すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

クワヘリ(さよなら)

2021-01-27 09:53:06 | 思い出すことなど

村はプランテンバナナの林の陰に
動物保護区の密林の傍らにあった
保護区になったので追い出された狩猟民が
それでも祖霊の森から離れられずに
そこに住み着いたのだ

村長(むらおさ)は「小さな人」の中でもいちばん小さく
最長老だが元気の塊で
ちょっとおっちょこちょいだが経験と知識はすごく
(もちろんジャングルで生きるのに必要な知識だ)
村人たちの人望を一手に集めているようだ
何時も上機嫌で乱杭歯を広げて笑う
(米に石が混じっているのをかまわずに食うから
彼らの歯はボロボロだ)
それが実に人懐こい笑いなのだ

村に電気は来てないから
明かりには灯油ランプを使う
灯油はビールの空き瓶に入れておく
たまに訪れる観光客に出したものだ
だが時々 間違えてその瓶が回収され
工場で洗浄されて またビールが詰められることがある
栓を開けて一口飲むと
口中に灯油が広がってゲッと吐くことになる
「大当たり」だ

ランプはおもに住まいに使う
夜道を歩くのに使われることは稀だ
彼らは真っ暗やみの中を平気でスタスタ歩くことができる
月のない闇夜
明かりを忘れて出かけて帰りが遅くなったぼくらが
手探り足探りで歩いていると
後ろからハバリザジオニ!(こんばんは)
と突然に声をかけられて
飛び上がることがある
怯える必要はない
ぼくらを襲うつもりなどないのだ
「身ぐるみ剥がれるぞ」というような都会でのうわさこそが
夜道で怯えあがらせるのだ
少なくともこの小さな民たちは安全だ
近ごろ住み着いた金に縁のなさそうな“シノワ”
に親近感を持っている(とぼくは思う)
安心して道案内を頼むと良い
お礼はタバコ一本でいいのだ

彼らは子供並みに小さいので
歩幅はかなり狭いはずだが
黙っているとどんどん引き離される
ピッチが速いのだ
同じピッチで歩こうとすると
こっちはたちまち足がもつれる
息も切れる
おいおい もっとポレポレ(ゆっくり)歩いてくれ
並んで歩くと すごい早口で何か訴え続ける
言葉は分からないが
どうも腹が痛くて虫下しが欲しいらしい
小屋に着いてタバコを一本やる
残念ながら虫下しは無い
それでもたばこ一本で満面の笑顔
アサンテアサンテ(ありがとうありがとう)と手を握る
またジャングルに一緒に入ろうな

ぼくらがジャングルに入る時
村長は今でも
先頭の藪切り払い役のすぐ後ろに着き
方角を指示する
動物のフンを見つけ
何時頃そこを通ったかを教える
夕方になると木に登って
「こっちだ」と指さす
沢も湿地も越えてその方角に進むと
昨夜のテント場に出るのだ

テント場の夜はまず
ジャングルの霊たちに捧げる祈りだ
火を焚き 四方に向かって
祖先の霊に祈り
殺された象や鹿や猿の霊に祈り
ぼくら異人の分まで加護を願うのだ
それから酒の買い出しに若者二人が選ばれて
真っ暗な山道をはだしで集落のある場所まで下りて
巨大な瓢箪にどぶろくを入れて戻ってくる
さあ 宴会の始まりだ
焚火を囲んで歌だ踊りだ
彼らはすぐに酔っぱらう
村長が大声で朗誦を始める
祖先や若かりし自分の武勇伝らしい
そして狩りの獲物をたくさん与えてくれと祈るのだ
(狩りは今では禁止されているのだが)

ぼくは彼らの祖霊への祈りや
動物たちの霊への祈りに
何か遠い懐かしいものを感じる
絶対の高みからぼくたちを裁き
ぼくたちを許す一人の神ではなくて
里を見守ってくれる祖先や
森に人と共生する生き物たち
水や空までを含めた
森羅万象
同じ世界を生きている仲間たち
ぼくたちが忘れてしまったもの

もういちど
葦原を渡る風に吹かれたいよ
草地に車座になって
大皿のウガリをめいめい指でちぎって丸めて
干し魚とトマトと玉ねぎとピリピリの汁に浸けて
食いたいよ
胃の中でさらに発酵を続けるので
腹が膨れるバナナのどぶろくを
回し飲みしたいよ
(余談だがあの頃 帰国すると家族が
一年で5キロ太ったと笑ったものだ)

だが ぼくは歳をとった
もういちど君たちの村に行きたかったが
もう行けない

クワヘリ(さよなら)気の良い仲間たち
ときたまニュースで聞く 君たちの国は
とりわけ あの村のある東部一帯は
内乱が果てしなく 
国境を越えて軍隊が入り込み
人々は難民になって逆に越えるという

君たちはまだあのジャングルの村にいるのか
あの村はまだあるのか
君たちの子や孫はつつがなく暮らしているのか
村長は今では祖霊の長になって
見守ってくれているのか

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砂と緑(3)

2020-09-05 10:02:50 | 思い出すことなど
 サハラ砂漠には数年後にもう一度、仕事で行っている。あの頃アルジェリアには天然ガスと鉄鉱石を原料とするプラント建設と操業に日本から大きなプロジェクトがたくさん入っていて、砂漠の中にもサイトがあった。その一つに資材を届ける大型トラックの助手席に通訳として乗った。途中で一泊して二日がかりで走って、現地に一泊してほぼ同じ道を帰った。
 運転手は陽気な、人柄の良いおじさん(日本人)で、演歌のカセットをかけながら、大声でしゃべりながらの陽気な旅だった。一回目よりいくらか内部に入ったが、砂漠についての印象は全く変わらなかった。
 ぼくが神経質で、あるいは、日本的生活様式が変えられない性格で、と思ってもらっては困る。ぼくはその土地土地の食べ物が大好きで、「アフリカに行くたびに太って帰ってくる」、と母に笑われたものだ。「こんな地の果てに住めるものか」という日本人技術者のたびたび口にする言葉に首を傾げたものだ。ただ、その前に行ったザイールの熱帯雨林帯の自然に強く惹かれたので、それと比較してしまうのだ。
 先週書いた友人Tは、ぼくと反対に砂漠が大好きな男だ。サハラには古代ローマの遺跡や洞窟壁画のある先史時代の遺跡などがいくつもある。海岸から1500キロほど南下した山中には有名なタマンラセトの遺跡がある(飛行機で行く)。彼はそういうところをくまなく歩きまわっている。他にもイエメンやシリアやエジプトや…「君とは一緒に旅行できないね」と話して笑ったことがある。人はいろいろだ。
 シルクロードに行きたいと思っていたことがある。だが、サハラにちょっと入っただけでぼくのシルクロード熱は冷めてしまった。アフリカ熱はもう少し深い。子供のころの冒険読み物、とくにリビングストンとスタンレーのコンゴ川探検物語が始まりだからだ。ナイル川の源流の“幻の山脈”ルーエンゾリはあこがれの名前だった。ゴリラの撮影チームの時は、比較的近くに(300キロほどのところに)半年ほどいた。赤道直下といっても上部は氷河と岩壁の山だからぼくに登れはしないが、一週間ほど休暇をもらってふもとの村まで入ってみたいと思っていた。だが、休暇はもらえなかった。3か月の予定が11か月になった撮影の経費節約のため、ぼくはカメラマンと二人きりになってしまったからだ。あれはまことに残念だった。

 砂漠の話に戻るのだが、帰国して一年後ぐらいに、久保田早紀の「異邦人」という歌が大ヒットした。あの歌はじつに良く砂漠の感じを表現している。

  空と大地が ふれあう彼方
  過去からの旅人を 呼んでる道     

というところ、また特に、

  市場へ行く人の波に 身体を預け
  石だたみの街角を ゆらゆらとさまよう
  祈りの声ひずめの音 歌うようなざわめき
  私を置きざりに 過ぎてゆく白い朝     

というところ。そしてうねうねと続くオリエンタルなメロディーとアレンジ。あれは「シルクロードのテーマ」という副題がついているからサハラではないのだが、ぼくがあのオアシスの町で感じたことを(孤独感も含めて)そのまま思い出させてくれるような歌だ。彼女は砂漠に行ったことがないと思うが、才能というものは大したものだ。

 「水と緑のないところには住めない」と書いたが、じつはぼくは密林よりは砂漠のほうに、より大きな影響を受けているかもしれない。多くは、荒廃のイメージとして。
 明日から、ぼくがあの頃砂漠で、もしくは砂漠の印象で、書いた詩をいくつか紹介してみたい。
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砂と緑(続き)

2020-09-04 15:09:28 | 思い出すことなど
 先に言ってしまうと、ぼくは砂漠についてあまり書けることがない。砂漠そのものの様子、オアシスの様子、そこに住む人々、市場で売られている品々、祈りの声…などをぼくは何ひとつメモしなかった。それを期待してこのページを読んでくださる人には申し訳ないが(その埋め合わせは後にするつもりでいる)。
 簡単に書こう。
 アルジェリアは、オリーブやオレンジが豊かに実る地中海性気候は海岸沿いの地方だけだ。その内側200キロぐらいは小麦畑だが、荒れた岩山がだんだん多くなる。道はしっかり整備されていて、長距離バスは時速100キロぐらいで南へ南へひたすら走る。時々、海岸地方に向かう隊商のラクダの群れとすれ違う。400キロぐらい進むと、見渡す限り赤茶けた土の荒れ地になる。そのあたりで、ぼくは窓外の風景にうんざりしてしまった。
 バスは時々、道端の小屋のようなものの前で止まる。ナツメヤシなど食料を売っていて、食事も用足しもできる。バスを降りて一息つき、体を伸ばす。地面ははもうすっかりサラサラの砂で、周囲の砂丘に夕日の影が濃い。
 600キロほど南下したところで前方にオアシスの緑が見えて、ほっとした。その集落で下車し、ホテルに入った。リゾート風の、プールまでついた立派なホテルだった。お湯は出なかったがとりあえず水で十分。シャワーで体を洗い、外に出て屋台の店で豆のスープとパンを食べた。

 …けっきょく、そこから先に行く気を失くし、そのサハラの入り口のオアシスで3日間過ごして旅行を打ち切って海岸地方に戻った。つくづく思った、「ぼくは水と緑のないところにはいられない」、と。二重の窓の間に微細な粒子の砂が音もなく忍び込んで積もるような土地にはいられない、と(さすがに、二重に守られた室内までは、ほとんど入ってはこないが)。
 乾ききった街路、乾ききった家々の外壁、砂を被ったような衣服の(と、ぼくには思えた)人々。ここで生まれてここで育てば、これが当たり前になってしまえるのだろうか? ぼくが長期滞在したら心が乾ききってしまうだろう。あるいは、心に変調をきたしてしまうだろう。
 心を惹かれたのは、市場の賑わいと、ミナレットから流れる祈りの声と、夜の満天の星だけだった。
 そこを発つとき、砂丘の峰と峰の間から登り始めた朝日の輝きを早朝のバスの窓から見て、「もう少しいればよかったかな」と思った。だがすぐに打ち消した。また一日がかりの長い行程が始まる。でも今度は、緑と海に向かっての旅だ。(続く)
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砂と緑

2020-09-03 09:44:36 | 思い出すことなど
 初めてアルジェリアに働きに行ったとき、12月初旬、ちょうど雨期の始まる時期だった。地中海岸沿いの町で、寒く、はじめのうちは夜になると少し雨が降った。雨はだんだん長く降るようになり、激しい雷も鳴るようになった。
 町はずれの日本人宿舎のぼくの部屋の窓の外は見渡す限りなだらかな傾斜の草地で、着いたときは乾季の枯れた草原だった。それがある朝、ほんのわずかな緑色が、何かの間違いと思われるほどにポツンと目に入った。それからひと雨ごと、朝目が覚めて窓外の草原に目をやるごとに、緑が少しずつ少しずつ広がっていく。毎朝外を見るのが楽しみになった。
 休みの日に歩いてみた。緑の芝草の中には、アヤメ科のニワゼキショウの仲間の小さな薄紫の花が咲いている。キク科のコオニタビラコ(春の七草のホトケノザ)の仲間と思われる、地面に張り付いたような黄色の花も。
 いつもは水を運んでいる村の少女たちが、手に手にかごを持って草地でアザミの新芽を摘んでいた(アザミの新芽は、日本でも天ぷらにすると美味い)。
 谷間の道沿いに、桃よりもやや色の濃い、少しだけ花弁も大きなアーモンドの花が咲いた。村に続く道には、ユーカリの白いむくむくした花が咲き、ミモザの黄色い花が一斉にあふれるように咲いた。日中も雨が降るようになり、荒れ地だと思っていたところは一面の小麦畑になった。小麦畑にはさまって、緑の広大なうねりに色を添えるように、赤やピンクや白のヒナゲシも咲いた。ヒナゲシの揺れる丘の向こうに地中海が見えた。
 それは日本の春にも増して、いっそう鮮やかに早回しに、枯れた大地が甦る喜びの体験だった。
 ただし、雨期は乾季よりずっと短い。緑の季節は短い。4月になると雨は止み、太陽は急激に輝きを増し、気温が上がり、収穫は終わり、草はみるみる枯れる。枯れた草の上に、どこにこんなにいたのだろうと思うくらい、数知れぬカタツムリが這い上がっている。灼熱の地面から逃れようとするのだ。そしてそこで死ぬ。

 乾季が始まる直前に、ぼくは一週間の休暇を取って南に向かう長距離バスに乗った。せっかくアルジェリアにきているのだから、サハラ砂漠を見てこようと思ったのだ。
 だがそれはこの次にしよう。
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友人T

2020-08-28 10:50:10 | 思い出すことなど
 昨日触れた友人Tとは、最初はフランス東部、スイスにほど近いブザンソン市の大学の夏期講習で出会った(というと恰好良いが、大学付属の言語教育研究所の、外国人向けの講習)。でもその時はすれ違う感じで、ほとんど話さなかった。お互い、「フランスまで来て日本人グループを作っている(そういう連中が多い)のは愚だ」、と思っていたから。
 ぼくは、大きな荷物を抱えてブザンソンの人気(ひとけ)ない駅について、そこから2キロほど離れた学生寮にどうやって行けばよいのかわからずに困っているところを声かけてくれ、ヒッチハイクで寮まで連れて行ってくれ、おまけに学校の案内までしてくれたイラン人の学生を通して、ガーナ人やブラジル人などの友人ができ、ぼくより早く来ていたTはまた別のおもにアラブ人たちのグループに入っていたようだ。
 (余談になるが、このイラン人にはびっくりした。駅で声をかけられたとき、かなりたどたどしいフランス語だな、と思ったのだが、後で聞いたら、フランス語は一言も知らずにいきなりここに来て一か月だという。
 ぼくはそれまでに、週15時間ぐらいの授業を3年間受けていた。第三世界からひと言も言葉を知らないフランスに勉強に来れるということ自体非常に恵まれているし、彼はここでしっかり勉強して国に帰ればエリートコースに乗るのだろうが、それにしても、グループを作ってもっぱら母国語を話している日本人たちとのあまりの違い。
 ひと言も理解できないままやってきても、モチベーションと善良ささえあればすぐに学生仲間が作れるし、一か月たてば駅でオロオロしている新参者を助られるくらいにはなるのだ。)
 (さらに余談になるが、彼の紅茶の飲み方にもびっくりした。角砂糖をひとつ摘まみ、摘まんだまま角をお茶に浸け、液体の滲みた砂糖を口に入れ、お茶を一口飲む。それの繰り返し。一杯のお茶を飲むのに角砂糖をいくつ口に入れるのだろう。イランでは当たり前だよと言っていたが。)

 さて、Tとはその4年半後にアルジェリア東部の町スキクダで再会した。石油化学コンビナートの科学技術通訳として。彼は派遣会社経由で、在庫管理・部品調達部門で。ぼくは本社雇いで、メンテナンス部門で。「どこかで会ってるよね?」、「あぁそうだ、ブザンソンで会ってるんだよ」という話になって意気投合した。
 ブザンソンに、ぼくは当時の東京日仏学院の専門課程を修了して、ちょうど募集していた短期給費留学生試験を受験したら受かったので行ったのだし、アルジェリアにも、アフリカから帰ってからぶらぶらしていて食い詰めたから仕方なく行ったのだが、彼はフランス建築を学ぶために必要な語学習得のためにブザンソンに行き、研究を続けるための資金を稼ぎにアルジェリアに行ったのだという。
 そのあとの人生を見ると、モチベーションの差というのは恐ろしいものだ、と改めて思う。中村哲氏(08/20)の場合と同じに。だがそのことにはくどくどと触れない。
 Tは帰国してから一級建築士の資格を取り、個人住宅を主に手掛けている。彼の作る家は釘を一切使わず、木組みで建てる、というものだし、なんと壁を土で作る。木組みに適したしっかりした木材や土壁に適したきめ細かな土を全国から探す。その家は快適だろうが、ぼくなどの手には届かない。「百年は持つよ」と言っている。ぼくの手には届かないが、彼の建築家としての姿勢をぼくは尊敬している。
 「語学の天才」の話をしようと思ったのだが、長くなりすぎたので明日にしよう。
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お粗末な話

2020-08-20 09:33:42 | 思い出すことなど
 今から45年前、1975年から76年にかけて、中央アフリカのザイール共和国(現コンゴ民主共和国)に行っていた。マウンテンゴリラの記録映画を撮る撮影隊の通訳兼助手、という立場だった。首都のキンシャサで撮影許可証を取ってすぐに東部国境地帯に近いカフジ=ビエガ国立公園に入る予定だったのに、困難な契約条件を突きつけられて、結局4か月の足止めを余儀なくされた。
 交渉相手は大統領府直属の科学技術庁、といっても、主に熱帯病などの研究、あとはダム開発などをするところだった。毎日のようにその長官室に押しかけて談判をした。廊下で順番を待っているのが熱帯の蒸し暑さでつらかった。
 長官は熱帯病研究の専門家で、ヌティカ氏という、陽気でエネルギッシュな人だった。しょっちゅう押し掛けるので、また来たか、というような、あきれた顔もされたが、最後はぼくを気に入ってくれたようだった。撮影が終わって挨拶に行ったとき、キンシャサ大学の農学部に案内してくれて、「ここで熱帯農業の勉強をして、この国のために働いてくれないか。でも、農業について何も知らないだろうから、猛勉強しないとだめだぞ」と言われた。
 …これは自慢話ではない。
 ぼくはその時、11か月の滞在で疲れ切っていた。上司に当たるカメラマンとの関係で、特に疲れ切っていた。一刻も早く日本に帰って、その状態から解放されたかった。だから、「日本に 帰って考えるから、時間をください」としか言えなかった。
 そして、帰国して、「ああ、もう一度行きたいなあ」と思うことはあっても、行きたいのは涼しくて自然豊かな東部国境地帯の赤道科学研究所であって、叩きつけるような暑さのキンシャサではなかった。そのうち、ザイールではエボラ出血熱が発生し、東部ではゲリラ戦が始まり、革命がおこって政権は倒れた。独裁者モブツ大統領の直属だったヌティカ博士が、その後無事だったかどうかもわからない。

 最近、昨年暮れにアフガニスタンで凶弾に倒れた、かの地で灌漑用水路を作り続けた中村哲医師が、ぼくと同年代(あちらがひとつ上)で、しかもぼくがザイールにいたのとほぼ同時期(1978年)に、ティリチ・ミール登山隊の一員として初めてパキスタンに赴いているのだということに気づいて、愕然とした。
 ぼくは一体、何をしてきたのだろう。
 信念と勇気と勤勉さのない人間というものはダメだ。
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感染症

2020-04-16 21:04:44 | 思い出すことなど
 1975年にザイール共和国、現在のコンゴ民主共和国、にほぼ一年滞在した(もう45年も前のことだ!)。ブルンジやウガンダに近い東部の山地の国立公園で、マウンテンゴリラの記録映画を撮影するプロジェクトの、通訳兼助手という仕事だった。ところが西のはじの首都キンシャサで撮影許可を取るために、4か月も足止めを食うことになってしまった。

 当時、ザイールではコレラが大流行していた。キンシャサはまだ持ちこたえていたものの、首都を取り巻いて環状に感染が迫っていて、口から口への情報で「あと300キロ」「あと200キロ」というように環は絞られつつあった。
 日本を出る前に、破傷風と黄熱病とコレラの予防注射はしていた。マラリアも蔓延していたが、これはワクチンが無く、予防薬を毎週呑まなければならないとのことだった。
 コレラの環が狭まる中、ぼくはほぼ毎日、首都一の巨大市場に食料品の買い出しに行った。露店や屋台で現地の人と一緒に串焼きの肉やオムレツや主食のウガリやバナナを食べた。多くは直に指で食べた。ときどきは昆虫の空揚げや佃煮のようなものも食べた。コメを除いて、どれも美味かった(コメは一口食べてやめた。白い細かい石が混じっていて、噛むとガリガリして、とても食べられたものじゃなかった。コメを常食にするザイール人は歯がボロボロになっている)。
 コレラのことは、予防注射が万全かどうかわからなかったが、気にしても仕方がない、と思った。

 マラリアの予防薬ははじめのうち呑んでいたが、キニーネ系の薬で呑み続けると胃に負担がかかる、酒がまずくなる、気分が鬱になる…とかで、みんな嫌がるのだそうだ。半年ぐらいでやめてしまうので、長期滞在の日本人商社員などはマラリア持ちが多い、と聞いた。ぼくらもやめてしまった。マラリアを媒介する蚊はいたるところにいて、一緒にいた大酒飲みのカメラマンなどはあるとき酔っぱらって路上で寝てしまったそうで、朝になって手足や顔をぼこぼこにして帰ってきたが、感染はしなかったようだ。

 コレラの予防接種は有効期限が半年。半年たったら現地で再接種をして、証明書をもらわなければならない。 ここで驚くべき話。
 撮影許可がやっと取れて、東部に移動。キブ湖のほとりのブカブという町から少し離れたカフジ=ビエガ国立公園に入った。すぐ近くにかつてのベルギー植民地時代につくられた、広大な敷地を待つ熱帯研究所というのがあって、東北大学の地震研究チームや京都大学の文化人類学チームなどもいたのだが、感染症を研究しているベルギー人のドクターがいて、相談したところ、「ぼくはコレラの予防接種をして証明書を発行する権限を持っています。でも、あれは効かないから、してもほとんど意味ありません。証明書だけ出してあげましょう」ということで済んでしまった!
 ものすごく意識の低い野蛮な話をしているようだが、いまから45年前は、コレラもマラリアも、現地で暮らす人々は、手洗いや飲み水の煮沸はしたが、その程度の危機感で済んでしまっていたのだ。

 帰国して翌年、同じ会社から同じザイールでの、今度はピグミー・チンパンジー(ボノボ)の撮影の仕事のオファーが来た。ただ、ぼくは前回の仕事の条件があまりにひどかったので、断った。その年、まさにその撮影予定地で、エボラ出血熱の初めての感染が発生した。致死率80%の、驚愕のウィルスだった。行かなくてよかった、と思ったが、その後プロジェクトは中止になったはずだ。
 ぼくはエボラのニュースを聞いて初めて、自分たちが熱帯病に対していかに軽率だったかを知って戦慄した。そしてそれはおそらく、スペイン風邪いらい初めて世界中に、その間に小さな感染症はあっても、ウィルスの恐ろしさを知らしめた事態だったろう。

 今日、感染症対策も人々の意識も遥かに進歩しているはずだが、それでもSARSだのMARSだの、次々に新しい感染症が出現する。それは高度に開発が進み、高度にグローバル化が進行してしまった現代文明の業のようなものかもしれない。人類はこれからも新しい感染症に直面し、それを乗り越え、それと共存していく道を探し続けるしかないだろう。
 「ペスト」の最後の言葉を引用したいが、長くなり過ぎたので明日にしよう。

註:1.コレラの予防接種は現在では効き目が乏しいことが立証され、廃止され、予防薬を呑むように変えられている。
  2.マラリアの予防薬の副作用も現在ではよく知られている。近年ワクチンの研究が進んでいるが、まだ承認、実用化はされていないようだ。
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ぶらんこ

2019-07-20 08:58:03 | 思い出すことなど
 昨日、以前に住んでいた常盤台から星川に向かって下る途中だった。急に暑くなった中、楽器や楽譜や譜面台など重い荷物を背負って、またまた演奏が思うようにいかなかったので重い心を抱いて歩いていた。
 坂の途中に横浜新道のトンネルの上につくられた小公園があるのを思い出して寄ってみた。
 誰もいない。トンネルの出口に近いのに、ここは嘘みたいにひっそりしている。テニスコートにして4面分ぐらいだろうか、砂利が敷いてあって、ちょこんとぶらんこや滑り台やベンチがある。
 外周は垣根や芝の土手になっていて、赤っぽいアジサイが元気なく咲いている。砂利の広場のまわりは北西側だけ、芝草の斜面がやや広く、そこにケヤキやマツが植えられている。ケヤキは木肌はうろこ状に剥がれてしっかりケヤキの成木だが、まだ大木に育ってはいない。この季節、芝の緑色が鮮やかだ。北側は道路を挟んで崖になっていて、南側は展望が開けて相鉄線沿いの市街地が広がり、その向こうは保土谷公園の高台だ。風が気持ち良い。
 あまり子供が遊びに来ないのか、ぶらんこの周りにはシロツメクサがかたまりになって大きく育っている。傍らのベンチに荷物を置き、ぶらんこに腰を下ろしてペットボトルの生ぬるいお茶を飲んでぼうっとした。

 もう十年以上も前だろうか、この公園を通りかかって、平日の午前中だというのにひとりぽつんと今のぼくのようにぶらんこに腰掛けている、中学生と思われる女の子を見かけた。
 カバンを持っているようには見えなかったが、学校に行く気になれなかったのだろうか、あるいはエスケープしてきたのだろうか? ここにどれくらいの時間いるのだろうか?
 坂を下りてくるぼくは背中側になるので、その子は足を止めたぼくには気が付いていないようだ。
 声をかけて、どうしたのか、何か困っているのか、聞いてみようか、ためらったが、ぼくもいたって気の小さい人間なので、邪魔したら悪いような、変なおじさんと思われても困るような、気が引けて声が掛けられなかった。そういうことは、普段やり慣れている人でなければできないだろう。
 そのまま坂を下ったが、その後もかなり長いこと、気になっていた。

 あの子は、その後大人になって、元気で働いているだろうか? それとも今ではもう子育てをしているくらいだろうか?
 あの時、声を掛けた方がよかったのか、掛けなくてよかったのか、それはわからない。でもたぶん、彼女はしばらくの時間ひとりになりたかったのであって、邪魔はしなくてよかったのだろうと思う。
 しばらくの間ひとりでぼうっとしていれば、いくらかは気持ちが落ち着く。気を取り直してまた歩き出す気になれる。
 ぼくは荷物を担ぎなおして坂道を下った。
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神代植物公園

2018-12-02 21:49:25 | 思い出すことなど
 林試の森から自然教育園まで行くのはぼくのお気に入りの散歩だが、林試は半分は運動公園化しているし、教育園は決まったコースしか歩けないので、今日は神代植物公園に行った。
 中央沿線の山に登るのに高尾まで京王線で行くのだが、調布駅を通過するときにいつも植物園のことが気になっていた。
 ぼくは神社仏閣にほとんど関心がないので、たとえばパリにいた時でも、ノートルダムとサント・シャペルと近郊のシャルトルはステンドグラスを見に行ったことがあるが、他はどこにも行っていない。ムードンやフォンテーヌブローの森を歩き回っていた。
 今日は深大寺にも行ったが、狭い敷地にごちゃごちゃと建物があるな、というのと、土産物屋と蕎麦屋が軒を連ねて、目黒不動よりずっとにぎやかだな、と思っただけだ。
 植物公園に行くのは、実に56年ぶりだ。広大だからあとでゆっくり回るとして、まずはバラ園に行った。枯れていて淋しいだろうな、と覚悟して行ったのだが、この時期でもバラって、いっぱい咲いているんだね。知らなかった。
 たいへん美しく、感慨にふけった。花の間をゆっくりゆっくり歩いていると、時の迷路の中に迷い込んだような、めまいのような感覚を覚える。ここでは何十年の時も、何千年の時も、一瞬の時も、同じもののような。今あるものが、小径も中央の噴水も奥の大温室のガラスの建物も、この季節だけのはずの黄葉も枯れた藤棚も、今あるのと同じに時を越えて在り、永遠に同じ謎をかけてくるような。目の前の黄色いバラの株もその向こうの赤いバラの株も、50年前も同じようにあり、あるいはその遥か前からあり、これからもあり続けるような。
 
 神代植物園は、1961年に開園した。新聞に大きく取り上げられたのを覚えている。ことに、バラ園の美しさは話題になっていた。
 だからぼくたちは行ってみる気になったのだ。

ぼくたちがそのバラ園を訪れたのは中学三年生の時だ。ぼくと、同じクラスの彼女と、彼女の親友とその彼氏、つまり二組のカップルで、平日の授業をすっぽかして出かけた。なぜそんな大胆なことをする気になったのかはよくわからない。当時誰もそんなことをする生徒はいなかったから、大騒ぎになるのはわかっていたはずなのに、ぼくたちは誰もそんなことを考えもしなかった。大冒険をする、という意識もなかった。「ねえ、明日、バラ園に行かない?」「いいねえ、行こ行こ」みたいな感じだった。たぶんぼくたちは自分たちに夢中で周りの状況は何も見えていなかったのだろう。
 バラ園は静かな雨が降っていて、バラは盛りを少し過ぎていて、平日のせいか人はほとんどいなくて、ぼくたちは手をつないで歩き回った。当時の中学生は今と違ってかわいいもので、キスをするどころか、手をつないでいればそれで幸せだったのだ。
 そのあと、すぐには帰りたくなくて、後楽園遊園地に行ってぐるぐる回るティーカップに乗って、目黒駅前の「薔薇窓」という名の中華料理屋(名前がバラだったから)に入ってラーメンを食べた。
 …帰ったら大騒ぎになっていた。同じクラスのカップル二組が同時にさぼった、というので学校から父兄に連絡がいっていて、ぼくは父に散々殴られた(ただでさえすぐ殴る人だった)。翌日学校に行くと、担任は文学青年上がりの物分かりのいい人だったが、当然ながら厳しい尋問をされた。あとで聴いたら一年生の妹のクラスにまで、「三年の不良」のうわさは広がったらしい。
 そのあと、交際を禁じられたぼくはグレた。
 …それは嘘だが、受験勉強は全くやる気がなく投げ出して、理科系一直線だったのが、文学を読みふけるようになった。やがて、彼女本人よりも文学作品の方に、つまりフクションの恋愛の方に、ぼくは夢中になった。
 卒業してから、彼女には一度も会っていない。
 徹底抗戦するだけの気概はなかったから、サボタージュすることにした、ということかな。情けない話だ。
 その後50年、いろんな人や事に出会い、手放し、失い、別れて生きてきた。
 ふと思った。
 失ったものを、人や、恋や、大切にしていた何かを、もういちど見つけ出す―心の中で。もういちど味わいなおす。老いる、とは、生きる、とは、その過程なのではないか。そしてそれはなかなか悪くないことではないか。情けない人生も、そのことによって救われるのだから。
 今日、バラ園の止まった時間が教えてくれた。
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手紙(2)

2018-03-15 21:19:13 | 思い出すことなど
 以下に載せるのは、昨日載せた手紙の翌日、つまり電報を受け取った翌日の手紙です。
 この手紙を書いたことは、ぼく自身はすっかり忘れていて、今回発見してたいへん複雑な思いがしました。ひどくせつない、と同時に、すごく未熟。あまりに感情的・感傷的過ぎて、公開するのが恥ずかしい。でもまあ、公開してみます。
 親しい人を亡くした人が、「自分のせいで死なせてしまった」、「自分があの時ああしていれば、死なないで済んだだろうに」、と思い込んでしまう、そして罪悪感にとらわれる、典型的な例です。
 「お前のせいではないんだよ。だいいち、お前は彼女の死にそんなに関わっていない。彼女は、自分の意思で行動したのだ。そしてそのことは良かったのだ」、と言ってやりたい。「お前は悲劇の主人公じゃない。主人公になりたかったかもしれないけれど」、とも。
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 今日は涙が出て仕方ありません。
 12日の午後、出発の前に彼女に会いに行きました。
エレベーターの前で待っていると、出かけていたお母さんが帰ってきて、「さっきからお待ちしていました」と言って、病室に案内されました。彼女は、「今までのこと本当にありがとう」と何度も繰り返して、握手を求めました。そのとき彼女は、もう間もなく自分が死ななければならないことを、もうそれっきりでぼくと会えないことを、予感していたのだと思います。ぼくももう二度と会えないことを予感していたはずです。それなのにぼくは、沈んだ雰囲気にならないよう陽気にふるまって、急いでその場を去ってしまいました。
 お母さんが僕について病室を出てきて、「今度はあの子はもう…」と声を詰まらせて、床にぼたぼたと涙を落としました。その時僕はお母さんを慰める言葉が出ませんでした。
 彼女は最後まで「今までのこと本当にありがとう」と言ってくれたのに、ぼくは笑って彼女の手を握り返しただけだったと思います。本当はその時にほくは彼女に今までのことの許しを請わなければならなかったはずなのに。
 彼女の死の原因の何割かは僕にあるような気がします。
 ぼくたちの出会いの初めのころ、彼女はぼくとの結婚を望んでいました。ぼくはそれに同意しようとはしませんでした。それが、彼女がフランスに行く決心をした遠因だと思います。ぼくが結婚していれば、彼女は一人でフランスには行かなかったはずです。そして彼女の病気は、早いうちに発見され、治療されて、それで済んでいたかもしれません。
 かわいそうなことをした、と思います。ぼくと出会ったことが、彼女の不幸の原因だったかもしれないのに、彼女は、ぼくと出会って幸いだったという意味のことを言ってくれたのです。せめて僕にできることは、出発を延ばして最後まで彼女のそばにいてあげることだったはずです。いまさら、安らかに眠るように、などと言ってみても仕方ないことです。
 彼女に許しを請わずにしまった今、だれにそれをすればいいのでしょうか。彼女のお母さんにでしょうか。
 昨夜、夜中に突然風が出て、明かりがバチっと音を立てて消えました。廊下は真っ暗で表の戸が開いて風に動いていました。昨夜ぼくは「霊魂の存在を信じない」と書いたけれど、実際は何も知らないだけなのかもしれません。
12月8日
A 様
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手紙(1)

2018-03-14 22:57:15 | 思い出すことなど
 (3/8の記事「心に痛い思い出」に出てきた友人)Aとお花見ランチをすることになった。10年ぶりぐらいだろうか。
 ところで、みいちゃんが亡くなった当時のことがノートに書かれているのではないかと思って、押し入れの奥から古い段ボール箱を取り出して捜してみたら、電報を受け取ったその晩とその翌日とさらに数日後にAに宛てて書いた手紙のコピーが出てきた(当時ぼくは、手紙をカーボン・コピーしながら書いていた)。アルジェリアの東部の地中海岸の町、スキクダからの手紙だ。
 他人の若い頃の、亡くなった彼女のことなど、関心がないだろうが、良かったらもう何回か、お付き合いいただけないだろうか。たいへんセンチメンタルな手紙なのだけれど、「白い鳥」に書いたことは、予知夢とか心霊現象とかについてのぼくの考えを人に説明するために、彼女の亡くなったの時のことを手掛かりとして使っているので、生な感情ではなく、やや構えた文章になってしまっている。上から目線的でもある。以下の手紙の方が、ぼく本人には、未熟ではあっても、好ましい。
 なお、先日の文とは時間の順序や人間関係についての認識などに食い違いがある。先日のは、出来事からすでに30数年たって書いているので、記憶に間違いがあり、こちらが正しい。
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 四・五日前に奇妙な夢を見ました。ぼくはすでに中年過ぎで、結婚して娘が一人いる。妻は病身で、先に他界してしまう。ぼくは娘に、「妻を失ってはこれから先、生きていく勇気がない。父さんをゆるしてくれ」と書き置きを残して、妻の後を追って自殺してしまう、という夢です。
 昨夜見た夢は次のようなものでした。
 ぼくは一人の娘を好きになる。彼女は病気がちである。ある日ぼくは彼女の家を訪ねてゆく。坂を上がった公園の中のようなところに高層建築があって、その中に招き入れられる。ところが、エレベーターはどこまでもその白い建物の中を登ってゆく。そしてそこで、ぼくは実は彼女は白い鳥なのだということを知る。アンデルセンの陸に上がった人魚姫が一歩歩くごとに足に激しい痛みを覚えるように、地上にいるとき彼女はその翼のあるべきところに激しい痛みを覚える。それが彼女の病気がちである原因なのだということを知る。
 そのことを知って以来、ぼくは彼女を以前のように愛することにためらいを感じざるを得ない。なぜならば、ぼくが彼女と一緒に暮らし、彼女を地上にとどめておこうとすることは、彼女に苦しみを強いることになるのだから。白い鳥として空に住むことが彼女の安らぎなのだから。そうして結局、彼女はある日空に帰ってしまうのです。
 あなたからの電報を受け取ったのは今日の午後でした。
 人の霊魂というものがあるとすれば、時差が8時間ほどありますから、ぼくは彼女の亡くなった10時間ほど後に、この夢を見ていることになります。したがって、先の夢は虫の知らせ、後の夢は彼女の霊魂が10時間ほどかかって地球の裏側にいる僕のところへ現れたのだということになります。
 ただし、ぼくは、超自然現象を起こす主体としての何らかの存在を否定しないまでも、キリスト教的な実態としての霊魂は認められません。鎮魂とは、生き残ってしまった人達の心を鎮めるためのものです。
 これに対し、ぼくは輪廻転生というものは信じています。それは、魂がまた別の形の中に宿ることではなくて、もっと自然なものです。私が死んだら、私の体は自然に帰ります。古代人は、その私たちが還って行く自然を、風と火と水と土であると考え、これを四大と名付けました。遠い時間の彼方で、その自然は再び私という体、私という意識を形成するかもしれません。その時私は再び彼女に会えるかもしれません。たぶんその時、ぼくらはお互いに相手に気づかないでしょう。しかし、そう言い切ってしまわなければならないものではありません。「この人とは以前に会ったことがある」、「いつかここにこうして座っていたことがある」などとふと思う時があります。ぼくはそれを、意識の空白からくる記憶の前駆現象、などではなく、遠い遠い以前の記憶が突然よみがえってくることがあるのだと思います。いつか突然に、すべてが明らかになるかもしれません。  
 ともかく、六年ほど前、ぼくがみいちゃんに会い、あなたやエミちゃんに出会った頃、ぼくはランボーだのなんだのの本で読んだ観念だけで、人生とはどんなものかまるで知りませんでした。今ではその頃よりはいくらか知っています。――そのことが今夜はひどく苦い。
 12月7日
 A様
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心に痛い思い出

2018-03-08 21:10:46 | 思い出すことなど
 フランス語の学校の職員をしていたころの同僚だった古い友人(仮に、A としておく)から手紙が来た(実は、ぼくがデュモンをやめたお知らせを出したので返事をくれたのだが)。「久しぶりにぜひ会いたい」と書かれていた。「みいちゃんのお墓参りにも一緒に行きたいけど、もう場所が分からなくなっているかもね」とも。
 …お店をやめた翌日、先月の24日に、ピアニストの舘野泉さんのリサイタルを聴きに小金井に行った。駅の南側の広場のむこうに、ホールはあった。心が痛んだ。正確にはその場所なのかその隣だったか、もう覚えてはいないが、今から45年前、そこには平屋の大きな古い住居があって、そこでぼくは恋人と、たった二か月だけ、一つ屋根の下で暮らした。
 ひとつ屋根の下、と言っても、そこは部屋数のいっぱいある家で、大学でフランス語を教えているフランス人の若い夫婦と、やはりフランス人の東洋美術研究者の女性と、ぼくの恋人‐彼女の名前がみいちゃん(ただし、仮の名前です)‐が今でいうシェアをしていて、夏休みの4か月間だけの給費留学でパリから帰ってきたばかりのぼくは、とりあえず、まだ空き部屋がいくつかあったその家に住むことにしたのだった。
 ぼくのつもりでは、なるべく早く、二人で住む家を別に探すはずだったのだ。ただし、最初のうち、その大きなサロンで5人でお酒を飲むなどしてわいわい過ごす生活はとても楽しかったのだ。家を探すのは後回しになった。
 …そして、わずか二か月で、ぼくたちは別れた。直接の原因は何だったか、ぼくにはよくわからない。みいちゃんはぼくと夜どちらかの部屋で一緒に寝るのを拒むようになった。サロンでも口をきかなくなった。
 ぼくはそのころ、アフリカに行くのが子供のころからの夢だと、周りに公言していた。アフリカアフリカと口にしていた。一緒にアフリカに行こう、とみいちゃんにも言っていた。そこに惹かれたみいちゃんは、言うだけで少しも行動に移そうとしないぼくが実はすごく臆病な人間であることに気づいてしまったかもしれない。
 みいちゃんが、「私を愛している?」と何度も聞くのに、「大好きだよ。でも、愛ってどういうものだかよくわからない」としか答えないぼくに嫌気がさしたのかもしれない。遊び人でしかない、と思われたかもしれない。
 全く違う理由、ぼくの気が付いていなかった何か、かもしれない。
 とにかく、2か月後にはぼくはそこを出て杉並に移った。みいちゃんは、フランス語を勉強しなおしにパリに行って、パリ大学の学生になった。(しばらくしてむこうでフランス人の恋人もできたらしい。ずっと後になって、Aに聞いた。写真も見せてもらった。明るい好青年のようだった。)
 そして、みいちゃんはパリで乳癌になった。外国暮らしで、発見が遅れた。しかも、外国での手術をためらったらしい。パリに行ってから4年後、やむを得ず大学の課程を中断して日本に帰ってきて手術を受けたときは、もう手遅れだった。
ぼくはそのころ、アフリカのコンゴにいた。だから、この辺の事情も、帰国後にAから聞いた。
 二度目のアフリカ(アルジェリア)に出発する前に、ぼくは意を決して、5年間直接には音信不通だったみいちゃんに会いに虎の門病院に行った。「今度こそ、かえってきたら一緒に行こうね」と約束した。でも、ぼくも、みいちゃん自身も、それはもうあり得ないと思っていたと思う。
 みいちゃんは、ぼくが日本を離れてわずか一か月後に亡くなった。Aからの電報でぼくはそれを知った。
 …96年に、ぼくは2年間いたパリから帰国した。ぼくはその頃、生活が一変していた。
 Aに訊いて、みいちゃんのお墓を訪ねた。それは大きな霊園の奥の方にあった。お酒が好きだったのでお墓に供えて、その前でぼくも飲んだ。センチメンタルになって、「待っていてね、もうすぐぼくもそっちに行くからね」などとつぶやいた。
 その後、一度もお墓参りをしていない。(そのころ、ぼくの人生は大混乱していた。)
 いや、正確に言えば、いまから5年ほど前、近くまで行く用事があって、十数年ぶりに霊園に行ってみた。もう場所を忘れていて、このあたり、と思われるあたりを探し回ったが、とうとう見つからなかった。
 小金井に行ったときは、まだ退職のお知らせは出していなかった。だから、Aがみいちゃんのことを書いてきたのは、偶然の一致だ。あるいは、Aにとってもぼくにとっても、みいちゃんは今でも、青春時代を思い出す時に大きな存在なのだ。Aにとっては懐かしい思い出。ぼくにとっては、懐かしく、同時に心に痛い思い出。
 みいちゃんと別れて以来、連絡しにくくもあり、快く思われていないようでもあり、ぼくは彼女の実家とは交渉がない。Aに尋ねてもらって、桜の頃か新緑の美しい頃に、久しぶりに墓参に行ってこよう。
 嫌がられるかもしれないから、「もうすぐそちらへ…」などというつもりはないが。
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