に刈り揃えてあるが、端の方ではその上に落ち葉が積もっているのを見ると、手入れに人が上がってくることは少ないのだろう。
 一番手前の新しい墓石は。明治42年生まれの「積堂自善居士」という戒名の人で、平成9年に建てられている。建てた人は、家の荒れ方から考えて、都会に出ていってしまったのだろう。墓地のすぐそば、山道を挟んで屋根の大きさが方1mほどの小さなお堂もある。覗いてみると、「御神酒」というラベルの小さな酒瓶が二つある。ひとつはまだ開封されていないものらしい。出ていってしまった人が、盆などに来てお供えするのだろう。人というものの営みを思う。
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観察とメモ

2019-12-11 09:55:49 | 自分を考える
 昨日の記事には、内海さんにはお褒めいただいたが、大きな弱点がある。写真とかに頼らずに文だけで済ませる記事を書こうと思ったら、まず観察し、メモし、記憶しなければならない。そのことを常に意識していなければいけない。
 たとえば、その斜面にお墓は何か所あって、最後のお墓の墓石はいくつあって、どんな様子か。中央の墓の戒名は、記憶に残ったところだけでなく、~院の部分から、併記されていた奥さんの戒名も含めて、メモしなければならないし、いつ亡くなったか、生前の名前は何と言ったか、というような、石の裏側に書かれていることまでメモしなければならない。子供の墓はないか。あったら、これも何歳でいつ亡くなったか、メモするべきだろう。
 もちろん、そういうことをすべて記事にする必要はないし、それは亡くなった人のプライヴァシーだから、記事にするべきではない。記事に書けることはせいぜい昨日書いたことぐらいだろう。でも、昨日の記事を書く前提として、メモはしっかり取らなければならない。あとで、書くときにその中から取捨すればよいのだ。
 これは、すべてについて言えることだ。あたりの風景も、漫然とでなく、どこに何があってどんな様子かということを、カメラのようにとらえ、心に焼き付けておくかメモをしておかなければならない。山を歩きながら言葉を交わした人が、どんな様子の人で何人連れで、とか、何でもメモすること。
(多くの人は、対象をスマホに撮って安心してしまう。そしてそれを送信して、そのことは忘れてしまい、また別の対象をスマホに撮る。ぼくはそうするまい。)
 このことに、ぼくは昨日書き始めてすぐ気が付いた。ところが今までにも、何度か同じようなことに気が付いている。だから、これは習慣の問題だ。
 ぼくがなんでもしっかりと観察し、メモする習慣が実際に身に着くまでに、長い時間がかかるだろう。だから、10年後か20年後には、いまよりは少しマシな記事が書けるようになるだろう。それまで生きて、書き続けていれば、の話だが。どうも、そうはならなそうだ、そこまで生きていない、という意味ではなく、記事を書くのはやめてしまうかもしれない、という話。でもそれはまた別の話だ。
 (この文は、直接は、内海さんが昨日寄せてくださったコメントへの返信です。)
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「入山至誠」

2019-12-10 10:29:33 | 山歩き
 家族連れハイキングに手頃な陣馬山(遠足で登ったことのある人もいるだろう)の登山コースの中でも一番楽なのは、藤野駅からバスに乗って和田から歩くコースだろう。最初と最後にやや急登があるだけで、あとはほとんど、なだらかな登りだ。和田からは二本のコースがあるが、手前の大きな石の標識から右折すると、農家の庭みたいなところを通って、コンクリート舗装の急な坂道が始まる。ほんの10分程度なのだが、歩き始めで体が慣れていないせいもあって、これがなかなかキツイ。
 展望は良い。緩やかな谷を挟んで向こう側に生籐山から派生する尾根が伸び、茶畑と竹林が見える。このあたりは茶とタケノコの山地なのだ。例年より遅い紅葉もまだ目を楽しませてくれる。体が温まっていないので寒く、手が冷たいが、空は青く、陽光は麗らかで心地良い。
 道の途中にお墓がいくつかある。いつだったか、雪の日にここを通って、「うわ、ここのお墓はお参りも管理も大変だろうな」と思った。開けた急斜面に立っているいくつかの墓地の最後のひとつ、そこから先は舗装が終わって登山道が杉林に入る(つまりこの舗装は、このお墓のためにあるのだろう)ところで、景色を見ながら息を整える。
 四、五歩入ってお墓の前に立ってみる。一番手前の黒御影石にいくつかの戒名と年月が刻まれている。一番新しいのは、平成28年、とある。まだつい最近だ。これは忘れられた墓ではなく、まだこれからも一族の誰かがここに埋葬され、誰かが花を手向けに登ってくるものなのだ。
 いくつかの墓石の並ぶ中で中央のいちばん立派なのには、戒名が「入山至誠居士」と彫ってある(並んで「~大姉」とあったが、忘れた)。
 「戒名なんて坊さんが故人の人となりもわからずに好い加減につけるものなんだな」とおもっていた。
 この戒名もたぶん、ヒラメキでつけられたものだろう。だが、この人はこの家系の中の中心的人物で、地元の寺の坊さんは、故人の人となりをある程度は知っていたに違いない。
 たぶんこの人はこの山里で生まれ、このあたりの山に植林をし、あるいは炭焼きをし、山菜を取り、斜面を開墾して茶や竹を育て、一家の支えになってここで一生を終えた人なのだ。黙々と山仕事に精出すその人が目に浮かぶような気がする。 
 そして彼は、一生を過ごした集落を見下ろす、この見晴らしの良い急斜面の墓に葬られた。
 …「ここに眠っている」とは言わない。人は亡くなったあと眠りにつくとは、ぼくは思っていないからだ。いま生きている一族の人達にとっての彼の思い出が、彼の人となりが、ここに眠っていて、その人たちがここを訪れるときによみがえるのだ。
 彼はひょっとしたら頑固で家父長的で気難しい人だったかもしれない。誰にでも慕われるやさしい好々爺だったかもしれない。そこまで想像する必要はないし、何の根拠もない。だが彼は誠を尽くして山仕事に従事した人だったのだろう。彼を知っていた坊さんが、彼の人となりからかけ離れた戒名をつけるとは思えないからだ。 
 「入山至誠居士」…そのような人生をたいへん好もしいものに思うが、そのような生き方をしなかったぼくは、気を取り直して山道を続けなければならない。

参考所要時間:和田バス停スタート 9:40、尾根道に合流 10:25、陣馬山頂 11:07、 昼食、再スタート 11:40、和田峠 11:55、醍醐峠 12:30、醍醐丸 12:55、山の神 13:37、和田バス停
14:40、藤野駅到着 15:55

追記:陣馬山はかなりの人出だったが、和田峠から先は静かな山道だった。陽当たりの良い中を落ち葉を踏みながら一人で(あるいは友と)静かに歩くのは本当に気持ちの良いものだ。生籐山まで行きたかったが、一年でいちばん日の短い時期なので、無理はせずに下山した。藤野までの歩道がいちばんこたえた。
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浄化

2019-12-07 08:44:39 | 夢の記
 暗い岩のトンネルのような所を歩いている。そう狭くはないし、天井はそう低くはない。だが、どこまで続いているかわからない。ぼくのすぐ前をがっしりした男が一人歩いている。黙々と、ぼくに背を向けたまま歩いていて、いちども振り返らない。それがぼくの案内人なのか、獄卒のようなものなのか、それとも同じ運命の赤の他人なのかはわからない。
 その場所をぼくが「トンネルのような」と感じるのは、「洞穴のような」でないのは、「そのはるか先にきっと出口があって、光あふれる場所が広がっているはずだ」とも感じているからだ。
 そのトンネルは、ぼくに与えられた試練、あるいは罰、のようなものかもしれない。煉獄のような、浄化のための場所かもしれない。だがそうだとすれば、ぼくに罰を与える主体は、ぼくの罪を浄化する主体は、いったい誰か?
 ぼくは神のような存在を信じてはいない。ならばそれは、ぼく自身? あるいは僕の倫理? でも、ぼくの倫理を形成しているのは、社会の倫理のはずだ? ならば、社会?
 …などと訝しく思いながら、暗いトンネルを、先を行く男の後ろを、黙々と歩き続けている。
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ピッケルからの連想

2019-12-06 11:07:56 | 老いを生きる
 一昨日、「あの頃のぼくには、30は越えられるか越えられない大きな坂だった。今はその倍をはるかに超えて生きてしまったが」と書いた。
 そう、図らずも永らえてしまった、という思いは強い。

 ぼくは信仰というものを持たない。神も、来世も、そういうものがあるとは思っていない。だからぼくが死んだら、いま生きているぼくの一切は消えてなくなってしまう。
 そのことをぼくは全く、恐ろしいとも虚しいとも思わない。誰にでも必ずやってくる死というものは、積極的に待ち望みはしないが、受け入れるしかないものだし、ぼくは困難なく受け入れることができる。
 しかし、死に至るまでの苦痛(これは、ひとりひとり違う)は、できるだけ避けたいものだ。痛みに耐えかねて大声で叫びながらの何日か、何か月か。体が利かなくなってしまって、まったく人の世話になりっ放しでの長い期間。あるいは、すっかり認知症が進行してしまって全く自分のことが分からなくなってからの長い期間…これは人によって考え方はいろいろだと思うから、賛同は得られなくても仕方がないが、ぼくは、それは避けたいものだと思う。

 ロジェ・マルタン・デュ・ガールは、死に至るまでの苦痛ということを考え続けた人のようで、「チボー家の人々」にも繰り返し書かれている。二人の主人公、アントワーヌもジャックも、二人の父親のチボー氏も苦しみぬいて死ぬし、そのほかにもアントワーヌが診察する幼児の苦しみぬいて死ぬさまや、たまたま目にする馬の悶死や犬の惨死などが出て来る。
 医師であるアントワーヌは「最後の手段」を持っているが、ぼくを含めて普通一般の人は持っていない。

 そこでぼくは、できるなら、体の動くうち、はっきりした意識を持ちうるうちに、自然の中に自分を返しに行きたい。突然の全身不随、とか、気が付かないうちに進行してしまった意識障害、とかは起こりうるから、実際にそうできるかどうかはわからない。
 だから何時そう決断するかは、微妙な問題だ。早すぎては、一度しかない自分の命を短くすることにつながるのだし、遅すぎては機会を失うことにつながる。
 別に、意図して崖から飛び降りたり、吹雪の中に出ていったりする必要はない。自分の体力や技術を越えるようなチャレンジをすればよいのだ。体力を越えるチャレンジはそれ自体大変な苦痛を伴うものだろうから、技術の限界の方が良い。だから雪の岩場が良い。
 そのためには、先日戻ってきたピッケルは役に立つかもしれない。真冬でも動いていて高山に行けるロープウエイはいくつかある。そこから先は、決死の冒険が待っている…などと、鋭いブレードを撫でながら夢想している。

 梨木香歩の小説「海うそ」(全部好きな梨木さんの作品の中でもこれが一番好きだ)の主人公の許嫁は、冬山で自殺する。結婚を約束した相手が自分に何も告げずに自殺してしまっては、残された人間は受け入れ難い衝撃を受けるだろうが、死が近い段階でのぼくがそうすることは、できれば選択肢として納得してほしいものだ。
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ピッケルが戻ってきた

2019-12-04 22:41:25 | 山歩き
 およそ20年前にフランスに行くときに友人に預かってもらったピッケルが戻ってきた。以前から「返すよ」と言われていたのだが、「いやいや、返してもらうとまた雪山に行きたくなるかもしれないから、返してもらわなくていい」と返事していたのだ。
 もう体力が落ちているから雪山は危険性が高いかもしれないし、もともと冷え性だったのが歳をとってますます手足の末端に血が回らなくなってきているので、雪の中を歩くのはますます辛いかもしれない。
 でもまあ、預けっぱなしというのも無責任なので、引き取ることにして、先日会って酒を飲む序でに持ってきてもらった。
 久しぶりに手にして、その重さにびっくりした。若い頃は、こんなものを苦も無く使っていたのだ! 石突きの部分と、ヘッドをシャフトに埋め込んである部分の金属の表面に少し錆が浮いているが、ブレードもピックもピカピカで、とくにブレードは鋭利な刃物のように鋭い。うっかり触ると怪我をしそうなくらい、十分凶器になるくらいに鋭い。登山の格好もせずに交通機関をこれだけを持ち歩いていて、よく職務質問されないものだ。
 シャフトはストレートで、非常にがっしりした木でつくられている。SapporoKADOTAの刻印と、No.485という通し番号が入っている。ビンテージもの、と言ってもいいくらいの、非常に良いものだ。当時、安月給の一ヶ月分ぐらいはしたのだ。
 ただしぼくは若い頃も、このピッケルを使って穂高とか槍とかの本格的な雪山には登っていない。登ったのは覚えている限り、八ヶ岳の天狗岳とか、飯豊連峰とか、日光白根山とか、甲子温泉からの那須連峰とか島々からの徳本峠越えとかだ。その頃も冷え性の酷かったぼくは、登山靴の中に唐辛子を入れて、懐にベンジンの行火を入れて登ったのだ。
 飯豊連峰ではこのピッケルで命拾いをした。
 あれは1977年の6月初めだった。記録も付けていないのになぜ覚えているかというと、30歳になる直前だったからだ。今はその倍をはるかに超えて生きてしまったが、あの頃のぼくには、30は越えられるか越えられないかわからない大きな坂だったのだ。それで、思い切って大きな坂に登りに行ったのだ。山を始めたのが25 で、ピッケルは買ったばかりだった。というより、そのために買ったのだ。
 6月初めと言えば、本来は残雪の山だ。でもその冬は何十年ぶりとか言う豪雪だったのだそうで、4日間、完全に雪の中だった。川入から入山して縦走して梶川尾根を下山する予定だったのだが、尾根の途中で踏み跡が消えて道が分からなくなり、やむなく稜線に引き返して門内小屋という避難小屋に入ったら、先客がいた。ぼくと同じに道がわからなくて引き返してきたのだ。
 彼と相談して、「石転び沢大雪渓を一緒に下るしかないでしょう」、ということになった。標高差1000mの、その名のとおり落石の多い雪渓だが、道に迷う心配はない。翌朝、二人で、と言ってもザイルなどがあるわけではないからひとりひとりなわけだが、下り始めた。最初のうちは、ものすごい急降下だ。「滑落したらひとたまりもないな」、と緊張した。慎重に、ピッケルを胸の前に構えて、かかとを一歩一歩けり込みながら下る。一番急なところは通過したかな、と思うあたりで、右足を左足に(だったか逆だったか)引っかけた。アッ、と思った瞬間に、転んでいた。ぐるっと天地が一回転して、次の瞬間に気が付いたら、ピックを雪に突き刺して斜面にへばりついていた。教科書に書いてある通りの見事な(?)制動だった。
 その場で二人へたり込んで、大笑いした。緊張が一気に解けて安心した。あとは順調に下って、沢の出会いで別れた。手紙のやり取りを少ししたが、それから会うことはなかった。
 あの時、ぼくはアイゼンを持っていなくて、つぼ足で降った気がする。降り始める前に確か彼が、「大丈夫ですか?」と心配してくれたと思う。でも、残雪とはいえ雪山に行くのにピッケルは持ってアイゼンは持たないで行くわけはないから、ぼくの記憶違いなのだろう。それくらい昔のことなのだ。
 …さて、現在に戻る。本体はしっかりしているがヘッドカバーと石附きのカバーの革がボロボロになっているので、好日山荘に買いに行った。今はピッケルも進化してずっと小振りで軽く、振りやすくなっていて、店員さんがすごく親切にいろいろ試してみてくれたが、ヘッドカバーは合うようなものはなかった。ひとつ買ってきて切って繋ぎ合わせてみることにした。門田という会社は今はないのだそうだ。「昔はピッケルの名品と言えばKADOTAだったけど、今の人は名前さえ知らないでしょう」とのことだった。
 そうだ、この冬は体力をつけなおして、天狗岳にでも行ってみよう。あそこなら、渋の湯から登って黒百合ヒュッテに泊まれば、今の老いぼれのぼくでもなんとか行けるかもしれない。
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