すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

「ワールドカップ、やめようよ」

2018-06-25 04:00:20 | 社会・現代
 今から8年前の6月に、ぼくは古いブログに以下のような記事を書いている。
 今、新しい記事を書いている時間がないから、この古い記事を再録しておくことにする。ここに書かれたことはそっくりそのまま今も生きている。
 いや、状況はさらに悪くなっている。マスコミはさらに競争でこれを取り上げ、若者はこれで憂さを晴らす。人々はますます愛国的に・刹那的になってゆく。そして、この社会の現在は、未来は、意識から遠ざけられる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ワールドカップが始まってしまいました。これが始まるとニュースがこれだらけになるんですよね。とくにNHKがひどい。今日の番組表を見ると、19:30~20:45までと、22:00~1:00までがワールドカップ特集。この他に定時の番組で朝からやっている。オリンピックもそうだけれど、「そんなに盛り上がらなくてもいいじゃない」、と思ってしまう。
 オリンピックとワールドカップ、やめようよ。
 あ、訂正。そういう大会自体は、あってもいい。過剰に盛り上がるのは、やめようよ。そして、こんな場面でだけ愛国者になるのはやめようよ。とくにマスコミと、それに振り回されている人たち。
 スポーツでむやみに盛り上がるのは、愚民政策ですよ。
 政策と言うのは正確ではないかな。日本の政権が、意図的にスポーツを盛り上げているとは言えないだろうから。むしろ、経済の都合と言ったほうがいいかもしれない。
 アフリカや中南米などの貧しい国、北朝鮮のような独裁的な国では、政治家や国家が貧しい人たちの不満をそらすために、批判をそらすために、スポーツを盛り上げる。サッカーはその最たるものです。
 だから、報道で過剰に盛り上げれば盛り上げるほど、その国が貧しくて矛盾に満ちている証拠のようなものです。最近の日本は、ちょっとひどい。
 (オリンピックで高橋大輔が銅メダルをとったとき、NHKは19:00のニュースの冒頭から17分間、そのことを報じていた。同じ日にフランスのスキー選手二人が金メダルを取ったけど、フランスのニュースでは後半のスポーツコーナーで2分間報じただけだった。
 また、「今回のワールドカップでフランスチームは決勝ラウンドに進むと思うか?」というアンケートに、57.9%がノンと答えている。ウイは20.4%、わからないが21.4%。フランスの方が、マスコミも大衆も、ずっと冷静です。)

 アフリカに行くと裏町のちょっとした空き地で、あるいは路上で、少年たちが裸足でサッカーをしている。ベコベコに空気の抜けたゴムボールを蹴っているのはマシな方で、ぼろ布や、時にはバナナの葉などを丸めて縛ったものを蹴っている。サッカーは道具の要らない、どこででもできるスポーツである。そうして彼らは、いつかスター選手になり、ヨーロッパリーグでプレーし、大金持ちになり、英雄になることを夢見ている。
 その夢をかなえられなかった人たちは、TVやラジオのサッカー中継に熱中し、声を嗄らして叫び、時にはフーリガンになり、自分たちの貧しさや、社会の矛盾や格差や政治家の腐敗や…を忘れる。
 アフリカだけの話ではありません。さっきフランスは日本より冷静と書いたけれど、例えばフランスへ行くと、パリをぐるりと取り囲む、バンリュー(郊外)と呼ばれる地域があります。移民労働者の家族の住む割合が極端に高い地域です。人々はH.L.M.(低家賃集合住宅)に住み、そこにはろくな文化施設などなく、交通の便が悪いので華やかなパリ市内から切り離されていて、楽しみといったらサッカーに熱中するぐらいしかない。
 何年か前にパリ郊外で警察に不審尋問された少年たちが変電所に逃げ込み、二人が感電死、一人が重傷を負う事件が起きました、三人とも移民労働者の子供で、サッカーの帰りに工事現場に入り込んだのでした。
 (この事件は当時のサルコジ内相の強権的弾圧のせいもあって、フランス全土に騒乱を巻き起こしたので、日本でも報道されたはずです。)
 貧しい階層の子供たちが、サッカーを夢見ている。
 おそらく、ドイツやイギリスのフーリガンたちも、同じように貧しい地域に住む、サッカーに熱中するほかに不満の持って行き場のない人たちなのだろうと思います。

 日本は関係ない話、ではありません。格差がどんどん広がって、失業や就職難が増大していく中で、人々は大勢でTVの前に集まって、声を嗄らして叫ぶほかに憂さの晴らし方がわからなくなっている。あの「イエーイ!」というわけのわからない一斉の叫びは、判断の・思考の停止以外のものではないでしょう。あの人たちが、これからだんだんフーリガン化していく可能性は高い。すでに浦和で、他所で、始まっている。
 サッカーも、他のスポーツも、一流選手になることができ、ヒーローになることができるのは、スポーツ留学などの英才教育を受けられる一部の恵まれた子供たちだけでしょう。圧倒的に大部分の子供たちは、声を嗄らして憂さ晴らしをする若者に、大人に、なるしかない。
 そして、日本全体がだんだんそういう熱狂に浮かされるようになってきている。
 安価な使い捨ての労働力を利用しようとする産業界にとっては、好都合かもしれないけれど。

 もう少し覚めた目で、この国の現在と行く末を見ようじゃないですか。(10/06/11)
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残念ながら・・・

2018-06-23 22:54:49 | 近況報告
 このブログは今日でちょうど100回目なのだが、残念ながら、ちょっと集中してやらねばならないことがあって、いまから一か月ほど、いや、たぶんそれでは足りないだろうから、二か月ほど、お休みすることにする。
 その間、体力の維持のための、というより精神のバランスの維持のための山登りには行くつもりだが、それ以外のことはかなりできなくなる。集中して本を読むのもしばらくはできなくなるだろう。
 ぼくは思考能力は強くないので、ぼんやり頭の中に浮かぶことをある程度きちんと考えとして整理するためには、このブログの記事を書くことはとても重要なのだが、それも一時停止になるのは仕方がない。
 やりたくないことを仕方なくやる、というわけではなく、やろうやろうと前から心にかかっていて、仕事をやめたら、と思っていたのにここまでズルズル延ばしてきたことを、やっとやる決心がついたというわけ。
 だから良いことなのだけれど、夏中これにかかるかもしれないと思うと、気が重くもある。
 その間はブログは、まあ時たま、3行ぐらいの断片だけ書ければよいかな。あと、気分転換のためにね。
 それでは。
 秋風の吹く頃に。
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補足

2018-06-19 22:39:41 | 社会・現代
 先日から引用させていただいている杉山春さんの旧著「ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか」(小学館文庫)を読んだ。
 これは、2000年に愛知県で起きた、三歳の女の子が段ボール箱に入れられ、ミイラのようになって餓死した事件を追ったルポルタージュで、小学館ノンフィクション大賞を受賞している。
 両親(事件当時ともに21歳)の成育歴だけでなくその親たちの成育歴から追った、たいへん考えさせられるところの多い重い書物だが、今まで書いてきたことの繰り返しになるので、この本自体の紹介はしないでおく。
 そのかわり、と言っては何だが、文庫本解説を書いている野村進氏の文章を引用させていただく。これも、大変重い文章だ。
 野村氏も、ぼくが「社会が病んでいる」(06/07)で書いたのとまったく同じような母と子の姿を目撃したことから書き始めている。そこでは、母親のののしり声は、「早く来いって言うんだよ!てめえ、ぶっ殺されてえのか!」となっている。

 …わたしが付き合う機会の多いアジアの留学生たちからは、こんな質問を受ける。
 「どうして日本人は、親が子供、殺しますか? そして、子供が親、殺しますか? わたしの国では絶対ありません」
 来日して一番ショックだったのはこのことだと、ベトナム人の留学生も、モンゴル人の留学生も、中国人(正確に言えば中国・朝鮮族)の留学生も口をそろえた。私たちは、子殺しや親殺しのニュースに驚かなくなって久しいが、アジアの、とりわけ“発展途上国”から来た留学生にとっては、頭を棍棒で殴られたような衝撃を受けるようだ。
 日本も昔はこうではなかった。明治時代の初期に来日した欧米人たちは、日本人が朝から晩まで子供らの世話を焼き、人目もはばからず我が子を慈しむ姿に感銘を受け、しばしば滞在記に書き留めている。それがいつごろ、なぜ変わったのか。
 次から次へと起きるショッキングな事件をマスコミ経由で知らされる私たちは、異常な事件は、自分とは縁もゆかりもない異常な人間がしでかした凶行と何となく結論づけ、そうやって自分をまたなんとなく納得させて、すぐに忘れ去る習慣を身に付けてきた。…
 
 ここで触れられている、欧米人から見た明治時代の日本人の姿については、「逝きし世の面影」渡辺京二著、に、感動的に記されている(実は、大変分厚い本であって、ぼくも一部しか読んでいないのだが、今度読み直してみたい)。渡辺京二さんは、先日亡くなった石牟礼道子さんを支えた人としても良く知られている。
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二番絞り

2018-06-17 08:32:41 | 社会・現代
 昨日引用した杉山春さんの著書は児童虐待のいくつかの事件とその事件の起きる要因をルポルタージュしたものだが、その過程で様々な問題が浮かび上がる。
 昨日引用した非正規雇用の増加の問題とは別に、ひとり親家庭の、その多くはシングルマザーの、貧困の問題。労働力不足を補うための外国人労働者の、特に技能実習制度の問題。そして当然、幼時に虐待を受けて育った人間や、発達障害などのハンディキャップを抱えた人間の、社会の中での生きにくさの問題。
 そしてこれらの問題は、相互に絡み合って、問題を一層複雑に、解き難いものにする。
 例えば、これも同書からの引用になるが:

 「非正規労働者の約7割が女性だ。…ひとり親世帯の相対的貧困率は54.6%…ひとり親世帯の85%が母子家庭であり、母子家庭の就業率が80.6%であることを考え合わせると、シングルマザーの場合、働くことが貧困から抜け出すことに結びつかない。…20台のシングルマザーの貧困率は8割近い」

 技能実習制度が深刻な不当労働を招き、被害者がけがや病気になったり、過酷な状況に耐えかねて脱走して不法滞在者になったりしていることは、国内だけでなく、国際的にも批判されている。
 ブドウを圧搾機にかけて絞り上げる。ブドウ液が出なくなるまで絞ったところで、固まりになった絞りかすに水を足してかき混ぜて、もう一回絞り上げる。すると、薄いブドウ液が出て来る。これを二番絞りという。
(すみません。ぼくの知っているのは、ぼくの子供の頃、だから今から60年ぐらい前の山梨の古い技術です。今はもっと進んでいるのでしょう。でも、原理的には変わらない。いや、もっと徹底的に絞るようになっているはず。)

 経済的効率を追求し、そうしやすいように政策が整えられ、それが当たり前と思うような価値観が醸し出され、現在の日本の弱者は、二番絞りに掛けられているのだと思う。
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「だれでもよかった」

2018-06-16 22:54:06 | 社会・現代
 ある男のことが頭の片隅に引っかかっている。その男を擁護したり酌量したいわけではない。彼は厳しく裁かれねばならない。被害者の家族の無念さや怒りや、いつ被害にあうかもしれない市民の不安や恐怖は言うまでもない。だが一方で、「これは別の意味で容易ならぬことだ」と頭のどこかで感じている。
 新幹線の車内で無差別殺傷事件を犯した男のことだ。
 捜査が、というか、裁判になって審理が進まなければ問題の全容はわからないことだが、これまでの報道を見る限り、彼の成育歴と、彼の社会の見方が、いいかえれば、家族の在り方と社会の在り方が、かなりの重要度でかかわっているのではないかと思う。
 ぼくの乏しい脳力では、その事に言及しない方が良いかもしれない。だが、一般論として少し考えておきたい。
 「むしゃくしゃしてやった。だれでもよかった」という言葉には、彼の精神の異常さや知能の弱さよりもむしろ、社会に対する憎悪や、自分の境遇に対する希望のなさが含まれていると思う。(犯行に至るまでの彼の家庭や職歴などについて、報道されていることをここで繰り返すのは避ける。)
 先日書いた「CM等で欲求が、あるいは欲望や希望がすぐ叶えられる錯覚が刷り込まれ続けてきた結果、忍耐不足の暴挙・暴力が増えた」(06/07)というのは、問題の半面であって、他の半面は、「現実には非正規の仕事しかなかったり、仕事があっても安い賃金で、しかも非人間的にこき使われ、取り換えのきく労働力として、生活設計も自己実現の可能性も奪われた境遇の中で貧しく希望もなく生きている人が多い」ことだ。
 目の前に水があるのに、飲もうとするとその水が逃げる、猛烈な渇きにさいなまれる人の話がギリシャ神話かなんかにあったと思う。
 再びアメリカ社会との比較になるが、銃乱射事件の多くは、これは検証したわけではないが、学校に恨みがあったり、交友関係に問題があったり、テロの思想にはまってしまったり、というように、あるていど動機がはっきりしているものが多いように思う。
 その点では、日本の社会の方が病いが深いのかもしれない。ちょうど10年前の6月8日の秋葉原の事件をいやでも思い出す。「だれでもよかった」という人間が銃を持つことができたら、どんな悲惨な状況になることだろう。
 ぼくたちは、異常な思い込みや残忍な性格を持った人間に注意するだけでなく、この社会がその中で生きる人たちにとって、絶望や無感覚の原因にならないように気を付けていなければならない。
 この事件の問題とは少しずれるが、先日題名を挙げた「児童虐待から考える」杉山春著、朝日新書から、少しだけ引用させていただく。

 「――の父親たちの世代は、会社が丸抱えで家族の面倒を見た。ととのった社会福祉が会社を通じて提供され、会社に奉仕をすれば…ケアを担う妻とともに家庭は維持できた。
 しかし、1997~98年の大手金融機関の連鎖倒産の時期を経て、片働きで男性が就労を確保し、女性がケアを担うという日常の支え方が、経済的な力の弱い家庭では、できなくなっていく」
 「厚労省『労働力調査』によれば、2000年には26.0%だった非正規雇用労働者の比率は…2016年現在で37.5%に達している。とくに15歳から24歳の非正規雇用は49.1%にも上る」
 「困難な生い立ちを抱えているものは、さらなる困難を抱えてしまう。さまざまなことを人と共有できなくさせ、周囲から自分自身を隠してしまう」 
 「社会の中に居場所を見いだせないことへの憎悪」
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両神山

2018-06-14 21:31:14 | 山歩き
 昨日、友人と両神山に登ってきた。
 遠かった。
 朝5時に家を出て、待ち合わせ場所まで行って、そこから友人の運転する車で麓まで行って、登り始めたのが9:50.山頂についたのは1:00だった。
 両神は深田久弥の「百名山」に入っていて人気の山だが、ぼくは百を全部登ろう、などとは思わずに同じ山に何度も行くのが好きな方なので、これまで機会がなかった。
 近年、新コースができて日帰りが容易になった。
 ただし、そのコースは地権者の意向で往復同じ道を利用しなければならず、そのことにかなり違和感があったが、道自体はたいへん登りやすい、気持の良い道だった。
 新緑、というにはほんの少し過ぎた、でもまだ若々しいブナとカエデの森で、美しかった。先日書いた「羊と鋼の森」の森に劣らないくらい美しかった。
 山道のいたるところに、秋になると竹トンボのように風に舞う、でも今はまだ若い緑のカエデの種子が落ちていた。この季節に落ちたら、もちろん種子が芽吹くことはない。あれはなぜだろうか。全山で何百万個という数だろう。ちょっと心が痛んだ。
 昨日はよい天気で山頂からの見晴らしは絶好で、遅いお昼を楽しんで下山した。
 機会があったら、山中の小屋で一泊する従来のコースも行ってみたい。岩稜の続く、登りがいのあるコースもある。
 ちょっと遠いけどね。
 ぼくよりずっと体力があって、遠距離でも往復運転して連れて行ってくれる友人がいるのはありがたいことだ。
 少しずつきつめの山にしているのだが、三週続けて山登りしたので、体が慣れてきたようで、だんだん楽になっている。来週は、もし晴れたら、富士山の西方の毛無山1964mに登るつもり。
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「羊と鋼の森」

2018-06-12 14:07:12 | 音楽の楽しみ
 昨日、映画「羊と鋼の森」を見に行ってきた。小説の方は、二か月ほど前に読んでいた。音楽をテーマにした小説を読むのは好きだが、これは中でも、大変気持ちの良い小説だ。
 上映開始3日目だけれど、台風接近中の月曜日の午前の回だから空いているだろうと思って行った。半分くらいの入りで、良い席でゆったりと観ることができた。

 ところで、音楽をテーマにした映画は、ひとつだけ気を付けなければいけないことがある。去年だったか、杏が主演した「オケ老人」を見に行って痛感した。へたくそな集団ないし個人が努力のすえ上手になる、というストーリーのものは、初めのうち、ときにはクライマックスの直前まで延々と、音程の狂った気持ちの悪い演奏を聴かされる羽目になる。あれは、ストーリーの展開のためとはいえ、故意にああいう演奏をしているのだと思う。「もうやめてよね」という感じ。
 その点、昨日の映画は、初めから素晴らしくきれいな音が鳴っていて、嬉しかった。
 映画の中で弾かれるピアノ曲も、ラヴェルの「水の戯れ」とかドビュッシーの「月の光」とかベートーヴェンの「月光」とか、よく知られた名曲が使われていて、久しぶりに聴いて懐かしく、心に沁みた(原作の方では、曲名は示されていない)。
 そして何よりも、主人公が育った森の緑が、最高に美しかった。
 この音と自然の美しさだけでも至福の時で、何度も観たい感じ。

 これから見る人のために、内容にはあまり触れないでおくが、ストーリーも主人公をはじめとする登場人物たちの心理描写も原作に忠実に描かれていてよかった。

 主人公役の山崎賢人は、初めのモノローグと、森の中を歩いてゆくシーンの歩き方こそちょっと違和感を感じたものの、それからあとは、自分の才能に疑問を感じながら、困難にぶつかりながら、真摯にひたむきに乗り越えていく姿がさわやかでよかった。彼を指導する役の鈴木亮平も、「西郷どん」よりはるかに良かった(「西郷どん」は、初めのうちしか見てないが、頑張りすぎ、叫び過ぎ)。そして、主人公に調律師の道を歩ませるきっかけとなった大先輩役の三浦友和も良かった(百恵ちゃんは良い選択をした)。双子の姉妹役の二人も、それぞれの個性をくっきりと演じていてよかった。

 ぼくは、意地悪な嫌な性格の登場人物が出て来るドラマや映画や小説は、気分が悪くなるから好きではないが、この小説にも映画にもそういう人物が一人もいない。
 ぼくが特に感銘を受けたのは、南という青年の家の、長年打ち捨てられていたピアノを調律するシーンだ。ここは原作よりずっと膨らませていて、調律の終わったピアノを彼が弾きながら今はいない両親や愛犬のことを思い出すシーンでは、涙が出た。
 もう3回くらいは観に行きたい映画だ。皆さんもぜひ行ってください。

 …それにしても思う。音楽と自然という、人間を包んでくれる二つの美しいものに、曲がりなりにもうんと端っこの方でも、二つながら関心を持っているぼくは幸せだと。
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成長の限界と未来社会

2018-06-10 22:25:53 | 社会・現代
 虐待や、そこまで至らなくても不適切な養育が子供の脳にどのようなダメージを与えるか、は、TVでも話題になったからご存知の方もいると思うが、「子供の脳を傷つける親たち」友田明美著、NHK出版新書を読んでほしい。
 また、児童虐待する親と、社会の在り方の問題については、「児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか」杉山春著、朝日新書を読んでほしい。
 どちらも非常に考えさせられることの多い、重い本だ。
 この二人の本はもっと読んでみたいと思いつつ、まだ果たしていない。

 さて、ぼくは、このぼくたちの病んで壊れた社会をどうすればいいのか、展望する力を持たない。現代に生きる誰もが、展望することを、あるいは誰かが展望を示してくれることを、望みつつ、できないでいるのではないだろうか。
 だから自分の手近な、ささやかな行為を(例えば、買い物に行こうとドアを開けたら下校途中の小学生が通りかかったので「こんにちは」と声をかけるとか)、一つ一つしていくより他にないのではないか…と認めたうえで、ここではいったん大きく考えてみる。現代はどういう時代か。

 人類は、生物のロジスティックス曲線の、第二の曲がり角の最中にいる。
 “ロジスティックス曲線”について、比較社会学者の見田宗介氏の説明を引用してみる。

 「一定の環境条件の中に、例えば孤立した森の空間に、この森の環境要件に良く適合した動物種を新しく入れて放すと、初めは少しずつ増殖し、ある時期急速な、時に「爆発的」な増殖期を迎え、この森の環境容量の限界に接近すると、再び増殖を減速し、やがて停止して、安定平衡期に入る。
 生物学者がロジスティックス曲線と呼ぶS字型の曲線である。これは成功した生物種であり、ある種の生物種は、繁栄の頂点のあと、滅亡に至る。…再生不可能な環境資源を過剰に消費してしまった愚かな生物種である。…地球という有限な環境下の人間という生物種もまた、この曲線を逃れることはできない」(見田宗介「現代社会はどこに向かうか」定本見田宗介著作集第1巻。ただし、より詳しくは同第7巻「人間と社会の未来」)

 つまり、人類の歴史と未来には、定常期から爆発期への途中の過渡期と、爆発期から定常期もしくは滅亡への途中の過渡期との二つの曲がり角がある。
 今現在、ぼくたちは第二の曲がり角にいる。
 世界のエネルギー消費の加速度的爆発的な増加を考えてみれば、経済成長というものは永遠には続けられないものである、それどころか、間もなく終わるものである、ということは誰にでもわかる。経済成長を主張し続けている政治家にだってわかる。
 人類はそのことを、すでに無意識のレベルで知っている。先進国のどこの国も、人口減少に直面している。どころか、途上国を含めた世界全体のレベルでも、1970年にはすでに人口増加率は減少を始めていた。そして、1970年代初めにはすでに、この限界は意識のレベルとしても共有され始めていた(例えば、72年「成長の限界」ローマ・クラブ)。
 経済の自己増殖力は、政治家には停めることができない。しかし幸か不幸か、経済は間もなく、必然的に、成長を停めて定常状態に入るか、あるいは人類が滅亡するか、どちらかしかない。
 (原発というのは、この事実に目をつむってそれでも成長を追い求めようとする、現実逃避の愚かな選択だ。)
 ぼくは長い間、人類は滅亡すると思っていた。でも今は、滅亡しないだろうと思う。人類はどのような形かで、定常状態に入る。問題なのはその中身だ。
 できる限り早く、成長を停める決断をしなければならない。後手後手に回って、やむなく急ブレーキを踏まなければならなくなったら、そこに出現するのは、強権による超管理社会だ。貧富の差は極限まで拡大して、一部の支配層と実質的奴隷状態の大衆への二極化になる。AIや再生医療や核燃料サイクルなどの最先端技術は、この支配のために役立つことになるだろう。
 成長への固執を手放す選択を早くすればするほど、精神的に豊かで自由度の高い持続可能社会を実現する可能性が高まる。そのためにはとりあえず、ぼくたち一人ひとりが、価値観の転換をする必要があるだろう。
 ぼくは「できる限り早く」と書いたが、それはぼくが地上を離れる前に実現することはないだろう。今世紀半ばぐらいまではかかるかもしれない。ロジスティックス曲線の第一の曲がり角の時に出たような精神的・思想的なリーダー(釈迦やソクラテスやイエスのような)が出現する必要があるかもしれない。でも、待望しているだけでは仕方がない。今世紀半ばにどのような社会になっているか、そのことにぼくたちは積極的影響力は持てなくても、責任はある。
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社会が病んでいる

2018-06-07 21:55:14 | 社会・現代
 またまた悲痛な事件が起きた。
 ぼくの住んでいるこの目黒区で、五歳の女の子がノートに「おねがいします。もうゆるして」と何度も書きながら虐待死させられた。
 こんなことが起こるたびに、ぼくたちはその痛ましさに胸をかきむしられる思いがし、犯人の厳罰と、再発防止の徹底を願う。
 その前には、新潟で、下校途中の女の子が殺され、犯行隠ぺいのために線路に捨てられた。
 新潟の事件はまだ殺害の動機とかが解明されていないが、目黒の事件は親による虐待であるということで、全く異なる性格の事件ではある。でも、どこかで通底しているものがありはしないか?
 アメリカで銃の乱射による高校生の死亡事件がたびたび起こる。そのたびに銃を自由に所持できる社会が問題になり、規制の必要性が叫ばれる。でも結局は、監視の強化が提案されるくらいで、そのうちにまた事件が起きる。
 ぼくたち外国人から見たら、アメリカ社会そのものが病んで壊れているのだとわかるのだが、米国民自身にはそうは見えていず、犯行を起こすのが特殊な異常な人たちにしか見えないのだ。だから監視の強化や対抗措置で解決できるはずと考える。
 これはモグラたたきに似ている。そして、すべてのモグラをあらかじめたたくことなどできない。

 日本で次々に起こる悲痛な事件も、すでにこの社会が深く病んで壊れていて、その症状が次々に発現するのだと考えるべきだ。
 以前、地下鉄の駅で、あたりかまわず子供をののしってひどい言葉で怒鳴り散らしている母親と、泣き叫びながらそれでも母親の後をついていこうとする女の子を見かけたことがある。母親はもう全く自分の心のコントロールを失って、「お前なんかいなくなっちまえ」というように苛立ちと怒りに任せて子供を否定している。
 あの子供は虐待死させられなくても、一生消えないトラウマを背負って大人になって、たぶん自分も心のバランスを欠いたまま生きていくことになるだろう。
 事件として報道されるものの後ろに、そのようにして生きていく膨大な数の子供たちがいる。
 そして、その前に、苛立ちと怒りを抱えて爆発しそうな膨大な数の親が、あるいは大人が、あるいは若者がいる。ぼくたちの身近にも、そうした人がいるかもしれない。
 (あるいは、ぼくたち自身が、そこまでではなくても、自分でも気が付かない鬱屈を抱えて生きているかもしれない。このことは別に書く。)
 
 かれらの苛立ちと怒りは、被害者となる子供によって引き起こされたものではない。子供は、苛立ちと怒りをぶつける捌け口にされているだけだ。
 ダムがだんだん土砂で埋まって浅くなり、少しの大雨にも耐えられずに氾濫を起こしてしまうように、現代人の心の貯水池もひどく浅くなっていて、すぐに決壊してしまう。
 その原因はいくつかあって、ひとつは、自分の欲望や欲求がすぐに満たされるのが当たり前、というように現代人が思わされていること。その元凶はメディアを通じて流されるCMにあると思う。もちろん、企業が利潤を上げられるようにそうしたのだ。イメージ戦略、というレベルをとうに超えて、そのように社会を築いてしまったのだから、引き返すのは困難だ。
 もう一つは、そのように思わされているにもかかわらず、現実には非正規の仕事しかなかったり、仕事があっても安い賃金で、しかも非人間的にこき使われ、取り換えのきく労働力として、生活設計も自己実現の可能性も奪われた境遇の中で貧しく希望もなく生きている人が多いこと。
 この、どちらも資本主義が生み出したものである幻想と現実とのギャップ。
 第三に、ぼくたちはこれまた資本の都合によって、故郷から都会への移住を余儀なくされ、自然をはく奪され、共同体から切り離されて小さな閉ざされた住居に住まわされていること。
 大量生産の安価な安全性の確かでないものを食べるのを余儀なくされ、味覚や好みや自由であるはずの余暇の使い方までも、TVで流れるものに慣らされて当たり前だと思わされている。
 そうして、狭い濁った水槽にたくさん入れられた金魚のように、息が詰まっている。

 アフリカやアジアやアラブで、貧しい人たちをずいぶん見た。彼らの中にも犯罪を犯す人はいる。頭のおかしな人もいる。でも、ぼくたちの社会のように理不尽な、悲痛な事件が日常的に起きることはない。
 ただしぼくの見たのは、20年も30年も前のことで、今は彼らの生活もグローバル化という資本の圧力を受けて否応なく変えられて、ひずみは大きくなっているだろう。だからテロなどが起きる。
 それでも親子の絆は、隣人との絆は、まだぼくらの社会よりは残っていると思う。通訳をしていたころの同僚で、今でもアラブ世界と日本とを行き来している友人がいる。彼が帰ってきたときにいろいろ聞くことができる。彼の話してくれる人々の様子に、ぼくはほっとする。

 …話がどんどん逸れていくし、長くなったので、続きはまた書くことにする。
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疲労感

2018-06-06 17:59:33 | 老いを生きる
 梅雨の雨が降っている。閉め切って楽器の練習をしていると、汗が噴き出してくる。でもじつは、今日は雨が実際に降ってホッとしている。今日は両神山に友人と登る予定だったのを一昨日の時点で延期したからだ。行けなくなったことをほっとしているのではない。天気予報を見て延期の判断をしたのに当日良い天気だったらがっかりするからだ。そういうことはしばしばある。
 3日の日曜日に棒の折れ山に行ってからここ三日、なぜか体が軽い感じがする。いつもなら、山登りの翌日から3日くらいは、疲れが取れなくてぼんやり過ごしているのだが、今回はそういう感じではない。
 そういえば、前々回の「きれいな空気」は当日書いたが、山に行った当日の夜に、家に帰ってビールを飲んだ後にブログを書くなんて、今まであり得なかった。
 その一週間前に陣馬山に行ったのが効いているのかもしれない。「ハイキングは、高い山でなくていいからなるべく続けて行った方がいい」、とは、よく言われていることだ。
 そういえば、午前中に体育館にトレーニングに行って、お昼ご飯を食べて3時ぐらいまでの長い昼寝をした後は、体が比較的楽な気がする。
 とすれば、ぼくに必要なのは体を積極的に使うことであって、体力の温存を図ることではない、ということになる(こんな話に付き合ってもらってすみませんね)。
 体がだるくて仕方がない時は、打つべき手は二種類あって、寝るかストレッチをするかだ。ただし、ある時にどちらが有効か、どちらをするべきか、は、まだ経験上よくわからない。
 そういえば、疲労感というのは、寝不足だから、とか、体を使っているから、とか、頭を使ったから、とか、ストレスが溜まっているから、とか、ご飯を食べたあとだから、とか因果関係がはっきりしているわけではなく、時々突然どっと襲ってくるもののようだ。
 しばらくすると、ほんのちょっとしたきっかけで、嘘のように消えているのに気づく。それがまたしばらくするとどっと来る。
 この疲労感の間欠性の原因と対策が分かれば、生きていくのがずいぶん楽になると思うのだが、いまのところ分からない。
 夕方から夜の仕事をやめてからまだ3か月ちょっと、ぼくはまだ老人にあるべき1日の生活のパターンができていないのだろう。早起き型に切り替えなければ、と思うのだが、実際に朝は6時前には起きるのだが、昼間疲れていても夜10時ぐらいになると、疲れが取れて体が軽い、ということが多い。それで夜更かしをすると、朝の二度寝や昼寝が必要になってくる。
  
 両神山は11日に延期したのだが、11日も雨のようで、再延期になりそうだ。まあ、この時期は仕方がない。梅雨の晴れ間を見てちょこちょこ登って、体力を何とかしておかないと、毎年高校時代の友人と行っている夏山が、今年は針ノ木大雪渓を登って針ノ木岳・蓮華岳・岩小屋沢岳の2泊3日になった。
 まあ、ぼくたちは登山ガイドで1泊2日の行程を2泊3日にしているし、実際には前夜ふもとに泊まって3泊4日の、客観的に見ればずいぶん優雅な山旅なのだけれど。
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「老いた時への祈り」

2018-06-05 20:41:00 | 
 友人がヘッセの「人は成熟するにつれて若くなる」というエッセイ集を挙げていた。
 ぼくは、理想の老いと死はヘッセが小説「ガラス玉演技」で描いている「音楽名人」のそれだと思っているが、上記のエッセイは、今から20年ほど前に題名にひかれて買ってはみたものの、面白いとは思わなかった。
 あの頃ぼくは50歳になったばかりだったから、いま読めば違う感想を持つだろうか。
 一方で、「音楽名人」の老いとはまったく正反対だと言ってもいいと思うが、下記のような詩にも心を惹かれている。

 ウイリアム・バトラー・イエーツの詩の引用です。

…自分が賢い老人にならないように、
だれもほめそやす老人にならぬように
どうか守ってほしい。
ああ、ひとつの唄のために
阿呆みたいになれない自分など
なんの値打ちがあろう!

お願いだ――いまさら流行の言葉もなくて
ただ率直に祈りを繰り返すが――
どうかこの私を
老いぼれて死ぬかもしれんその時も
阿呆で熱狂的なものでいさせてくれ。
   「老いた時への祈り」(加島祥造訳)
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きれいな空気

2018-06-03 21:12:35 | 山歩き
 若い頃、外国、特にアフリカ大陸から帰ってくると、東京の空気がすごく濁ってきたなく、苦しく感じた。とくに、坂に囲まれた低地である渋谷はよどんだ空気が溜まるせいか、息ぐるしかった。
 司馬遼太郎が「モンゴル紀行」に書いていたが、首都ウランバートルの空気は東京の100倍澄んでいるのだそうだ。ところが、ゴビ砂漠で暮らしている人が所用で首都に出なければならなくなると、「こんな空気の悪いところにいられるものか」と言って、用事が済むとさっさと帰ってしまうのだそうだ。
 ぼくたちは、ふだん汚い空気を吸っている。
 そして、それに気がついていない。
 東京を離れて、初めてそれに気が付く。
 と言っても、ゴビ砂漠やアフリカ大陸から見たら、全然ダメなのに変わりはないのだろうが、それでも、山登りに行くと空気の違いを感じる。
 端的に言って、胸が開いて空気が吸える感じ。
 登っている最中は息が上がってそれどころではないが、頂上に着くとそれを感じる。
 山頂に立つと気持ちが良いのは、展望の良さとか、達成感とかもあるだろうが、空気がきれいで思い切り吸える、ということもあるのだろう。
 これは、山頂だけでなく、帰りの林道でも感じることができる。
 今日は、棒の折れ山に登った。下山してからの長い車道歩きでバテたのだが、歩きながら胸が開く感じを何度も味わった。
 体の中は汚れがべったり溜まっていても、肺や心は泥岩のように固まっていても(18/05/21)、とりあえずなにがしかの空気は吸うことができる。
 だが残念ながら、ぼくらはゴビに帰ってゆくのではなくて、東京に帰ってくるのだ。
 (震災の翌々年、福島から帰ってくる新幹線が東京に近づくにつれて、人の住まなくなってしまった浪江に比べて、ぼくたちの住んでいる東京の何と汚くごちゃごちゃしていることか、と胸が悪くなったのを、繰り返し思い出す。)
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