すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

自転車

2018-11-30 22:57:44 | 老いを生きる
 素晴らしく良い天気。秋の終わりの穏やかな空の光。
 こんな日に家にはいられない。
 山に行こうかと思ったが、夕べ夜更かしして今朝は朝ごはんの後に寝なおしてしまったので、遠くには行かれない。
 午前中は近くの林試の森を散歩して、午後は久しぶりに自転車で多摩川まで行った。
 林試の森は、あちこちの保育園から来たらしいヨチヨチ歩きの子たちや校外学習らしい小学生がいっぱいだった。落ち葉の上を歩くのって、気持ちがいいよね。落ち葉を両手に抱えてまき散らすのもほんとに楽しい(さすがにぼくは今ではしないけれど)。
 多摩川へは子供の頃にはよくチャリで遊びに行った。魚を入れたバケツを荷台につけて坂道を登って帰ってきたりした。今はもちろんザックだけ。
 丸子橋を渡って川崎側の土手の上を二子橋までさかのぼる。一部を除いてほとんどサイクリングロードになっている。快適だ。途中コンビニを見つけて土手の草の上でおやつにする。ラグビーの練習をしている人たちがいる。少年野球とサッカーは昔から多いが、ラグビーを見かけるのは比較的最近のことだ。ラグビーは好きだ。
 さて、二子までは、のんびり走ってもほんの30分ほどだ。でも、橋を渡って東京都側に移ったら、そこからが大変だった。
 サイクリングロードがない! 
 河川敷の砂利道を走るか、川沿いの車の多い道を走らなければならない。あそこは交通量のわりには道が狭いから追い抜かれるときに怖いし、川も見えないので、河川敷の方を走った。がたがたで手はしびれるし、お尻は痛くなるし、何よりも、バランスが悪くなっているので神経を集中しなければならない。
 子供の頃から、運動は苦手だがバランス感覚だけは良かった(サッカーボールの上に乗って手を放して立ったりしゃがんだりできた)のだが、最近は山でも急な下りが怖くなりつつあるのだ。
 汗だくになって丸子橋まで戻ったら、そこからがまた大変なのだ。多摩川に行くのは、行きは下りが多くて快適なのだが、当然ながら帰り道は登りが多い。
 ところどころチャリを押しながらなんとか家についた。
 でもまた行くとしよう。
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速歩き

2018-11-29 22:10:43 | 老いを生きる
 家を出て少し歩いたところで、若い女性にスッと追い抜かれた。抜き返してやろうと、かなり、というより、めいっぱい、頑張って歩いた。幸い同じ方向だ。
 前を行く女性はそんなに急いでいるようにも、とくに足が速いようにも見えなかったのに、なかなか追いつけない。
 学芸大学駅まで、普通に歩くと17~8分の距離。駅までついに追いつけなかった。
 おまけに、駅の階段を上るとき、古傷の左ひざが痛んだ。
 あーあ、向こう見ずに若いものと張り合おうなんてするものじゃない。
 でもまあ、何事もやってみなければわからないからね。

 速歩きをしようと思ったのは、何も「若い女になんか負けるものか」と思ったから(だけ)じゃない。
 この間から、山登りをする際の課題のひとつだったのだ。
 最近は、ほぼ、登山地図に書かれたコースタイムで歩けている。春頃は、1割か2割は遅かった。
 地図のタイムは、「40から50歳の、登山経験者の、2~5人のパーティーの、休憩時間を含まない」標準の時間を表示してあるそうだから、休憩を含んで(昼飯休憩は別として)コースタイム通りに歩ければまあまあではあるのだが、できればもっとだいぶペースを上げて歩けるようになりたいと思っている。昔はずっと速かった。昔ほどではなくても、もう少し早く、しかも楽に歩けるようにしたい。
 これは、どこの山に登るのかの選択に大いに関係するからだ。
 最近のように中央沿線あたりの山に行っている分にはあまり問題ないのだが、もっと高い山に行くとする。
 所要時間8時間のコースを9時間かかると、日の短い今の季節では暗くなってしまうし、夏の高山帯では午後からの雷が怖い。午後1時か2時には次の山小屋につきたい。
 7時間で歩ければ、計画がずっと楽になるし、山の選択肢が広がる。
 今年は、いちばん高いところで八ヶ岳の阿弥陀岳2805mだった。
 来夏は、ぜひ、3泊4日ぐらいで二回ぐらいは、北アルプスの高山植物の咲き競う稜線を歩きたい。
 そのためには、疲労の蓄積も考えなければならないから、もっと楽に歩けるだけのスピードと体力がいる。
 途中で花を見たり動物を見たりじっくり展望を楽しんだりすると、そのあとペースを上げなければならなくなるから、なおさらだ。
 まあ、以前ひざを痛めて近所のスポーツドクターに言われたことだが、アスファルトの上を急ぐのは、体重がかかってひざを痛めることになるからよした方がいい。体育館のウオークマシンにしよう。
 くれぐれも、若い者に挑んじゃいけない。
 今日の教訓でした。
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流れを見るように

2018-11-27 11:06:33 | 無いアタマを絞る
 山之内重美さんから、FaceBookの方に何通もコメントをいただいた。まとめて返信させていただく。

(山之内さん)「流れるように生きていたい、と思ってる、私。」(「ローズマリー」11/22に対して)
「やりたいことを続けられれば幸せなだけ。「頑張る」は50代で卒業した。」(「春になったら…」11/23)

 …ぼくは、流れるように生きてはいないですね。でも、人が流れるように生きているのを見るのは好きです。
 人ではなくて水の流れそのものを見るのも好きです。ときどき、お弁当とお茶とおやつをもって多摩川の川岸に行きます。半日、水を眺めたり寝転んだりして過ごします。(これからの季節は、寒くてダメですが。)水を見ていると、飽きませんね。
 人も、あのようであればいいとは思うのだけれど、ぼく自身は走ったり淀んだりを繰り返しています。ずっとそうかもしれません。(ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」を思い出すけれど、何度も書いた気がするので、ここでは書きません。)
 保土谷の林の中の一軒家に住んでいたころ、縁側にソファを置いて、一日中ガラスの向こうの木々の葉の揺れ動きを見ていたことがよくありました。あれも、一日中そうしていても飽きません。夕方には心の中が揺れ動きで満たされていて、酩酊のようなものを感じます。
 今の方が、あの頃よりあくせくしているかもしれません。
 人についても、あの水の動きのように、あの木々の葉の動きのように、その生き方、動き方、考え方を見ているのは好きです。 
 ぼくは、流れるように生きる人ではなくて、もしかしたら、流れるように生きる人を見る人、かもしれません。それはそれで悪くないかもしれません。(それだったら、相当長生きをするはずですね。)

(山之内さん)「私は一昨日、新松田駅で降りて高松山を歩いて来たよ。両日ともピーカン天気だったから、富士山クッキリ美しかったね~。」(「陽だまりでお昼ご飯」11/26)

 …高松山ものんびり陽だまりご飯ができる良い山ですね。最近行ってませんが。12月は一昨日の仲間と、隣の大野山に行こうかな、と思っています。なんせ、富士山を見ながら陽だまりご飯、大好きなので。
 そのうち、ご一緒しましょう。
 ついでながら、奇聞屋に伺おうと思っていたのですが、13日は都合がつかなくなったので、15日にデュモンに伺います。
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陽だまりでお昼ご飯

2018-11-26 11:21:06 | 山歩き
 「旅に出たいなあ」と思った。
 登山のリュックを背負ってバスに乗って目黒駅に向かう途中だ。
 ぼくは、マルマラ海もエーゲ海も湖水地方もフィンランド湾も見ていない。
 先日から、梨木香歩の「村田エフェンディ滞土録」を読んで「春になったら苺を摘みに」を読んで「エストニア紀行」を読んでいた。
 「昔はぼくも、季節によって空を飛ぶ渡り鳥みたいな生活をしていた時期があったなあ」と懐かしく思い出す。
 もういちど空を飛びたいものだ。
 「君は(イソップ物語の)キリギリスみたいな生活してる」と、フランス語学校の仲間に言われたことがある。
 今できるのはせいぜい山を歩き回ることぐらいだ。海外に行くのはあと一回かな。
 まあ、とりあえずせいぜい歩き回っておこう。

 …というわけで、昨日は友人二人とハイキング。
 「今回は山でゆっくりお昼ご飯を楽しもうよ」という計画で、中央線上野原北方の要害山に行った。最高点は実成山607m、3時間30分のコースだ。
 イージーコースだが、けっこうアップダウンはある。富士山の絶景ポイントも何か所もあって、展望はこの上ない。
 長袖のアンダーウエアの上にTシャツを着ただけで歩いていて寒くないくらい日差しが暖かい。
 要害山頂の砦の跡の広い枯れ草原の、山茶花の種類だろうか、白い花のいっぱい咲いた木の横でのんびり宴を楽しんだ。
 メニューは、鶏とエビとアボガドのアヒージョ(オリーブオイルとニンニクの煮込み料理)、鶏と白菜とチーズのトマト煮、ソーセージ、レーズンとナッツのパンにブルーチーズに生ハムに、ボージョレ・ヌーボー! 食後のコーヒー。
 食事の時間が1時間50分。

 旅に出るのは、またいつか。
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「春になったら苺を摘みに」

2018-11-23 21:54:20 | 読書の楽しみ
・・・できること、できないこと。
 ものすごくがんばればなんとかなるかもしれないこと。初めからやらないほうがいいかもしれないこと。やりたいことをやっているように見えて、本当にやりたいことから逃げているのかもしれないこと。――いいかげん、その見極めがついてもいい歳なのだった。
 けれど、できないとどこかでそう思っていても、あきらめてはならないこともある。・・・
    (梨木香歩「春になったら苺を摘みに」新潮文庫)

 今日は、引用だけ。
 「見極めがついてもいい歳」と言っているのは、彼女は1959年生まれだから、書いたのはたぶん、47歳ぐらい。
 ぼくは、いまだに見極めがつかないなあ、と思いつつ。
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ローズマリー

2018-11-22 21:55:56 | 老いを生きる
 「悟さんはよく『歳とった』って書くけれど、わたしよりずっと若いじゃないの」と、ある人に言われた。星川駅近くのお花屋さんカフェ「ローズマリー」でコーヒーを飲みながら話していた。「男は女より平均寿命が10年ぐらい少ないんですよ。それ考えたらほぼ同じじゃないですか」と、反論した。
 まあ、気の持ちようは違うかもしれない。彼女はいつも明るく前向きに生きている(ようにみえる)。ぼくはため息をついたり、暗い気分になったり、じたばた抵抗したりしながら生きている(時もある)。
 気質というものはそう簡単には変わらないし、本人が自分の気質に(歳を取ることに、ではない。念のため)よほど苦しんでいるのでもない限り、あえて変えようとする必要もないのではないか。
 歳を取ったら、今までできたことが、これからやるはずのことが、だんだんできなくなるし、自分が死ぬということも心に浮かぶし、あちこち痛くなったりするし、ため息をついたり暗い気分になったりじたばたしたりするのは、当たり前のことだ。
 そのことにだけ囚われて生きるのでなければ良いのだし、ぼくもそうではない。
 老いの時を清澄の中に過ごしたと思われるヘルマン・ヘッセも、「人は成熟するにつれて若くなる」の冒頭で、「心の中のいろいろな衝動と不安」ということを言っている。
 ただし彼は、信仰を持っているので、けっきょくは死の不安を復活による救済の観念で乗り越えている。キリスト教的信仰を持たない人間の方が、ハードルは高いかもしれない。
 苦悩することのない生なんて、つまらないのじゃないか。ベートーヴェンの有名な言葉は、「苦悩を通って歓喜へ」だった。ぼくが歓喜を感じるときがあるかどうかはわからない。でもまだ、いまのまま清澄な心境に入りたくないと思う。苦悩を抱えていていいのだ。
 苦悩を抱えながらでも、人は友人と居心地の良いお店でお茶しながら楽しい午後を過ごすことができる。
 ローズマリーは半分が花屋さんだけあって、それこそ花いっぱいの、窓の大きな、明るい店だ。店の中ではよくフラワー・アレンジメント教室とか、クリスマスのリース創りとかが行われていて、生徒さん達が和気あいあいと過ごしている。
 ミニコンサートとか歌声サロンの催しとかもあって、街の小さなカルチャー・センターみたいになっている。ぼくも保土谷に住んでいたころに、ドムラの演奏を何度かさせていただいた。その縁で今でも時々うかがう。
 店の前は小公園で桜の木に囲まれていて、子供が遊んでいる。この秋は台風のせいで紅葉する前に葉が散ってしまったようだが、春になると外のテラス席で花を見ながらお茶ができる。
 桜の花の降りそそぐ下で子供たちが遊んでいる姿ほど、心に沁みるものはない。散ってゆくいのちと、育ってゆくいのち。あの子供たちも、老いを知る時がやがてやってくる。でもまだそれを知らない。
 「年寄りは…と書くと、また叱られるかもしれないが…お茶を飲みながらその両方のいのちを感じることができる。そして、さっぱりした気持ちで「やれやれ、またじたばたに帰って行こうか」と思う。
 老いという時は、この繰り返しでできている。
 じたばたはしてもいいのだ。泣き言は言ってもいいのだ。夢にうなされてもいいのだ。それにつかまれ放しになってしまいさえしなければ。
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大草原の・・・

2018-11-19 11:05:15 | 社会・現代
 ぼくはブログを書くとき、まずワードで書いてそれをブログ編集画面にコピーしている(直接に編集画面では、やりにくくて長い文など書けない)。自分が何を書いたかを後で見直したかったらワードの方を見ればいいので、自分のブログを見ることはまずない。
 ところが先日、たまたま見ていて、Cさんのコメントがあるのに気が付いた。その時メールのほうにも届いていたはずなのだが、なぜか気が付かなかった。なんと3月7日のコメントなのだが、重要だと思うので以下に転記させていただく。(前日のぼくの記事「なつかしき愛の歌」で、「大草原の小さな家」に出てくる歌について書いたことについてのコメントだ。)
・・・・・・・・・・・・・・
今、毎日、夕方と夜中、CATVご利用の方は、観ることができます。
FOX classic というチャンネルで放映中です。
実は、このドラマの最終回は、とても誇り高いシーンで終わります。
主人公のローラが育った町は、いわゆる地上げ屋に全てを奪われます。
町の人たちは、町を去る日に、自らの家々をダイナマイトで爆破します。
土地は奪われても私たちの町と、その思い出は渡さない・・・と。
音楽の話からは、離れてしまいました。
お話のシーンは、残念ながら、どのシーンか覚えていませんが、
父親、チャールズのバイオリンのシーンは、
どのシーンも心に染みるものであることは、確かです。
静かな愛が、そこにはあります。
何度も再放送され、何度も観ています。
今度、観るときには『歌』のシーン、見逃さないようにしなくっちゃ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (以下に書くことは、もちろん、Cさんに対する異論ではなくて、TVドラマに対する異論です。念のため。)
 ぼくはTVドラマの方は全然見ていないので、本の方しか知らないのだが、このドラマの最終回というのは、酷いのじゃないか。
 本の方には、地上げ屋にすべてを奪われて、というのも、家々を自分たちで爆破して、というのも、出てはこない。ローラ自身はその町で結婚して7年後にミズーリ州に移住するが、お父さんたちはずっとサウス・ダコタ州デ・スメットの町に残り、お父さんはそこで亡くなっている。
 ドラマが原作と違うことを非難しているのではない。そんなことは当たり前に起こることだ。しかし、自分たちの住んだ家々を爆破する、というのは、それまでのそこでの自分たちの生活の意味を無にする行為ではないか、と、ぼくは感じる。
 ドラマの制作者は、百年以上前の時代を扱った物語に、現代の問題(ここでは、地上げ)を盛り込むことによって新しい意味を持たせる、ということをしたかったのだろうが、NHKの大河や朝ドラなどでもよくやる手法だが、これは全く逆効果。
 時代劇でも西部劇でも、登場人物たちが生きた時代にはその時代なりの様々な問題があり、人々はその葛藤の中で、あるいはそれに翻弄されて、あるいはそれを克服しようと苦闘して、それぞれの生を生きている。
 そしてその問題は、多くの場合、現代を生きる私たちに無縁ではない。
 話を「大草原」に限って言えば、ローラの物語は1870-80年代だ。彼女は1867年生まれ、ミズーリに移住したのは1894年。この物語は、まさにアメリカ西部開拓時代だ。ちょうどこの時代を扱ったノンフィクションに「わが魂を聖地に埋めよ」がある。
 映画「ソルジャー・ブルー」のもとになった「サンド・クリークの虐殺」が1971年。「ウンデッド・ニーの虐殺」が1990年。「大草原」はアメリカ先住民の迫害と虐殺の歴史と同時代なのだ。そして、この二つは、重なっている。
 ローラのお父さんは、移住者が多くなって落ち着かなくなったから、ウィスコンシンの森の中の家を出て西部に向かう。そして、オクラホマの、インディアン・テリトリーの中に家を建てる。当然、インディアンとのごたごたが起きる。一触即発の危機を経て、けっきょく一家はそこから出てゆくのだが、ここには先住民に対する差別や偏見の描写がたびたび出て来る。お父さん自身は彼らに対して比較的同情的だが、ローラをはじめとする家族も、近くに住む白人たちも、その偏見や差別感を露わにしている。(今年6月、全米図書館協会は、その差別感を理由に、ローラ・インガルス・ワイルダー賞の名前を変更した。)
 …こう書いたからと言って、ぼくは「大草原」の物語が嫌いになったわけではない。相変わらず繰り返し読む愛読書のままだ。でも考えてみれば、現代のアメリカは、当時からの問題をまだ解決していない。トランプ政権になってから、その感はさらに深い。移民問題や、マイノリティーに対する偏見の問題。
 ローラのお父さんは、開発を文明の進歩だと信じている。そして、その進歩によって人々はどんどん豊かに、幸福になってゆくと。
 果たしてそうだっただろうか?
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美しい秋の一日

2018-11-16 21:08:20 | 山歩き
 昨日、中央線の猿橋駅から御前山、九鬼山を経て富士急行線の田野倉駅に降りるハイキングコースを歩いてきた。
 電車の中では平日にもかかわらず結構登山客がいたのに、猿橋駅南口に降りたらぼく一人だった。みんな扇山か百蔵山か岩殿山あたりの、山の南面を登る陽だまりハイクに行ったのだろう。
 おかげでこちらは、ほとんど人に会わない静かな山旅だった。なだらかな傾斜の山だからだろうか、北面を登るのに、あまり日陰になることのない、おだやかな秋の太陽が前方から照らしていた。行く手を導いてくれるかのように。
 歩いている間じゅう真っ青に晴れ上がった暖かな日で、御前山の大岩壁の上で、富士山や三つ峠山や雁が腹摺り山や滝子山の展望に感嘆しながらおにぎりをたべた。
 さすがに秋の花は終わっている。今年の紅葉は、どこも例年に比べて今ひとつ美しくないらしい。でも、落ち葉をサクサク踏みながら歩くのは楽しい。
 10月初めから6回目の山登りで、体がやっと慣れてきたからか、気持ちの良い歩きやすい天候のせいか、足が比較的軽い。途中ちょっとわかりにくい所とか、札金峠あたりの暗い植林地とかあったが、九鬼山に近づくと再び歩きやすい良い道になる。
 9:18に猿橋駅を出て九鬼山山頂についたのは13:50。秋の山は沢沿いが暗くなるのが早いので少しペースを上げて田野倉に下山した。
 登りは太陽がみちびくように前方にあり、下山は西に下ったのでやはり太陽は前方に、しかし、くたびれた体を温めてくれるようにあった。
 そこで、歩きながらふと思った。ぼくたち老人は、晴れた秋の日の午後の太陽のようなものだと考えることにしよう。もう燃えさかるエネルギーはなくても、人を温めることならできるかもしれない。ほんわりと柔らかな温かな気分にさせることならできるかもしれない。
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2018-11-13 22:16:16 | 音楽の楽しみ
 若い頃、笛の音が大好きだった。ケーナ、サンポーニャ(フォルクローレのパンフルート)、尺八、篠笛、オカリナ、フルート、草笛、リコーダー…笛の音であれば何でも好きだった。
 聴くのが好き、が高じて、自分でも吹いてみるようになった。ケーナ、尺八、篠笛、オカリナは何とか吹けた。リコーダーは、一時、アンサンブルに入れてもらっていた。サンポーニャには挑んでみなかった。草笛は、何種類か吹き方を覚えたが、今ではもう忘れてしまっている。指笛と口笛は、吹けるようにはならなかった。
 やっているうちに、尺八、篠笛、オカリナ、ケーナなど西洋音階と少し違うものは、よく知っている歌のメロディーなどを吹くときに気持ちが悪いので、聴くのは好きだが吹くことからは離れた。あれはぼくみたいに移り気でなく、ひとつに集中してやらなければだめなのだろう。そして、その独特の音階・音程を受け入れなければ。楽器を選ぶことは、音楽を選ぶことでもあり、文化を選ぶことでもある。
 フルートだけは、けっこう集中して練習した。通訳の仕事でアルジェリアに長期滞在するときに持って行って、仕事のあと毎日練習した。パリで、友人の友人で東京芸大の講師で作曲を学ぶために留学していた人に、「たいへん筋が良いよ」と言われた。
 でも、歌を始めたときに、笛は止めた。笛を吹きながら歌うことはできない。シャンソン歌手の葵めぐみさんのように、フルートと歌を両立させている人もいる。たいへん素晴らしく、うらやましく思う。でも、歌をうたう間は、ピアノなりなんなり、伴奏者を必要とする。弾き語りはできない。
 今でも、古いフルートとリコーダーは持っている。ときどき取り出してみるけれど、吹くことはしない。吹くことはできても音楽にはならないだろう。
 挑戦してみたけれどまったく鳴らなかったのは、名前は忘れたけどアルジェリアで出会った、アラブの民族音楽の縦笛だ。ただ葦を横に切っただけの形をしていて、ケーナや尺八のような吹き口もなく、斜めに口を当ててエッジに息を当てて演奏する。息を変えてみたり角度を変えてみたり、どうしてもならなかった。砂漠を旅するとオアシスの夜、町のどこかから歌声とともに聞こえてきて、延々と続く不思議な音色の笛だ。
 笛は、乾燥した気候によく合うのだろうと思う。フォルクローレの笛もそうだ。熱帯雨林では、笛は発達していない。樹々の茂みに音が吸われてしまって遠くまで響かないからだろう。ジャングルではタムタムのような打楽器の音がよく伝わる。笛は、サハラの笛も、アンデスの笛も、青空に広がり、草原に広がる。
 パリのプレイエルホールで、ケーナの名手、ウニャ・ラモスのコンサートを聴いたことがある。テーブルの上に何本もの笛を並べて、曲によってそれを取り替えながら吹く。その音色に堪能したが、彼がアンコールに取り出したのは日本の尺八だった。「去年日本に行ったら友人にこれをもらいました。素晴らしい笛なので、自分でも作曲してみました」と言って最後に吹いたのが、その日の最高の曲だった。尺八の音の方が深い。
 でも、ケーナの音色は大好きだ。あの軽さが良い。以前、道玄坂を上がった山手通りに近いところにフォルクローレ専門のライヴの店があって、よく聴きに行った。残念ながらとっくになくなっているが、今でもどこかの駅前の路上で演奏しているグループがあると足を止めて聴く。
 ケーナに限らず笛の音は、ぼくたちが日々の暮らしの中で抱くあこがれの音、そして時には哀しみの音だと思う。だから青空に、草原に、心に、響く。
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付け足しあるいはエール

2018-11-11 16:22:51 | つぶやき
 昨日の文に、一言だけ付け足しておきたい。ぼく自身は降りてしまったけれど、自分には才能がないのではないかと悩んでいて、あるいは薄々感じていて、それでも音楽を(あるいは他の何かを)断念することができないでいる人たちのために。
 ノンフィクション作家の最相葉月の「絶対音感」(新潮文庫に入っています)の冒頭近くに出て来る、作曲家のスクリャービンが、のちに大小説家になる若きパステルナークに言ったという言葉:

 「音楽で自分の言葉を表現したいという強い思いがあるときに、才能についてとやかくいってもしかたがない」
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秋の光(続)

2018-11-10 10:21:09 | 自分を考える
 自分が或る分野について才能があるかどうか、それに情熱を傾けることが自分にとっていいことかどうか、について思いを巡らせるときに必ず心にかかる文章がある。ドイツロマン派の叙情詩人、ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)の詩集「歌の本」の序文の一部だ。
 繰り返し心にかかる文なので以前にも紹介したことがあるが、もういちど引用しておこう。

「・・・その時代は去った! 私は今、熱せられているというよりは、照らされている。しかし、このような冷たい光は、人間にはいつも、あまりにも遅くやってくる。その澄みきった光をうけて、私はいま、自分がつまずいた石をながめている。いまだったら、私は、間違った道をさまようこともなく、それらの石を避けようと思えば、いとも簡単に避けられただろう・・・
・・・私たちは、人生においても芸術においても、やりうることで、自分の才能に最もかなうことを、ただ、行うべきだろう。おもえば、人間のいちばんかなしい誤りのひとつは、自然がこころよく恵んでくれた賜物の価値をおろかにも見そこない、かえって、自分にはとても手にとどきそうもない財宝を最も貴重なものと思い込むことだ・・・
・・・われわれは、自分の尊いところについて無関心で、わざわざ自分のつまらないところをずっと勘違いしていて、それが自分のいいところであると、いつしか思い込んでしまっている・・・」(井上正蔵訳)

 ここに言う「冷たい澄み切った光」は、べつに季節の秋の光ではないし、ましてや人生の秋の光でもないのだが(実際には、ハイネ30歳のときの詩集なので、青春の過ちについての言葉なのだが)、ぼくには昔から、そして今はなおさら、秋の光に思えてしまう。
 そして何度読んでも、そのたびにため息が出てしまう。なんと私の人生を、的確に言い当てているか。
 …こう書くとちょっと後悔の言葉のように取られるかもしれないが、ぼくはそのようには読んでいない。
 激しい情熱は失われたとしても、今は、澄みきった光に照らされている、そう知っていることが、ハイネにとって(ぼくにとっても)価値がある、と思う。
 ハイネは(ぼくも)、今は、自分が何につまずいたかを理解できるようになっている。
 そして、自分にできることは何か、できないことは何か、自分が何に才能がないか、何になら比較的才能がありうるか、自然が自分に恵んでくれたものは何か…を、未だに知ることはできないでいるにしても、そういうことを意識しながら残りの人生の選択ができる。 
 遅まきながらそのことに気づいただけ、まだよかった。
 十年前に気づいていたらもっと良かったかもしれない。でもそれは仕方がない。十年後にもまだ気づかないでいるよりは、あるいは、気づかないまま死んでしまうよりはずっと良い、のだ。これからの十年を、間違った道をさまようことなく生きられる可能性が高いのだから。

 …ぶっちゃけた話、今書いているこれのもとになった文章を、ぼくは9年前に書いている。実際に選択するのに、9年かかってしまった。そして、残りはあと10年くらいかもしれない。
 でも、遅まきながら、いま再びこう書けて、まだよかった。
 進んだり戻ったり回り道をしたりが人生さ。
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秋の光

2018-11-09 08:49:28 | 音楽の楽しみー歌
 3日前のことだが、仕事をやめてからおよそ8か月半ぶりに、デュモンに行った。雨が降っていて、天気予報は本降りだったが、2月末にやめるときに「半年たったらいちど顔を出します」と言っていたし、顔を出すなら広瀬敏郎さんの歌が聴きたいと思っていた。先月の予定だったが、用事ができて行かれなかったのだ。
 中にいた間は見慣れたことなので実感がなかったが、改めて客として座ってみると、デュモンは落ち着いたインテリアの、ゆったりとくつろぐことのできる、趣味の良い居心地の良い店だ。ぼくの代わりに入ったスタッフのMayumiさんが明るくきびきびと動いていて、ぼくの頃よりもずっと良くなったように思う(これは、読者の誰かに「そんなことないですよ。悟さんは…」と言ってもらうことを期待していない。念のため)。
 広瀬さんの歌は素晴らしかった。特に最後の2曲、「アンコーラ」と「ナポリへの涙」。素晴らしい声の伸びと細部まで心を込めた表現力。また聴きたい。「ナポリへの涙」はいつか僕が好きだと言っていたのを覚えてくれていて、最後に歌ってくれたのだ。
 …ところで、広瀬さんの歌だけでなく、スタッフの歌も二人の前歌さんもオーナーの日野さんの弾き語りも含めて、改めて感じたことがある。
 それは、「ああ、ぼくは歌をやめて良かった。もっと早くやめればもっと良かった」ということだ。
 ぼくは、彼らの持っている、歌い手になる条件を、ほとんど何も持っていない。
 ここで、「歌をやめる」とは、スポットライトを浴びてお金を払って聴いてくれる客に向かって一人で歌う、あるいは、プロを目指す、ことをやめる、という意味であって、人前で(団欒の場で)歌うこと、あるいは家で一人で歌うこと、全部を意味しない。歌が嫌いになることを意味しない。
 歌の才能がない、ということは、もちろん、音程が、リズム感が、声量が、ということだけを意味しない。歌手は、パフォーマーだ。楽曲の解釈が、表現の仕方が、仕草や表情や声の出し引きや息づかいや、もっと言うなら、汗のかき方や目線の動かし方やピアニストとのアイコンタクトや躊躇いかたや当惑の仕方や…すべて含めて自然にこなしていくのが才能だ。
 そして何よりも、歌と歌の間の話術。お客とのコミュニケーション、というか、駆け引き。
 ぼくはほとんどそういう才能がなかったし、一生懸命そういうことを身に着けようという意識もなかった。
 そういうことを試みようとしたことがないわけではない。20年位前、フランスから帰ってきたころは、そういう関心が自分にもあった。だが結局、夢中にはなれなかった。ここのところ何年かは、ライトを浴びて歌うのが気が重く、なるべく避けていた。日野さんはそれに気が付いていたかもしれないが。
 歌い手には、人とのかかわりが苦手であっては、なることはできない。人とのかかわりに積極的な関心がなければ、なることはできない(これは芸術の二大分野、美術と音楽、の大きな違いだと思う)。
 (この話がなぜ「秋の光」なのかは、明日書くことにしよう。)
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生きて負ふ

2018-11-05 09:34:29 | 無いアタマを絞る
 前記事『飛べ』(11/02)で繰り返し「飛べ飛べ」と呼びかけられている対象は何だろう?
 「小さな翼」とか「私の燕」とか「私の天使」とか「私の苦しみ」とか次々に言い換えられて、最後に「私の魂」という言葉に行きつくから、魂だろうか?
 この詩はユダヤ教徒であるゴールドマンによって書かれているが、ぼくはユダヤ教について何も知らないのだが、この詩に限って言うと、この世は苦しみと哀しみに満ちていて、わたしの魂にとっては仮の宿りに過ぎなく、彼方の世界は光と花々と笑いに満ちていて、そちらへ帰るのが、本来の姿、というのは、グノーシス主義的で貴種流離的で(この二つの言葉についての説明は省略するけれど)、私たちの現に今生きているこの世界に対する否定的気分と、そこから逃れたいという思いが強すぎるかもしれなくて、読んだ人の中にはかなり抵抗のある人がいるかもしれない。
 でも、美しいよね? そしてぼくたちは時々、ぼくはたびたび、そのような思いに駆られることがある。若い頃も、歳を取った今も。
 ここには自分という存在に対する愛おしさがあり、それが私たちの心を浄化してくれる、そしてその浄化を通して、私たちは心の傷を回復することができる、と感じられる。
 ところで、魂って、何? 魂って、あるのだろうか?
 この問いに対する答えは、ありません。
 魂というものが在るか無いかは、どちらも立証されていない。実験と観察に基づいて立証されたこと以外は、当面のところは、仮説という扱いになる、これが常に原則であり、出発点。これは相対性理論でも進化論でも神の存在でも同じ。
 宗教の人とか、何かの崇拝者とか、妄信の人とか、話すことがあると大抵は話が堂々巡りになってイライラするのは、彼らがこの原則を認めようとしないからだ。
 仮説であるという前提の上に立ってなら、もう少し有意義な話ができる。
 魂というものは存在する、と考えた方が、安心することができる。自分の死後も自分の魂は存在しつづけると考えた方が、死が怖いとか、自分の命がむなしいとかいう思いは和らげることができる。たとえその自分の死後の魂というのが、いまの自分という個からは離れた、個の記憶を持たないものであるとしても。
 逆に言うと、そういう安心感のために、魂という概念は発明されたものかもしれない(これは仮説です)。
 魂はあるかもしれないし、ないかもしれない。だから私が飛ばすものは魂であると断言することはやめておこう。
 わたしたちはこの地上で生きていて、様々な悲しみや苦しみに出会う。心を痛める。自分の悲しみや苦しみ、身近な人の悲しみや苦しみ、この同じ時に地上に生きているたくさんの国のたくさんの人々の悲しみや苦しみに。
 (山中千恵子のあの絶唱
  行きて負ふかなしみぞここ鳥髪(とりがみ)に雪降るさらば明
   日も降りなむ
を、ぼくは長いこと「生きて負ふ」と間違えて覚えていたのだが、勘違いでなく、そういう意味も込められているのだと思う。)
 私の悲しみや苦しみを、空に飛ばそう。花々と笑いと子供の頃の自分に返そう。空は、光にあふれている。あこがれは捨てずにいよう。
 (やっぱり、ぼくは論理的な思案は不得手だね。)
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「飛べ」

2018-11-02 21:33:11 | 音楽の楽しみー歌
 ぼくはずいぶん前にシャンソンから降りてしまったけれど、いまでも繰り返し心にかかる歌はいくつかある。そのひとつがこれ。歳取った最近ますます気になっている。10年くらい前に直訳を紹介したことがあるが、昨日もひっぱり出していたら誤訳に気が付いたので、ついでに手直しをしてみた。
 1995年にセリーヌ・ディオンが出してフランスでは爆発的な大ヒットとなったアルバム「D‘eux」の中にあった。あのすごい声量のディオンがささやき声だけで歌っている、異色の曲。作詞作曲は、J.J.ゴールドマン。

飛べ飛べ 小さな翼
優しいお前 私の燕
遥か遠くに 心晴れやかに飛び去れ
ここには何も お前を引き止めるものは無いから

空と大気に帰れ
私たちを離れ 大地を離れ
哀しみの衣を脱ぎ捨て
別の世界に帰れ

 飛べ飛べ 私の妹
 私の天使 私の苦しみ
 体を捨て 私たちを残し
 やっと お前の悩みの終わる時

 彼方の岸へ帰れ
 花々と笑いのあふれる岸へ
 あこがれ続けた岸へ
 子供の頃のおまえの命へ

  飛べ飛べ 私の愛
  この世の愛は重すぎ
  心を安らげるものは何も無いから
  最後の旅へ飛びたて

  疲れ果てたこの世での時を捨て
  飛べ もうそうしてもいいのだ
  息吹になれ 鳩になれ
  今 飛び立つために

   飛べ飛べ 小さな炎
   私の天使 私の魂
   哀しみの肌を脱ぎ捨て
   もういちど光に出会え
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