少しさぼりました。今年の夏休みは偵察機「彩雲」を見に行きたいと思っていましたが、来週は台風の影響を受ける可能性が高いので25日(土曜日)に高校の同級生とジジイ二人で行って来ましたよ。目的地の河口湖飛行館まで夏場の軽自動車はつらいので電車とタクシー乗り継いで到着してみると、恐らく同じ思いの人たちが大勢詰めかけて駐車場は満杯です。
自動車博物館の建屋にはF104が載っていますが、この光景は私が若い頃にホンダS800で訪問した時もありました。しかし、その頃は建屋はこれのみで、砂利道を入るとポツンとあるのみでした。
お目当ては格納庫の飛行館です。内部は照明設備も殆どない薄暗さでしたが、撮影はスマホに限定されており、返ってデジカメより明るく撮影できたとは思いますが、ここで失敗しました。普段スマホでの撮影はしないので設定を間違えてほとんどの画像がパソコンに取り込めませんでしたので、救出出来た画像を少しだけUPします。
一番のお目当てであった「彩雲」の画像が殆ど取り込めません。天井からはライト兄弟のライトフライヤー(レプリカ)が展示されています。
胴体の骨組みに外板を貼った状態の内部。胴体内タンクはオリジナルのようです。
三座の特徴的に長いキャノピー。当時の風防はこのような透明度があったのでしょうかね。
隼を見ることが出来る唯一の博物館。これは2型乙で一番完成された時期ですね。元々、隼は武装が貧弱で、1型では機首に7.7mm機銃を2丁のみでしたが、この頃は片側を12.7mmに換装されています。それでも構造的に翼内機銃を装備できないので非力ですけどね。
うちの隼はプロペラのスピンナーが無くなってボロボロです。ハセガワの古い1/32キットの2型乙を一つ前の仕様(2型甲)に改造したもので、排気管の形状やエンジン前にある環状滑油冷却器は1型の仕様を残しています。
排気管が纏められて後方に向いています。一種のロケット効果を狙ったもので、実際に最高速度も若干上がったようです。この手法は基本的に同じ発動機を搭載する零戦でも用いられました。
天井には1型があります。1型の発動機はハ25で950馬力と2型のハ115の1150馬力よりまだ非力。この機体は当時、加藤隼戦闘隊として国民に知られた64戦隊の加藤建夫隊長機になっています。加藤部隊長は基地に単機で奇襲爆撃に侵入した英軍のブレニム爆撃機を追撃に上がり、敵の防御放火により機体が発火、ベンガル湾に見事自爆を遂げました。7.7mm2丁では、欧米の防弾性能に優れた機体を撃墜することは至難で、無理な肉薄攻撃をした結果でしょう。私の地元立川飛行場は隼と縁が深く、64戦隊は隼(キ43)に機種改変後、立川にて南方艤装を施しビルマ、南部仏印方面へ進出して行きました。私の母は立川飛行機で隼の製造に従事しており、脚の「サドウトウ」を作ったと聞きましたので、恐らく作動筒、油圧シリンダーではないかと想像します。終戦間際には外注先から部品が入ってこず「これで戦争に勝てるのか」と思ったと言っておりました。
海軍の一式陸上攻撃機を見られるのはここだけです。翼はなく胴体のみ見ることが出来ます。私の印象では「思ったより大きくない」です。当時の実写や東宝の戦争映画などでは、もっと大きく感じました。前線視察のため山本五十六長官が搭乗してブーゲンビル島で撃墜された機体。
私は零戦と言えば二一型です。空母「赤城」の搭載機として塗装されています。この灰色は論議の的で、現在ではもう少し「飴色」という説が有力のようです。戦争中に塗色を正確に記憶している人が果たしていたのか? 脚の収容部は昔からプラモデルでは「青竹色」に塗ることになっていますが、本当にこんなメタリック調の色だったのか今でも疑問です。
母艦に搭載するため、エレベーターのサイズに合わせて翼端を50cm折り曲げる仕様となっていました。九六式艦戦より航続距離を長くするため機体の大型化をしたため。この他五二型も見ることが出来ますが画像が救出できません。
九三式中間練習機です。通称「赤トンボ」戦争後期は搭乗員の速成養成のため、初等練習機工程を省略して中間練習機からの養成となったようです。
映画「トラ・トラ・トラ」で零戦や九七式艦上攻撃機などに化けた練習機のT6テキサン。優秀な練習機で世界中で運用されました。自衛隊でもパイロットの養成に活躍しました。この他、1964年の東京オリンピックで青空に五輪の輪を描いたブルーインパルスのF86も見ることが出来ました。開館は8/31まで。
トミーのリペイント (tomys800.sakura.ne.jp)