富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

現職大臣自殺に思うこと

2007年05月28日 | Weblog
現職の大臣が自殺 政界に衝撃!

このニュースは、「政界」なんて言うような
限られたレベルではなく、ある意味で
自分たちに大きな衝撃を与えました。
個人的にも「緑資源機構」「測量」
などという自分にとってなじみのある言葉が
新聞やテレビを賑わせている最中の出来事です。

いかにも、沈痛な面持ちで
与野党で故人を悼む趣旨の発言が続き
なかでも、東京都知事の「死をもって償う
彼は、サムライだった」というコメントは
受け入れがたい気持ちで
むしろ僕には憤りがこみ上げてきたものでした。
テレビカメラに視線を向けて
情に訴えるような政治家のコメントには
事の重要性や意味を全く理解できていない
様子が見て取れ、同じアナの・・・のかばいあい
にさえ、見えて仕方がない。
失ったものは、「大臣の命」だけではない
むしろこの国というものにたいして抱く
失望感の大きさが気持ちを暗くしてしまう。


死をもって償えるものなど、この世にはなく
生きることで、真実と向き合い
生きることを保障する。人権とはそういうもので
そのことを具体的に実現するコトこそが
政治や行政に与えられた使命だというのに
困窮すれば、死をもってつぐなうなどという
石原のような「美学」もどきが未だに顔をもたげる
ことこそ、「戦後レジューム」からの脱却どころか、
時計の針を60年も100年も戻された
思いでいっぱいになる。

これが「美しい国」の政府の本質なのか?
ごもっともな「美しい国作り」を実践する
政府の大臣のいきがって見せた「自殺」という仕業は、
一方で「命の尊さ」をうたうお題目の「教育再生」の
茶番を見る思いでもあります。
彼らにホンマにそれを考える・するという資格すら
あるんやろか?

現職大臣自殺というニュースは、
この国のみならず、全世界に瞬時に発信されています。
多くの疑惑の最中にある政治の責任者が
ましてや、行政のトップである大臣が
自らの抱える問題に説明もせず、
疑惑にこたえずして、責任を放り出して
死を選んだという事実は
むしろ国民の生活を保障すべき政府の
閣僚の「死」というものへの軽々しい意識が
自分たちに、おおきな不安を与えるうえに、
いつまでたっても彼らの意識する「責任」とは
自らが背負い、自らが負うというものでなく
出来るだけとらないでやり過ごすコトを意味するんやと
思い知らされる。

この国の民主主義やものの考え方をどうとらえるのか
あるいは、もっと言えば
大臣が責任を放り出し、あとのことを
他人任せに死を選ぶ現状やこの国のありようは
世界にどう見えているのかを思うとき
損なった国益の大きさは計り知れないでしょう

「くさいものに蓋をする。」
「水に流す」
真実を明らかにしないで
コトをおさめることこそ、
「改革」すべき対象ではなかったのか

彼らのいうあるいは、僕ら自身の言う
「責任」とはなんのでしょう。
責任をとらずにすむことが「エエコト」とは
違うんちゃうかな

5000万件にも及ぶ社会保険のミスを
「今懸命に努力している」と弁明する総理がこの国にいます。
5000万件などという数字が示すものは
「ミス」などというものでは、ありません
何十年も何もしないどころか
何も責任を持たなかったというコトを
意味しているんです。
努力とは、せめて何かを成し遂げた上に
人に語りかけるものです。
何もしないコトの尻ぬぐいを
「努力」などとは呼ばないものです。

自分たちの政府が何をやってるのか
それを追及する野党も根っこでは、
後追いの責任追及に終始し、解決策もない
私たちの根幹にある政治の現状は深刻です。

政治家と名乗るもの達が、
「気の毒に・・・」「追い詰められてたのだろう」
と評論家気取りで、まるで他人事のように
同じ政治家もどきを哀れむのなら
生活に追い詰められ、気の毒にも大臣自らが
個人の理由で「農政」の責任を放棄された
国民に対してこそ
哀れむ思いを求めたい。

残念やけど、かわいそうになどという
情に訴えるもののかけらもなく
このニュースには、
そういう純粋な疑問がわき上がり、
社会保険の問題も、この事件と同じような
責任放棄の積み重ねがうんだ最悪の
結果としか言いようがなく
明らかに失望感がぬぐえません。


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