男は自宅の庭でバラの花を摘んでいた。エジプトからやって来た美しい女性に贈るため、バラを用意しようと思いついたのだ。その時にバラのとげが男の指に刺さった。小さな、小さな傷。ところが、傷はみるみるひどくなり、それがもとで男は命を落とす▼「バラに殺された詩人」。詩人リルケの死にまつわる伝説である。あくまで伝説であり、リルケが亡くなったのは白血病によるものだそうだ▼上空からの写真とエジプトという地名にリルケの死を思い出したが、刺さっているのは小さなとげどころではない。エジプトのスエズ運河で巨大コンテナ船が座礁し、運河の往来を妨げている。運河にとげが刺さっている▼原因は視界不良か人的ミスか。いずれにせよ、深刻なのはその影響である。止めてしまっているのはアジアとヨーロッパを最短距離でつなぐ海上輸送の要衝。わずか一隻の座礁によって、周辺では二百隻とも聞く船舶が足止めされ、運航再開を待っている▼復旧作業は難航している。船に浮力を与えるため、浚渫(しゅんせつ)し、タグボートで動かしたいが、なにせ相手は全長四百メートル、約二十万トン。浜に打ち上げられた巨大なクジラのようなもので、海へ帰すのは容易ではなかろう▼世界の経済に刺さったとげ。海上輸送の滞りによって原油高の兆しなど影響は既に出始めている。そのとげを早く抜き去る知恵はないものか。
生命感に乏しい砂漠がきれいに思えるのはなぜか。王子が語る。<砂漠が美しいのは…そのどこかにひとつの井戸が隠されているからだよ>。『星の王子さま』(サンテグジュペリ)の知られた場面だ。聞いた「ぼく」は気付く。美しさをつくっているのは見えないものだと▼地球規模のコロナ禍でよくない話に事欠かない昨今の世界でも、人々が以前と変わらずに幸せを感じる国はあるという。国連関係機関が、例年この時期に発表する世界の幸福度ランキングが、先日明らかになった。コロナ流行下で、見えにくい幸福感を探る調査となったようだ▼いくつかの項目を巡り各国民が感じる幸福度をまとめるが、一位は今回もフィンランドになった。北欧の他国などを従え四年連続だ。欧米メディアによると、流行が比較的小さく抑えられ、ひどい医療崩壊も避けられた。公的機関への信頼や国民同士の寛容さも大きく、高かった数値を維持したようだ▼わが国は、順位を少し上げての五十六位であった。先進国の中では、見劣りする順位のままである▼手法や調べる項目などに疑問も指摘されてきた調査である。とはいえ、これほど安定した首位の国の井戸に、学ぶべき幸福の秘密は、ありそうだ▼最近は、外から聞こえる登校の子どもの笑い声に、幸福を感じるような気がする。日常がどれほど戻ったかを表す指標があるといい。
作家井上靖さんは金沢の旧制四高で柔道に打ち込んだ。日常的な楽しみを捨てて、ひたすら道を究めようとする若者らが集った世界を自伝的小説の『北の海』でえがいている▼<練習量がすべてを決定する柔道というのを、僕たちは造ろうとしている>と登場人物は言う。そんな世界に、自身の柔道人生を重ねていたようだ。五輪金メダリスト古賀稔彦さんである。井上さんへの共感の言葉が、兄元博さんの著書『古賀稔彦が翔(と)んだ日』の中にある▼天才肌の印象もあるが、日々の練習は、時に「狂気すら」感じるほどだったと兄は書き留めている。ひたすら道を究めようとしてきた人であろう。早すぎる五十三歳での訃報が昨日届いた▼ソウル五輪で惨敗している。周囲に頭を下げる両親の姿を映像で見た。通りすがりの人に次こそはと声をかけられた。一人で勝負しているのではないと思ったそうだ▼国際舞台では優勝以外求められず、美しい勝ち方でなければ不満も出る。体格の不利をはね返してこその声もあがる。日本柔道界のそんな重い期待を引き受けてきた。けがを乗り越えたバルセロナ五輪の金など、忘れられない場面は多い。引退後も指導者として、柔道界に尽くしてきた▼著書で得意の背負い投げの要点を解説している。一度仕掛けたら絶対に戻るな。短くとも、まっすぐに駆け抜けてきた柔道人生であっただろう。
先週末の強い雨風にサクラの花が心配になる。月曜の早朝、近くの公園に確かめにいく。ソメイヨシノは風にも負けなかったようだ▼残念。こちらはずいぶんと散っている。濃いピンクの花びらが散り重なっている。少々早咲きのサクラなのでしかたがないか。満開は見逃したが、地に落ちてなお鮮やかなピンクが美しい▼品種名は「陽光」。別に「非戦のサクラ」とも呼ばれる。愛媛県東温市の元教員、高岡正明さんという方が私財をなげうち、およそ三十年かけて、生み出した新品種のサクラである▼戦争中の教員時代、教え子たちを戦地に送り出し、死なせてしまった。その後悔から、教え子を鎮魂するサクラを作りたいと考えた。映画監督、高橋玄さんの「陽光桜」(集英社ビジネス書)に詳しい▼極寒の地、炎熱の地で亡くなった教え子がいるのでどんな気候でも花を咲かせるサクラにしたい。害虫にも強くなければ。人工交配を繰り返した。濃いピンク色にこだわったのは平和のシンボルとして海外でも愛される色にしたかったからだそうだ。一九八一年に品種登録され、全国に広がった。今では身近なサクラとなった▼「この美しい桜の姿を見ているだけで、人類は争いなどする気もなくなるわい」。高岡さんはそうおっしゃっていたそうだ。花見はしにくい時節なれど「争い」を忘れさせるピンクの力を信じている。
「プール取材」と聞いてどこぞのスイミングプールへいそいそと向かう報道記者はいない。代表取材のことで、取材会場が狭い場合、数人の代表者が会場に入り、その様子を各社に伝える。よくあることだ▼「プールスプレー」。こちらは初めて聞けば、戸惑う。この場合のスプレーとは外交会談の場などで代表取材団に許される会談冒頭の写真撮影のこと。語源は知らぬが、ストロボの放列をそう見立てたか。日本では「頭撮り」と言う▼「頭撮り」は数分で追い出されるのが普通だが、約一時間に及んだとはその会談がいかに尋常でなかったかがうかがえる。米アンカレジでの米中の外交トップによる会談である▼対立を強める両国双方が人目も気にせず、非難の応酬を演じた。カメラの前で自国の主張を見せたかったか。意地の張り合いもあっただろうが、「プールスプレー」で剣呑(けんのん)な香りのするスプレーをかけられた気になるのはこちらである。二大国の関係はここまで悪化している▼会談後、率直な話し合いができたと双方が語ったことは唯一の救いで、今後もよく話し合うしかない▼スプレーで思い出すシャレがある。「SPRAY AND PRAY」。スプレーして祈れ。軍隊用語か、とにかく銃を乱射しろ、当たるかもしれないという意味。とにかく数多くの話し合いを。相手の胸に届くかもしれぬではないか。
2013 WDSF PD World Latin | The Final Samba