すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

またしても川の氾濫

2019-10-26 20:14:51 | 社会・現代
 もう、苦しくてTVのニュース見ていられない。言葉を失くす、とか、あまりにもひどい、とか、何と言っても言葉が追い付かない。またまた被害に遭ってしまった人たちは、絶望的な気持ちでいるだろう。その気持ちを思うだけで、画面で見ているだけのぼくたちも胸をかきむしりたくなる。
 それにしてもこの国は、もう天災が常態の国になってしまったのだろうか、と思う。
 そういう国になって良いはずがない。たとえ、人々の苦しみに胸がふさがれる、ということがない人であっても、相次ぐ災害が人々を苦しめ、希望を失わせるだけではなく、国家も苦しみ、疲弊、衰亡するということは、理解せざるを得ないはずだ。国家百年の計の、転轍を切り替えるべき時だ。

 政府に三つの提言をしたい。
 その一. 被災者の支援は復興支援金、とかのレベルでなく、元の生活と同等の生活が無条件で回復できるレベルのものでなければならない。100万円とか200万円とか支給されても、元の生活が取り戻せるものではない。再建のために借金をせざるを得ないようでは、とくに年を取っていれば、希望も気力も持てなくなってしまう。絶望的な思いをした人には、それを上回るだけの希望を持ってもらうべきだ。
 財源は、引き上げたばかりの消費税の増税分を充てればよい。他に使う予定があっただろうが、それは後回しにしても、まず被災者の元の生活の回復だ。
 その二. 先日も少し書いたが、河川に隣接した低地、崖の下などの山崩れを起こしやすい場所、など、本来は継続的な生活を営むには向いていない危険な場所に、家や施設や工場などを立てるのを規制・禁止すること。
 今すぐ立ち退きなさい、とか、都会に引っ越しなさい、ということではなく、自然と親和的な生活を保障すること。時間はかかるかもしれないが、人口減少社会であるこの国では、たとえば30年とか50年あれば、可能なはずだ。
 その三. 国の持てる経済的・技術的全力をかけて、持続可能社会を目指すこと。まず、再生可能エネルギーの研究・実用化を進めること。今ある技術の他にも、地熱発電とか潮力発電とか、研究開発に力を注ぐべき分野はある。そういう技術で世界の先頭に立つのを目指すことは、経済界にとってもメリットがあるはずだ。
 つまり、資本主義からの脱却、を前提としなくても方向転換は可能なはずだ。

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空を飛ぶのは苦しい

2019-10-25 10:37:16 | 夢の記
 若い恋人と暮らし始めた(なんと!)。まだ始めたばかりで、合い鍵を作っていないので、彼女は鍵を持っていない。「一緒に行動するからいいよね」とお互いに諒解している。
 新しい工業技術の展示会のようなところに行く。ぼくは一通り見て「もういいや」と思ってしまうが、彼女は大いに関心を持ち、地下の展示ルームを見学するオプション・グループに参加する。ぼくは一階入り口付近で待っていることにする。大きな倉庫のような建物で、中は洞窟のようになっている。
 ところが、何時まで待っても、その人たちは戻ってこない。やがて日が暮れて夜も更けてきた。やっと、三々五々奥から出て来る人影がある。彼女を探すが、見当たらない。暗いので気が付かずに通り過ぎてしまったのだろうか。真夜中を過ぎた。どうしようか迷っていると、ケータイが鳴った。すごく聴き取りづらい。「会えなかったから先に帰ったと思って、家に着いたのだけれど、鍵がないから待っているね」ということらしい。
 「すぐに行くから、10分で行くから、待ってて」というが、聞こえないようだ。「もしもし? もしもし?」と繰り返す声だけがする。大慌てで家に向かおうとする。家は、ひと駅となりで、駅からも離れている。もう電車はないので線路沿いの道を走り始める。また電話がかかってくるが、切れ切れに言葉が聞こえるだけで、切れてしまった。 
 「そうだ、まっすぐに飛んでいこう」と思う。途中に山があるが、よく歩いて知っている山だ。
 さっそく飛び上がって山に向かうが、思ったよりもずっと深い。真っ暗なのに様子はわかる。稲荷の社みたいなものがある。城跡みたいな石垣もある。「あれ、こんなのあったっけ?」と不審に思う。方向を間違えているかもしれない。ところが、行く手を確かめようとそこからさらに上空に上がると、見渡す限り山また山の連なりだ。もう自分がどこにいるのかわからない。
 電話をかけて「迷っちゃったようだから、遅くなるかもしれない」と言おうとするのだが、ケータイが、緩んだレゴ・ブロックのように、数字キーのところからボロボロ崩れて壊れてしまう。絶望的な気分になる。彼女はさぞ心配しているだろうな。
 引き返すか? でもどちらが引き返す方角なのかもわからない。靄が出てきて視界を白く塞いでしまった。寒い。下の山々は、雪をかぶって白いようだ。力が尽きて、雪の中に落ちる。

 …どうしてこんな夢ばかりなのだろうか、と思う。ぼくはよほど、心の中に、というか無意識の奥の方に、不安や焦りや…のようなネガティヴな思いを抱え込んでいるのだろうか?
 この秋は台風やら雨やらが続いて気分が晴れないせいもあるかもしれない。
 それにしても、もう何年も、空を飛ぶ夢を見るというと、苦しい、たどり着けない、淋しさや不安に押しつぶされそうな夢ばかりだ。爽快感を味わいながらゆっくり飛行を楽しむ夢が見てみたいものだ。
 鳥は空を飛ぶときに、必死に飛んでいるのだろうか? 飛ぶことを楽しめることもあるのだろうか?
 
 今回の夢の唯一の救いは、「若い恋人と暮らし始めた」というところだ。思い当たる節は全然ないが、心の中の何らかの変化の意味は持っているはずだ。
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「母は遠しも」(続き)

2019-10-24 19:09:36 | 
 それでは、ぼくの大好きな夢二の詩ふたつ。

   かへらぬひと
 
 花をたづねてゆきしまま
 かへらぬひとのこひしさに
 岡にのぼりて名をよべど
 幾山河は白雲(しらくも)の
 かなしや山彦(こだま)かへりきぬ。

 先日挙げた「どんたく」の中の「日本のむすめ」という章に「宵待草」などと並んで入っている(「みしらぬ島」もここに入っている)。この詩については、十年ほど前に書いている。それをおおむね転記したい。

…「宵待草」を作曲した多忠亮(おおのただすけ)と、もう一人、山本芳樹という人が「花をたずねて」の題名で曲をつけている。多の曲は憂いに満ちた、転調を伴う優美なワルツだが、ぼくは悲しみを直截に歌い上げた山本曲のほうが好きで、時々歌っている。
 死んでしまった恋人を思う詩だ。
 「幾山河は 白雲の」は、恋人の名を呼んでも、山や川は白雲が立ち込めて、というのと、知らぬ気に・知らん顔で、というのの掛詞(かけことば)だ。
 「花を尋ねて 行き(逝き)しまま 帰らぬ人の 恋しさに」、死んでしまった、というのを、桜の花を尋ねて奥山に分け入ってしまった、と表現している(感じている)。
 万葉集の頃から、日本人は、愛する人が死んでしまった時、彼女(彼)は山に入っていってそこで暮らしている、と感じる感じ方があったようだ。
 十市皇女(とおちのひめみこ)が亡くなった時に高市皇子(たけちのみこ)が詠んだ、 

  山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく

というのも、柿本人麿が、妻に死なれたときに詠んだ、

  秋山の黄葉(もみじ)を茂み迷(まど)わせる妹を求めむ山道(やまじ)知らずも

というのも、同じ発想から書かれている(よそふ、は、風情を添える、飾る)。二つとも心に沁みる。
 つまりこの詩では夢二は白秋や牧水を越えて、古代からの日本人の感性に寄りそって書いているのだ。
 この歌に詠まれたといわれている女性は、笠井彦乃。十二歳下の画学生。先日紹介した短歌「青麦の~」も、彼女を歌っている。
 ここで、ちょっとすごいな、と思うことがある。
 夢二の詩は、大正六年に作曲されている。たぶん、その少し前に書かれたのだと思う。
 大正六年、夢二は最愛の女性、彦乃と京都で同棲し、北陸を旅行して回っている。翌年九月、彦乃は発病し、父親に連れ戻され、入院する。二人はその後会うことなく、彦乃は九年の一月に亡くなる。
 夢二の詩は、彼女の亡くなる前、どころか、発病する前に書かれている。
 優れた芸術が時に人間の運命を先取り・予見してしまう、一つの例だ。

   母

 ふるさとの山のあけくれ
 みどりの門(かど)に立ちぬれて
 いつまでもわれ待ちたまう
 母はかなしも

 幾山河遠く離(さか)りぬ
 ふるさとのみどりの門に
 いまもなおわれ待つらんか
 母はとおしも

 これはもう、説明は要らない。味わうだけで胸がいっぱいになる。小松耕輔(「芭蕉」「泊り船」「沙羅の木」など)が作曲して、日本歌曲中の名曲として今も歌われている。(表記は歌曲の方の表記。原典は旧仮名遣いと思われるが原典にはあたっていない。)(旧仮名って、良いですね。)
 夢二は明治十七年、岡山県生まれ。母は昭和三年、夢二が四十四歳の時に死去。夢二自身は昭和九年に五十歳になる直前に亡くなった。「竹久夢二歌曲集」がけっきょく見つからないので、この詩が何時つくられたのかは、わからない。

 ところで、ついでに少し。
 「宵待草」は、女性の心を歌ったものと一般に思われているが、もちろん女性の歌い手が女心を歌ってぜんぜん異論はないのだが、もともと夢二が書いたものだし、相手の女性もわかっているし(笠井彦乃とは出会う前)、約束した女がやってこないのを待ちわびている男心の歌として歌って良いのではなかろうか。
 女々しい? 「さくら貝の歌」も本来は男の歌だし、日本の男は女々しい一面を持っていて、それが魅力でもあるものですよ。
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「母は遠しも」

2019-10-22 22:37:35 | 
 今から二十年近く前(!)、「大正ロマンを歌う」というコンサートをしたことがある。その時に、夢二の詩(夢二自身は、「小唄」と呼んでいた)による歌曲6曲を歌った。
 夢二の詩や短歌は、絵よりも好きだ。というか、好んで口ずさんだり暗唱したりするものがいくつかある。
 …と、その前に、先日書いた(10/19)「まだ見ぬ島へ」について少し補足しておきたい。
 娘は膝に肘を置いて、手で顔を覆って、つまり体を折り曲げるようにして泣いている。この姿勢が、彼女の悲しみの深さを教えてくれる。彼女は、近隣の漁村の娘で何か悲しいことがあって泣いている、のではない。故郷に母や妹を残して何年も旅をした果てに、この海辺にたどり着いたのだ。その間に、様々な苦しみを味わってきたことだろう。
 娘は、「島に行きたい。そこでなら今までの自分を捨てて新しい自分になれるかもしれない」と、漠然とした希望に縋りついてここまでやってきた。ここまでくれば、遠くその島が見えるに違いない、と思ってきた。なのに、島影は見えない。だから絶望して泣いている。
 涙が枯れ果てた後に、彼女はそれでも仕方なく立ち上がって、再びこの地上の生活を続けることになるだろう…ぼくはひどくセンチメンタルなことを書いているかな。でも、人間は、慟哭することってあるよね。

 …それはさておき。
 夢二の詩や短歌は、先行する誰かに似ていることが多い。例えば詩集「どんたく」は北原白秋の「おもひで」の亜流だと言わざるを得ない。
 また例えば、ぼくの大好きな、かつ有名な、短歌二首、
 
 さらばさらば野越え山越え旅ゆかむかなしきひとは忘れてもまし

はあまりにも若山牧水の雰囲気に近いし、

 青麦の青きをわけてはるばると逢ひに来る子とおもへば哀し

は明星派的だろう。
 ただし、模倣的だからといって必ずしも元の作品より劣っているわけではないし、かえって読者の心に響くものであることもある。
 例えば、「どんたく」の巻頭の「歌時計」

 ゆめとうつつのさかひめの
 ほのかにしろき朝の床。
 かたへにははのあらぬとて
 歌時計(うたひどけい)のその唄が
 なぜこのやうに悲しかろ。

は白秋の「おもひで」の中の「歌ひ時計」:

 けふもけふとて気まぐれな、
 昼の日なかにわが涙。
 かけて忘れたそのころに
 銀の時計も目をさます。

 から直接の着想を得ていると思われるが、叙情的には夢二に軍配を上げる。冒頭の二行が夢二の方が好きだし、白秋は恋の悲しみを歌っているのに対して、夢二は母への思慕を歌っている。また、白秋は、目覚まし時計が思わぬ時に鳴る、という着想の面白さから出発しているのに対し、夢二のは朝鳴る目覚まし時計から自然に悲しみが湧いている。

 資質のことは「糸車」「紡車(いとぐるま)」ではもっと顕著だ。

 夢二の「紡車」:

 しろくねむたき春の昼
 しずかにめぐる紡車。
 をうなの指をでる糸は
 しろくかなしきゆめのいと
 をうなの唄ふその歌は
 とほくいとしきこひのうた。
 たゆまずめぐる紡車
 もつれてめぐる夢と歌。

 白秋の「糸車」はちょっと長いが、大変優れた、心地よい詩だから、厭わずに読んで欲しい。

 糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ
 その糸車やはらかにめぐる夕(ゆうべ)ぞわりなけれ。
 金と赤との南瓜(たうなす)のふたつ転がる板の間に、
 「共同医館」の板の間に、
 ひとり坐りし留守番のその媼こそさみしけれ。

 耳もきこえず、目も見えず、かくて五月となりぬれば、
 微(ほの)かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。
 硝子戸棚に白骨のひとり立てるも珍らかに、
 水路のほとり月光の斜(ななめ)に射すもしをらしや。
 糸車、糸車、しづかに黙(もだ)す手の紡ぎ、
 その物思(ものおもひ)やはらかにめぐる夕べぞわりなけれ。

 …これはもう、詩の完成度から言ったら白秋の圧勝でしょう。ぼくはこれ大好きだ。でもよく考えると、技巧が巧みすぎるんだよね。
 時を夕方に設定し、糸車を回す媼を聾盲に設定して、感覚世界を匂いと手触りだけに限定した。場所を「共同医館」にしたのはそのあとで硝子戸棚に立つ骸骨を登場させるためで、かくして「おもひで」特有の、少年の哀歓と戦慄を余すところなく表現している…あまりに戦略的過ぎると思いませんか。
 夢二の「紡車」の方が素朴ですね。本歌取りをしたにしてはやや稚拙ではあるけれど。
 (まだ夢二の詩のいちばん好きな作品たちにまでたどり着いていない。したがって、続く。続くが多くて面目無い。タイトルについては、次回。)
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高尾山荒涼

2019-10-21 12:27:02 | 山歩き
 高尾山口駅前の広場はうっすらと土でおおわれている。泥を掻き出した跡だろう。橋には流木も引っ掛かっている。登山客は、例年の紅葉の時期の日曜日ほどではないが、けっこういる。
 ケーブルは再開したようだが、ぼくのお気に入りの、沢沿いの六号路は全面通行禁止。一号路もリフトの山上駅までの間は通行禁止。
 稲荷山コースを行くしかないので、すごい人。ちょっと途中でシャツを脱いだりしていると、あとからあとから登ってくる。稲荷山コースは広いので六号路のように渋滞することはなく、抜いたり抜かれたりすれ違ったりするのは容易なのだが、人混みが嫌いなぼくは閉口。山頂まで4/5ほど登った六号路分岐で、そこから上はおそらくドロドロのすべりやすい道のはずだということもあり、左手に下って高尾林道に入った。
 ここは人はいないが、いたるところで崩れている。左手はところどころ林道の縁が崩落し、右手はルンゼ(岩溝)が滝になり、押し流されてきた石や土砂や幹や枝が道を塞いでいる。それを乗り越えて進む。堆積した土砂に山靴がずぶずぶ沈む。右の岩壁側にはシラネセンキュウだろうか、小さい白い花を散形に無数につけたセリ科の大型の草が、こんな荒れた風景の中でひっそりと美しい。それから左側には、ぼくには種類の区別がつかない、キク科の白い花がいっぱい。
 この林道では、ぼくのすぐ後ろを林道に下りてきた、長靴をはいてメットをかぶってカメラを持った山慣れた感じの二人組にしか会わなかった。訊いたら、「林道の状況を調査に来ました。どこまで行けるかわかりませんよ。危なかったら引き返してくださいね。ここらあたりでも、500ミリは降っているはずですから」とのことだった。その女性の方が、セリ科の花に向かって、「台風にめげずによく頑張って咲いたねえ」と話しかけていた。感動した。いいなあ。そんなふうに自然に接している人たちがいるんだ。
 あとで思った。ぼくが感動したのと反対に、向こうにはぼくが無謀登山者に映ったかもしれない。もともと人が通らないから調査が後回しになっただけで、あの林道は今後通行止めになるだろう。
 調査の二人を後ろに残して、ぼくは林道を進む。人がいないから、「遠い山から吹いてくる/こ寒い風に揺れながら…」などと、「誰かさんが誰かさんが誰かさんが見つけた…」などと歌いながら進む。
 高尾本山の方に戻ろうと思っていたのだが、学習の道も通行禁止だ。大垂水峠に行く道と防火線帯を登る道の分岐に来た。どっちに行こうか迷っていたら、ちょうど大平林道から来た人がいて、「この先で通行止めです。ぼくも引き返してきました。大垂水峠には行かれるけど、バスは不通。その先の南高尾山稜も通行止め。城山に行っても小仏に下る道が通行止め。小仏のバスも不通です。防火線帯を登って一丁平から稲荷山コースに戻るしかないですよ」と教えてくれた。
 人ごみに戻るのは嫌だったけど、くたびれたし、それ以上の冒険はやめて、その言葉に従った。防火線帯は地面が見えないくらいの一面のススキの中だ。歌なんか歌っているとススキが口に入るくらいだ。
 一丁平でお昼を食べながら傍らの人と話したら、「病院坂は通れますよ。その手前の三号路も通れます」という。うれしくなった。
 富士見台、三号路、二号路、病院坂を経由して快適に高尾山口駅に戻った。ケーブルカー駅に近づくと秋祭りのお囃子のような笛と太鼓の音色がきこえてきた。ステージを作って獅子舞とおかめ踊りをしていた。人だかりができていた。「人だかりも良いもんだ。荒れた山を歩いたあとではホッとするね」、と思った。焼き栗を買って帰っ た。
六号路はこれまでも通行止めになっている。再び通れるようになるのはいつ頃だろう。
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竹久夢二(閑話休題)

2019-10-19 21:12:50 | 
 フォーゲラーの関連で夢二について書こうと思って、今朝「竹久夢二歌曲集」を探したのだが、見つからない。あれを人に貸すはずがないから(関心を持つ人がぼくの周りにいないから)どこかにあるに違いないのだが、楽譜だから比較的見つけやすいはずなのだが、見つからない。
 最近こんなことが多すぎて参ってしまう。気落ちしてしまったので、もう少し気楽なことを書こう。

 夢二の絵の女性が、ぼくは好きではない。あの細長い輪郭の中に描かれる、あの大きな目が、長い鼻すじが、厚い唇が、品が無い、と思う。叙情的? 物憂さ? そういうものは、品がなければいけない。
 幸い夢二にはいくつか、手で顔を覆って(泣いて)いる女、後姿の女の絵がある。表情は見えない。「夢二の女性は好きではない」、と書いたが、顔の見えない女の絵は良い。前者には「ゐのり」「青春譜」「得度の日」「まだみぬ島へ」などがある。後者には「野火」「光れる水」「雀の子」などがある。
 「青春譜」は不思議な絵だ。中央の地面から生えた大きな手は何だろうか? 右奥の山は形が榛名山らしく思われる。赤一色の女は何を泣いて、黄一色の男は何を慰めているのだろうか?この絵を描いた同じ時期に夢二は榛名山麓に芸術家コロニーをつくろうと思い、ほどなく挫折している。
 この絵の鮮やかなシンプルな色彩の対比は表現主義の影響を感じさせる。ヤマ勘だけで言うが、これはコロニーの計画が挫折したことと関連があるだろう。フォーゲラーがヴォルプスヴェーデのコロニーの挫折の後に表現主義の絵を描いたように。

 だが中でもぼくがひどく心を惹かれる、あるいは、心を揺さぶられるのは、「まだみぬ島へ」だ。これは、日本図書センター発行、愛蔵版詩集シリーズ、というのの中の「どんたく」の中にモノクロで印刷されているものしか知らない。「どんたく」は、大正二年、実業之日本社発行の夢二の絵入り詩集(初刊の扉によれば「絵入り小唄集」)だ。挿絵のひとつが「まだみぬ島へ」だ。元はカラーなのか、もともとモノクロなのか知らない。しかし、手元にあるこの小さな絵は、ぼくの心を鷲掴みする。
 手前、海を見下ろす丘の上に、黒い着物を着て帯を締めた娘が左向きに腰を下ろし、左手で(右手も?)顔を覆っている。膝から下は斜面に隠れて見えない。娘の左側に渚が見下ろされ、あとは縦長の画面の下から2/3ぐらいまでは海だ。波打ち際と水平線近くに小さな波が広がる。比較的静かな海だ。島影は見えない。添えられた詩はあまり良い詩とは思わないが、その一節に、
 うしなひしむかしのわれのかなしさに
 われはなくなり
とある。
 そういう感情を持ったことのない人は、この絵に心を惹かれることはないかもしれない。でも、そういう思いを抱いたことのある人なら、一目見るなり思うはずだ。
 「この娘はわたしだ。この娘の悲しみはわたしの悲しみだ」と。

 夢二の詩について書くつもりだったのに、絵について書いただけで終わってしまった。

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フォーゲラー、芸術家の運命

2019-10-18 11:05:04 | 読書の楽しみ
 先日(10/07) 「ヴォルプスヴェーデふたたび」について書いた時、その本をぼくは半分ぐらいまでしか読んでなかった。その後お終いまで読んで、「これは続きを書くか修正をしなければ」、と気になっていたのだが、何となくためらっていたら日が経ってしまった。

 先日、「美術評論書」と紹介したが、この本の前半と後半では、かなり性格が違う。
 後半は、ヴォルプスヴェーデの芸術家コロニーの中心的存在であったハインリッヒ・フォーゲラーの、彼の地での運動が退潮した後の生涯をおもに辿り乍ら、激動する社会と芸術家とのかかわりを描いている。激動する社会のなかでの、狂気にも似た一人の芸術家の運命を、といっても良い。

 第一次大戦がはじまると彼は志願兵として東部戦線に行き、クロポトキンの影響を受けて反戦主義に転じ、戦争停止の直訴状を皇帝に送り、そのため銃殺は免れたものの精神病院に監禁され、脱走し、戦後はドイツ革命に参加してヴォルプスヴェーデの屋敷「白樺の家」をコミューンに開放する。革命の挫折の後はそこを労働学校に、次いで革命運動の中で親を亡くした孤児たちのための「子供の家」という共同体に改変するが、これも経済的に挫折する。
 その後「約束の地」と思っていたロシアに行くが、トロツキーに共鳴していた彼はその失脚後、スターリンの共産党指導のソ連に失望し、反党的とみなされ、いったんはロシアを離れてスイスに自給自足の農業コミューンを建設する。そこも放棄してモスクワに戻り、極貧生活を送る。 
 抜け出すチャンスはあった。だが、亡命を進める友人に、「私から信仰を奪わないでくれ。それでは私の一生はナンセンスだったことになる。今ここで脱走したのでは、わたしはもう生きていられない」と言ったという。ナチスドイツがモスクワに迫るとカザフスタンに送致され、強制労働に従事させられる。西欧の芸術家たちによる救出運動を拒否した果てに、ヤギ小屋の藁の中で餓死する…

 彼が「信仰」と言ったのは、宗教や革命のことではなく、芸術への夢だろう。彼は芸術への夢に殉じたのだ。
 彼は、40年ほど先に活動したイギリスのラファエル前派の中心的芸術家ウイリアム・モリスと同様に、食器や家具や織物や建築を手がけ、身の回りの生活の全てを芸術で包むことを理想とした全体芸術家だった。
 生活を芸術化する、労働の、手仕事の、農作業の喜びを再発見する。そのために理想の社会を求めて社会改革に参加する。芸術家コロニーも、自給自足の共同体も、革命も、その夢を実現するための方法だ。結果的に八方破れではあっても。そして、ここにぼくは大きな共感を覚える。
 彼には才能が、財産が、熱い情熱が、何よりも理想を実現しようとするための行動力が、あった。それでもそれは、かなわぬ夢だった。理想は、現実と常に切り結び、現実を少しずつ齧り取ることでしか実現しない。現実を一気に飛び越えようとすると、それは単なる夢になってしまう。
 今の言葉で言うと、彼の生涯は「自分探し」であったのだろう。ここが、同じように全体芸術の活動をし、社会主義的関心も持っていた先達のウイリアム・モリスと大きく違うところだ。
 そしてぼくは、竹久夢二と宮沢賢治とを思い出した。(続く)
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信玄堤

2019-10-16 09:34:30 | 社会・現代
 ぼくは山梨県出身です。
 今回の台風19号による各地の洪水被害を見て、改めて武田信玄によるいわゆる「信玄堤」の評価が高まっているらしいです。とくに、地元山梨県で、「やはり信玄公は神様だ」というような。
 「どうして、他の河川では信玄堤をつくらないのか」というような声もあるようです。
 はてな? と思ってしまいます。

 ぼくの理解する限り、信玄堤は洪水を絶対に起こさない奇跡のような方法ではない。増水した川の水を小刻みに川の外に出して、大きな被害が出ないようにする方法だ。川の水は、田や畑や遊水地に放出される(堤を斜めに築いているので、水位が下がればあふれた水も自然に川に戻る)。
 つまり、そこにはもともと人は住まないことになっている。
 信玄堤は、武田信玄の時代だからこそ可能だった。
 今回の大被害を出した千曲川や阿武隈川や多摩川などの場所で、同じ方法をとることはもともとできない。高い堤防を連続的に築いて、そのすぐ外側にまで人が住むようにしてあるからだ。
 この国は高度経済成長と人口増加の時期に、それまで人が住まなかった場所をどんどん開発し、山を切り崩し、堤防を築いて、「住んでも安全」ということにした。
 「安全」、なのではない。「安全ということにした」のだ(しつこいようだが、原発も同じです)。
 もちろんぼくは信玄堤に反対していない。むしろ治水はそのようにあるべきだと思っている。
 ただし、それには、川沿いに再び、人の住まない広大な遊水地をつくる必要がある。日本の人口は、いまの2/3ぐらいには減少する必要があるだろう。
 人口減少しても幸福に暮らせる社会を目指すべきだ。経済成長から持続可能社会へソフトランディングを目指す方向に舵を切るべきだ。
 現代の信玄堤(のようなもの)として、都市の地下につくられた巨大な貯水槽、いわゆる「地下神殿」がある。今回は有効に機能したようだ。だが、あれを千曲川や阿武隈川の流域に作るか? あまり想像してみたくないことだ。
 かつて、エジプトではナイル川の氾濫は流域に肥沃な土壌をもたらす大いなる恵みだった。
 そこまで戻る必要はもちろんないが、水をコンクリートに封じ込めるだけではなく、人間と川との、人間と自然との共存は、目指されるべきではないだろうか。

 ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」を繰り返し読んでいる。
 川は本当は、人間の良き友であり、その声に耳を傾ける人間に叡智を与えてくれるもののはずだ。
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冬の台風

2019-10-15 08:04:32 | 社会・現代
 先月、大日三山に登りに行った帰りに気が付いたことがある。
 称名滝のある称名川は立山駅付近で常願寺川に合流するのだが、その立山駅から富山電鉄に乗って富山に戻る途中、線路に沿って流れる常願寺川には砂防堰堤が数多くつくられていて、次々に現れるそれのほとんどが、すでに土砂に埋まってしまっているのだ。すでに砂防堰堤の役目を全く果たしていない。あれはどのくらい前に作られたものだろうか。称名滝は年に10cm位ずつ後退しているというから、浸食作用による土砂の流出は膨大なものだろうが、それにしても、治水というものが短期的な見通しでしか考えられていないことは明らかだ。

 防災ということには、二つの側面があると思う。
 これはすでに書いたことだが、わたしたちのこの列島は、非常に長い時間のスケールで見れば、大陸プレートとその下に沈み込む太平洋プレートの境目、という不安定な位置にあり、やがては地震や火山の噴火で崩れて消え去る運命にある。このこと自体は、わたしたちには食い止めることができない。しかし、その長い過程の中のその時々に起こる地震や噴火や水害などの災厄を、なるべく被害の程度の少ないものにしようと手を尽くすことはできる。これが防災のその一。
 これには、国や地方自治体や消防や気象庁などの、計画立案や予防体制のなどと並んで、わたしたちの日ごろの、避難経路の認知や食料の家庭での備蓄などが含まれる。また、脱原発なども重要な課題として含まれる。
 この長い時間スケールで起きる災害を、促進してしまうような政策、経済、生活の仕方、などを避けること、つまり、災厄を私たち自身が呼び込んでしまうようなことはしないこと、これが防災のその二。
 山の斜面を削らないこと、保水力を高めるような森林形成に努めること、ダムや林道などの大規模工事をなるべくしないこと(リニア新線の南アルプストンネルなど、とんでもないことだろう)。台風の巨大化・猛烈化は、地球温暖化の結果であることは間違いないから、脱炭素社会を目指すこと、何よりも、経済成長に依存する政治・経済政策から抜け出す道を探ること。

 これは政治家や資本だけの問題ではなくて、わたしたち庶民の意識の改革が不可欠だ。政治は、投票してくれる方にしか動かない。
 意識の改革、と書いたが、わたしたち自身の意識改革だけでなく、次世代の意識の形成も大事だ。つまり教育の問題だ。
 昨日、林試の森を散歩していたら、犬を連れた若い夫婦とすれ違った。奥さんが夫に「ねえ、台風って、冬には来ないんだっけ?」と訊いていた。夫の方は「そういえば、あまり聞いたことないなあ」と答えていた。
 「都会生活をする若い人の自然・気象についての知識・関心は今はここまで落ちてしまっているのか」と、愕然とした。

 私たち人間は、地球から見たらほんの短い間、ここに仮に住まわせてもらっている。借りているものは大切にしよう。大切にしよう、という意識を育てよう。次の世代が安心して気持ちよく仮住まいができるよう。
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乾徳山再訪

2019-10-10 22:29:23 | 山歩き
 乾徳山は、姿良し、スリル満点の岩場あり、大展望あり、気持ちの良い草原あり、美味い湧水が2ヶ所あり、登り応えあり、で人気の高い山だが、若いうちは良いのだが、高齢登山者にはなかなかキツイ山だ。麓から往復すると、登山地図上の所要時間がおよそ7時間。いわゆる「8の字コース」を取るとさらに30分。日暮れが早くなってきたこの時期には、ぼくらの脚ではその日の体調によっては途中で日が暮れてしまう恐れだってある。。
 それで、今回は登山口より約500m高い大平高原まで車で行って(友人の車で、彼が運転)、前回とらなかった迂回下山道を戻ることにした。水場は通らないのが残念だが。
 広々と展望の開けた林道を進み、尾根道と合流してしばし急登。国師ヶ原に行く (帰りに通る) 林道との分かれ道に出てさらに登るとほどなく、両側の樹高の低い、平らに近い道を辿るようになる。ところどころ展望も開けて、風と日差しが心地よい。このあたりはむかし牧場だったところだ。やがて広い草原状の緩い傾斜地に出る。富士山や八ヶ岳が見える。大きな岩は「月見岩」だ。昔は牧童たちがここで麓を思って淋しく月を眺めのだろうか。
 ここに来ると、故郷に帰ってきたような気持ちになる。ぼくの故郷は眼下の谷のだいぶ下流で、ここから遠望できるわけではないが。
 4年前に来たときに、ここの草原でフキを採集している人と立ち話をしたら地元の人で、ぼくの生家を知っていると言われてびっくりしたことがある。
 乾徳山は故郷の山だ。それは以前に書いたからまた書くことはしないが。
 草原の外れから、岩の多い急登が始まる。今日はトレラン・シューズで来たのだが、草原状の場所などはまことに快適なのだが、湿った地面に岩が続くと、岩に乗ったときに靴底が濡れていて滑ることが分かった。つまりソールのグリップ力が弱いのだ。この靴を買う時に店員さんに「軽量にするためにゴアテックスを使ってませんから、雨の日には向きません」と言われたのだが、弱点はほかにも意外なところにあったんだ。
 山頂近く、厳しい岩場が2か所。初めのは鎖に掴まらずに何とか登ることができる。頂上直下の「鳳岩(おおとり岩)」は、前回は岩の割れ目に登山靴を入れることができず、鎖に縋って登った。今回は靴を入れることは何とかできるが、ぼくの今の腕力では体を引っ張り上げることができない。今回もやはり途中ちょっと鎖頼りだ。残念だ。今から腕力を鍛えるのもなあ。
 それはさておき、山頂は大展望だ。6月に登った甲武信ケ岳も目の前に見える。
 ゆっくりお昼ごはんを食べて(今日はミニカップ味噌ラーメンとコンビニで買った海鮮巻きずしと、ココア)、道を引き返さずに北に向かう。小さな鉄梯子を3つ下りて鞍部に出て大きな岩場の手前で振り向くと、乾徳山の北斜面はまことに険悪な姿だ。頂上付近が岩壁、というのならあちこちの山にあるが、ここは下から急激に無造作に乱雑に大岩が積み上がっただけで、ちょっとしたはずみで山頂全体が一気にガラガラとくすれ落ちそうな気配だ。あの上でのんびりご飯を食べていたのか、と寒々とする。
 15分ほど進むと分岐点で、左に下りていく道は「ガレ場の急降下あり。注意」と書かれている。これは登山地図には難路を示す破線で記されているのだが、「下る人はたくさんいるだろうから、そう悪くはないはずだ」と思っていた…ところが難路だった。
 急斜面の足元の悪い下りで、あまり人が通っていないらしく、道がはっきりしない。かなり間隔を置いて木に巻いてある赤テープを確認しながら降りるのだが、そのテープも古くなっていて見つけにくい。先を行くぼくが戸惑っていると後ろからくる相棒が「左手のあそこにあるよ」とか指示してくれる。相棒がいるから良いが、ぼく一人だったら、道に迷って日が暮れるのが怖いから、来た道を戻ったかもしれない。
 ここで後ろからカップルが追い付いてきた。「わかりにくいですね」と言ったら、「ええ、あとをついてきました」という。「あはは、じゃ、年寄りはここらで選手交代にしましょう」といって道を譲った。ほどなく、枯れた沢状の下りになった。「これで少し安心だね。今の、ガレ場の急降下、はきつかったね」と相棒と話したのだが、じつはここからがガレ場の急降下だったらしい。転ばないように慎重に慎重に降りてゆく。前のカップルも苦闘しているようだ。
 涸れた沢を離れ、それでも足元の悪い道が続き、前の二人は姿が見えなくなる。ちいさな道しるべを見つけてホッとする。きんつばを食べて気を取り直してさらに進む。道が水平に近くなり、「高原ヒュッテ」の屋根が見える。ヒュッテの前でさっきの二人が休んでいた。「悪路でしたね」「でも楽しかったですね」と、安心してお互いの声が明るい。
 ここからは林道を進み、今朝の分岐点から元の道を戻る。疲れた。転倒しないで良かった。岩場や石ころ道が予想されるときは、やはり踝まである山靴を履いてこよう。

参考所要時間:大平Pスタート9:50、国師ヶ原分岐10:35、月見岩11:27、山頂12:45、昼食、下山スタート13:35、水のタル分岐13:52、高原ヒュッテ15:20、大平P着16:20
(ぼくらにはこの時期、このコースでやっとだね。麓から行ったら途中で日が暮れていた。)
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「ヴォルプスヴェーデふたたび」

2019-10-07 09:51:37 | 読書の楽しみ
 ヴォルプスヴェーデという村がどこにあるのか、詳しくは知らない。北ドイツのブレーメン近郊らしい。
 ただ、村の名前は以前から知っていた。19世紀末から第一次大戦にかけての時期、イギリスの「ラファエル前派」などと並ぶドイツのモダン・アート運動「ユーゲント・シュティール」の中心になった村だ。ロシア旅行から帰ってきたばかりの若い詩人ライナー・マリア・リルケが一時滞在し、結婚をしたことでも知られている。
 ドイツ文学科でリルケを勉強しようとしていたかつてのぼくには、その村の名は、彼がパリという大都市で底知れぬ孤独に苛まれる前の、束の間の美しい季節の象徴のように響いていたのだ。堀辰雄の軽井沢や信濃追分のような。

 …先日、武蔵小山の古本屋で、種村季弘の上記の本を見つけた。1980年刊行の、壁紙デザインのような花模様の装丁の美しい箱に入った、しっかりとした本だ。嬉しくなってつい買ってしまった。
 かの村に滞在中のリルケの様子がわかるのではないか、と思ったのだが、それはわずかで、ユーゲント・シュティール運動の全体像、それにかかわった主な芸術家たちの思想や行動や運命、世紀末、第一次大戦、その後のドイツ革命、から第二次大戦後までに渉るドイツの、そして世界の、社会情勢と、その情勢の中で運動の担った役割、などを詳述した美術評論書だった(まだ読みかけだが)。
 美術というのは音楽と同様、いやそれ以上に、ぼくには最も分かりにくい分野だ。美術潮流とその同時代については、ぼくは何一つ、感想さえ書けない。だが、これを読みながら、「ぼくはリルケに、ドイツ文学に、改めて戻っても良いな」と思った。時間さえあれば、ドイツ語文法にも(ぼくは語学を、会話のためではなく、読むために学ぶものだから)。

 …プラハに生まれ、母親に女の子として育てられ、軍学校と商業学校を中退し、ミュンヘン大学に学んだリルケは24歳の時、ルー・ザロメ夫妻に従ってロシアを旅行し、そこに生きる素朴な人々に深く感動を受け、「ここでは人間が大地の上に生きている」「こここそ故郷だ」「いつかは自分もここに住まなければならないだろう」と感じる。そしてそのあと、以前にフィレンツェで知り合っていたハインリッヒ・フォーゲラーを訪ねてヴォルプスヴェーデにやってくる。
 ここで、この本の短い引用をさせてもらう。

 …リルケは、ここで初めて自分が幼年時代の継続を生きていることを感じる。とはつまり、「あまりにもよそよそしい存在の中で道に迷ってしまわなければならなかった時以前に居た場所に、それらよそよそしいものすべてを立ち越えてふたたび結びつく」ことの絶え間ない浄福感である。…

 ここでこれを引用したのは、ぼくに思い当たることがあるからだ。   
 自分の幼年時代の幸福感、小学校6年から始まった東京での「あまりにもよそよそしい」生活の中での喪失感、結果、道に迷ってしまった自分…
 ぼくがこのごろ頻繁に山梨の山に行くのは、無意識のうちに幼年時代の取戻しをしている、という面があるかもしれない(水曜日には、乾徳山に行く)。

 たまたま手にした、自分にはほとんど縁のない美術評論の本の中でも、人は自分を考える手掛かりを得ることができる。
 このごろネットで本を入手することが多いが、たまには古本屋を覗いてみることにしよう。
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映画「蜜蜂と遠雷」

2019-10-04 22:11:58 | 音楽の楽しみ
 封切りの初日に映画館に行くなんて、たぶん今までに一度もなかったことだ。
 それだけ期待度が高かったってことだが、残念ながらすごく違和感があった。。
 どこにどのように違和感を持ったかを具体的に書くことは、まだ封切り初日が終わったばかりだからやめておく。ぼくの書くものが客足に影響を及ぼすなんてことは心配していないが、制作した人たち、演じた人たちに対して失礼だから。
 映画の最後に、映画版の主人公の栄伝亜夜によるプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の演奏場面が長くでてきたが、原作では彼女が弾き始める前に小説が終わっているから、これは映画だけ。ここの演奏は、映画だからもちろん断片ではあるが、素晴らしかった。
 2時間の映画では原作に出て来る膨大な音楽を十分には扱えっこないのは当然だから、映画製作者はこの場面を描き切ることで、原作とは違う映画としての作品のまとまりをつくろうとしたのだろう。そういう意味では成功していると言える。
 原作を読んで映画館に来た人が、はじめのうち「あれ、これ、違うよね」とか思いながら居心地悪い思いで見ていて、最後は安心して席を立つ、という意味では。
 今夜ちょうど、Eテレの「らららクラシック」で、この映画を取り上げていた。
 作品中に出て来る「春と修羅」を、河村尚子が弾いていた。現代曲って、ぼくは好きだなあ。古典にはない、硬質な、しかもものすごく純度の高い響き。生き物の温さのしない、それでいて弾く者の、あるいは聴く者の、感覚をきちんと表現することのできる音楽。
 ふだんは自然を愛しながら、いっぽうでそんなことを感じているぼくは矛盾しているかもしれないが、両方があるというのは事実だ。
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