人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

新国立オペラでベートーヴェン「フィデリオ」を観る ~ ベートーヴェンに対する冒涜か!? 物議を醸す ワーグナーのひ孫カタリーナ・ワーグナーの斬新な演出

2018年05月21日 08時01分26秒 | 日記

21日(月)。わが家に来てから今日で1327日目を迎え、英国のチャールズ皇太子と故ダイアナ元妃の次男ハリー王子が19日、ロンドン郊外のウィンザー城で米俳優だったメーガン・マ―クルさんと結婚式を挙げた というニュースを見て感想を述べるモコタロです 

 

     

     巨大なブリの天ぷらを食べてお祝いしたらしいね  さすがは グレイト ブリ テン!

 

         

 

「オペラのベスト10」を挙げよ、と言われたら何をランクアップするでしょうか? 私の場合は、モーツアルト、ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニ、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウス、ベッリーニ、ドニゼッティ、ビゼー、チャイコフスキーあたりが候補に入ると思います この中にベートーヴェンが入ることはまず考えられません 彼は「フィデリオ」しかオペラを作曲していないからという理由ではありません。ベートーヴェンのオペラに対する考え方が他の作曲家とは全く異なる独特のものだからです それは、道徳的な内容でなければならないし、最後には正義が勝つというものでなければならないというものです ベートーヴェンはモーツアルトの「フィガロの結婚」や「コジ・ファン・トゥッテ」などのような”不道徳な”オペラは嫌いだったし、書くつもりもありませんでした

モーツアルトのオペラを聴くようなつもりでベートーヴェンの「フィデリオ」を聴くと、違和感を感じます それはモーツアルトのようなユーモアの心や遊び心の精神が全くないからです。モーツアルトのオペラが「人間ってこうなんだよね」というのに対して、ベートーヴェンは「人間はこうでなければならぬ」なのです だから、ベートーヴェンに楽しさを求めるのは間違いなのです。求めるべきは苦悩を通しての喜びなのです

ということで 昨日、新国立劇場「オペラハウス」でベートーヴェン「フィデリオ」を観ました キャストは、フロレスタン=ステファン・グールド、レオノーレ=リカルダ・メルべート、ドン・ピツァロ=ミヒャエル・クプファー=ラデツキー、ドン・フェルナンド=黒田博、ロッコ=妻屋秀和、マルツェリーネ=石橋栄実、ジャキーノ=鈴木准ほか、管弦楽=東京交響楽団、合唱=新国立劇場合唱団です   指揮は飯守泰次郎、演出はカタリーナ・ワーグナーです

私が新国立オペラで「フィデリオ」を観るのは2005年5月、2006年11月(演出はいずれもマルコ・アルトゥーロ・マレッリ)に次いで今回が3回目です

 

     

 

監獄所長ピツァロは、政敵フロレスタンを不当に監禁している。フロレスタンの妻レオノーレは夫を救出するため、男装してフィデリオと名乗り、監獄の番人ロッコの下で働き、救出の機会を窺がっている。大臣の視察を知らされたピツァロは不正の露見を恐れ、フロレスタンの殺害を決意する ピツァロが手を下そうとした瞬間、レオノーレが身を挺して夫をかばう。そこへ大臣が到着、レオノーレの勇気ある行動を賞賛し、ピツァロを裁く。人々は神の正しい裁きと愛の力を讃える

 

     

 

今回の公演は「新国立歌劇場 開場20周年記念特別公演」であるとともに、飯守泰次郎氏が同劇場オペラ芸術監督として最後のタクトをとること、リヒャルト・ワーグナーのひ孫で、バイロイト音楽祭総監督を務めるカタリーナ・ワーグナーが演出を手掛けることから期待が高まります

「フィデリオ」は 言うまでもなくベートーヴェンが残した唯一のオペラですが、彼はこの曲のために4曲もの序曲を残しています  「レオノーレ序曲」第1番~第3番と「フィデリオ序曲」です   これはベートーヴェンがこの作品を何度も書き直した結果、そのたびに序曲が作曲されてきたからです   最後に作曲されたのが「フィデリオ」序曲です

【注意】以下は この公演の演出面を中心に書いていますが、これから本公演を初めてご覧になる方で、予断を持たずに鑑賞したい向きは、鑑賞後にお読みになることをお勧めします

飯守泰次郎氏がオーケストラピットに入り、序曲の演奏に入ります。力強い演奏で一気に「フィデリオ」の世界に引き込みます

舞台が現われますが、2階建てになっており、2階の左側がレオノーレの居室、中央が階段状の空間、右側が監獄番人室で そのすぐ上が玄関口となっています そして1階部分は地下牢という設定で、そこにフロレスタンが監禁されています。第1幕では、1階でジャッキーノとマルツェリーネ、あるいはロッコとドン・ピツァロなどのやり取りが歌い演じられている間、地下ではフロレスタンが黙々と壁にレオノーレの姿を描いています 普通の演出では第1幕でフロレスタンの歌う場面はないので登場させません。ここが今回の演出の一つの特徴です

とは言うものの、なぜ1時間強にも及ぶ第1幕にフロレスタンを出づっぱりで登場させ”お絵描き”をさせるのか、同時に ストーリーでは多くの囚人たちが拘束されているはずなのに、なぜフロレスタン一人だけなのか、と疑問が湧いてきます   また、舞台が回転する訳でもなく2階建て舞台がそのままの状態で物語が進行するので、こんな舞台演出だったら誰でも出来るのではないか、とまた 疑問が湧いてきます

と思った次の瞬間、舞台がせり上がって3階建てになり地下2階部分が現われ、フロレスタン以外の囚人たちが拘束されていることが分ります。これで疑問の一つが解消されました

 

     

 

第2幕に入ります。冒頭、地下牢のフロレスタン(ステファン・グールド)がレチタティーヴォとアリア「神よ、ここは何と暗いのか」を張り裂けんばかりに歌い上げますが、この絶叫にも近いアリアを聴いて、なぜカタリーナが第1幕でフロレスタンに地下牢でひたすら絵を描かせていたのかが理解できました 「地上の世界ではごく普通の生活が営まれている間、自分は理由もなく地下に拘束され続けてきた 自分自身を見失わない唯一の方法が暗い中で絵を描いて自己を表現することだった 第1幕であなたも観ていましたよね」という心情の発露が冒頭のアリアだったのです

この物語はこうだったかな?と疑問に思ったのは、ドン・ピツァロがフロレスタンを刺そうとすると、フィデリオが飛び出し「殺すならば先に私を殺せ」と言って彼をかばうシーンです 一般的な演出では、実際に刺すことはないと思いますが、カタリーナの演出では、フィデリオはドン・ピツァロのナイフを奪い 夫を守ろうとするが、ピツァロはそれを奪い返しフロレスタンの腹を刺し、次にフィデリオを刺します  もちろん、刺された二人はその場で死亡するわけではありませんが、二人は瀕死の重傷を負うという設定で良いのだろうか、と疑問が生じます

この場面で「レオノーレ序曲第3番」が演奏され、第2場へと繋がれるわけですが、この間の演出に興味深いものがありました ドン・ピツァロが地下1階の牢獄の入口に1個1個レンガを積んで出入口を塞いだ、つまり 二人とも重傷を負っているにも関わらず、ピツァロは二人が完全に脱出できないようにしたのです  これは何かの伏線か? と思わせる行動です

第2幕第2場に入ると、大臣ドン・フェルナンドによってフロレスタンとレオノーレ、そして他の囚人たちが救出されて喜びに満ちたシーンが地下2階スペースで展開するのですが、ここで不思議なことが起こりました 本物のフロレスタンとレオノーレは 出入口をレンガで塞がれた地下1階スペースで「夫婦愛」を歌っているのに、地下2階のスペースで もう一組のフロレスタンとレオノーレらしき人物が大臣ドン・フェルナンドから祝福を受け、他の囚人たちと喜びを分かち合っているのです さらに 最後の最後の場面で、追放(あるいは逮捕)されたはずのドン・ピツァロが再登場し、舞台の真ん中でドン・フェルナンドと睨み合って幕が下りるのですが、この演出も どういう意図があるのだろうか? と疑問が生じます

これに関してはプログラム冊子の「プロダクション・ノート」に書かれたドラマトゥルク(戯曲家のような役職か?)のダニエル・ウェーバー氏による次の言葉がヒントになりそうです

「もしドン・ピツァロが 最後の解放されたように見える群衆の雑踏に紛れて、成功した手段である変装の技を今度は自分が使い、仇敵の服をまとって彼の役を演じ、解放者のふりをしてみたら、なんと皮肉なことになるだろうか」

つまり、「レオノーレの男装が マルツェリーネが恋してしまうほど鮮やかで、夫のフロレスタンでさえ自分の妻とは気が付かなかったのだから、ドン・ピツァロが巧妙に他人に変装したとしても誰も気が付かないだろう」ということです この言葉をヒントに考えると、第2幕第2場の演出は次のようになるのではないか

「フロレスタンとレオノーレは、地下1階の牢獄の出入口を塞がれているため外に出られない 地下2階に現れたフロレスタンとレオノーレらしき人物は、ドン・ピツァロが彼らに似たカップルを連れてきてドン・フェルナンドに本人だと信じさせ、他の囚人たちとともに解放した 最後にドン・ピツァロはドン・フェルナンドと睨み合って目で伝える。『あいにくだが、お前が解放した囚人の中にはフロレスタンとレオノーレはいなかったのだ 彼らは瀕死の重傷を負ってまだ牢獄に閉じ込められている。最後は俺の勝ちだ』と」

このように考えると、ストーリーの辻褄が合います もしそうだったとしたら、ベートーヴェンのオペラに対する考え方(道徳的な内容で、最後は正義が勝つ)に照らして、この演出は大きな問題があるのではないか、もっと言えば、この演出はベートーヴェンに対する冒涜ではないかと思います

幕が降りた後の聴衆の反応もイマイチだったように思います   「フィデリオ」と言えば、最後は「この日に祝福あれ」の大合唱で大団円を迎え、会場が興奮の拍手とブラボーで満たされるのが通例ですが、この日は、上の階の聴衆からブラボーとともに多くのブーイングが聞かれました   ブーイングは歌手陣に対するものではなく、明らかに演出のカタリーナ・ワーグナーに対するものでした。カーテンコールで紋付き袴のような斬新な衣装でカタリーナが現われた時も、同様のブーイングが聞かれました 奇しくも私の直感が当たったわけですが、歌手陣に対しては大きな拍手が送られていました レオノーレを歌ったリカルダ・メルべートとフロレスタンを歌ったステファン・グールドの二人は、新国立オペラの最長不倒出場歌手ではないかと思うほどワーグナーのオペラを中心に頻繁に出場してきましたが、オペラ芸術監督として最後の指揮とあって、飯守氏は「安定・確実」の二人の歌手に主役を任せたのだと思います ドン・ピツァロを歌ったミヒャエル・クプファー=ラデツキーは役柄にぴったりのバリトンでした 日本人歌手陣も健闘しましたが、とりわけマルツェリーネを歌った石橋栄実は歌唱力・演技力ともに強く印象に残りました

飯守泰次郎+東京交響楽団は歌手に寄り添いながら、ベートーヴェンの強い意志を表出していました 特筆すべきは、出番は多くなかったものの、迫力のあるコーラスを聴かせてくれた新国立劇場合唱団です。この合唱団は本当に素晴らしい

今回のプロダクションによる上演は このあと 24日、27日、30日、6月2日と4回ありますが、上演を重ねるごとにカタリーナ・ワーグナーによる演出が物議を醸すように思います 音楽評を書くことで生計を立てている「音楽評論家」諸氏の評論が楽しみです

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4 コメント

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カタリーナらしーね! (ハンスリック)
2018-05-21 14:51:42
24日、観るのだけど、”マイスタージンガー”でバイロイトの保守的聴衆を舞台に登場させ、挑発したカタリーナらしいね。バイロイトから多くのサポーターが参戦しているので、アエーでもこれぐらいせんと・・・・。20年前の父ウォルフガング演出の「ローエングリン」(若杉宏指揮)は普通だったけど・・(バラッシュ指揮の合唱はよかった)。
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「フィデリオ」の演出 (tora)
2018-05-21 15:47:15
ハンスリックさん、コメントありがとうございました。
カタリーナさんは挑発的な人だとは噂で聞いていましたが、ベートーヴェンがこれを観たら怒らないかなぁ
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返信 (ハンスリック)
2018-05-21 21:33:38
他の人のブログを見たら、ピサロがフェルナンドも殺して終わりなんだってね。今のバイロイトでフィデリオをやったら・・・(パルシファルに神主登場)。例えたら、権太郎の「芝浜」(嘘を明かした女房殴る、DV)、スタンダードじゃない。でもテロ、フェイク・ニュースの時代なんだ、と説いているだろう。
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ベートーヴェン台無しか? (tora)
2018-05-22 07:54:37
ハンスリックさん、再度のコメントありがとうございました。
最後にピツァロまで殺したらベートーヴェンの精神もなにもあったものではないですね。
テロ、フェイク・ニュースの時代における演出ですか・・・そういう捉え方もありましたか
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