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今日の筆洗

2022年10月17日 | Weblog

 落語の「長短」に気の短い人物が出てくる。煙管(きせる)をゆっくりと吸っている仲間に腹を立て文句を言う。「たばこなんてものはのんびり吸うもんじゃない。俺なんか急いでいるときは火をつける前に(煙管を)はたいちゃう」▼用意周到も結構だが、そう気ぜわしくてはかなわない。せっかちに先回り、先回り。想像しただけで時間があっという間に過ぎていく気がする。街角でおせち料理の広告を目にする季節だが、あれを見ると今年も終わりという気にさせられる。まだ二カ月以上残っているのに。気の短い世の中か▼そう書いておきながら、数カ月も先の話となる。日本気象協会によると来年春のスギ、ヒノキなどの花粉飛散量は北海道などを除き、今年よりも大幅に増える見通しだそうだ▼関東甲信地方では今年に比べ二・四倍。東海地方は一・九倍。数字を見ているだけで、鼻のあたりがむずがゆくなってくるという人もいるだろう▼今年の梅雨前線の活動が弱かったことと関係があるそうだ。六月の「高温・多照・少雨」の条件がそろってしまい、これがスギの花芽形成を促すらしい。そうなると雨が少なくていいと思っていた、あの梅雨がうらめしくなる▼落語の気短な男を思い出し早めの準備をとは思うのだが、具体的にできることが少ないのが花粉症のつらいところか。せめて来年は多いぞと覚悟し、身構えるとする。


今日の筆洗

2022年10月15日 | Weblog

 「親ガチャ」は最近流行の俗語で、親は自分で選べないことをいう。中身が何かは運次第のカプセル玩具販売機「ガチャ」に由来するらしい。親の経済力など、生まれた環境で人生が左右されることを嘆く際に使われる▼うちはハズレだったと言っているようで親への敬意も感じられず、使うのをためらう言葉ではある。ただ、格差固定など社会の問題を言い当てていると評価する向きはある▼親のために、これほど苦しむ人がいるのか。両親が旧統一教会の会員で自身もかつて所属した小川さゆりさん(仮名)が先週、日本外国特派員協会で記者会見し、親の行き過ぎた信仰で苦しむ子らを救うため、法整備などを訴えた▼多額の献金で生活は厳しく、子ども時代は見た目の貧しさからいじめられた。アルバイトで得た金も親に奪われた。精神を病んだ時期も。行政に相談しても宗教への理解が乏しく、親身になってもらえないのが現実という▼特派員協会に教団側からファクスが届き、小川さんの説明は精神疾患のため虚偽の可能性があると会見中止を求めてきたが、文書に添えられていたのは両親の署名。親子を裂くこの問題の苛烈さを見せつけられた気がする▼信教の自由に絡む話ではあるが、救う手だては考えねばなるまい。「国ガチャ」という俗語もあるらしいが、生まれた国がハズレだったと絶望させては悲しすぎる。


今日の筆洗

2022年10月14日 | Weblog
一九〇七(明治四十)年発表の田山花袋の『蒲団(ふとん)』には、人々でごった返す新橋駅が登場する。主人公の作家が、帰郷する弟子の若い女性とその父親を見送る場面▼「混雑また混雑、群集また群集(中略)。一刻ごとに集(あつま)り来る人の群、殊に六時の神戸急行は乗客が多く、二等室も時の間に肩摩轂撃(けんまこくげき)の光景となった」。肩摩轂撃は激しく混雑するさまを表す▼日本の鉄道は明治五年に新橋−横浜間で開業して以来混んでいた。需要に運行が追いつかない。大正、昭和になっても乗客数や鉄道延長などから計算する「混雑度」はフランスや米国より高かったという。小島英俊氏の著書『鉄道快適化物語−苦痛から快楽へ』に教わった▼明治の鉄道誕生からきょうで百五十年。今や乗客は減る時代である。疫病流行で在宅勤務が定着。朝夕の駅の混雑は以前ほどには戻らないとみられ、減便する会社もある。特に地方は人口が減り、ローカル線は空席が目立つ。需要喚起に知恵を絞らねば、鉄路は生き残れない▼先の小島氏の本によると、明治の鉄道需要には観光目的も含まれた。日清戦争が起きた明治二十七年には行楽地を目指す臨時の「周遊列車」が誕生し、日光を往復した。新橋−京都間の紅葉狩り列車をはじめ、マツタケ狩りや海水浴など各種周遊列車が大人気だったという▼旅への愛着が変わらないとすれば、きっと未来もある。
 

 


今日の筆洗

2022年10月13日 | Weblog
漱石の『吾輩(わがはい)は猫である』の中に「行徳の俎(まないた)」という表現が出てくる。江戸時代、千葉の行徳ではバカ貝がよく採れた。だから「行徳の俎」は「バカですれている」というシャレになる▼もう一つ、地名を使った言い回しを。「葛西の火事」。これで「やけくそ」の意味になる。江戸川区の葛西には江戸時代、農家にとって貴重な下肥を集めて販売する「肥宿」があったそうで、そこが火事になると…、もう説明はいるまい▼ウクライナでのロシアの最近の冷酷なやり方を見るにつけ、プーチン大統領はいよいよ、「葛西の火事」ではないかと不安になる。首都キーウをはじめ、全国各地で容赦ないロシアのミサイル攻撃が続く。現地が心配である▼今回のミサイル攻撃についてロシア側はクリミア半島とロシアをつなぐ唯一の橋が落とされ、その報復と説明しているが、最近のウクライナの巻き返しに対する焦りの表れか。民間人の犠牲もいとわぬ無差別攻撃が許されるはずもない▼気になるのは「葛西の火事」の行き着く先。自制心を失いつつあるロシア側が追い込まれ、どんな行動を取るか。核兵器という口にさえしたくない言葉も浮かんでしまう▼なりふり構わぬロシアに対し、国際社会が今こそ力を合わせ、早期の侵攻中止に導きたい。例の地名の軽口でいえば、「九州の入り口」=モジモジ(門司)していても始まらない。
 

 


今日の筆洗

2022年10月12日 | Weblog

薄いコートがほしくなるほど寒くなったかと思えば、またちょっと暑くなってみたりとこの秋は調子っぱずれで、ややこしい▼奇妙な天候に惑わされているのはなにも人間さまばかりではなさそうだ。近所の公園に出かけるとソメイヨシノやカワヅザクラの花がちらほらと咲いている。長年の散歩コースだが、これほどの返り咲きはちょっと記憶にない。ぽつんと咲いたサクラの白い帰り花がどこか寂しげに見える▼季節に合わぬ開花を専門的には「不時現象」という。サクラの場合、夏に台風などの影響で葉が落ちてしまうと成長を抑制するホルモンが不足して、花芽が目を覚ましやすいらしい▼こうした状態で秋を迎え、気温が下がった後、暑さのぶり返しなどがあるとサクラの方は冬が終わって、春が来たんだと勘違いして、花を咲かせるそうだ▼なるほど、夏場の台風といい、このところの寒かったり、暑かったりの陽気といい、返り咲きの条件にあっているのだろう。冬さえまだ来ていないのにサクラの早とちりを誘ったらしい▼<物すごやあらおもしろのかへり花>は江戸期の上島鬼貫。おもしろいかもしれぬが、言い伝えではサクラの「時なしの花」はあまり縁起のよいものではないらしい。地域によっては変事や不思議な出来事の前兆ともいうそうだ。前兆はともかくこの寒暖差、体調の管理にはくれぐれもご注意を。


今日の筆洗

2022年10月11日 | Weblog

「咳(しわぶき)。恥づかしき人に、物言はむとするにも、先(ま)づ、前(さき)に立つ」▼「枕草子」の中で見つけた。「恥づかしき人」になにか言葉をかけようとするときに限ってむせて咳(せき)が出てしまう。そんな意味だろう▼問題は「恥づかしき人」。今の感覚だと珍妙でみっともない人物が浮かんでくるが、逆である。こちらが恥ずかしくなるほど身分の高い人。そういう人を前にすると緊張のあまり咳が出るというのであろう▼「恥づかしき人」の意味が正反対になるように言葉は時代とともに変化する。文化庁の調査によると「なにげなく」の意味で「なにげに」を使う人は47%、「中途半端でない」の意味で「半端ない」は46%、「正直なところ」を意味する「ぶっちゃけ」は41%。いずれも半数に迫る▼当欄に「なにげに」などと書けば、校閲部が青い顔をして飛んでくるが、もはや市民権を得ているのだろう。『日本俗語大辞典』によると「なにげに」の登場は一九八〇年代半ば。「ぶっちゃけ」は二〇〇〇年代前半。木村拓哉さん主演のドラマ「GOOD LUCK!!」のせりふと関係があるらしい。時間をかけて浸透した▼「そうではなくて」の意味で、若い人が使う「ちがくて」や「○○みたいに」の「○○みたく」の使用率はまだ二割そこそこ。いずれは当たり前になっていくのか。言葉の変化を受け止める一方でぶっちゃけ、戸惑う。


今日の筆洗

2022年10月08日 | Weblog
作家の沢木耕太郎さんの『深夜特急』は自身の若いころの体験に基づき、香港からロンドンを目指す一人旅を描く。主人公の「私」は旅の序盤、カジノでサイコロ賭博に熱中する。場所は香港から足を延ばした、当時ポルトガル領のマカオ▼安宿の旅で手持ち資金は多くない。勝ち負けとんとんでいったん切り上げ、香港に帰ろうと考えたが自問自答の末、賭けを再開する。「やめて帰ろうという判断は確かに賢明だ。しかし、その賢明さにいったいどんな意味があるというのだろう」「心が騒ぐのなら、それが鎮まるまでやりつづければいい」▼マカオがコロナ禍以降初めて、中国本土からの団体旅行受け入れを再開するという▼中国に返還され二十数年。カジノは本土の客に依存するが、疫病で激減した。外出を制限する流行地の都市封鎖は今後も続くため、客の急回復は望み薄という▼客には蓄財した大陸の役人もおり、反腐敗運動を進める習近平政権はカジノも標的に。資金洗浄に関わったなどと関連業者が摘発され、カジノの富裕層専用室は次々閉鎖された。当局はコロナもカジノも「潔癖」志向らしい▼深夜特急の「私」は金の大半を失った後に許容範囲の負けまで戻し、潮時と切り上げる。地獄も垣間見て満足し「自由になれたような気がした」という。破局にも誘(いざな)う開放的な空気はもう、以前のそれと違うのだろうか。
 

 


今日の筆洗

2022年10月06日 | Weblog
作家の池波正太郎さんが子ども時代のお寿司(すし)の思い出について書いていた。家に来客があると出前のお寿司をよく取っていたそうだ▼そのお寿司をお客さんは全部は食べないで、いくらか、残す。それを子どもだった池波さんが頂戴する。子どもへのおすそ分け。「子供の私たちは、家に客が来るのをたのしみにした」▼高度成長期生まれのわが身にも同じ思い出がある。子どもがいることをお客さんもよく分かっていて遠慮し、残してくれたのだろう。今と違ってお寿司なんぞめったに食べられなかった時代である▼お寿司を子どもにも身近なものにしたのは一九七〇年代以降の回転寿司だろう。手ごろな価格と気軽さが受け、急成長を遂げたが、業界の裏側では企業小説も真っ青の攻防戦があったのか。回転寿司チェーン「かっぱ寿司」を運営するカッパ・クリエイトの前社長が不正競争防止法違反の容疑で逮捕された▼前社長はライバルの「はま寿司」の元役員で、「かっぱ寿司」に移る前後に原価などの情報を不正に入手していたそうだ。義理とも人情とも無縁な、なりふり構わぬ闘いが透けて見える▼<鮓(すし)のめし妖術といふ身でにぎり>は江戸期の川柳。寿司を握る職人の手が忍術使いの「ドロンドロン」の手つきに見えたらしいが、競争相手を蹴落とすための怪しげで不正な「妖術」の方は見苦しいばかりで食欲もうせる。
 

 


今日の筆洗

2022年10月05日 | Weblog
ローズとカブレラの両選手が五十五本。バースが五十四本。落合が五十二本▼日本プロ野球のシーズン最多本塁打の記録を見るにつけ、王貞治選手の五十五本塁打(一九六四年)というのが野球の神さまがこしらえた、高い壁になっていたように思えてくる▼五十五本に近づき、並ぶことはできる。が、追い抜くことができない。最多本塁打はバレンティンの六十本(二〇一三年)だが、どういうわけか、それは別の話となり、五十五本を超えるかどうかが話題となる▼ヤクルトスワローズの村上が五十六号を打ち、王さんの記録をついに抜き去った。「村神様」も五十五本を超えることにプレッシャーを感じていたのか、足踏みが続いていた。九月十三日の五十五号以来、六十一打席ぶりの本塁打。大飛球が意地の悪い野球の神さまをねじ伏せた。シーズン最終戦の最終打席での達成とは、心憎い▼五十五本というのは偉業であると同時に日本人にとって「郷愁」の数字でもあるのだろう。だから気になる。右肩上がりの高度成長期の大記録はあの時代の前向きな空気や熱の象徴のように映っていた。縁起の良いゾロ目。ゴー、ゴーという勢いある語呂合わせも、あの時代に似合っていたか▼そして村上の五十六本が新たな時代の数字となり、令和の人びとを励ますのだろう。その数字は来年あたり、六十一になると、言っておこう。
 

 


今日の筆洗

2022年10月04日 | Weblog

「タウラン」という言葉を知った。インドネシアの学生による集団決闘のことだそうだ。団結心と相手へのライバル心が乱闘につながりやすいらしい▼インドネシアのサッカーファンが熱狂的で時にサポーター同士の抗争に発展しやすいのは「タウラン」と関係があるのではという説がある。自分の応援するチームの敗北は認めがたく、中傷などは決して許さない−。そんなファン心理が少なからずあると聞く▼サッカー史上最悪の事件が起きてしまった。インドネシア東ジャワ州のサッカー場での暴動である。死者は少なくとも百二十五人。言葉を失う▼ホームチームの敗戦に腹を立てたファンがピッチに乱入した。これを鎮圧しようと催涙弾を発射した警察の判断は正しかったのか。結果、観客が出口に殺到し犠牲者を増やすことになった▼インドネシアでの特殊な事件ととらえるべきではないだろう。英国での調査でも、サッカーファンの暴力行為が増えている。長引いたコロナ禍でのストレスなども関係あるのか、興奮と夢の場所が危険な場所に変わるのは耐えがたい▼かつてベルギーではファン・コーチングという取り組みが成功したそうだ。相手チームや審判に対する敬意の大切さを選手がファンに直接、教える。サッカー場の暴力を鉄壁なディフェンスによって封じ込めたい。サッカーを決して悪者にしないためである。