タッコンに別れを告げてから30分近く経過した。
私はスタイリー式リクライニングチェアに落ち着いて座っていることができず、座席を離れ車両の乗り口に立って景色を眺めていた。
この列車の扉は手動式で走行中も開けっ放しにしておくことができる。
扉の両側には乗り降りの際に使われる手摺りが付いているので、扉を内側に開けたまま手摺りにつかまり身体を乗り出して景色を眺めることができるのだ。
私が小さい頃、国鉄福知山線を走るディーゼルの普通列車が同じように扉開けっぱなしのオンボロ客車であったと記憶する。
それがわずか二三十年で最新式の電車に姿を変え、スピードの出しすぎで脱線したのだ。
この扉を開けっ放しにできる客車はつい最近までJR和田岬線でも走っていた。
この和田岬線は山陽本線兵庫駅から和田岬駅までのわずか一駅間を朝夕だけ走っているケッタイなローカル線で、たった一度だけ海辺にあるK化学へ行く時に利用したが、客車内は山手線でもないのに座席も無く殺風景で、扉もなかったのが印象に残っている。
ミャンマーの列車はちょうど和田岬線やいにしえの福知山線のように扉が開けっぱなしで走行しており、現在の価値観からするととても危険なのであるが、ある意味、とても楽しい列車ということができた。
快調に走っていた列車がスピードを落とした。
長時間に渡り一つのところに足止めを食っていたため、少しでも快調に走り続けて欲しいという希望がこちらにはある。
従って、スピードを落としゆっくりと走られると「故障かな?」と思ってしまうくらいの不安感と焦燥感がつのってくる。
悪いことに列車はほとんど停車するのではないかと思うくらいスピードを落とし、徐行を始めた。
ますます「また故障かな?」という不安がつのってきたが、やがて超低速運転の理由が分った。
扉から身体を乗り出して前方を見ると、大勢の男たちが線路脇でなにやら作業をしている。
近づくに連れてその姿は明瞭になり、やがて彼らがどういう人たちであるのかがわかった。
彼らは保線作業員で列車はまさに昨夜「鉄橋が流された」という個所にさしかかっていたのだ。
私はデジカメをとり出し鉄橋流出現場を写さんと身構えた。
このヤンゴンからマンダレーに通ずる本線とも呼ぶべき線路は沿線の多くが田んぼや畑、クリークなどが流れており、かなり不安定な土壌なのだ。
「鉄橋が流された」という場所も、線路の両側をクリークが流れているところで、問題の鉄橋はそのクリークが線路をくぐるところに架けられていた小さな橋だったのだ。
この橋が折しも雨期末期の集中豪雨に見回れて橋脚が流されて垂れ下がってしまったものだったのだ。
で、徹夜の作業で橋を復旧してくれたのが彼ら作業員というわけだ。
それにしても復旧された橋はなかなか見事であった。
線路はクリークから3~4メートルのところに架かっており、線路の両側は泥土で固められたままだった。
作業員たちは流された橋脚の代わりに線路の下にレールの枕木をキャンプファイアーのように積み重ね急場の橋脚を作りだしていたのだ。
「お~怖わ~」
と思いながら橋脚流出個所でシャッターを切ると作業員の監視員と思われるオッサンに睨まれた。
そいうえばミャンマーでは鉄道を撮影することは基本的に違法であることを思い出した。
「マズかったかな.....」
と思いはしたが、列車はここを数分かけて超低速で通過すると、再び速度を上げて走り始めた。
結局おとがめを受けることもなく約10分後、タッコン出発後の最初の駅に到着したのだった。
つづく
私はスタイリー式リクライニングチェアに落ち着いて座っていることができず、座席を離れ車両の乗り口に立って景色を眺めていた。
この列車の扉は手動式で走行中も開けっ放しにしておくことができる。
扉の両側には乗り降りの際に使われる手摺りが付いているので、扉を内側に開けたまま手摺りにつかまり身体を乗り出して景色を眺めることができるのだ。
私が小さい頃、国鉄福知山線を走るディーゼルの普通列車が同じように扉開けっぱなしのオンボロ客車であったと記憶する。
それがわずか二三十年で最新式の電車に姿を変え、スピードの出しすぎで脱線したのだ。
この扉を開けっ放しにできる客車はつい最近までJR和田岬線でも走っていた。
この和田岬線は山陽本線兵庫駅から和田岬駅までのわずか一駅間を朝夕だけ走っているケッタイなローカル線で、たった一度だけ海辺にあるK化学へ行く時に利用したが、客車内は山手線でもないのに座席も無く殺風景で、扉もなかったのが印象に残っている。
ミャンマーの列車はちょうど和田岬線やいにしえの福知山線のように扉が開けっぱなしで走行しており、現在の価値観からするととても危険なのであるが、ある意味、とても楽しい列車ということができた。
快調に走っていた列車がスピードを落とした。
長時間に渡り一つのところに足止めを食っていたため、少しでも快調に走り続けて欲しいという希望がこちらにはある。
従って、スピードを落としゆっくりと走られると「故障かな?」と思ってしまうくらいの不安感と焦燥感がつのってくる。
悪いことに列車はほとんど停車するのではないかと思うくらいスピードを落とし、徐行を始めた。
ますます「また故障かな?」という不安がつのってきたが、やがて超低速運転の理由が分った。
扉から身体を乗り出して前方を見ると、大勢の男たちが線路脇でなにやら作業をしている。
近づくに連れてその姿は明瞭になり、やがて彼らがどういう人たちであるのかがわかった。
彼らは保線作業員で列車はまさに昨夜「鉄橋が流された」という個所にさしかかっていたのだ。
私はデジカメをとり出し鉄橋流出現場を写さんと身構えた。
このヤンゴンからマンダレーに通ずる本線とも呼ぶべき線路は沿線の多くが田んぼや畑、クリークなどが流れており、かなり不安定な土壌なのだ。
「鉄橋が流された」という場所も、線路の両側をクリークが流れているところで、問題の鉄橋はそのクリークが線路をくぐるところに架けられていた小さな橋だったのだ。
この橋が折しも雨期末期の集中豪雨に見回れて橋脚が流されて垂れ下がってしまったものだったのだ。
で、徹夜の作業で橋を復旧してくれたのが彼ら作業員というわけだ。
それにしても復旧された橋はなかなか見事であった。
線路はクリークから3~4メートルのところに架かっており、線路の両側は泥土で固められたままだった。
作業員たちは流された橋脚の代わりに線路の下にレールの枕木をキャンプファイアーのように積み重ね急場の橋脚を作りだしていたのだ。
「お~怖わ~」
と思いながら橋脚流出個所でシャッターを切ると作業員の監視員と思われるオッサンに睨まれた。
そいうえばミャンマーでは鉄道を撮影することは基本的に違法であることを思い出した。
「マズかったかな.....」
と思いはしたが、列車はここを数分かけて超低速で通過すると、再び速度を上げて走り始めた。
結局おとがめを受けることもなく約10分後、タッコン出発後の最初の駅に到着したのだった。
つづく