トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

ナガサキアゲハのオスだった!

2021-09-19 | 小父のお隣さん
 満開の曼殊沙華に黒いアゲハが吸蜜している。後ろ翅に白い紋があるから「モンキアゲハ」と気楽に寄ったのだったが、これが巨大だった。「エーッ!こんなに大きかったぁ⁉」と思わざるを得なかったのだ。寄っても逃げないから翅の大きさを目測で図ると片翅の最大長は100mmはあったのだ。もう巨大なチョウでモスラ級に思えてしまった。

 カメラを向けて違和感がある。「はて、モンキアゲハはこんな紋だったか⁉」と言う思いでしっくりしない。後ろ翅の紋には立て格子が入っていたのだ。気持ちの悪いまま帰宅して図鑑を開いたらナガサキアゲハのオスと判明。異常な大きさに思えたのもモンキアゲハより大きいサイズだったからだ。それですっきり玉手箱。この紋は記憶にないから恐らく初めての男、いいえオスだろう。「初めての男」と表現すれば大きな誤解が生じてしまいかねない。まあ、年金高齢者は何時でもどこでも「金無い」のだけれど・・・。
 そして素敵な演歌だったあれ、「あああーあ、ナガサキはオスだぁったー・・・」オス末。

         

         

草取りなのかアブ捕りなのか・・・

2021-09-19 | 感じるままの回り道
 八月後半からアブの出現が甚だしくなる。駐車場に到着すれば間を置かずアブ数匹が寄ってくる。先ずはのお目当ては暖かくなっているタイヤや車体に飛びつくのだが、後部ゲートを開けて作業の準備をする小生の周囲も飛び回るので五月蝿くて迷惑なのである。これがこのまま済むはずも無く車体が冷えれば畢竟、人身に向かうのは当然の成り行きで、このためしばし準備を中断し柄を30cmほどにした捕虫網でアブ捕獲に励む。

 この日の作業は増殖に増殖させてしまった泥水池の除草だったのだが、曇りで日足が無く作業日和であった。しかし、こういう日和はアブの活動が盛んになって周囲を飛び回って煩わしい事この上もない。そこで腰の後ろに挿した捕虫網で捕獲することになるけれど脚は泥中で動きはとれない。結局は捕虫網を構え網の使える範囲に止まったところを掬い取るのであった。
 しかし、連続して襲来する訳でもなし、三々五々、勝手においでなすってはまとわりつくのだ。まあ、全てが妙齢の女性だと喝破できれば悩み無用なものの、あの痛さ、後々の腫れと痒みを想うと「好きにしてぇー」とは耄碌した我が身でもそうはならない保身に走る。これは永田の鵺と同じなのである。

 結局、カリカリ、イライラしつつ立ちんぼする羽目になって作業がはかどらない。鎌で刈り取る除草なら簡単なのだが根こそぎ抜去は手間がかかるし陸に上げるにも泥付きなので重いし泥跳ねを浴びる。そんなことで遅々として進まず、雨粒が落ちてきたのを幸いとトンズラした。因みに捕獲し片翅を除いて捨てたアブは10匹近くになったはずだ。
 アブへの仕返しは父を見習った行動で、農耕牛に群がるアブをことのほか憎み、蠅叩きで軽く叩き落としては翅を千切って投げ捨てていたのを学習したんである。当時の農耕用家畜は水飲み百姓にとっては命綱の最高額の財産でもあったから、その心情は子ども心にも理解はしていたのだった。
 わが身に残る父の痕跡は「アブへのお仕置き」、母の痕跡は「アリラン」を歌えることくらいになった。祖父の痕跡は頭頂部に在り、祖母の痕跡は家族性高脂血症として我が体内に鎮座おわします・・・。

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喰っても良いけど姿は見たくない…

2021-09-19 | 小父のお隣さん
 庭のホトトギス、食痕が目立つようになった、と言いたいところであるものの「葉の残りが少なくなった」と言った方が適切だろう。こうなると嫌でも目につくのがルリタテハの幼虫なのだ。もとより花を見たくて植えた植物でも無いし「食べても良いけど花も観たい」そんな位置づけのホトトギスなのだ。

 フイールドのホトトギスと血縁はあるのだがフイールドのホトトギスは量があるせいか食痕はまだ観ていない。サルトリイバラもあるから観たいなら両方を探さなくてはならないけれど、アカボシゴマダラやコノマチョウのグリーン極まれる美しい体色とは異なるルリタテハの幼虫は目にしたくない存在でもある。もちろん毒々しい感じでも無毒なのは分かりきっていても苦手なタイプなのは変わらない。そういえば親となった成蝶のルリタテハの飛び様は「我関せず」「私は私の路を行く」動き方に見えて、周囲との関係性は拒絶している風にも取れる。

 まあ、チョウ類などはすべてそうなのだが、庭でも繁殖するのなら少しは近くによって恋、いいえ、寄って来いと請いたくもなる。一宿一飯の恩義があるだろうに!。少しは媚びても良かろうに!、と姥捨て山の孤老はチョウにさえ寄って欲しいのであった。良ーくよく考えてみなくても当人が既に「チョウのように舞い蜂の様に刺す」時期など無いままの人生一路の終盤であってチョウのような生態は望むべくもない。しかしながら欲望や業は枯れることなく我が身にあるから「それが悶題だ!」。
 少しはお慈悲にすがりたいと中秋の名月直前の月光でも浴びようかと空を見上げても台風14号の雲ばかり、一条の光も一本のクモの糸も降りては来なかった。窓の外には千切れた天津すだれの糸がはためいているばかり。ああ、我が人生トホホですゥ。