ずっと後になってみれば(というのは、時が経った後に、みることのできる人が存在していれば、の話だが)、2022年は現代文明の終り、ひいては、(人類にとっての)世界の終りの始まりの年だった、ということになるのかもしれない。
ここで、今年起こったことはどれも、誰もが知っていることなのだから、それを改めて列挙するのは止そう。
ぼくの友人の一人はついこの間まで、「ぼくたちの孫ぐらいの世代の人たちはかわいそうだ。ぼくたちはこの世界がどんなひどいことになるか知る前にあの世に行ってしまうからいいけれど」とよく言っていた。そのたびにぼくは反発したものだったが、彼はここのところその言い方をぴたりと止めてしまった。
今年は、これからの事態を知らないまま死んでしまうはずだったぼくたちの世代をも、不安が蔽い始めた年だった。
食糧とエネルギーの価格はまだ上がり始めたばかりだ。世界の政治状況はまだ流動化し始めたばかりだ。自然災害はまだ明らかになり始めたばかりだ。来年以降、すべてはどこまでも激化するだろう。
ぼくはあまりにも暗い未来を思い描いてい過ぎるか?
食料を例にとってみよう。「ロシアのウクライナ侵略で小麦とエネルギーの価格が上がって物価全体に影響している。だから平和になれば物価は再び安定する」と思っている人は多いかもしれない。だが、平和が戻っても、そうはならない。旱魃や水害や戦争のせいで、世界各地で食糧の、特に穀物の生産は滞り始めている。もっと深刻なのは地下水の枯渇だ。穀倉地帯であるアメリカの大平原でも、中国でも、水不足による生産性の低下は始まっている。井戸はどんどん深く掘らなければならず、毎年の降雨によって補充される層の地下水では足りず、もっと深部の「化石帯水層」から汲み上げてどんどん使っている。これは石油や天然ガスと同じく、使い切ったら補充は効かないのだ。まもなくアメリカも中国もインドも、穀物輸入国に転じる。中国はすでに、世界のあちこちで土地の買い占めを始めている。
世界の穀物が不足すれば、飢餓や戦争はもっとひどくなる。日本は最も深刻な国に転じるだろう。どこの国も、自国民が飢えているのに他国に輸出しようとは思わない。食糧危機と生活難が深刻になれば、日本でも暴動は起きるだろう。およそ百年前の米騒動のような事態はいずれやってくる。その時は、ぼくたちの世代が生きているうちに来るだろう。その方がまだマシかもしれない。「あとは野となれ」はしたくない。ほんの始まりであっても、孫の世代でなくぼくたち自身が、困難と悲惨に直面するべきであるのは、倫理でもある。
日本は食料自給率を上げなければならない。利潤が揚げられないから止めてしまった二毛作とか、休耕地の再生とかをするには、補助金をつぎ込まなければならないだろう。国による買い上げも必要だろう。
国を守る第一の要は食料だ。防衛費を倍増するよりも先に、農業に予算を使わなければならない。それで問題が解決するとは思わないが、まずそれだけはしなければならない。
これから世界は、事態が深刻になるにつれて、暴動と紛争が激化するだろう。国家による統制や弾圧も激しくなるだろう。自由とか平等とか民主主義とか、ぼくたちが普遍的価値と思っていたものは捨て去られるだろう。若者は兵隊に行くだろう。来年は今年よりも、再来年はさらに、暗い年になるだろう。世界はあっという間に終わるのではない。その前に、長い長い混乱と苦しみの時が、そしてその後に絶望と狂気の時が来るだろう。
・・こう書いたからといって、ぼくはもう未来を捨ててしまった、わけではない。人類に、ぼくに、何ができるかを考えて、答えが出ない状態にいる。考えただけでも気が重くなる。でも、答えが出なくても、考えることを投げ出さずにいよう。だれでも最低限出来ることは、目を閉じずにいることだ。
考えながら、暗い時代に直面する覚悟だけはしておこう。