すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ご当地デビュー

2018-04-27 23:47:52 | 音楽の楽しみー楽器を弾く
 きのう、今住んでいるところでの弾き語りのデビューをした。デビューといっても老人クラブの総会の余興なのだが、音楽が、ということよりも、地域の人との交流が少しずつ始まっているのが大きい。
 ぼくは現住所に12歳から20歳まで住んだ後、家を出て転々として、戻ってきたのは震災の直前だったし、もともと社交的な方ではないから、近隣の住民の顔も名前もわからないし、地域とのつながりはほとんどなかったのだが、新年会のチラシが郵便受けに入っていたのでふと思いついて、はじめて顔を出したのが今年の1月。3月には「後期お誕生会」で初めて歌わせてもらって、今回が弾き語りデビュー。
 前に住んでいた保土谷には今でも2か月に1回、やはり老人クラブに弾き語りで行っていて、だから人前で初めて、というわけではないので気は楽だった。まあ、何とかなったのではないかな、と思う。
 岸見一郎の「アドラー心理学入門」にチェロのヨーヨー・マの言葉が引用してあって、「演奏の前にこんなふうにリラックスできるのは、もう十分年がいっていて自分が優れていることを証明しなくても良くなったからだ」と。
 その時ヨーヨー・マが何歳だったかわからないし、だいいち彼を引き合いに出すのもおこがましいのだが、「うん、そうそう」という感じ。
 これが、「近い将来に例えば「懐メロを一緒に歌おう」などの活動のクラスを一つ作らせてもらおう」、なんて思っていて、「だから良いパフォーマンスをしなければ」、などと意気込むと絶対緊張するし、緊張したら顔はこわばるし手元が狂うに違いない。
 「楽しんで大きな声を出してもらえばいいや」と思っていればにこにこしながらやれる。
 今回は自分が楽しんで気持ちよく大きな声を出している割には、というか、だから、というか、皆さんの声はまだ小さいが、口元は動いているから、まあ良いか。
 …話がそれるが、先日、妹が「あんちゃん、速く弾けるようになってきたね」というから、「まあ遅々として進歩しているかもね。でも、残りの時間を考えると、もう今生ではそう上達はできないね。次の人生で先に進むか」と返事したら、「次の人生なんかあると思ってないし、私は楽しんでやれれば良くて、上達なんて考えていないけれどね」とのたまわれた。
 それはちょっと違うよね。次の人生があるとは思っていないけれど、練習が楽しいのは大事だけれど、そして上達するのが練習の目的ではないけれど、今まで弾けなかったパッセージが今日は弾けた、というのは、練習の楽しさのうちの大きな要素だものね。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする