今の石川県かほく市出身の哲学の大家、西田幾多郎は次女を4歳で亡くした。随筆『我が子の死』から思いが伝わる▼<亡き我児の可愛(かわい)いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである>とつづる。<どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである>と悔やむ▼<若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい>。理屈を超えてただ可愛く、悔しく、悲しい-▼娘を亡くした家族の心痛に胸がふさがる。福井県沖で見つかった遺体が、能登豪雨で安否不明だった石川県輪島市の中学3年、喜三翼音(きそはのん)さんと確認された▼海での発見時は長袖長ズボン姿。流されそうになった家に1人でいた翼音さんに父親の鷹也さんが電話で、流されてもけがをしないよう長袖長ズボンにしろと伝えたという。それに従って服を整えながら、自分は独りぼっちではないと言い聞かせたか。「お帰りと言いたい」という父親の言葉に胸が締めつけられる▼時の経過は傷を癒やすが、苦痛が伴っても子を忘れたくないのが親だと西田は言う。<折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉(いしゃ)である、死者に対しての心づくしである>。人の思いの中で生きる翼音さんの魂が、安らかであることを。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます