すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

なぜ山に登るのか?

2018-04-25 21:32:10 | 山歩き
 以前、登山の翌々日だったか、「太ももが痛い」と言っていたら、「なぜそんなしんどい思いをして山登りなんかするの?」と訊かれたことがある。
 「頂上に立った時に気持ちが良いから?」、「達成感?」、「俺はまだまだやれるぞ、という感じ?」…どれも違う。
 頂上に立った時の気持ちよさだけなら、ほかに気持ちの良いことを見つけたらやめてしまうかもしれない。それに、息切れしながら登っている途中も、気持ちはいいのだ(マゾじゃなくって)。
 百名山に次々に登るタイプの人もいる。彼らにとっては、達成感は大きな要素なのかもしれない。ぼくはむしろ、お気に入りの同じ山に何度も行くのが好きだ。同じ本を何度も読むのと同様に、そのたびに喜びがある。
 俺はまだまだ…というのは、何も山に登らなくても、いろんな機会に感じることができる。
 うまく言い表せないが、ぼくにとって山に行くのは、体と心がそれを要求するからなのだろう。いわば山は、必須栄養素なのだ。
 この必須栄養素は、人によっては、山に行かなくても採ることができる。自然の中で生活している人、そうでなくても、十分に自然に触れ合う生活をしている人であれば。
 つまり、人間にとって、自然が必須栄養素なのだ。
 現代のように人類が、特に先進国の人間が、都会で生活をするようになったのは、人類史の中で比較的最近のことだ。人類は百万年以上もの間、自然の中で生きてきた。文明が生まれ、発達してからも、今よりははるかに自然に接する生き方をしてきた。
 生物としての人間は、そんなに急に環境の変化に適応できるわけじゃない。血液中の塩分濃度は海の塩分濃度とほぼ同じである。つまりぼくらは体の中に海の記憶を維持している。
 同じように、人間はおそらく体と心の中に、かつてその中で生きていた自然の記憶を維持していて、それがなければ生きていけない、あるいは、身体的、精神的にバランスを崩してしまうのだ。
 ぼくらが山登りで感じるのは、体と心が本来の環境の中で、活性を取り戻す、ということなのだ。本来の環境の中に解き放たれる、という喜び、山で感じる喜びは、これなのだ。
 だから、自然の中で生活していればそれで充足する。ぼくは、アフリカに行っているとき、別に山登りはしなくても全然苦にはならなかった。
 保土ヶ谷の林の中の一軒家に暮らしているとき、そこに暮らしているというだけで、山登りはしなくても苦にはならなかった。その時期の後半に、昔よく一緒に山登りをしていた友人に誘われて、再び山に行くようになったのだが、今現在の生活を考えると、あの時に再開したのは非常に良かった。
 現代の都会生活では、自然が絶対的に不足している。そう自覚していない人でも、じつは不足している。
 ぼくらは子供の頃、野山や田んぼを走り回って遊んだ覚えがある。その記憶は今でも生きていて、時々野山を歩いたり、田舎に帰ったりしたくなる。それだけで足りるかどうかは別にして、しないよりはマシだ。
 団地で生まれ、街中の児童公園で遊び、もしくは家の中でゲームにふけり、という生活をしている子供たちは、大人になっても、自然が不足しているという自覚はないかもしれない。
 現代社会の抱える問題の少なくとも一部は、自然が不足していることに起因する、と、ぼくは前にちょっと書いたかもしれないが、大きなテーマなのでまた別の機会に考えることにしよう。
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