すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

胸くその悪い

2019-03-30 20:52:46 | 社会・現代
 ミシェル・ウエルベックの「服従」を読んだ。近年フランスでベスト・セラーを連発している超売れっ子の作家らしいが、何とも胸くその悪い小説だった。
 途中で結末が予想できてしまうのも面白くない。前に読んだピエール・ルメートルの「悲しみのイレーヌ」というのも、やはり大ベストセラーで、やはりものすごく胸くその悪い、しかも途中で結末が予想できてしまう小説だった。そっちは残虐シーンの連続するミステリーで、今回読んだのは一種の政治小説だからジャンルは全然違うが、
 ぼくのかつて愛した、カミユやサン=テグジュペリやロランやマルタン=デュ=ガールやヴァレリーのフランス文学、どうなっちゃったんだ?
 胸くその悪い小説を紹介するのも変なものだが、現代世界のこれからを考えるうえで、大変重要な示唆を含んだ小説だとは思う。
 ごく近未来の2022年のフランス大統領選挙で、極右の国民戦線とイスラム穏健派が決選投票を戦うことになる。それまで政権交代をしてきた二大政党、中道右派のUMPと社会党は、ファシズムよりはマシと、イスラムと協定を結ぶ。投票所が襲撃され、テロが発生し、選挙はやり直しになる…パリ第三大学(いわゆる、ソルボンヌ)の教授だった主人公は、パリから避難し、ほぼ2か月後に、混乱の収まった、そしてすっかり事態が変わったパリに戻る…ここまでで全体の約6割。あとのことはここでは書かない。
 現代の政治状況は世界の各地でどんどん悪くなっていると、多くの人が思っていることだろう。自国自民族利己主義が強まり、大国は帝国主義に走り、その国の中でも対立・分断が深まり、テロが横行し、宗教上の原理主義的傾向が強まり、20世紀が戦争の繰り返しの中で見出してきた普遍的な価値と思われていた民主主義や基本的人権が、目の前で、ぐらつき始めている。
 疑いようのないはずだったぼくらの基盤が失われつつある。あるいは、終末を迎えているのかもしれない。そのことへの不安が、どんどん広がっている。
 いったい、これからの世界はどうなってしまうのだろう? この小説は、それを考えるための(ひとつの)思考実験なのだ。ぼくには賛成しかねるが。
 いや、ウエルベックにこの小説を書かせたのはもっと単純に、イスラム教への警戒心と、インテリの精神的脆弱性と無節操に対する嫌悪感なのかも知れないのだが。
 これから世界は大混乱に突入する。自分も目をつむって突っ込むか、縮こまって耐えるか、背を向けるか?
 たぶんぼくは、目だけは開いて、でも傍観するのだろうな。
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テント

2019-03-29 22:01:23 | 山歩き
 あと数年したら、たぶん75歳になる頃かと思うが、それまでいま程度には健康で体が動くようならだが、雪山に持って行くための非常用のツエルトではなく、普通のテントを買いたいものだ。
 若い頃持っていたような冬山用の本格的なやつ、などでなくてよい。今は登山用品はどんどん進化して軽く、性能も良くなっている。軽い良いものほど高くはあるが、山小屋利用の登山を何回かすることを考えれば、元は取れるはずだ。
 今の山小屋泊の登山よりももっとハードな登山をするため、ではない。体力がその頃には今よりずっと向上する、などと考えては、もちろんいない。
 あと何年かすると、ぼくはたぶん、山頂を目指す長時間の山登り、はるか彼方の次の峰々を目指す山登りは、体がきついからもういいや、と思うようになっているだろう。だから、山頂を目指さないで、山麓で過ごすスタイルに変えることになるだろう。静かな良い場所があれば、それは自然の中で過ごす方法として悪くない。
 テントと付属品と寝袋と3~4日分の食料とが増えたら荷物は今よりだいぶ重くなるだろうが、平らに近い道を、たとえば2時間ぐらい歩いて、テントを張る場所につけるなら、なんとか行けるだろう。
 そこで、昼間は少し歩き回ったり文庫本を読んだり、夜は音楽を聴いたりお茶を飲んだりして、たっぷり寝る。
 なんて良いだろう!
 隣にテントをならべる友人がいたら、もっと良いかもしれない。
 オートキャンプの人達と一緒になるのはまっぴらだから、車の入れない場所が良い。例えば、上高地から槍ヶ岳や穂高岳に向かって2時間ほど進んだところにある徳澤はどうだろう。あそこまでは道はほぼ平らで、あそこには林の中の草地にキャンプ場があったはずだ。 
 山登りする人たちにとっては中途半端な場所で、通り過ぎて行ってしまうはずだから、平日に行けば、涸沢のテント場のような混雑にはならずに、静かな時間を過ごせるのではないか。
 今のところ他の場所が思い浮かばないが、それは、そういう場所を探すのをこれからの楽しみのひとつにすればよい。尾瀬はテント場自体が混むだろうが、八ヶ岳のみどり池や白駒池のほとりも良いかもしれない…などと、早くも楽しい妄想が広がる。
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簡易テント

2019-03-28 13:17:50 | 山歩き
 昨日、一年ぶりに会った仲間のうちの一人に、「樋口さんて、昔は、『ぼく、冷え性がひどくて』って、いっぱい厚着をして、それでも寒そうにしていたと思うんだけど、それでも雪山になんか行くの?」と訊かれた。
 そう、以前に保土谷の林の中の一軒家に住んでいたころ、その仲間たちとその家で何度か宴会をしたものだが、あの頃ぼくは今よりももっと弱かったかもしれない。北斜面の、陽当たりの悪い、湿気の多い寒い家で、あの頃はぼくは毎月のように風邪を引いていて、医者が首をかしげながら、「抗生物質は毎月は飲まない方がいいんですがねえ」と言っていたっけ。
 今のところに越してきてからは、風邪をあまり引かなくなった。ここ2年ぐらいは、まったく引いていない。
 冷え性が治ったわけではない。この季節でも、ぼくはベッドに寝袋を敷いて、その上から厚い羽毛布団をかけて、おまけに寝袋の中に行火を入れて寝ている(最近の寝袋はジッパーがついているので行火が入れられてうれしい)。この季節は、花冷えというのか、手足の先が冷えて、(暖房や厚着で対策している)真冬よりもかえって辛いことがけっこうある。先週あたりはそうだった。
 雪のある山には、血圧が上がるということもあるし、本当は行かない方がいいかもしれない。でも一年に何回かは、白銀に輝く中を一歩一歩たどる嬉しさも味わいたいものだ。
 雲取山ぐらい道がしっかりしている山に天気の良い時にしかも小屋泊まりで行くのなら比較的安心ではあるのだが、途中で体調が悪くなって、日暮れまでに小屋に着けないとか、巻き道を行ったら途中で足跡が無くなってしまった、とかいうことが全くないとは言えない。
 やむなくビヴァークする事態になった時のために、ヘッドランプやコンロやたっぷりの防寒衣類(ぼくのザックはこのために重い)のほかに、靴下の中にいれる唐辛子と、背や腹に貼るカイロはいくつも持ち歩いている。
 でも本当は、ツエルト(簡易テント)を買って携行した方が良いのだろうと思う。設営しなくても、いざという時には体に巻き付けて夜を過ごすことができる。先日ぼくと相部屋だった男は、持ってきていた。
 今年は雪山はもう一回程度だろうから、それは何とかしのぐとして、来年かなあ。 
 ところでぼくはあと何回、ツエルトを携行するような山に登れるのだろうか?
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自然教育園・春

2019-03-25 12:18:37 | 自然・季節
 門を入ると右手にヤマブキが咲き始めていた。その下にはタチツボスミレの群落があった。その先にはセリ科のセントウソウの、星のようなちいさな白い花。薄い青紫の、中心部分だけが星形に紫の濃い、これも小さなヤマルリソウの花。こちらは、「武蔵野といえばムラサキ」のあのムラサキの仲間だ。
 (ぼくが名前を挙げることができるのは、カタクリとかニリンソウとかのようによく知られたものを除いて、表示板がかかっているからだ。念のため。)
 道の左手には、薄い黄色の花をたくさんぶら下げたキブシの木。春の代名詞だ。その隣に、紅色の花をつけたウグイスカグラの木。進むと、大きく育ったフキがいっぱい咲いている。時期に来ればフキノトウがいっぱいだったろうな。まさかここのを採るわけにはいかないけれど。それから、こちらはまだ柔らかい、傘を広げたばかりのヤブレガサ。これも、いまのうちに天ぷらにすると美味なのだ。
 園内のあちこちに群れをつくっているのが、薄黄色の釣鐘のように下向きに咲いたバイモ(貝母)(ユリ科)。これは、自生種ではなくて、誰かが植えたものが広がったのだろう。鱗茎が漢方薬に使われる(咳止めなど)。有毒植物でもある。なぜ貝母、という奇妙な漢字なのかは知らない。
 奥の水辺まで行ったら、池の向こうに白いサギがじっとしていた。嘴が黄色くて、あまり大柄ではないから、チュウサギだろう。本体と水に映った白い姿の、きれいな写真が撮れた。
 池の周りは今の時期は刈り払われていて、トウダイグサ科のノウルシの黄緑の群落しか見えない。ひと月前には、斜面にフキノトウがそれこそ涎が出るほどいっぱいあったし、これから季節が進めば、ノカンゾウやアヤメの大群落ができ、道端にはニワゼキショウが薄紫や青の六弁の花を咲かせるのだろうが。
 武蔵野植物園には、カタクリの群落がいくつもあった。下向きに白い花をつけるモミジイチゴももう咲き始めていた。これの黄色い実は、抜群に美味しいんだよね。
 …あとは、省略。
 昨日の自然教育園は、春の日曜日とあって、楽しむ人がかなりいた。あそこは自然を守るために入場を300人に制限しているのだが、ぼくは9:10ごろに行ったからいいけれど、入れない人もいたのではないだろうか。大型カメラを持っている人、自然観察会らしいグループもいくつもいた。腕章をつけているのはボランティアの解説員の人だろうか。最近、林試の森でも、野鳥公園でも、他でも、そういうボランティアの人がかなりいる。自然についての高い知識を持った人、およびその先達たちについて学ぼうとする人、が共に増えて来ているということだ。嬉しいことだ。
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カワセミの子育て

2019-03-24 21:20:26 | 自然・季節
 自然教育園に行ったら、展示室でカワセミの子育てのビデオをやっていた。
 胸が熱くなった。
 ダイジェスト版だそうだから、本当はもっと行きつ戻りつ、駆け引きとかがあるのだろうが、ぼくの見たとおり書く。
 最初にオスメス交互に崖に巣穴を掘っている(カワセミって、巣は穴なんだね)から、それ以前に番いはできているのだろうが、交尾に至るまでが、まず面白い。
 オスがメスにプレゼント(餌)をあげるのだが、モツゴ(魚)をくちばし移しに渡して、メスがそれを呑み込んで成立…かと思ったら、巣の前の枝に並んでしばらくして、オスがアタックするのではなく、メスが一歩にじり寄る。オスはあわてたように一歩ずれて、距離を保つ。メスがまたにじり寄る。オスがずれて距離を保つ…を繰り返す。だんだん枝の端に行く。あれは、「もっとちょうだいよ」と要求しているのだろうか。
 ついにオスは飛び立って、こんどは大きなザリガニを咥えてきた。メスはそれを呑み込もうとして、でも呑み込みにくそうだ。かなり時間をかけて、くちばしを振って一部を捨てて、少しずつ何とか呑み込んで(ザリガニは喉につかえるだろうな)、これでやっと成立。
 次に、卵が産まれて、交代に托卵なのだが、これがまた面白い。
 オスが枝に止まっていると、托卵していたメスがやってきて、ものすごく大きく口を開けて、オスに盛んに何か言っている(ビデオに音声はない)。そのメスの喧嘩腰の表情がすごい。ののしって凄んでいる感じ。「なにのんびりしてんのよォ。あんたもやんなさいよ。この役立たず!」みたいなことを言っているのだろうと想像できる。オスは(仕方なく?)托卵に行く。
 ヒナが生まれた。交代でエサをやる。最初は小さいものしか食べられない。オスの咥えてきたエサは大きすぎたようだ。まず枝に止まって、それから巣穴に持って行くのだが、しばらくしてから咥えたまま戻ってきて、自分でそれを食べてしまった。メスは、くちばしに隠れてしまいそうな小さな魚を持ってきた。ヒナの成長につれて、エサはだんだん大きくなる。
 天敵のアオダイショウがやってくる。巣のヒナを狙っている。オスかメスか、一羽の親がエサを咥えてやってくるのだが、恐怖で凍り付いてしまったのか、枝に止まったまま身じろぎもできないで、目を見開いている。ビデオを見ているぼくも緊張だ。
 アオダイショウはしばらくのあいだ繰り返し巣穴を覗いていたが、さいわい、なぜかヒナを襲わずに去って行ってしまった。ぼくも、呑み込んでいた息をほっと吐く。
 翌朝、(たぶん撮影した研究チームが)巣穴の周りの崖の藪を刈り払った。巣穴は丸見えになったが、アオダイショウは巻き付くものがないので近づけなくなったようだ。
 ヒナが巣立ちするときが来る。これがまた感動的だ。親鳥は枝に並んで見守っている。巣穴の奥から、親の見守る中をヒナが飛び出してくる。一羽、ちょっと間を置いて、次の一羽…次々に五羽のひなが巣立った。
 枝に止まったヒナを、親はエサで釣って安全な場所に誘導する。エサを与えそうな仕草をして、でも与えない。何度かこれを繰り返した後、親がぱっと飛び立った。ヒナはすぐ追いかけていった。これも、順番に五回。
 ヒナが無事に移動した後、親鳥は二羽とも巣穴に戻ってきた。かわるがわる穴に潜り込む。残っているヒナがいないか、確認しに来たのだ。最後にもう一度、片方が巣穴に入って出てきて、二羽とも飛び去った。
 空になった巣穴を映したまま、エンディングの字幕が出る。
 いやあ、良いものを見た。小さな鳥の親の情愛と人間味(?)あふれる姿に感動した。
 最近の一部の人間の親よりも…などといってはいけないが。
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光の道―七ツ石山

2019-03-22 15:25:43 | 山歩き
 二日目、ゆっくりゆっくり雲取山頂に登り返すと、絶好の快晴。先に出発したおじいちゃんと孫が、遠方の山並みと展望案内板を見比べていた。「南アルプス見えませんね」と言ったら、「いえ、うっすらと見えていますよ。ほら、あのあたり」と指さされた。ぼくには見えない。双眼鏡は携行するものだ。
 下山は登りとほとんど同じ道だ。違いはひとつだけ、行きは時間短縮のためにまき道を通った七ツ石山に寄ったことだ。これが今回の山登りのハイライトになった。
 雲取から下る途中、小雲取あたりから前方に七ツ石山の広い真っ白な斜面が正面に見えていた。山荘を出てからそこまでの間に、七ツ石に寄ろうか、昨日来た巻き道を戻ろうか迷っていた。もう昨日体力は使ったから下るだけでもいいかな、と思っていた。だが、登山道はあの白い斜面についているはずだ。うん、やはり、登ろう。
 ブナ坂から、細い道の方に入った。まもなく急登が始まった。ふと右わきを見ると、急斜面に乱れた足跡がついている。何人もが同じところを通った跡でなく、めいめいが勝手に通った跡。頂上に向かって直登した人たちがいるのだ。
 ぼくもやってみよう、と思った。登山道を逸れて右に踏み込んだ。最初は、その方が登りやすいから、踏み跡の上を選んで歩いた。でも、昨日今日の跡ではないらしく、浅いし、とぎれとぎれについている。途中から、ぼくも勝手に歩くことにした。
 北西の斜面なので雪は深い。山頂は南東方向にある。ちょうど、太陽が山頂のすぐ上にあって、ぼくの行く手は白銀に輝いている。太陽と雪の輝きがまぶしくて正面が見られないほどだ。その中を、光に導かれるように、ひと足ずつ慎重に登る。
 いまぼくの履いているアイゼンは夏山の雪渓用の6本爪なので、こんな斜面には保持力が足りない。靴底の真ん中部分に爪がついているので、つま先を雪にけり込んで登ることができない。若い頃持っていた10本爪なら、もっと楽に登れたろう。仕方なく、斜面に平行に上からたたきつけるように足を踏み込んで、両手のストックを頼りに登るが、かなり頼りない。
 途中で下を見たら、思った以上に急斜面に見える。「落ちたら、下のあのあたりの樹林にそのまま突っ込むな」、と思う。一巻の終わりかもしれない。前は相変わらず、光の斜面が続いている。否応なしに心拍数が上がる。
 頂上直下で、無意識のうちに左の方に逃げていたらしく、かなり登山道に近づいているのに気づいた。頂上は右手だ。斜めに進むのは直登よりもっと怖いので、そこで冒険は断念して道に合流した。
 山頂まで、標高差約100m、コースタイムで20分のところ、ほぼ1時間かかった。
 山頂は暖かく静かで、大きな標柱に寄りかかって腰を下ろして息を整えた。ぼくだけの、純白の小天地。天国のようだ、とマジに思った。そうだ、今日は時間はたっぷりあるはずだからここでのんびりお昼にしよう、ココアも飲もう、とリュックを開いた。
 …祝祭日のような高揚感は、ここで急転直下に終わる。
 リュックの中身を底まで出して捜したが、魔法瓶が無かった。朝、小屋でお湯と水をもらって、ペットボトルだけ持って魔法瓶を忘れてきたのだ。
 前夜、マッキンレー登山の同じ歳のおじさんが、「ラーメン食べようと思ってリュックを探したけど魔法瓶がなくてさ。お湯を入れて家に忘れてきちゃったんだよね。いやあ、こんなことが最近多くて。百回記念の気分が台無しさ」と言ったのをみんなで楽しく笑ったのを思い出して、高揚が一気に引いた。
 彼の魔法瓶は家に帰ればあるけれど、ぼくのは小屋に戻らなければない。戻れない時間ではないのだが、もう戻るだけの気力はない。
 仕方なく昨日の残りのお稲荷を食い、チーズとチョコをかじって水を飲んで下山することにした。
あとは、うんざりするほど長い下り坂があるだけだった。
 バス停に12時ちょうどについた。バスの時間まで2時間ある。湖面まで降りてみた。大きな多摩湖も、このあたりでは広めの川のようだ。濃い緑にやや茶色がかった水が、強い風でさざ波立って、波は上流へと動いていく。まるで逆さに流れているようだ。上流側の湖面が広く光を受けてちらついている。そのさらに奥の上空に、トビだろうか、滑空して輪を書いているいる鳥がいる。
 ヘッセの「シッダールタ」の中に、「流れる水の中にはすべての人、すべての命の声がある」というようなことが書かれていたはずだな、と思った。ここの水は流れてはいないけれど、湖底に家々や神社の跡を沈めたまま、表面はまるで流れているように見える。じっと見ていると懐かしい人の顔は思い浮かぶが、ぼくには声は聞こえない。
 バス停に戻ったら、おじいちゃんと孫の二人連れが到着していた。ベンチに腰を下ろして、気持ちのいい風に吹かれながら、しばし、世間話を楽しんだ。

参考所要時間:雲取山荘スタート6:00、山頂6:47、奥多摩小屋7:32、ブナ坂8:05、七ツ石山9:02、七ツ石小屋9:41、堂所10:25、鴨沢バス停12:01
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雲取山

2019-03-21 13:00:45 | 山歩き
 家でうだうだしていても仕方ないので、一昨日・昨日と、思い切って奥多摩の雲取山2017mに行った。
 この時期、ぼくの体力と装備で本格的に雪のある山に行くのは多少の冒険ではある。雲取山荘に電話で尋ねたら、「1000mくらいから上は雪、山頂付近で積雪50cmくらい、アイゼンは必須」、とのことだった。ぼくは非常用の簡易テントを持っていないので、ちょっと迷ったが、道はしっかりしているはずだし、天気は良さそうなので行くことにした。
 荷物は家を出る時点で約9、5Kgだった。鴨沢バス停で降りたのはぼくを含めて7人だった。9:35に歩き始めた。心拍数を急に上げないように、と医者に言われているので、ゆっくりと歩く。たちまち6人は見えなくなってしまった。
 七つ石の分岐までは緩やかな、しかし長い登りだ。このコースは5回ぐらいは歩いているはずだが、いっそう長く感じる。途中、ところどころに平将門伝説の荒唐無稽な案内板があって気晴らしにはなる。こんなところに昔は人が住んでいたのだ、とびっくりするような廃屋と畑のあとがある。杉の植林と二次林がかわるがわるに現れる。道端に花は無く、蕾は堅い。春はまだ遠い。林試の森でのぼくの樹皮の観察はまだ実地には全然役に立たない。わかるのはブナの樹皮ぐらいだ。新緑の季節は美しいだろうな、と思う。
 七つ石山への分岐の先から雪が出始めたのでアイゼンをつける。標高1500m付近だ。久しぶりのアイゼンで歩くのはキュッと足元が締まって気持ちが良い。巻き道を通って稜線上の鞍部、ブナ坂に出ると、そこから先は陽当たりがいいので雪と泥の混在だ。アイゼンの爪に泥団子がくっついて歩きにくい。
 奥多摩小屋から先、完全な雪中登山になる。小雲取への登りがとてもつらい。登山地図には25分と書いてあるが、とんでもない。50分かかってしまった。ここから先、頂上を経ずに雲取山荘に行く巻き道があるが、踏み込んでみたら雪の中にずぶずぶ足が沈む状態で、いちいち足を高く上げなければならず、すぐに引き返して雲取山頂を経由するコースにした。
 こちらはしっかり踏み固められていて快適だ。ここからはもう標高差80m。左側に山並みの展望の開けた、緩やかで快適な道だ。なだらかな雪の斜面の上に山頂の避難小屋もくっきりと見える。
 山頂からは絶景なのだが、今回は荷物を少しでも軽くするために双眼鏡もデジカメも持ってこなかったので、視力も落ちているぼくには残念ながらどこが何山とはっきりと同定することができない。もっと背負えるだけの体力をつけなければ。
 雲取山荘には深い雪の急斜面を下って16:40についた。コースタイム5h45のところ、7時間5分かかった。
 バス停からの前半は前後しながら歩いていたおじいちゃんと小6の孫の二人組がいて、途中でおじいちゃんが「ゆっくり行って6時ごろには着きますから、小屋にそう伝えておいてください」と言う。このあたりの山はよく知っている人らしい。5時過ぎても、夕食時間になっても到着せず、心配していたが、ちょうど6:00ごろ、もうあたりが暗くなり始める中を到着した。「ああいう登り方もあるのだな。ぼくもこれから見習えば、少しでも早く小屋につかねば、などと焦らずに登れてよいかもな」と感心した。
 食事後、ぼくを含めて4人でストーブに当たりながら山談義をした。
 ぼくと相部屋の人は両耳にリング状のピアスをした若い男で、すごく静かなやさしい口調の、気持ちのいいしゃべり方をしていた。冬山はほとんど未経験だが、キリマンジャロには登ったと言っていた。山麓から往復50キロを5日間かけて歩くのだそうだ。雲取には奥多摩から石尾根を何度か登ったという。これはすごい。下る人はいても登る人はあまりいないはずのロングコースだ。
 ひとりはぼくと同じ年の男で、雲取は今日が百回目、マイ記念登山だそうだ。すごい! マッキンレー(デナリ)にはツアーで登った。途中でバテてガイドのソリに荷物を一部運んでもらった、と言っていた。
 いま一人は、大型カメラに望遠レンズに三脚の、山のような荷物を背負って登っていた、あまりしゃべらない大柄な男だ。いつもカメラを背負って登るという
 いやあ、あのお孫さん連れも含めて、みんなすごい。やっとこ登っているのはぼくだけのようだ。(自分で言ってしまうけど、やっとこ、というのもそれなりにすごいのだ。)

参考所要時間:鴨沢スタート9:35、堂所12:12(昼食)、七つ石分岐13:20、アイゼン着ける13:32、ブナ坂14:15、奥多摩小屋14:56、巻き道分岐15:50、雲取山頂16:20、山荘着16:40
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「美しいドーンの岸辺」

2019-03-17 22:23:19 | 音楽の楽しみー歌
 志(こころざし)の衰えている日には、イギリス民謡がぼくの慰めだ。そういえば、民謡ではなくて比較的最近の歌だが、「心が歌を忘れてすべてが辛くても~」という歌もあったな。あれはアイルランドだ。
 アイルランドにも「柳の苑生」とか「なつかしき愛の歌」とか「ダニー・ボーイ」とか「春の日の花と輝く」とか「庭の千草」とか、心に沁みる美しい歌がいっぱいあるが、こういう日にはぼくの好みはどちらかというとスコットランド民謡だ。「故郷の空」とか「つりがね草」とか「アニー・ローリー」とか「アフトンの流れ」とか。
中でも大好きなのが、「ロッホ・ローモンド」と「美しいドーンの岸辺」だ。
 これらを、ぼくのへたくそなマンドリンであっても、弾きながら歌っていると(本人は)たいへん気持ちよく、憂いが和らぎ、心が安らぐ。
 「美しいドーンの岸辺」は、ウイリアム・コールの「イギリス民謡集」に楽譜と歌詞が載っている。作詞は「蛍の光」を書いた詩人ロバート・バーンズで、作曲は1788年にチャールズ・ミラーによってなされたとされている(バーンズは有名な詩人だが、ミラーの方はどういう人か知らない)。
 ソ・ラ・シ・レ・ミの五音音階で、曲調も「蛍の光」に似ている。ただし、こちらは女性の失恋の歌だ。

美しいドーン川の岸辺よ、なぞえ(斜面)よ
なぜおまえはそんなにあざやかに花咲くことができるの?
なぜさえずることができるの 小鳥たちよ
私はこんなに悲しみに沈んでいるのに
花咲く野ばらの上で歌う鳥よ
お前は私の心を引き裂くの
過ぎ去った喜びを思い出させるから
二度と戻らない喜びを

美しいドーンの岸辺をたびたびそぞろ歩いたものよ
絡み合った野ばらとスイカズラをさがして
鳥たちはみな恋の歌をうたい
私も浅はかにも私の恋を歌ったわ
甘い香りあふれるバラの木から
幸せいっぱいにバラの花を摘んだのに
不実な恋人は私のバラを盗んで
私には刺だけを残していったの

 へたくそな訳なので美しさが伝わらないと思うが、残念だ。
 悲しい詞なのに、いわゆるヨナ抜き(長)音階に特有の伸びやかな明るいメロディーだ。五音音階は癒しの音階だ。
 ソプラノの波多野睦美がつのだたかしのリュートの伴奏で歌ったCD(「サリー・ガーデン」)がある。ぼくの子守唄代わりの一枚でもある。残念ながら、YouTube にはないようだ。
 ネットで調べたら、ドーン川の本当に美しい写真が見つかった。いつかスコットランドを訪れて、ローモンド湖とドーン川を尋ねてみたいものだと思ったこともあるが、いまから英語の勉強をし直すのは面倒くさい気がする。
 ぼくの願望はあまり強くはない。歌って気が晴れていればそれでいいかも。
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前向きの言葉

2019-03-16 21:12:59 | つぶやき
 時には、前向きの言葉を書きたくない、話したくない、と思うことがある。強いて前向きの言葉を書こうと、しゃべろうと、すると、気持ちのどこかが抵抗する。体のどこかも抵抗する。
 昨日、ある集まりに行って、「ぼくはこのごろ、生きていくのが少しめんどくさくなったような気がします」と言ったら、驚かれた(まあ、当たり前だろうが)。冗談だと思った人もいるようだ。
 なるべく明るく軽くさらっと言ったのだが、それでも、言えてよかったと本人は思っている。
 ぼくより少し年上の人たちの集まりで、ぼくは若くて元気者で、と思われているのだが、そこに行くと逆にぼくの方が元気をもらうのだが、昨日は、元気をいただいた反動か、あとですごく疲れを感じた。
 ぼくは、ブログを読んでくれる人が、いつも明るい気持ちになれるような、そういうものを書き続けるのはしんどいからいやだ(これまでだって全然そうなっていないのだから、あえてこうして書く必要もないのだが)。
 「そんなの読みたくない」と言われたら、それはそれで仕方がない。弱いところのある人間は、弱いところを隠さずに出せる方がいい。強いて前向きなものを書くのでは、何のために書いているのか分からない。ぼく自身は、前向き一辺倒のものはちょっと読みたくないな、と思う。
 「頑張らなくていいんだよ」というのは、優しい言葉だ。
 今ちょっと虚脱している。ほとんど、山のガイドブックや地図や図鑑をパラパラめくるくらいのことをして一日が過ぎてしまう。山登りに行くのさえなんだか億劫だ。
 ベッドに敷き込んだ寝袋に潜り込んで、せせらぎの音のCDを聴いている。
 まあ、もう2日か3日うだうだして、何かするのはその後にしよう。
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夢の土地・夢の家

2019-03-13 10:03:48 | 夢の記
 夢の中で、かつて住んだ土地、住んだ家(と、夢の中の自分が思っているもの)を繰り返し見ることがある。ほとんどは、同じ土地、同じ家なのだが、これがなぜか、現実の家や土地とは全然違う。
 今住んでいるこの場所に、ぼくは小学校6年から、家を出て一人暮らしを始めるまで、約8年間住んだ。震災の直前に戻ってきたのだが、ここにいない間、何度もこの周辺のことを、そして少年時代のぼくを、夢の中で見ていた。
 夢の中の目黒はいつも同じで、ぼくはその略図を書くことができる。家の前をまっすぐ南に行くと、分かれ道になる。右に行く道は緩くカーブして再び分かれ、左の道は線路を越え、右は線路沿いにしばらく行ってから大きく回って家の北側に戻ってくる。
 はじめに分かれた左の道は小さな川を渡り、公園のような広い淋しい住宅地域をぐるりと回り(しばしば日暮れで、街灯が点き始めていた)、その向こう側は、柵があって入ることのできない森が広がり、柵沿いに辿っていくと小さな稲荷社があり、もう一度川を渡って家の方に戻ってくる。夢の中でぼくはよく自転車で走っている。
 この夢が気になっていたので、じつは目黒に戻ってきてから、歩いて確かめて見たのだが、整合性は認められなかった。線路はたぶん今は地下化している目黒線だろうが、川などは痕跡もない。そのような稲荷社もない。 
 子供の頃に住んだ家(と、夢の中で思っている家)も現実の家と全然違う。三つに分割されて売られてしまう前の、現実の家の間取りをよく覚えているが、夢の中の、それとはまったく違う家の間取りを、ぼくはやはり略図に書くことができる。
 東側に玄関があり、そこから南側に広い縁側が続き、それと斜めに北西に向かって廊下があり、廊下の突き当りにトイレがあり、廊下の北側に風呂や納戸や台所があり、縁側と廊下に挟まれて居間や客間や空き部屋が並んでいる。
ここまでは甲府にあった叔母(父の妹)の家の造りに近いのだが(廊下は斜めではなく、縁側はなかったが)、大きく違うのは、夢の中の家では、その母屋の西側に渡り廊下が南に長く伸びていて、途中がガラス張りの温室のようになっていて、左側に庭が、右側に竹藪があり、廊下の先は小さな石の土間と出入り口になっていることだ。
 夢の中の甲府の町も、現実の甲府の町と全然違っている。どう違うのかは、もう読むのが面倒くさいだろうから詳しくは書かないが、これも略図を書くことができる。夢の中の甲府はずっと緑が豊かで、叔父(母の弟)の住んでいた長屋は、その区画一帯が低い生垣に囲まれていて、家も長屋ではなく小さな戸建てがそれぞれ花の咲く生垣に囲まれていて、まるで家庭菜園のようだった。
 ここからが本題。
 なぜ、実際とは違う家や土地を、繰り返し見るのだろうか? しかも子供の頃の自分自身をその中に入れて。
 いちど見た夢、夢の中で「ああ、これは子供の頃の家だ」と間違えて思い込んでしまった夢は、脳の中の記憶回路のどこかに保存されていて、いわばプリント、というか、焼き付け、されていて、だから繰り返し見るのだろうか? しかもそれは現実(例えば、大きな家が三分割されてしまったとか、ごちゃごちゃした長屋であるとか)よりは好ましく、幸福感に近いから(例えば、温室があるとか、花の咲く生垣とか、小川とか)、無意識がそちらの方を選択してしまったのだろうか?
 それともそれは、このぼくでなく、もう記憶にない過去世のぼくが実際に生きた家や土地の、その切れ切れの断片なのだろうか? 
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帰り着いた夢

2019-03-11 09:54:09 | 夢の記
 あたり一面の雪の中だった。山の頂のようなところではなく、緩やかな広い斜面の、ところどころに枯れた木があった。
 雪の中をそう苦労もせず歩いていて、ふと顔を上げると、縁に毛のついたフードをかぶった、マントを着た人が、向こう向きのまま立っていた。足を止めたぼくに、そのまま、こちらを向かずに、「やあ、やっと帰って来たね」と言った。よく響く、明るい大きな声だった。
 ぼくは、相手が誰だかわからないので、戸惑ってあいまいに返事をした。「もう、ここから先、行かなくてもいいのだ」と思った。

 …そこで目が覚めた。短いが、衝撃的な夢だった。
 今まで、繰り返し、泥道を、冷たい雨の中を、どこだかわからない暗い道を、必死になって歩いていて、どこに向かっているのか分からない、辿り着きたい場所、帰り着きたい場所があるのだが、そこがどこなのかわからない、という夢を見てきた。
 「夢の中のぼくが還るべき場所に帰りつく、ということがしばしば起こるようになったら、現実世界のぼくもまた、帰るべき場所を見つけて帰って行く、つまり人生を終える、ということかもしれない」と書いた(18/04/30)。
 今朝方の夢は、その初めのひとつかもしれない。
 あれはどこで、あのマントを着た人は誰だったろう。フードの縁の毛の輪が、光背のようにも見えなくはなかったかもしれない。彼が振り返ってこちらを向いたら…「もう、ここから先は行かなくていい」のかもしれない。
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あたゝかき光はあれど

2019-03-09 14:39:42 | 山歩き
 毎晩寝る前に呑む花粉症の薬のせいか、朝起きるのがしんどい。注意書きに「アルコール類は薬の作用を強めることがあるので控えてください」と書いてあるのだが、長年の習慣が抜けず、寝酒と併用しているせいか。
 昨日は、雨の晴れ間を有効活用して奥多摩の川苔山に行く予定で、いったん5:30に起きたのだが、堪らず二度寝をしてしまった。仕方なく、いつもの高尾山・城山に行った。
 高尾山口駅10:45という遅い出発になった(高尾は、そういうことができる手ごろな山でもある)。
 よく寝たためか、体調は良好で、本山を経て城山山頂までノンストップで2h15で登った。前日の雨で一部道がぬかっていたが、日差しは明るく、寒くもなく快適だった。
 この頃ぼくは基本的には長袖のポリエステルのアンダーウエアに半そでのを重ねて、その上に同じくポリエステルの薄手のシャツを着ているが、歩いている限りこれでも袖をめくって歩くくらいだった。
 高尾山については何度も書いているから、詳しくは書かない。去年の台風の倒木が片付けられて、道は回復している。春の花はまだ見られない。
 そのまま景信山まで足を延ばそうかな、と思ったが、出発が遅かったので見合わせた。
 城山茶屋の下の草地に恐る恐る腰を下ろしてみた。朝からの日差しをたっぷり受けためか、湿り気は感じない。シートを敷いて横になって、しばし日光浴をした。最高に良い気持ち!
 かたわらに茶屋の人がスイセンを植えた花壇があって、黄色や紫や白のかわいい花が咲き始めていた。みっしり植えてあるから、満開になったらさぞ美しいことだろう。あと2週間くらいだろうか?
 本山まで戻り、3号路、2号路、清滝コースを経由して駅に戻った。
 3号路は、だれ一人にも会わない静かな道だった。
 光明るい暖かな一日だったが、花粉はいっぱい飛んでいるらしく、ずっと鼻をかみながらの山歩きだった。ティッシュペーパーを3パックも使った。
 花粉症がひどいっていうのに、この時期の高尾に、雨上がりに行くなんてね。
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「秘密の花園」

2019-03-07 21:04:17 | 読書の楽しみ
 子供の頃、児童文学をたくさん読んでおいてよかった。それは今でも僕の大切な財産だし、それだけでなく、ぼくはかつて危機的な状況にあって、その時子供の頃の読書体験に支えられて生きてきたと思う。
 田舎の、祖父の暮らす離れの座敷には、書棚に少年少女世界文学全集と、同じく日本文学全集があった。祖父がそれを読んだかどうか知らない。祖父は当時すでにほとんど口がきけなかった。「長男は家業を継ぐのだから学問の必要はない」という理由で高等教育を受けさせてもらえなかった祖父は、少年少女~が唯一可能な読み物だったかもしれない。
 ぼくはその本を片っ端から読んだ。「ロビンソンクルーソー」も「トムソーヤ」も「若草物語」も「十五少年」も「宝島」も「巌窟王」も、「源平盛衰記」も「里見八犬伝」も「次郎物語」も…その多くはダイジェスト版だったかもしれないが。
 最近、バーネットの「秘密の花園」を読み直した。岩波少年文庫の新訳が2005年に出ていて、旧版でも読んでいるから、少なくとも3度目だ。改めて、大いに感銘を受けながら、かつ納得しながら読んだ。
 簡単に書くが、同じ著者の「小公子」、「小公女」とは大きく異なる点が二つある。
 前2作はいずれも、主人公が純真で愛らしくて利発で人懐こくて思いやりに満ちていて、だれもが彼らを好きにならずにはいられない存在であり、彼らと接することによって、頑なな心を閉ざした人たちが幸福になってゆく、という話なのに対して、「花園」の主人公メアリは、裕福な家庭ながら親に愛されないで育った、人に命令することしか知らない、不健康で意地悪で癇癪もちでやさしさのかけらもない、可愛げのない子供だということだ。あとで登場する彼女のいとこコリンは、それに輪をかけたような子供だ。
 物語は、この二人が次第に、人の心の分かる、明るくて健康な子供に育ってゆく過程なのだが、そのために契機となる人物が何人かいる。中でも重要なのが、女中のマーサの弟のディコンと、母親のスーザンだ。
 二人とも、素朴で優しくて思いやりに満ちていて、「小公子」のセドリックや「小公女」のセアラのような、誰もが好きにならずにはいられない存在で、メアリとコリンはこの二人とのかかわりを通して変わってゆく。
 …というと、まるで主客を入れ替えただけ、のように思われるかもしれないが、ここで前2作と異なる第二の点が重要だ。それは、自然の持つ働きだ。
 新鮮な空気、季節とともによみがえり、芽を出し、育ち、花を咲かせる植物たち、人間と心を通わせることのできる小動物たち、それらに囲まれ、それらの中で遊んだり働いたりすることを通して、人は少しずつ、体と心の健康を取り戻してゆく。その自然の描写も大変美しい。
 自然は、人が健やかに育つために、健やかに生きていくために、必須なのだ。
 それは現代でも変わらないはずだ。
 だから、ぼくたちの生きているこの社会は、深刻な困難な問題のただなかにある。自然から力をもらえなくなってしまったからだ。
 皆さん、「秘密の花園」読みましょう。岩波少年文庫に入っています。
 今の子供は本を読んでいるかなあ。インターネットをする時間が小学生で平均約2時間、というニュースを先日していたが、本も読んでないし、ましてや自然の中で遊んでいないのだろうなあ。
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樹皮

2019-03-06 22:35:43 | 自然・季節
 昨日は別に用事があったので、今日午後、林試の森の東半分の樹木を見てきた。雨が上がっていたので、一昨日よりはゆっくりノートも付けることができた。一昨日のものは別にして約50種類。頭の中がごちゃごちゃになって、一昨日わかったつもりになっていたものもわからなくなった。まあ時間はかかることと思おう。
 去年、武蔵小山駅の近くの古本屋で、原色牧野植物大図鑑が店頭にあるのを見つけて買った。昭和61年の発行のもので、定価は36000円がなんと2000円! 若い頃、自然教室の仲間たちの真似をしてポケット版牧野は持っていたが、あれは色がついていないので、農大生とか植物学科の学生でなければ使いこなせないものだった。原色牧野は欲しかったが、お値段的に手に入らないものだった。「2000円で手に入った! 家宝だ!」と仲間にはメールしたが、大きく重く、携行できるような代物ではなく、やや宝の持ち腐れ感があった。また、写真を撮ってきて家で探すといっても、膨大過ぎてすぐにめんどくさくなり、けっきょく、自然教育園とか小石川植物園とかを歩いた時に名前のプレートのついた植物名を書いてきて家に帰ってからそのページを開いてみる、という使い方がせいぜいだった。
 原色牧野は、花や葉や実や枝は詳しく書かれているから、今のようにそれらがない時期、名前のプレートと樹皮しかわからない時に、たとえば「ヤマナラシというのはこういう花が咲いてこういう実がつくのか」とか納得するのには便利だ(それで覚えられるわけではもちろんないが)。
 樹皮についていえば、文一総合出版というところから「樹皮ハンドブック」という薄くて持ち運びに便利な本が出ている。薄い本なので扱われているのは一般的な樹木158種類で、林試の森は元が林業試験場だから大変珍しいものや外国から移植したものも多く、この本に載っていないものもあるが、それはまあ、覚えなくてもいいだろう。
 この本のたいへんに良いところは、同じ木の若木、成木、老木、の3種類の写真をのせていることだ。人間と同じに木も成育の度合いによって見た目が全然違う。例えばケヤキの若い幹は灰色で滑らかだが、成長すると褐色が強くなってところどころ剥がれる。一昨日書いたカツラなどは、若木はなめらかで横長のすじだが、成木は縦に避けて剥がれていて、同じ木と思えないほど違う。アカメガシワの若木は縦のすじだが、成木の木肌はひし形模様が大変美しい、などなど。はまると相当面白いことと思う。
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鈴懸の径

2019-03-04 21:10:52 | 自然・季節
 もう春が来るのかと思ったら二日続けて冷たい雨だ。土・日に友人たちと一泊で三ツ峠山に行く予定だったのに、天気が悪いので取りやめになった。土曜日は、足を延ばして葛飾の水元公園に行った。昨日は一日家にいたが、二日も閉じこもっているのはいたたまれないので、今日は雨の中を近くの林試の森まで行った。
 林試の森まで行って、ふと思った。「ぼくはしょっちゅうここに来るのに、しかもここは元は林業試験場だけあって、様々な樹木が大木に育っていて、主な木には名前を書いたプレートまでつけられているのに、ぼくはちっとも知らないじゃないか」と。
 それで、傘を差しながら名前をフィールドノートに書き、幹にさわり、分かりやすいものは特徴も書き、他の木と比べて眺めてみることにした。
 林試の森は東西に細長く、ほぼ真ん中に南北方向に谷があって二つに分かれている。公園の西半分、家から近い方だけ書いたらフィールドノートのページが濡れて文字が書けなくなったので、今日はそれだけにした。ほぼ40種類になった。
 意識してみると、木は幹によってかなり違いがある。色とか、触感の違いとか、模様とか、木肌の剥げ方とか、姿とか。落葉樹はこの時期は花も葉もないのだが、幹の特徴だけで区別がつくものもあるようだ。すぐには覚えられないのは当たり前だが、何回か同じ作業をすればだんだんわかるようになるだろう。この歳になってもぼくはまだ、いろんなことが、少しずつ勉強のレベルだ(少しずつ勉強は楽しいが)。
 こちらの入り口に比較的近いところに、南北に、スズカケの並木がある。短い並木道だが、樹高30mはあろうかと思われる、すごい大木が並んでいる。初夏には、新緑のとても美しいところだ(「新緑の美しさのベスト3は、ブナとカツラとスズカケかもしれない」とひそかに思っている)。
 ここにはスズカケノキとアメリカスズカケノキとモミジバスズカケノキが混じっていて、その見分け方の解説板がある。ポイントは、木肌の剥がれ具合と、実のつき方と、葉の形だ。でも、もう少し東寄りにもスズカケの大木が3本あるが、今の時期、木肌だけで区別するのはちょっと微妙だ。

 そうだ、こんど老人クラブでみなさんと、灰田勝彦の昭和17年のヒット曲「鈴懸の径」を歌うことにしよう。戦時中とは思えない、いい曲だ。
 
 もう少し先に、スズカケの実に似た形の、もう少し黒っぽい実をいっぱい落としている木があった。管理等に持って行って訊いたら、「フウ」という木だそうだ。特徴や、スズカケの実との違いをていねいに教えてくれた。フウは漢字で「楓」と書くそうだ。カエデも「楓」だからややこしい。
 教えてくれた女性に「こんな雨の日にありがとうございます。また訪ねてください」と言われた。そうだ、こんど、観察会に参加してみよう。確か、2か月に一度だったけど。

 林試の森はふだんは思い思いに運動する人でにぎわっているが、こんな寒い雨の日にはほとんど人がいなくて、これもまた静かに心に沁みて良いものだ。
 野帳をつけたりしていたからびしょ濡れになったけどね。
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