すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

2021-05-15 19:51:59 | 魂について

顔を近づけて話してはいけない
手をつないではいけない
抱き合うなんてとんでもない

それならば 君と二人
この堤防に並んで坐って
黙って風に吹かれながら
海を見よう

あれが大島
あれが房総などと
指呼する必要はない

ぼくたちの目の前にあるのは
無限の中のひとかけら
風が運んでくるのは
永遠の中のひと時なのだ

このひと時は
永遠につながっている
この光景は
無限につながっている

それならば
並んで黙って坐るのが
最高の方法なのだ
ぼくたちがひとつになるために

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「駅の子」ー私が死んだら

2019-06-12 14:33:12 | 魂について
 魂について、未来方向に考えてみるのは、過去方向に比べて遥かに難しい。ぼくの手には負えないのではないかと恐れている。魂の永続性について考えるときに、過去方向では、地球生命の起原からこれまでの生命史を、検証されている事実として、手掛かりにすることができる。未来方向では検証ができない-これがひとつ。
 ぼくは神の存在は仮説であるとしたが、排除はしていない-仮説である以上、立証はできないが、排除もできない。そうすると、死後の魂について、宗教の言っていることも、可能性としては考えなければならない-これがもうひとつ。
 魂というものがあると仮定して、人が死んだ後、その魂は永遠に輪廻を繰り返すか? 途中で別の存在の仕方に変わるか? そもそも輪廻などしないか?
 最初の問いには、たぶん、簡単に答えることができる-過去についてみてきたのと同じ理屈で。人類は、いつかはいなくなる。いなくなった後、あなたの魂は何に転生するか?「二億年後の地球」という本のイラストを見たことがある。そこには、環境の変化や放射能や様々な条件を乗り越えるために“進化”した、化け物のような生物たちが描かれていた。あれに転生するか? では、地球が滅んだあとは?
 魂は永遠には転生を繰り返さないと、断言しても良いものと思う。
 
 魂の在り方については、他に大きく分けて三つの可能性があるだろう。
 その1は、魂が生命に宿るのは一回限りであって、繰り返さない、というもの。
 その2は、魂が未来のある時点で転生をやめて、別の在り方に、別のステージに入る可能性がある、というもの。
 その3は、繰り返しはあるが連続性はない、というもの。
 1は一神教的考え方。
 今の私のもとにある魂は、世界の終わりの時まで私の魂であり、世界の終わる時に裁きを受けて永遠の至福に入るか、永遠の劫罰に入る。
 2は仏教的考え方。
 わたしたちのいるこの世界は迷妄から生まれた苦の世界であって、私たちは苦の世界の中で転生を繰り返しているのだが、悟りによってそこから離脱できる。
 3は、世界各地にあるが、ぼくたち日本人の伝統的感じ方に最も近いと思われる、アニミズム的考え方。
 個々の魂というのはそういう個々の魂の集まった大きな集合体、魂の母体、の一部であって、それが個々の生き物に宿り、その生き物が死んだあとはまたその集合体に還る。 
 
 これらについてもう少し詳しく考えていきたいが、それにはぼくは相当の時間を必要とする。
 先に、3に関連して簡単に触れておきたい。
 このような考え方に立つ文学作品、エッセイ、論考は膨大な数に上るだろうが、そのひとつに、ぼくのお気に入りのものがある。少し横道にそれるが、紹介しておきたい。

 池澤夏樹の、非常にあたたかでやさしい物語「キップをなくして」(角川文庫)だ。
 主人公の少年イタルは、ある日ひとりで電車に乗り、切符を失くして駅から出られなくなり、そのような子供たちと東京駅で暮らすことになる。彼ら(「駅の子」と呼ばれる)には仕事がある。毎日、混みそうな駅に行って、電車通学の途中で迷ってしまった子供、ホームから落ちそうな子供、に手を貸してあげることだ。
 駅の子たちは、仕事がなくなる夏休みを前に、線路に落ちて死んでしまったのにこの世界から離れられなくて彼らの仲間になっている少女ミンちゃんの運命をめぐって、(特別の)駅長さんと会うことになる。彼は、線路に落ちた子供を救おうとして殉職した人だ。
 駅長さんは、死んだ者がどうなるのか、自分の考えを駅の子たちに話す。

 「…別の世界に行く。現世から預かってきたものを返して、他のたくさんの魂と一緒になってしばらく暮らし、互いに混じり合う。やがて自分は自分だという気持ちが薄くなって、ぜんたいの中に溶け込んで、長い歳月の後、別の生命となってまた生まれ変わる。死ぬ前の自分のことはやがて忘れる。そういうことらしい」

 この感じ方に、ぼくは大いに安らぎを覚える。だが、これについても、あとでもう少し考えることになるだろう。
(この稿続く)
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永続する魂は存在するか?

2019-06-10 21:30:07 | 魂について
 一昨日書き始めたことについて、補足や敷衍したいことがいっぱいあるが、とりあえず、すこし別の面から考えてみよう。
 魂が、仮にあるとして、それは永続するものかどうか? それは、輪廻転生を繰り返すものかどうか?
 以前にぼくは、夢に関連して、人は前世の記憶を持つことがあるか? 夢は前世の記憶でありうるか? という疑問にふれたことがあった(19/03/13「夢の土地・夢の家」)。だがその時は、疑問を提出したままにしておいた。
 
 「輪廻転生がある」と信じている人、「自分は誰それの(例えば天草四郎の)生まれ変わりだ」とか信じている人、あるいは、「次の世でも必ずあなたと出会って添い遂げたい」と思っている人…は、それこそいっぱいいることだろう。だけど、その人たちの視野に入っているのは、たかが前世か来世か、せいぜい500年とか1000年とかの期間に過ぎない。また、そう思うのが心地良いからそう思っているのに過ぎないかもしれない。
 しかし、魂が永遠に転生を繰り返すのであれば、本当はそれはその人の思っている期間を越えて永遠に過去に、あるいは未来に、続いているはずだ。するとどうなる? そこで、必ずしも心地良くはないかもしれない事実に思い至る。
 天草四郎の前はあなたはどうだった? その前は、さらにその前は? と辿っていくと、古代を越え、原始時代を越えて、人類の誕生をも超えて、進化の系統樹をさかのぼらなければならない。類人猿に達し、さらには両生類や魚類に達し、三葉虫やアメーバーに達し、ついには最初の生物、(若き賢治が心酔していたと思われる)ヘッケル博士の言うところの「モネラ」に達する。アメーバーには魂はあるか? モネラには魂はあるか? あなたの魂はそこにいたのか?
 あるいは、生命が生まれた瞬間に原初の魂も生まれ、生命の進化とともに進化してきたのか? これなら、アメーバーにも魂があることになる。あなたの今の魂は、もともとは原初的な魂であったことになる。しかもそれは、始まりのある魂であって、すでに永遠の魂ではないではないか?
 それとも、原初の生命が地球に生まれる前に、すでに魂は存在していたのか? その場合、魂はどこにいたのか? 地球外からやってきたのか? それでは、この宇宙が生まれる前は、魂はあったのか?
 それとも、魂は進化の途中のある時点で、たとえば人類の生まれた時点で、発生したのか?
 地球外からやってきたとしても、ある時点で発生したとしても、それはいったい何時なのか? その時点の前と後で、それ以前は魂がなくてそれ以降はあるのだから、生物ははっきり違う存在であるはずだ。その決定的時点は、たとえば人類の進化の時点の、どこなのか? 猿人(アウストラロピテクス)はどうか? ネアンデルタール人には魂がなくて、現生人類にはあるというのか? 
 この議論は、はなはだしくばかばかしいものに思われる。それに、ある時点までの生物は魂がなくて…というのは、生物種に差別を設けることになる。「魂のない生物は、恩寵にあずかることはない」という、歴史的にキリスト教が(一神教が)持っていた世界観につながる。この差別は、人間以外の生物の、自然の、支配、利用、収奪につながり、異教徒差別につながり、人種差別にさえつながっていく。
 ぼくは、「すべての生き物は原初生命体から続く生命の進化の流れの中にあって、人類はその波頭のひとつであるにすぎない(個体発生は系統発生を繰り返す!)」という考え方の方に賛同したいと思う。
 「魂はあるかないか?」という問いにぼくなりの仮説を考えるのはもっと先にしよう。でも、ぼくには、上記のことから、少なくとも過去世については、永続する魂、という概念は疑問に思われる。
 ぼくは、「自分は花や木や鳥やけものと同じだ」と思う方が良い。彼らに魂がないなら、ぼくにもないだろう。彼らに魂があるなら、ぼくにもあるだろう。この場合、改めて、「魂」とは何のことを言っているのか、を考えなければならない。それももっと先のことになる。
(この稿続く)
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ややこしい話

2019-06-08 21:50:12 | 魂について
 非常にややこしい話をしよう。ぼくの貧しい頭では、途中で手に負えなくなるかもしれない。今までに何度か、この話をしようと思っていたのだが、ちゃんと考え抜く自信や意欲がなかったのだ。
 どうなるかわからないままだが、始めてみよう。長い話になるし、とびとびに続けることになるだろう。

 「魂があると信じる」という人はおそらく多い。良くない時代、希望のない時代、であればあるほど多くなるだろうと思われる。人はそこに希望を求めようとするから。今の日本では、おそらく過半数の人が、強くか漠然とかの差はあれ、あると信じているだろう。ただしこれは、何らかのデータに基づくものではなく、ぼくの印象でしかないが。
 反対に、「魂がないと信じている」人は、はるかに少ないだろう。「ないのではないか」と思っている人は、それよりはかなり多いだろうが、おそらくだいぶ少数派だろう。これも印象でしかないが。懐疑派の人達は、どちらかというと、科学的、分析的思考の人が多い。「ある」と信じる人は、直感的思考の人が多い。

 ところで以上のことは、魂があるかないかという問いの答えにはもちろんならない。むしろ、この問いが「真理」の問題であるよりも「信」の問題であることを示しているだろう。
 誰も、魂の存在を、あるいは不在を、実験や観察で確かめることができたものはいない。以前にも書いたことだが、実験や観察によって真理であると(まだ)証明されていないものは、「仮説」という位置づけになる。仮説は、証明されて初めて真実になる。魂の存在は、神の存在も同じだが、現時点では、仮説という扱いになる。
 宮沢賢治は、「銀河鉄道の夜 初期形第三次稿」に中で「もしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」と書いている。だが、ぼくたち人類は、結局そこまで到達することはないだろう。
ということは、この問題はずっと仮説のままだ。
 そこではじめて、「信じる」ということが発生する。
 「仮説のままだ」といったとき、ぼくは決して、「信じることは迷妄である」とは言っていない。信じるということは、真理がどちらにあるか、ということではなく、片方を選択する、ということだ。あるいは、そちらに賭ける、ということだ。
 神が存在するかしないかについて、存在するほうに賭けた方が得だ、という意味のことを書いている有名な哲学者は誰だったろうか? 今、調べている余裕がないが、魂についても同じことがいえるだろう。「魂は存在する」という方に賭けた方が得だ。
 魂は存在する、という方に賭ければ、まずだいいちに安心できる。安心できれば、日々の生活を、落ち着いて味わうことができるだろう。自分という個体の死後も魂は存続すると信じれば、信じない場合に比べて、死が恐ろしいものではなくなるだろう。自分が生まれて、生きて、死ぬ、ということが、空しいものではなく感じられるかもしれない。自分という命に、意味を見つけやすい。
 ただし、賭けである以上、リスクはある。その一つは、判断停止というリスクだ。
 人間は、「本当はどうなのか」ということを考えることのできる唯一の生き物だ。それゆえに人間は本来、「本当はどうなのか」ということを考えずにはいられない生き物だ。「信じる」という方に賭けるとき、人はこの問いを投げ出してしまう。それで良いのだろうか?
 銀河鉄道の車内で出会った、姉弟とその引率の青年は、途中の停車駅で降りてしまう、そここそが天上であると信じて。ずっと一緒に行こうと約束したカムパネルラさえも、途中で降りてしまう。ただジョバンニだけが、鉄道が消えてしまった後も、「ほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ」と決心してまっすぐに進んでゆく。

 魂が存在するか否か、という大きな命題に対して判断を停止することによって、人はもっと小さな日常的な問題に出会って、気が付かないうちに判断を停止しがちになるかもしれない。逆に、もっと大きな命題、「神は存在するか?」という命題の前に立っても、判断を停止するかもしれない。そのリスクは、いまの自分の命を爆弾で吹き飛ばしかねないほど大きい。
(この稿続く)
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帰るべき場所

2019-06-06 21:39:26 | 魂について
 天気予報によると、関東地方は明日梅雨入りして、そのあと一週間は雨勝ちの天気が続くらしい。今日のうちにどこか近場の高尾山でもいいから歩きに行きたかったが、いろいろ雑事があって出かけられない。家で溜息をついている。
 つい4日前に行ったばかりではあるのだが、これは、已むことのない憧れのようなものだ。だからつい、空を見上げてしまう(憧れる者は、空を見上げる)。
 そして、いまここの自分の生活を、なんだか味気ないものに感じてしまいそうになる。どこかに、ぼくが行くべき場所、帰って行く場所、居るべき場所が別にあるような。
 ぼくのようにそういうふうに感じ勝ちな人と、いまの自分が安定していて、そういう感じ方はあまり持たない人とがいるのだろうが。
 ぼくは同じ山に何度も行くのが好きだ。例えば八ヶ岳や霧ヶ峰に行くと、なんだか故郷に戻ったような気持ちになる。昔は、山形の朝日連峰にもそういう感じを持った(もう30年も行っていないが)。これが、一番行っている高尾山になると、そういう感じはしない。人がいすぎて、自分の故郷に帰ったような気はしないのだ。
 どこかに行きたい、という感覚と、どこかに帰りたい、という感覚は、漠然としたものではなく、かなり切迫した感覚だ。そしてこの二つはごく近いものであるのかもしれない。
 どちらも、魂が居場所を探しているのだ。魂は、どこかに行くべき場所があるように思ったり、帰るべき場所があるように思ったりする。それはどちらも、魂がいちばん安心していられる場所、ゆったりとくつろいでいられる場所を求めているのだ。
 万葉集などを読むと、古代の人達は、死者の魂は山の中に住むと感じていたようだ。
 大江健三郎の小説の中の人物は、死ぬと魂が四国愛媛の奥深い山中に帰って行くと信じていることがよくある。
 散骨ということが少しずつ増えているようだが、あれはみんな海に遺灰を撒く。山に撒くのは、まだ法律上認められていないのだろうか。
 山に帰っていく魂と、海に帰っていく魂とがあるのではないか。たぶん、海辺で生まれ育った人の魂は、海に帰って行くことの方を選択するだろう。
 もっとも、死んだら遺灰を撒いてもらいたい、と思っているのは生きている人間であって、遺灰は単に遺灰であって、魂はその時には既に帰るべき場所に帰っているはずなのだが。
 物憂いままにぼんやり考えていたら、どんどん脱線をしてしまった。
 魂というものがあるかどうかは、分からない。
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