totoroの小道

「挑戦することで、きっといいことがある」  http://www.geocities.jp/totoroguide/ 

遠慮せずに仕掛ける

2009-02-22 21:49:31 | 表現

表現を見合う会については、たくさんのドラマが生まれた。
できれば、記憶に残っているうちに少しずつ文字に残しておきたいと思っている。

今回は、その中から全校合唱について。

研修の中で、表現活動の向上について話し合った。
子ども同士が互いに見合った方が勉強になるという意見が出された。
当初教育課程に組まれていなかったが、どうせやるなら「子ども同士が見合う会を行っていこう。」と話し合われた。
見せる相手がなければ、何のための表現か分からないからだ。
これは、おそらく数名の表現の教育効果を知る職員が仕掛けたものだ。
だって、見せる会ための会を行うとすると、膨大な労力がかかる。
昨年から残った職員は皆知っている。
それでも、仕掛けたのだ。

ただ、全校合唱までは言い出せなかった。


私たちは、全校合唱を当初からやりたかった。
これを光明の伝統にしていきたかった。
しかし、これ以上先生方の負担を増やしては申し訳ないと思い、遠慮して言い出せなかった。
また、全校合唱を行うという大義名分を見つけられなかった。

ところが、降ってわいたようにチャンスがやってきた。


「試す人になろう」が校訓に格上げされ、その披露式を行うことがとんとん拍子で決まったのだ。
校長は、
・できれば大勢の人に共に祝って欲しい。
・しかし、新たに行事を増やすのでは、負担が大きい。
と考えた。
何か良い手だてはないかと意見を求めてくれた。
しかも、その中で校歌を全校で歌いたいとも言ってくれたのだ。

「校長先生。表現を見合う会に、校訓碑披露式を組み込みましょう。2月なら、ちょうど校訓碑の完成と時期を同じくします。前半は下学年、後半は上学年が発表します。その入れ替えの時に全校を集めることが可能です。この会のことはすでに親にも通知して予告してあります。」
「全校で校歌を歌うのならば、全員をステージに上げて、すごい校歌をお客様に聴かせませんか?」
「どうせなら、校歌だけでなく、もう一曲歌わせてはいかがでしょう。子ども達の心を育てるチャンスにもなります。」

これで事は決まった。
チャンスの女神には、後ろ髪はない。
一生懸命に全校合唱を教頭先生と共に売り込んだ。

実行が決まった。

しかし、うまくいく保証はない。
戸田先生の指導もなく、宮坂先生もいない中、果たして昨年のようなレベルの歌まで持っていくことができるのだろうか?
第一、短時間で、123年だけの隊形を一度朝礼の形に組み替え、さらにそれを舞台に全て載せ、そして、123年を退場させると共に456年の隊形に組み替える。その中に、式典のいすや机やビデオの設置と撤去が入る。それは可能なのか?

不安だらけで、しかし強引に仕掛けた。

「試す人になろう」
この言葉は、校訓らしい素晴らしい言葉だ。
やる前から、できるかどうか躊躇していたら何もできない。
まず、「できる」ことを前提に取り組み始める。
すると「できる」ためには、たくさんの課題があることが見えてくる。
課題ができればあとは、それを一つ一つつぶしていけばよい。

全校合唱も、そのように考えた。
まず、実行ありき。

歌唱指導に関しては、二橋先生を見込んで頼み込んだ。
「先生の言うとおり、本校の歌唱指導は頭声発生を目指す発声指導に見えないかもしれない。これが歌唱指導でないと思うのなら、それでいい。いっそ表現の指導と考えてくれてもいい。それでも、このダイナミックな指導は二橋先生をおいて、頼める人はないと思っている。」
「よかったら、このDVDを見て研究し、本校の合唱指導法を理解して欲しい。」

そう話して、昨年戸田先生が行ってくれた合唱指導をまとめたビデオを渡した。

数日後、二橋先生から返事があった。
「私、やります。ちゃんとDVDを見て、何をしようとしているか理解しました。私自身の指導法とは違いますが、このやりかたで指導できます。」
自信に満ちた言葉だった。
やはり、二橋先生を見込んでお願いして良かったと思った。

パワーのある彼女がそう決心したのなら、合唱指導はきっと軌道に乗るだろうと確信した。

次の課題は、どうやって短時間でこの隊形を作るかである。
昨年は宮坂先生がいたからできた部分がある。

しかも、日程を組んでいくと、隊形移動の指導は、せいぜい20分×2回しかとれない。
ここは責任をとり、自分で指導するしかないと感じた。

説明などしている暇はない。
6年生を使って例を見せ、後の学年にはそれを参考に自分たちで考えさせようと思った。

が、心配は杞憂だった。6年生は昨年の蓄えがあるからスムーズに移動した。だが、2年以上にも同じように昨年の感覚が残っていて、当然のようにすぐに行動に移すことができた。

最後に残った1年生には、
「そのまま、きれいに前に出て並びなさい。」
とだけ指示した。

先輩達が整然と並ぶ姿を見ていた1年生は、初めての経験にもかかわらず、1回で自分たちがどこに収まればいいのかを察し、これまた整然とあるべき位置に収まった。

合唱指導の中で、息の吸い方が問題になった。
体全体の空気を出すことはいい。
しかし、そこからのびをしながら息をすうと、小さい体に空気が入りすぎて咳き込む子が多いのだ。

そこで、教頭先生と二橋先生が考えた。

体をしぼって空気を出し切るまではいい。
しかし、そこから伸びる動作をすると言うことは、自然と空気を体に取り込もうとしていることなのだ。
取り込んだ上にさらに息を吸い込むから苦しくなる。
だから、はくことに集中させ、吸い込むのは、空気が体に自然に入る感覚を掴ませればよい。
という事になった。

この、息の吸い方は、最後の練習で行った。
変更しても、子ども達はすぐに吸収する。
子ども達は、さらに良いものを常に求めているのだ。

昨年学んだことは、子ども達の中にしっかり残っている。
使わなければ、その感覚はどんどん廃れていく。
使ってやれば、さらに研ぎ澄まされる。
そう感じた。

担任をはずれ、全校を見れるようになると、昨年気付かなかった事が見えてくる。

昨年、本番の時突如宮坂先生が
「2列で退場せずに、4列で退場させなさい。」
と変更した。
せっかく練習してきたのに、子どもは戸惑うではないかと感じた。

今年入退場の指導をしてみて、その感覚が見えた。
確かに2列ずつ入場し退場すると子ども達の凜とした行進を見てもらうことができる。
しかし、それが延々と続くと飽きてくる。
どうせ、この子達は整然と入退場できるのだ。
だったら、当然4列にしたところでも整然と動けるだろう。
その方が見ている人が退屈しない。
そう思えた。

そこで、突如
「今から入退場は4列にします。どうやったら4列になるか考えなさい。」
とだけ指示をした。
もちろん、これもすぐに理解し行動できた。

本番前に、二橋先生から
「2年生が狭くて、歌いにくそうに見えます。あの子達は、体を動かして歌うのが得意です。スペースを作ってあげたいのですが。」
と提案があった。

「やりましょう。確かにその方がいい。あとは本番しかありません。かまいません。本番で指示してください。あの子達は、その指示を理解し、変更してもすぐにこなせます。」
と答えた。

当日、二橋先生の指示は的確だった。
「1年生は2歩前に出なさい。2年生は1歩前に出なさい。これで、1年生も2年生も隙間ができて歌いやすくなりましたね。」
指示した。
それから、息のはき方、吸い方、口のあけ方、発生の仕方を指導してから、校歌の斉唱に入っていった。

見事な流れだった。

 

子どもに教えたいことがある。
それをやれば効果が上がることは見えている。
しかし、遠慮して言い出せないことが多い。

本当に価値があるものなら、
時に
遠慮せずに仕掛けることも必要だ。
仕掛けたからには、皆が満足する結果がでるように、
課題を見つけ、一つ一つつぶしていく。

そんなことが大事だと分かった。

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