人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

イゴール・レヴィットとは何者か? ~ 片山杜秀氏と長木誠司氏の演奏会評を読んで / シャンタル・アケルマン監督「私、あなた、彼、彼女」を観る ~ 早稲田松竹

2022年12月09日 07時01分20秒 | 日記

9日(金)。昨日の朝日朝刊に「片山杜秀の蛙鳴梟聴(あめいきょうちょう)」というコラムが乗りました 「恐るべき怪物ピアニスト ~ ベートーベンを睨み切る」という見出しでイゴール・レヴィットの演奏を取り上げています 超略すると次の通りです

「イゴール・レヴィットは『睨み』だ ドイツに住むまだ30代のピアニストが11月18日と19日に紀尾井ホールでベートーヴェンのソナタを9曲弾くのを聴いて、そう思った 市川海老蔵の13代目市川団十郎襲名披露公演を観たばかりだったせいかもしれない 海老蔵も団十郎も屋号は成田屋。成田山新勝寺との縁ゆえだ。その本尊は不動明王。世界を見通す強い眼を持つ 成田屋も不動明王にあやかって睨む。レヴィットはまるで不動明王か猿田彦だった ベートーヴェンのどの曲も完全に見通していた。蛇に睨まれる蛙はなぜ動けなくなるか。手の内を読み切られ、どう動いても相手の意表を突けないからだろう。そのうえ速度でも負ける。逃げられない。レヴィットの前でベートーヴェンは蛙だった 演奏の解釈と技量が作品のポテンシャルを超えている そう聴こえた。たとえば第21番『ヴァルトシュタイン』や第23番『熱情』。いずれも終楽章は人間業とは思えぬ超特急だ しかも大音量。剛力で圧する。それなのに雑味なし。響きはあくまでも明晰。目にもとまらぬ速さのはずなのに目にとまる。轟音のはずなのに団子にならない。一音一音を隅々まで分節しきる。常にピントのよくあった連続写真。超細切れにされていて、有機的で自然な流れを生じさせない。聴く者の心は気持ちよく運ばれない 情に溺れず、美に耽らず。ブレヒトの演劇に似ている。安易な心情移入を拒む工夫が演奏のそこかしこに仕掛けられている 21世紀のベートーヴェン演奏がついに現れた

《記事の解説によると、「蛙鳴梟聴(あめいきょうちょう)」は、故事成語「蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)」のアレンジで、蛙(カエル)の賑やかな音楽に梟(フクロウ)のように静かに耳を傾ける、という意味とのこと》

一方、同じ日の朝日夕刊に、同じ演奏を聴いた音楽評論家・長木誠司氏の「演奏会評」が掲載されています 超略すると次の通りです

「ロシア生まれでドイツ在住のイゴール・レヴィットには、ベートーヴェンだからという気負いはいっさいない そのままコンビニにでも行けそうな服装でピアノの前に現れたかと思うと、さらりと弾き始める 初日冒頭の第1番ですぐさま分かるのは、その音色パレットの多彩なこと 弾き飛ばしているような印象を与える目の回るようなパッセージも、その実ひとつひとつの粒立ちがよく、タッチは磨き抜かれている 2日目では最後の『熱情』が白眉。楽器を存分に唸らせる冒頭楽章からスピーディーな終楽章コーダまで、動と静を自在に操りながらまさに熱狂の境地にまで聴き手を運ぶ。圧巻だった

ほとんど片山氏と同じような評を書いています

この2人の文章を読んで、真っ先に思い出したのはイタリア出身のマウリツィオ・ポリーニです ポリーニは1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールで審査員全員一致で優勝しましたが、1971年に発表したストラヴィンスキー「ペトルーシュカからの3楽章」は、まさに上の文章に書かれたような演奏で、クラシック音楽界で驚きを持って迎えられたことを思い出します

片山氏をして「21世紀のベートーヴェン演奏がついに現れた」と言わしめたイゴール・レヴィットは、いったいどんな演奏をするのか 是非ともライブでベートーヴェンのソナタを聴いてみたいと思います

ということで、わが家に来てから今日で2888日目を迎え、ロシアのプーチン大統領は7日の会合で、核戦争のリスクが高まっているとの見解を示し、自国の核兵器はあくまで防衛目的で保有していると強調し、「私たちは狂っていない」と主張した  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     ロシア国民は政権に騙されてるだけ 狂ってるのはプーチンとその取り巻き連中だ!

 

         

 

昨日、夕食に「サーロインステーキ」を焼いて、「卵スープ」を作りました 最近、娘が仕事の関係で朝3時半には起きて食事をとり、4時半には家を出て自転車で池袋の職場に向かい、5時から夕方4時まで働いているので、体力をつけないと身体が持ちません そのため、どうしても肉中心の食事になってしまいます

 

     

 

         

 

早稲田松竹でベルギー出身のシャンタル・アケルマン監督による1974年製作ベルギー・フランス合作映画「私、あなた、彼、彼女」(モノクロ:86分)を観ました

名もなき若い女性(アケルマン自身)が一人、部屋で家具を動かし、手紙を書き、裸で砂糖をむさぼる 部屋を出た彼女はヒッチハイクでトラックに乗り、運転手と行動を共にし、訪れた家で女性と愛を交わす・・・といった撮影時24歳だったアケルマンによる自身のポートレートです

 

     

 

タイトルの「私、あなた、彼、彼女」の「私」はアケルマン演じる名もなき若い女性、「あなた」は映画を観ている観衆、「彼」はトラック運転手、「彼女」は私が訪ねた女性であるようです 冒頭のシーンで、「私」はマットレスを立てたり、横にしたり、裸になって袋からスプーンで砂糖を掬って食べたりしますが、ただ時間が経過していくだけのように思われ、それがどういう意味を持っているのか分かりません 唯一ヒントになるのは誰かに宛てて手紙を書いていることと、「私は待っている」というナレーションが入ることです しかし、「誰か」を待っているのか、あるいは「何か」が起こるのを待っているのか分からない その数日後、彼女は「結局、何も起こらなかった」と呟きます。家でじっとしていては何も起こらないし誰も訪ねてこないことから、彼女は服を着て外に出ます そこから「彼」と「彼女」と相次いで出会うことになります。トラック運転手の「彼」は自分の妻や2人の子供たちのことを一方的に喋り、「私」は聞き役に徹し、自分を語ることをしません 「彼」と別れたあと訪ねた「彼女」の家で、ワインとサンドウィッチで食事をとり、「長居はしないで」という「彼女」と一切会話することなく、ベッドでレスリングのような激しい愛を交わします そしてそのまま映画は幕を閉じます この一連の行動にいったいどういう意味があるのか、私には理解できません ただ、今から48年前に28歳の女性監督が身体を張ってこの作品を撮り上げたことは正直すごいと思います

 

     


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