春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

飛騨の匠の仁王門。坂東道・龍正院。成田市滑川町。

2024-10-13 09:52:05 | 坂東札所

古河市での仕事も終わリ、
昨日の、完全休養はただボケーッとしてるか、寝るだけ・・
夜長のまどろみに、顔に落ちるのは、剣客商売の漫画・・・
読書の秋・・・活字だらけの書物は苦手・・極めて苦手 ‼

この歳77歳、行き当たりばったりが、いい塩梅でして・・
けど眼は👇つい自分の今を撮ってしまったた・・・
日高市巾着田の彼岸花、けど、これもまた美しくて・・・。



貴族が住んでた住宅をお寺にしたか分かりませんが、
院とあって坂東道、28番・龍正院の寺務所。


飛騨には、「飛騨工制度」があって、
奈良時代、税を免除してまでも、
木工技術者を都へ送ることを定めた全国唯一の制度であった。
山々に抱かれた奥深い地から都という、
中央都市の造営に携わる歴史を生み出した。

その飛騨の大隅の匠が手掛けた仁王門👇
1501年辺りに再建され、
柱は16角形と、匠の技が伺わせる。
桃山時代の建築様式を要して、重文。
慈覚大師が開基した記録に、
利根川の本流、水と緑豊かな田園に囲まれてる。





今の滑川町、大火に見舞われた時、
本堂の屋根で大扇で本堂と下町の延焼を防いだという仁王さん、
火伏の守り像として・・・







👇本堂は宏荘な建物で、1696年の建立


本堂は、正面入り口に扉はなく、四本の大紅梁がかけられ、
天井は化粧屋根裏に左右に天人を、
中央に龍を飾り、ゆったりとした大空間をつくり、
いつでも観音の慈悲にすがれるようになっている。













👇後ろはどうだろうと、一発、写真を撮ろうとして、
さがったら、段差につんのめって、こけた。




👇1718年、神田の小幡内匠が鋳造した宝篋印塔、
側面に彫られた寄進者の名が一杯だった。





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坂東道、漁場の観音様のお告げで、円通寺。千葉県銚子市。

2024-10-04 10:56:32 | 坂東札所

利根川河口の金目鯛の漁場・銚子港の近く。
狭い袋小路の朝飯屋のおっちゃん、
迷って駐車場を探す私に、
お詣りかい?何なら家のに停めなよ・・・と。

725年、銚子に住む漁夫の清六が夢を見た。
海で光る場所で、潮来村の長藏と一緒に、漁をしてくれと・・
夢の中の、観音様が頼んだ
燦然と輝く場所で投網をしたら、メノウの石を抱えた、
11面観音さん像が、網に掛かった。



やがて二人の漁夫は出家し、観音様を安置して、
病人の病を癒して、銚子のおこり除けの法師と呼ばれた・・・。

弘法大使が開基し、港町の発展を担った霊場、
飯沼山・円福寺👇



鎌倉時代、関東観音霊場27番に選定されてからは、
全国から巡礼者が訪れ、賑わったという。








円福寺の悲劇は、太平洋戦争で、
本坊と客殿以外すべて焼けたこと。
👇五重塔は平成21年に
本堂は昭和46年に再建し、大仏の背中には、
銃弾の痕がある。











円福寺の圧巻は、
西国、坂東、秩父四国八十八カ所の本尊を描いた、
格子天井、ここでは、寝そべって・・ウン ‼






5600坪の敷地に
仁王門、鐘楼、薬師堂、大師堂、多宝塔があって、
江戸から来る老若男女、航海、漁師たちの参拝、巡礼者たち、
茶見世で賑わった圓通寺

その頃に生まれてたら
肩で風を切り、悪餓鬼の本領を出せたのに
・・・・・

境内隣接地の、👇銚港神社



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坂東道、小野小町が見た夢、清瀧寺。土浦市小野町。

2024-09-28 10:48:48 | 坂東札所



思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 
  夢と知りせば覚めざらましを・・・小野小町

あの人のことを思いながら眠りについたから
  夢にでてきたのだろうか。
    夢と知っていたなら目を覚まさなかっただろうものを



14歳の時、宮中からお迎えがきて女官となり、
歌人としても才能を発揮した小野小町さん。

晩年、京都から東国へ下り、奥州へと旅する途中、
清滝観音に詣で、さらに山越えをして、
石岡市小野越の北向観音にお参りしました。

その帰り、山道に迷ったあげく、病に倒れてしまいました。
病状は、一進一退を繰り返し、
883年7月7日、小野小町は、69歳でここ
土浦市小野町で、人生を伏せました。
引用元:第16回 常陸国・小野小町文芸賞 入選作品集

2021年12月、
故・杉村春子さんの部屋付きだった、
女優で書家家の、二宮さよ子さん👇が、
東京下北沢の劇場で、一人芝居、
小野小町さんの終焉を、枯れ木の倒木に伏しながら、
演じ、小町さんの歌を筆にしました。👆
小野小町さんの思いが伝わる、緊張の静寂、
もう一度、観て見たいと・・・。



606年、この寺の背後の山龍が峰に、
聖徳太子御作の聖観音像を安置したことが創建と伝えられる
坂東札所26番・清瀧寺👇
創建から270年が経ってから、
花山法皇が、松が峰の山頂では、民衆の結縁は、広がらないと、
ここ、中腹に移しました。


室町時代、常総の野で繰り広げられた、戦乱、
当時のどのような建物か知らないのですが、
すべての堂宇や什宝兵火の中に・・
再建された、1700年代には再び繁栄されたものの、
明治維新を境に、寺運は衰え、無住寺に・・。
長い間の無住寺は、小野町の人たちが輪番で支えてきた。













昭和44年、参拝者の蝋燭が賽銭箱に移り、あっという間の延焼、
観音様を救うことができず・・と村人は、
一ヶ寺でも、欠いては坂東巡礼にならないと、
浄財を集め、昭和52年に再建させた。

村人たちの尊い悲願の結晶に、じっと佇む境内です。
















小野小町が立ち寄った清瀧寺、
石段に誰が歌ったか・・









町は肥沃な土地に、柿、梨、葡萄は実って
収穫の中、異邦人の私への笑顔に
救われる

橋の欄干には小町さんの像が
ここから3分で、小町さんのお墓
お墓はあちこちにあるよと、
知ったかぶりの野暮は、言わな~い・・‼
ここは土浦市小野町




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坂東道 25番大御堂と筑波神社

2024-09-23 10:06:27 | 坂東札所


標高877メートル に女体山本殿 
標高871メートル に男体山本殿
標高270メートルに 両本殿を遥拝 する拝殿がある筑波山。



奈良時代の万葉集には、25首が詠われているという。
万葉公園👇からは、登山だけの観光客が沢山いる。











筑波山神社、
三千年以上の信仰の歴史を持つ、
霊峰「筑波山」を御神体と仰ぐ古社。


坂東札所25番、大御堂👇は
1871年(明治5年)8月27日の廃仏毀釈に遭う前までは、
👆の場所で巡礼者がお参りしたのだという。
筑波神社の写真の拝殿は、
神仏分離で大御堂が廃された後、
1875年(明治8年)に新たに建てられたもの。

👇場所を移した、大御堂本殿、
お堂前の境内地からは石段から見下ろす、
関東平野、東京都内まで広がる絶景が見渡せます。
















髄神門、25番札所が拝殿の場所にあった頃は、
仁王門と呼ばれてますが、
1633年に3代将軍徳川家光により寄進され、
1754年に焼失、
再建されたものの1767年に再度焼失、
現在の楼門は、1811年の再建した趣のある質感でした。 














石川県の豪雨災害
これ以上被害が出ないよう
願いたいものですね

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登山と、妻を愛したシャイな男の軌跡

2024-09-17 11:09:11 | 山に挑んだ、男と女、雄さん、たかさんの軌跡



前日、センニンソウのの記事を書いた、
たかさんのブログが途絶え、いろんな思いが巡りました。
私は、勝手に山の師匠とはばからないたかさん、
たかさんを通して、旦那さんにも会い、カメラ談議をしたり、
地元の図書館で偶然に会ったりしました。

体調を崩していた最近、心配をしていましたが、
訃報を知って昨日、高崎市のご自宅に伺いました。

まだ若い74歳。
オランダ以外のヨーロッパの山を、
国内の山でも、1週間、2週間と、山登りに暮れた、
雄さんとたかさん。

たかさんが寝室を覗いたときは、書を胸に、
穏やかな顔でした・・と。
仏壇の写真は、気概を消した優しい顔。
たかさんはその穏やかな写真でも、
怒っているように見える日があるという。

たかさんの今、雄さんが居ない自宅で、
撮った時の出来事を書いた、両手を目一杯広げた数の、
思い出の、アルバムを毎日見ているんですよ・・と、
お嬢さんが小声で教えてくれた。


写真はすべて、オリンパス、フィルムで撮影したものです、と。
茶の間に拡大した写真の方が、
綺麗に撮れていた気がします。
モンブランの反対方角で






👇リス科のマーモットを追う雄さん


👇フレジェル コル・デ・モンテの分岐点


👇アルペンローゼの群落
たかさんは、
日本に居るときから楽しみにしていたといいます。






👇シェズリー湖畔のたかさん





👇数十日の旅の行程は、すべてたかさんが作り
雄さんはそのルートに従い、

フランス語、ドイツ語はもっぱら
雄さんの役割でした・・と。

私の雄さんの印象は、いつでも書籍を放さず、
探求心旺盛な方だと、
今でもそう思います。








アルバムは、訪れた時の出来事の、写真では表現できない、
旅での2人のすれ違う心、信頼、雄さんの厳しさ、優しさを、
たかさんの鋭い感性で綴られていて、引き込まれてしまいます。
今回アルバムを見せて頂いて、転写させていただきました。


74歳、勿体ない、また逢う日までですね。

お嬢さんが、教えてくれました。
お母さんは
お墓には一緒に入りたいと、
言ってました‥よッ‼





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